映画はゾンビものにありがちな、町中の人間がゾンビになったり主人公が仲間とともに逃げながら生存の道を探っていくというストーリーだった。
正直、湊人が観たがっていたから何も言わなかったけれど、私はこの手の作品はそんなに好きではない。
まずゾンビがリアルでないことが多いし、街中を集団で徘徊するシーンなんかはシュールに感じてしまって全然入り込むことができない。
邦画のホラーのひっそりとそこにいるようなお化けになら恐怖を感じるけれど、ゾンビに対しては変に冷静な目で見てしまう。
もはやゾンビよりも、至近距離に湊人がいることの方が何倍もドキドキする。
作り物じみたゾンビが家の中をうろうろしているのを眺めて、意外と食欲も減らないなと思いながらポップコーンを口に運んだ。
湊人の選んだキャラメル味。
ほろ苦い甘さが美味しい。
一人で来てポップコーンを買うことなんてほとんどないから、なんだかこれも特別に感じる。
湊人にも勧めようと隣を見て、私は思わず吹き出した。
吹き出した声はそんなに大きくはなかったけれど、まわりに人がいなくてよかったとホッとする。
ゾンビが飛び出してきたことに驚いたのか、湊人が引きつった顔で座ったままのけぞっていた。
私と繋がれていない方の左手は硬く拳を握りしめている。
――もしかして、怖いの?
いつも強気で自信家な湊人が、まさかホラー映画でこんな反応をするなんて。
私は声をあげて笑ってしまいそうになるのを、なんとか堪えた。
肩が小刻みに震える。
彼はそんな私に気付いて一睨みすると、軽く咳払いをして居住まいを正した。
そこでまた主人公の前に、物陰から元は女性だったのであろう赤いワンピースのゾンビが踊りでてきて、湊人が硬直した。
目を細めながら固唾を飲んで恐怖に耐えている。
今まで湊人の色々な表情を見てきたけれど、こういう顔を見たのは初めてだ。
私は湊人の腕を人差し指でとんとんと軽く叩く。
ハッとした顔の彼に声をださずに「怖いの?」と唇を動かして見せると、あからさまにムッとして「まさか」と湊人も口を動かした。
普段とのギャップが可笑しいような可愛いような、愛しいような。
いつでも私を引っ張って、ここまで立ち直らせてくれた頼もしい彼のこんな一面に母性本能をくすぐられる。
きっとそんなこと言ったら、湊人はそれはそれは嫌そうな顔をするだろうけれど。
私は「大丈夫だよ」と言う代わりに、繋いだままの彼の手をぎゅっと強く握った。
湊人が驚いて目を丸くしている。
そういえば自分から湊人の手を強く握ったことなんて、今までなかったかもしれない。
母性本能、おそるべし。
私が微笑むと彼の見開いた目が細められ、何かを考えているようにこっちを見た。
すぐに唇の端をちょっと上げて、余裕の笑みを浮かべる。
そして、瞬きをしている間に。
湊人の顔が、すぐそこまで迫ってきて。
彼の香水の香りが濃くなる。
あの、抱き寄せられた時みたいだ、と思った時には、私の唇に湊人の唇が触れていた。
柔らかい感触と湊人の息遣いは、一瞬で離れていく。
頭がショートして、何が起きたのか分からなかった。
湊人が不敵に微笑んで、顎をしゃくって舌を出す。
見下されているような流し目に、私の心臓が弾けんばかりに激しい鼓動を刻んでいる。
一生分の鼓動を使い果たしてしまうんじゃないかと思った。
「ちょっ……!」
思わず大きな声をあげそうになると、今度は湊人が可笑しそうに肩を震わせながら口の前に「しー」と人差し指を立ててみせる。
私は叫び出しそうになるのを、掌で口元を覆ってなんとか抑えた。
キス、された。
今、湊人が、私にキスをした。間違いなく、私の唇と湊人の唇が触れ合った。
どうして、こんなこと。
湊人の考えていることは、いつだってさっぱり分からない。
混乱しているのに、唇に残った感触に胸が熱くなる。
やっぱり私、湊人のことが好きだ。
だって、こんなに。
彼の本意なんて欠片も分からないのに、口づけられたことが嬉しい。
湊人は私と反対に急に平静を取り戻したようで、ポップコーンをつまみながら感情の読み取れない瞳でスクリーンを眺めている。
――ずるい。
私だけが動揺しているみたいだ。
ゲリラ的なキスのせいで、映画の内容は全然、頭に入ってこなかった。
いつもならエンドロールが流れ終わるまでは退場しない派なのに、今日はそわそわして早く席を立ちたくて堪らなかった。
一刻も早く劇場から出て、さっきのあれはなんだったの? と湊人に問いただしたい。
それなのに、湊人は席を立とうとしない。まばらだった観客は、劇場が明るくなる頃には誰もいなくなっていた。
湊人が横で欠伸をしながら伸びをしている。
「んー。思ったより退屈だったな?」
平然と感想を求められ、私は退場を待たずにまくしたてる。
「そんなことより、さっきのって」
「なに? ふたりっきりだし、もう一回したい?」
早口な私の言葉を遮って、悪戯っぽく口角を上げる湊人に耳が熱くなった。
「バカ!」
思わず口をついて出た短絡的な罵りにも、湊人は愉快そうに笑っている。
「でも、この前、もうしばらくこのままでいいって言ったのに悪かった」
「そうだよ。なんで急にこんなこと」
「だって結衣がビビるところを見たくてこの映画を選んだのに、お前、全然怖がらねぇんだもん」
ロビーでのやけに楽しそうだったあの態度はそういうことだったのか。湊人の子供じみた魂胆が分かって、ちょっと呆れる。
「だからって」
「しかも、俺のこと笑ったろ。さっきのはそのおかえしな」
私の文句を封じこめて、勝手なことを言うと湊人はさっさと立ち上がった。
もやもやした思いを抱えながら、彼に続いて外に向かう。
建物から出ると、夜風がひんやりとして肌寒かった。
半袖一枚で着たことを後悔する。
そんな素振りは見せなかったはずなのに湊人がすぐに羽織っていた黒いカーディガンを脱いで私の肩に優しく被せた。
彼の体温がちょっと残っているような気がして、こそばゆい。
「ありがとう」
「ん」
やっぱり湊人は優しい。
衰えない人通りのなかを駅に向かって二人で歩く。今度はすぐに湊人に手を握られた。
肩にまとった湊人のカーディガンのせいで、いつもより彼の匂いを濃く感じる。
甘くて爽やかな香りに、あの時、眼前に迫ってきた湊人の顔と、口づけられた感触が蘇る。
心臓が忙しない。
「顔赤いけど、どうした?」
「別に、なんでもないよ」
湊人に覗き込まれて、いよいよ心臓がパンクしてしまいそうになる。
目を見返せなくて、思わず視線を逸らした。
「ふーん。もしかして……」
湊人がずいっと顔を近づけてきた。逸らした目線の先に、彼の唇があって。
「さっきのこと、思い出してた?」
彼の薄いの唇がゆっくり言葉を吐き出す。
声色からして、絶対おもしろがっている。
頬が熱い。
「そんなんじゃないから」
私は湊人から顔を背けた。本当にこんなことするなんて、どういうつもりなのだろう。
「やっぱりもう一回したかったとか?」
「もう! なんでそんなこと言うのよ!」
人の悪い笑顔を浮かべている湊人が憎たらしい。
こんな年上のおばさんをからかって何が楽しいのだ。
「でも、俺のこと好きだろ?」
おもしろそうに、愉快そうに、湊人はさらりとそう言った。
私は体中の血液が沸騰するんじゃないかと思うほど、全身がかーっと熱くなる。
「なにそれ! この前は、俺のこと、嫌か? なんて言ってたくせに、なによ!」
「あれは結衣の様子がおかしかったから。俺にハグされて嫌がる女なんて、そういないぜ?」
爆弾発言。
久しぶりの湊人のナルシストっぷりに開いた口が塞がらない。
冗談めかして言っているけれど、どんなにイケメンでも拒む人がいないなんて、あるわけがないし。
どう生きてきたら、こんなに自信家になれるのよ。
「結衣、すっげえ分かりやすいから。俺のこと好きだって顔に書いてある」
「そんなわけないでしょ!」
ニヤニヤしながらまた覗き込まれて、とっさに両手で顔を覆った。
どんな顔をしているか、自分でもいまいち分からない。
けれどそんなことを言われてしまった以上、見られたくはない。
触れた顔が熱い。きっとこれだけ赤くなっていたら意識しているのはさすがにバレバレだろう。
「なんだよ」
「顔、見られたくない」
「いや、書いてあるって言ったのは例えであって……」
「そうだとしても、今は見られたくない」
「ちょっ、おい、やめろよ。そんなことずっとしてたら、俺が泣かせてるって勘違いされるだろ。ほら、見られてるって」
さっきまでの余裕たっぷりの態度はどこへやら、一瞬で慌てふためく湊人に笑いがこみ上げてくる。
『うわ、修羅場?』
『彼氏、ひどくない?こんなとこで泣かせるなんて』
すれ違い様に聞えた通行人の声に、口元が緩んだ。
今度は私が仕返しする番だ。おおげさに鼻をすすって泣くまねをする。
いつも強引に自分のペースに巻き込んで私を振り回す湊人を、ちょっと困らせてやりたくなった。
盛大に肩も震わせてみる。
道行く人達に存分に冷たい目で見られるといい。
「さっきの仕返しだよ」
「なんだよそれ」
湊人の呆れたような声がして、私は堪え切れず手のひらの下で声をあげてわらった。
「おい、怖いだろ、やめろよ、それ」
手をどけると、湊人が眉根を寄せて困惑した表情でこっちを見ていた。
私はそんな彼をその場に残して、さっさと歩き出す。
気持ちを言い当てられたことを思うと、穴があれば入りたいくらいとんでもなく恥ずかしかったけれど。
今はとても気分が良い。
振り回される側の気持ち、少しは分かってくれたかな。
「待てよ」
湊人が足早に追ってきて隣に並ぶ。顔を見ると先程の表情が思い出されて、また可笑しくなって、くすくす笑ってしまう。
彼は困り顔で頭を掻くと、当たり前のことのように私の手を握った。
「フレンチトースト、あそこのテーブルに運んで」
瑠璃がカウンターに置いたフレンチトーストのスキレットを、指示通りに窓際のテーブルに運ぶ。
「おまたせしました」
そっと静かに置くことを心がけながら微笑む。
私と同い年くらいの女性客はこちらを見るでもなくスマホでフレンチトーストを撮影し始めた。
接客業なんて高校時代にアルバイトでスーパーで働いていた時以来だ。
湊人みたいに営業スマイルが上手にできているといいのだけれど。
年々、月日の流れが早く感じる。
九月になってあと三ヶ月で一年が終わるのかと思うと急にこのまま無職でいるということに焦りはじめ、私は瑠璃に連絡をとった。
湊人のおかげで食欲も復活して三食しっかり食べられるようになっていたし、お酒を飲まなくても眠れるようになった。
精神的にもだいぶ持ち直して、今や部屋の家具を見ても悲しくなんてならない。
空っぽになったCDラックには、湊人に勧められたバンドのアルバムが二枚並んでいる。
そろそろ社会復帰するべき頃合だったと思う。
貯金もだいぶ減ってきていたから、ご好意に甘えて瑠璃の店でアルバイトをしながら人生二度目の就職活動をしようと考えた。
今日で出勤二日目。
私は瑠璃についてホールでの接客を手伝うことになった。
まだ全然慣れないけれど、とにかく笑顔で! との瑠璃の助言に従って、なんとか仕事に励んでいる。
瑠璃と彼女の旦那さんである義信さんとで切り盛りするこのカフェは、パンケーキとフレンチトーストなどの料理が人気で、女性客が多い。
キッチンを担当するのは義信さんで、高校、大学とアメフト部に所属していたという、筋肉質でがたいの良い彼が甘いパンケーキやフレンチトーストを焼く様はどこか可愛らしい。
瑠璃は義信さんのことを「蜂蜜好きの熊さんみたいで可愛いの」なんて冗談半分に惚気る。
義信さんの作るスウィーツは最近ではSNSでもじわじわと話題になってきているらしい。
ランチタイムの十一時から十五時にはサラダとかりかりに焼いたベーコンを添えてパンケーキやフレンチトーストを提供していて、前回も今日もけっこうな客入りだった。
分からないなりに瑠璃の指示に従ってなんとか仕事をこなしていると時間はあっという間で、気付くとさっきの客がランチタイムの最後の一組になっていた。
瑠璃が最後の客の会計をする様子を、隣でメモを取りながら眺める。
馴染みのあるレジスターではなく、タブレットのアプリを使って金銭を管理していて今時だなぁと思う。
アルバイトで使ったことのあるレジとは全然違うように感じて、ついていけるか不安だ。
そんなことを言うと、瑠璃に「私でもできるんだから、結衣にできないわけないじゃない」と笑われた。
ガラス戸のオープンの札を裏返す。月曜日と水曜日のみ一時間だけ一旦店を閉めて、十六時からまた営業を再開する。
カウンターに瑠璃と並んで腰掛けて、義信さんが作ってくれた賄いで遅めのお昼ご飯をいただく。
サラダとベーコンがクレープに包まれている。
甘じょっぱくて美味しい。
「んー、幸せ。美味しい」
「でしょう」
瑠璃は私の反応に満足そうな顔をして、クレープを頬張っている。
「少しは慣れた?」
「まだお客さんが多い時間には混乱しちゃうけど、なんとか」
「よかった。結衣は接客とか向いてそうだと思ってたんだ」
「ありがとう」
「こちらこそよ。手伝ってくれて感謝してる」
人手はきっと足りてるはずなのに、そんな風に言ってくれる瑠璃。
彼女と義信さんの思いやりには頭が下がる思いだ。
「で、例の年下イケメンくんとはどうなってるのよ?」
瑠璃の目が好奇の色に光っている。
湊人のことを好きだと自覚しただなんて言ったら、どんな反応をされるだろうか。
想像するだけで恐ろしくて、はぐらかした。
「そんなことより、休憩終わったら何すればいい?」
「そんなことよりって何よ。一番大事な話でしょう」
「一番大事ってことはないんじゃないかな?」
瑠璃は私に詰め寄る。
「結衣、新しい恋、してるんじゃないの?」
「いやいや……」
「結衣のこと、あんなに心配してたのに……まさか教えてくれないなんてこと、ないよね?」
こういう時の彼女の勢いは、すごい。
私は観念して重い口を開いた。
「……新しい恋、したよ」
「ほら! やっぱり!」
瑠璃が外まで聞えるんじゃないかと思うほどの大きな声を出した。私の手をとって、自分の胸の前で握る。
「やだー!よかった!本当に心配してたんだからね。結衣がもう誰のことも好きになれないんじゃないかって」
「ありがとう」
「それで? 付き合ってるの?」
「ううん。ちょっと期待しちゃう時もあるけど、よく分からない関係というか」
言いよどむ私に、瑠璃は首をひねった。
「期待しちゃうことって?」
ここで、もし、今までのことを言ったら、瑠璃はまた大騒ぎするだろう。
でも確かに心配してくれていたのに、言わないでいるのは良くない気もして。
「キス、されたりとか……」
「きゃーっ! 本当に?」
瑠璃は予想通り大声で叫んでいる。
キッチンから義信さんが怪訝そうに顔をのぞかせた。
「瑠璃ちゃん、どうしたの?」
「あー、ごめんごめん、聞えてた?」
「そりゃ聞えるでしょ。すごい大きな声だったから、何があったのかと思っちゃったよ」
「なんでもないの。今、ガールズトーク中だから、気にしないで」
義信さんは納得のいかない顔をしていたけれど、瑠璃の言うとおりにキッチンに引っ込んだ。
なんだか申し訳ない。
瑠璃は義信さんの登場で心なしか落ち着きを取り戻したようにも見えるけれど、目は爛々としている。
「なによ、やることやってるんじゃない。それでまだ付き合ってないの?」
「付き合ってないってば。キスだって、なんか、悪戯? されたみたいなもんだし」
「悪戯?」
「うん。それに、誰にでもそういうことしてるかもしれないじゃん。まだ若いし、彼なら女の子だって選び放題だと思う。ちょっと信じられなくて」
「結衣」
瑠璃のことだからまた大笑いでもするかと思ったのに、急に真面目なトーンで名前を呼ばれて私は居住まいを正した。
さっきまでとはまるで別人のような真剣な目で私を見ている。
「それはないんじゃないの?」
「え?」
「明のことで人間不信になる気持ちも分かるけど。年下くんはさ、結衣が立ち直るようにそばにいてくれたんじゃないの?」
「そうだけど……」
「髪を切ってくれたり、外に連れ出してくれたり?」
瑠璃に圧倒されて、私は何も言えなくなってしまった。
「正直、弄ぶつもりだったら、こんなに結衣に時間なんか割かないよ。さっさと食べられて、はい、おしまい。でしょ?」
瑠璃は両手を組んで握ってから、ぱっと開いて見せた。
「結衣のところにご飯食べにきたのだって、結衣が食事も喉を通りませんって感じだったから食べられるように見にきたんじゃないの?」
「まさか」
これまで何度か湊人が私のマンションを訪れて、一緒に食事をしたこともあったけれど、そんなこと考えたこともなかった。
「番犬だって、そうでしょう。そんなの口実で結衣を外に連れ出してくれてただけよ」
「そんなこと」
「あるね、絶対」
「でも、こんな三十路のおばさんに本気になると思う?」
瑠璃が深いため息をつく。
「好意がなかったら、そんなことしない。今までそんな無償の愛、捧げてくれた男、他にいた?」
私が首を横に振ると、瑠璃は頷いてきっぱり言い放った。
「信じてあげないと年下君に失礼だよ」
彼女はまたため息を吐き出して「まぁそうなるのも無理もないけどさ」と私の肩をポンポンと二回優しく叩いた。
クレープの最後の一欠けを口に放り込んで空いた食器をキッチンに運ぶ。
瑠璃は昔からこうだった。何か間違ったことがあれば本音でぶつかっていく。
いつでもはっきり言うから、きつい人だと捉えられて損をしてしまう時もあった。
けれど私は彼女のまっすぐに諭してくれるところと、それ以上の思いやりに救われてきた。
湊人のことを考える。
怖いから。
裏切られて捨てられるのが怖いから、私は敢えて湊人を信じないようにしているんだ。
もう次は立ち直れなくなるって思うから。
さゆや他の女の子たちへの接し方を見れば、湊人が誰にでもあんなことをしているはずがないって分かるはずなのに。
出会った夜から一度だって肉体関係を結んでいないし、お金だって払わせないのに遊びで一緒にいるわけがない。
だから、本当は分かっている。
湊人はメリットなんてないのに、そばにいてくれている。
私をここまで立ち直らせてくれた。
他にこんなことをしてくれた人なんていない。
信じてあげないことが失礼だって、まさにその通りだ。
でも、やっぱりまだ完全に信じて飛び込むには勇気がいる。
私は喉の奥が苦しくなって、グラスの水を一口飲み込んだ。
コンコンとガラス戸を軽くノックする音がした。
営業時間を間違えたお客でも来たかな。
そんなことを考えながら扉に近づくと、ガラスの向こうにこちらを覗いている湊人の顔が見えて私は面食らった。
「おつかれ」
湊人が私に気付いて手を振る。私は戸惑いつつもガラス戸を開け、外に出た。
「どうしたの、急に?」
「今日休みだし様子見にきた。おー、カフェ店員っぽい。いいじゃん、それ」
メッセージでカフェの場所を聞かれたのは、このためだったのか。
湊人は私のつけているデニム地の腰エプロンを指差している。
なんだか無性に照れくさい。
「これ。店のみなさんでどうぞ」
「ありがとう」
わざわざ買ってきてくれたらしい洋菓子店の包みを受け取る。
こういうところは相変わらず本当にしっかりしている。
「で、店やってねえの? 喉渇いたんだけど」
「月曜と水曜はランチタイムのあと一時間だけクローズするんだ。十六時には開くけど、まだ二十分もあるし、今日は帰ったら?」
瑠璃に湊人が来ていることを知られたら何を言われるか分かったもんじゃない。店に入るなんて、もってのほかだ。
「なんでだよ。ほら、テラス席あんじゃん。俺、あそこで待ってるから」
「いやいやいや、お待たせするの悪いし」
「せっかくここまで来たんだぜ? 二十分くらい待つだろ」
「ちょっと、ね、事情もあるし」
「事情って何?」
暖簾に腕押しな私の態度に、だんだん苛立ってきた湊人と言い合っていると、背後でガラス戸の開く音がした。
「あらー、いらっしゃいませー」
瑠璃の歓声にも近い挨拶が聞こえて、私はもう手遅れになってしまったことに気付く。
「もしかして……年下君?」
「年下君?」
瑠璃がにまにましながら私に耳打ちするも、まる聞こえだったようで湊人が訝しげに首を傾げた。
――お願いだから、変なこと言わないで!
私は慌てて顔の前で手をぶんぶん振った。
「なんでもない!」
「ごめんごめん。えーっと、私、結衣の大学時代からの友人で、今は雇い主の伊藤瑠璃です」
「白石湊人です。結衣さんにはいつもお世話になってます」
湊人は余所行きの笑顔で瑠璃と自己紹介の言葉を交わしている。
湊人の苗字が白石だということを、私は初めて知った。
「結衣からうかがってます。あ、よかったらどうぞ。店開けますので」
「いいんですか? 十六時って聞いたので、待ちますよ」
「いいんです、いいんです。大事な友達の恋人を待たせるわけにはいかないじゃないですかー」
「ちょっと、瑠璃!」
笑顔でとんでもないことを口走る瑠璃に、思わず上ずった声で叫んだ。
湊人の爽やかな作り笑いが、一瞬いつもの悪戯っこな笑顔に変わる。
「残念ながら、恋人じゃないんですよ。今はまだ」
「きゃー! ちょっと、今の聞いた? 今後はそうなる予定ってこと? ねぇ、結衣!」
「……聞こえてるよ」
色めきたつ瑠璃に、私は肩を落とした。
この二人、けっこう相性がいいのかもしれない。
絶対、二人して私が困るのを面白がっている。
だから会わせたくなかったのに。
瑠璃が湊人を店内の窓際の席に通してから、私の腕を掴んでキッチンに引きずり込む。
「湊人くんっての? あの子、想像以上にイケメンじゃない!」
「う、うん」
「しかもさっきの聞いた? 今は、まだ。だって!」
「もう、やめてよ。絶対こうなると思った」
まったく似ていない湊人の声真似をしながら飛び上がらんばかりにテンションの上がっている瑠璃に、私はため息をついた。
午後の分の仕込みをしていた義信さんが呆れたような笑顔で「瑠璃ちゃん、結衣さん困ってるじゃない」とやんわり窘めてくれるけれど、まるで効果はない。
「だって、あの顔よ? あんな人、私達のまわりにいたことある? しかも差し入れまで持ってきてくれる細やかさまで兼ね備えてるのよ!」
「瑠璃! 声が大きいよ! 絶対、聞えてるから」
なんだか頭痛がしてきた気がして、私は眉間を押さえた。
勘弁してよ。
私は瑠璃が湊人の対応をしないように、先にホールに戻る。
湊人が肘をついて何かおもしろいものでも見るようにニヤついていた。
「誰が、イケメンだって?」
「さぁねえ」
やっぱり聞えてたか。
苦笑いではぐらかすと、湊人がふんと鼻を鳴らしてメニュー表のアイスコーヒーを指差した。
「アイスコーヒー」
「かしこまりました。以上でよろしいですか」
湊人が急にいかめしい表情を作って偉そうに「よろしい」と頷いた。
「なにそれ」
私は吹き出して、笑いながらカウンターに戻る。
カウンター内に置かれたサーバーからアイスコーヒーをグラスに注いでいると、瑠璃が隣に並んだ。
「結衣、湊人くんといると楽しそうじゃない」
「どこが」
「どこがって、その顔が」
「もう、からかわないでよ」
「からかってないわよ。あんなウォーキングデッドみたいな顔してた結衣が、そんな普通に笑ってるんだもん。安心した」
海外ドラマ鑑賞が趣味の彼女らしい例え。
――ウォーキングデッドって。確かにそうだったけど。
私が肩をすくめると、瑠璃が私の手からグラスを奪い取って勝手に運んでいってしまう。
「お待たせしましたー」
「ありがとうございます」
「今日はご馳走させてください。いつも結衣がお世話になってるお礼です。結衣のこと、今後ともよろしくお願いしますね」
「任せてください」
湊人が白い歯を見せて微笑む。
瑠璃が今にも叫びだしそうな顔で、私を振り返って小さく飛び上がった。
私は困り果てて、ふたりが好き勝手言い合っているのをただ眺めていた。
湊人はグラスが空になると邪魔しちゃ悪いからと、すぐに帰っていった。
ことあるごとに瑠璃にもてはやされながら、なんとか残り四時間の勤務を終え店を出た。
二十時をまわって、あたりはすっかり暗くなっている。
どっと疲れた。勤務初日よりも精神的にすり減っている。
四時間が何倍にも長い時間に感じられ、早く帰りたいとばかり思ってしまっていた。
わざわざ休みの日に様子を見に来てくれた湊人の気持ちと、私の幸せを願ってくれる瑠璃の気持ちは心からありがたいけれど。
二人のやりとりや、瑠璃のからかいとはしゃぎようは恥ずかしくてたまらなかった。
ぐったりしながら電車に揺られ自宅の最寄り駅に着くと、空気の湿ったにおいがした。見上げるとどんよりと曇のはりつめた夜空。
家に帰るまで雨に降られなければいいなと思いながら、急ぎ足でマンションへ向かった。
この角を曲がれば、もうすぐだ。
「結衣」
私の名前の二文字を、懐かしい声で呼ばれた。
低くて穏やかなその声が誰のものなのか、私はすぐに分かった。
足がすくんで、勝手に立ち止まってしまう。
ここだけ時間が止まってしまったような感覚。
わなわなと唇が震えた。
「明……」
久しぶりに口に出したその三文字が、小さく掠れて空気に溶けていく。
スーツ姿の明が曲がり角から、こっちに向かって歩いてきた。
薄く微笑んだその顔は、数ヶ月ぶりに会うとは思えないほど自然だった。
「久しぶり。元気にしてたか?」
元気? 元気になんて、していたわけがない。どの口が、どの立場でそんなことを言うのか。
私は明をきつく睨みつけた。
「元気なわけないじゃない」
「……だよな。髪、切ったんだ。似合ってるよ」
湊人が切ってくれた髪を、自分の状況を分かっていないかのような明が平然と褒める。怒りで言葉が出てこない。
「仕事帰り?」
胃のあたりがむかむかする。
なんで、そんな風に普通に笑っていられるの?
「会社はいづらくなったから辞めたの」
明は頬を人差し指で掻いて、眉根を寄せた。
「それって、俺のせい?」
「結婚式目前に婚約破棄だよ? 違うと思う?」
私の怒気をはらんだ声にも、明は動じない。そう、この人はいつもそうだった。
喧嘩になって私がどんなに怒っても明はいつも平然としていた。
時には真顔で、笑顔で。私の怒りを受け流しているのか受け止めているのか。自分も怒ることはせずに、その場を静観していた。
それで私は結局いつも怒っているのが馬鹿らしくなって落ち着いていた。
以前はそんな明のことを大人だと思っていたけれど、今、私はこの人が少し怖い。
「すまなかった。実は結衣に謝りたくて会いにきたんだ」
「今更、どういうつもり? 謝られたって、許せるわけないじゃない」
「そりゃそうだよな。すぐに許してもらえるとは思ってないよ」
明はいきなり、その場で深く頭を下げた。私は言葉を失う。
「本当にごめん。悪かった」
血の気が引いて、めまいがした。今更、謝ってどうなるっていうの。
湊人に出会うまでの私に引き戻されていく。
明が顔を上げて、真面目な顔でまっすぐ私を見つめた。
「俺、気付いたんだ。結衣は俺のことを、なんでも分かってくれてた」
きっと虚ろな目をしているだろう私に、明は構わず話し続ける。
「何年も一緒にいて、家族みたいになって。居心地は良かったけど、俺は結衣を愛しているのか分からなくなってた。だから」
「やめて!」
私は喉から声を絞り出して叫んだ。
「そんなの聞きたくない! どういつもりなの? なんで、どうして、こんな……」