湊人はグラスが空になると邪魔しちゃ悪いからと、すぐに帰っていった。
 ことあるごとに瑠璃にもてはやされながら、なんとか残り四時間の勤務を終え店を出た。
 二十時をまわって、あたりはすっかり暗くなっている。
 どっと疲れた。勤務初日よりも精神的にすり減っている。
 四時間が何倍にも長い時間に感じられ、早く帰りたいとばかり思ってしまっていた。
 わざわざ休みの日に様子を見に来てくれた湊人の気持ちと、私の幸せを願ってくれる瑠璃の気持ちは心からありがたいけれど。
 二人のやりとりや、瑠璃のからかいとはしゃぎようは恥ずかしくてたまらなかった。
 ぐったりしながら電車に揺られ自宅の最寄り駅に着くと、空気の湿ったにおいがした。見上げるとどんよりと曇のはりつめた夜空。
 家に帰るまで雨に降られなければいいなと思いながら、急ぎ足でマンションへ向かった。
 この角を曲がれば、もうすぐだ。

「結衣」

 私の名前の二文字を、懐かしい声で呼ばれた。
 低くて穏やかなその声が誰のものなのか、私はすぐに分かった。
 足がすくんで、勝手に立ち止まってしまう。
 ここだけ時間が止まってしまったような感覚。
 わなわなと唇が震えた。

「明……」

 久しぶりに口に出したその三文字が、小さく掠れて空気に溶けていく。
 スーツ姿の明が曲がり角から、こっちに向かって歩いてきた。
 薄く微笑んだその顔は、数ヶ月ぶりに会うとは思えないほど自然だった。

「久しぶり。元気にしてたか?」

 元気? 元気になんて、していたわけがない。どの口が、どの立場でそんなことを言うのか。
 私は明をきつく(にら)みつけた。

「元気なわけないじゃない」
「……だよな。髪、切ったんだ。似合ってるよ」

 湊人が切ってくれた髪を、自分の状況を分かっていないかのような明が平然と褒める。怒りで言葉が出てこない。

「仕事帰り?」

 胃のあたりがむかむかする。
 なんで、そんな風に普通に笑っていられるの?

「会社はいづらくなったから辞めたの」

 明は頬を人差し指で掻いて、眉根を寄せた。

「それって、俺のせい?」
「結婚式目前に婚約破棄だよ? 違うと思う?」

 私の怒気をはらんだ声にも、明は動じない。そう、この人はいつもそうだった。
 喧嘩になって私がどんなに怒っても明はいつも平然としていた。
 時には真顔で、笑顔で。私の怒りを受け流しているのか受け止めているのか。自分も怒ることはせずに、その場を静観していた。
 それで私は結局いつも怒っているのが馬鹿らしくなって落ち着いていた。
 以前はそんな明のことを大人だと思っていたけれど、今、私はこの人が少し怖い。

「すまなかった。実は結衣に謝りたくて会いにきたんだ」
「今更、どういうつもり? 謝られたって、許せるわけないじゃない」
「そりゃそうだよな。すぐに許してもらえるとは思ってないよ」

 明はいきなり、その場で深く頭を下げた。私は言葉を失う。

「本当にごめん。悪かった」

 血の気が引いて、めまいがした。今更、謝ってどうなるっていうの。
 湊人に出会うまでの私に引き戻されていく。
 明が顔を上げて、真面目な顔でまっすぐ私を見つめた。

「俺、気付いたんだ。結衣は俺のことを、なんでも分かってくれてた」

 きっと虚ろな目をしているだろう私に、明は構わず話し続ける。

「何年も一緒にいて、家族みたいになって。居心地は良かったけど、俺は結衣を愛しているのか分からなくなってた。だから」
「やめて!」

 私は喉から声を絞り出して叫んだ。

「そんなの聞きたくない! どういつもりなの? なんで、どうして、こんな……」