遠くで車のクラクションの音がする。
 ――何?
 そう思った瞬間、今度は喧騒(けんそう)が大音量で耳の奥に響いて、意識が急激に引き戻された。
 はっとして重いまぶたを持ち上げると、ところどころに明るい看板を掲げたビルや、色とりどりのネオンに切り取られた暗い夜空が見える。
 どうやら私はアスファルトに座り込んでいるようだった。
 ジメッとした夏の夜の空気がまとわりついて、思わず顔をしかめる。
 今日も夕方から浴びるように酒を飲んで、店をはしごしていたはずだ。
 途中から、はっきりとした記憶がない。
 今が何時で、ここがどこだかも判然(はんぜん)としなかった。
 頭が内側から殴られているかのようにガンガン痛む。
 飲み過ぎていることは明らかだった。

 ぼんやり辺りを見回すと、なんてことはない見慣れた街並みで。
 ここはJR新宿駅の東口から、アルタを過ぎた歩道の脇のようだ。
 飲み会帰りのスーツの集団、キャバ嬢や学生、合コン帰りのような男女、条例で禁止されているはずのキャッチ。
 様々な人種が溢れている。
 私のことを見ないふりして、通り過ぎていく人たち。
 スマホを見るともうすぐ二十三時をまわろうとしていた。
 まだ帰りたくない。
 あの部屋に一人きりでいるのは苦痛でしかなかった。
 陰鬱(いんうつ)な気持ちとともに息を吐き出して頭上を見上げると、星ひとつ見えない行き止まりのような空。
 私は座り込んだまま、またふいに涙がこみ上げてきそうになるのを堪えていた。
 ネオンの赤や黄色がぼやけて丸く滲む(にじむ)

 ふいにふわっと煙草と酒の匂いがして、赤ら顔をした五十がらみの男が目の前にしゃがみ込んだ。

「おねえさん、大丈夫?」

 薄い頭髪を整髪料で固め、くたびれたグレーのスーツを着ている。
 男はニヤニヤと笑っていた。

「おーい、聞いてる?だいぶ酔ってるみたいだね」

 下心を隠そうともしない無遠慮な視線が、私を品定めでもするように覗き込む。
 気持ちが悪い。

「そんなところにいるならさぁ、ホテルで休もうよ。つれていってあげようか?」

 男の左手を見ると、薬指にプラチナの指輪があった。
 ああ、この人、結婚してるんだ。
 年齢的に考えて、きっと奥さんとはかなり長い時間をともにしてきただろうに。
 それなのに、平気でこういうことをするんだ。
 私はまた明のことを考えていた。
 ねぇ、明。明もこんなに簡単に、私を裏切ったの?

「ほらほら、行こうよ」

 なにも応えない私に痺れを切らせた男が、左腕を無理に引っ張って立たせようとする
 掴まれた腕が痛かったけれど、抵抗する気にもなれなかった。
 もうどうでもいいか。
 これ以上、失くすものなんてないし。
 誰でもいいから、こうやって一瞬でも求められていれば、私が明にとって価値のないものだったという事実が帳消しになるような気がした。
 そんなこと、あるはずないのに。
 私は思考を停止して、引っ張られるままにのろのろと立ち上がった。
 その時。