波の音が一際大きく聞こえる。
おかしい。
今日はずっとこんな調子だ。
何も言えないでいる私を、湊人が覗き込む。
不用意に距離を縮めてくる彼にハッとした。
近い。
「どうしたんだよ?」
一歩あとずさって距離をとって、私は「急にまた変な冗談、言うから」とかろうじて答える。
これ以上、踏み込んできてほしくない。近づいてきてほしくない。
だって、今、私は。私は。
いきなり湊人に繋いだ手を強く引かれる。
え、と思った時には、私は湊人の胸の中にいた。
彼の柑橘系の香水のかおりで胸がいっぱいになる。
くらくらして、息ができなくなるんじゃないかと思った。
心臓が壊れてしまいそうなくらい、鼓動が激しい。
湊人の腕がやんわりと私を抱きしめている。
どうして。
頭が混乱して、うまく身動きがとれない。私の手からカップが滑り落ちる。
頭上から、湊人の切実そうな声が降ってきた。
「冗談でこんなこと言わねぇよ。マジで綺麗だと思った」
「どうして……」
どうして、今、抱きしめるの。
鼓動が激しく鳴って、息苦しくてうまく言葉にできない、
ダメだ。
このままでは、どんどん落ちてしまう。湊人との恋に、深く深く落ちてしまう。
どうしようもなく、湊人を愛してしまう。
彼がこんなおばさんに本気になるわけがない。
きっと気まぐれに違いない。
私なんかに何があるというのだ。
これはきっと悪い冗談に違いない。
それに、もし湊人を信じて、愛して、また裏切られたら。
また一人ぼっちになったら。
明が私を捨てた日のことが脳裏に蘇ってくる。
あの深い絶望感と孤独。
もうあんな思いだけはしたくない。
また誰かを愛して、深く傷つくことが怖い。
「やめて。どうして、こんなこと、するの?」
私は湊人の胸に手を押し当てて、彼から身体を離した。掠れた声を絞り出すと、涙がこみ上げてくる。
湊人の顔が見れない。どんな表情をしているのか知るのも怖かった。
「俺のことが、嫌なのか?」
彼は私の質問には答えずに心なしか傷ついたような声で、静かに言った。
嫌……?
そんなわけない。嫌なわけがない。
だって、湊人は私を助けてくれた。
強引に私を絶望の海から引きずり上げてくれた。
私を変えてくれた。外の世界に連れ出して、ご飯のおいしさや誰かといる楽しさを思い出させてくれた。
この声も、強引さも、高い背も、くしゃくしゃに笑う顔も、優しさも、仕事への情熱も、色素の薄い瞳も、湊人の全部を。
嫌になれるわけがない。こんなに、いやおうなく惹かれているのに。
私は声も出せずに首をぶんぶん振った。
「じゃぁ、まだ元彼のことが忘れられないのか」
湊人の声が悲しそうに聞えるのは、私の願望だろうか。
おそるおそる顔を上げると、湊人が強張った顔でまっすぐ私を見ていた。
私の髪を切ってくれたあの日、彼は私に何も聞かなかった。
無理に話せと言われていたら、また違っていたかもしれない。
私は湊人の優しさに甘えて、家で号泣してしまった時もまともに話しをしようとしなかった。
あのときだって、湊人はまったく詮索せずにいてくれた。
それが有難かったし、救われていた。
出会ってからずっとそばにいて私を変えてくれた湊人に、このまま何も打ち明けずに逃げるなんて不誠実だ。
「忘れられないわけじゃない」
「だったら、なんなんだよ」
「怖いの。誰かをまた信じることが」
私は迷いながらも、明のことをぽつりぽつりと話し始めた。
十三年という長い月日をともにした婚約者に挙式直前に浮気されて捨てられたなんて、とてつもなくみっともなくて恥ずかしい話。
震える声で、何度も詰まってしまいながら少しずつ言葉にしていく。
そんなくだらないことで、あんなに打ちひしがれていたのかと呆れられるだろうか。
湊人は真剣な顔で急かしたりもせずに静かに頷きながら聞いてくれる。
「彼は私を捨てたの。あんなに信じてたのに。強い絆で結ばれてるって思ってたのに。だから、怖い。あんな気持ちに、もうなりたくない」
ただたどしく話し終えると、深く息を吐き出した。
気付くと肩が震えている。また泣いてしまいそうだ。
でもこれは、ちょっと前までの気持ちとは違う。
きっと惨めに捨てられてしまった情けない私を湊人に知られたくないからだ。
湊人はしばらく私をじっと見つめていたけれど、いまいましげに吐き捨てるように言った。
「マジだせぇ。自分が選んだ女ひとり幸せにできないなんて、しょうもない男だな」
鋭くて曇りのない瞳が私を射抜く。
「俺は結衣を裏切ったりしない」
きっぱりとした湊人の言葉に、思わず強く唇を噛んだ。
裏切らないって、どういう意味だろう。
男として? それとも友達として?
人の気持ちに絶対なんてない。
どんな意味だとしても素直に受け入れて喜んでしまいたいのに、彼を突き放さねばならないという焦燥感にかられた。
彼は若いから、簡単にそんなことが言えるんだ。
ちょっとしたきっかけで、タイミングで、人が変わってしまうということを経験したことがないから。
だから、そんなことを言うんだ。
いたずらに私の心をかき乱さないで。
手放しに喜んで、湊人を信じて。
それでまた湊人が私から去っていったら。
「でも湊人だって、浮気のひとつやふたつ、したことあるんじゃないの?」
「なんだよ、それ」
湊人が呆れ顔になった。
そこまで言うべきではないと思っているのに、心のなかの男性に対する不信感が私を突き動かして、無駄に饒舌にさせる。
今の私、きっとすごく嫌な顔をしているだろうな。
「だって、男は浮気する生き物でしょう。それに、湊人にはさゆちゃんみたいなファンだって、いっぱいいるじゃない。選び放題で相手に不自由しないよね」
「本気で言ってんのか? 結衣と出会ってから、一度でも俺があいつらになびいたことがあったか?」
「でも、誘惑が多いっていうのは事実でしょう? 魔が差すなんてことも、いくらでもあるんじゃないの?」
「俺は浮気したことなんて一度もねぇよ。そんな、しょうもない奴等と一緒にするな」
はっきりとした物言いに、私は口をつぐんだ。
本当は、私が今まで見てきた彼が、そんなことをしなさそうだっていうことくらい分かっているのに。
それでも、私の心の奥で警告音がする。
信じてはいけない。愛してはいけない。そう訴えかけてくる。
湊人が私の両肩を力強くつかんで、まっすぐに私を見つめる。
湊人の瞳に吸い込まれそうになる。こんな時だって、彼は美しくて。
「好きな女を裏切るってことは、そいつを選んだ自分のことも裏切るってことだ。俺は俺の選んだ女を信じてるし、そいつを選んだ自分自身も信じてる」
胸を打たれて、心臓がぎゅっと苦しくなった。
湊人から目を逸らせない。
こんな考えの人に出会ったのは初めてだ。
絶対的な自信に、湊人らしさを感じる。
彼ははっきりと言葉を区切りながら、また「俺は、絶対、結衣を裏切ったりしない」と言った。
「けど……もし、またあんなことがあったら、きっともう本当に立ち直れないよ」
「俺を信じろ」
どうして、そんな。
どうして、こんなに。
路上に落ちていただけの、ボロボロの私なんかに、そんなことを言ってくれるの?
どうして、そばにいてくれるの?
そばに、いようとしれくれるの?
どういうつもりで、信じろなんて言うの? 抱きしめたの?
感情が昂ぶって、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
そもそもこれは、そういう意味と受け取っていいのだろうか。
抱きしめられて信じろと言われても、好きだとか付き合おうとか、明確な言葉がないのが余計に怖い。
これで変に勘違いして期待したら、ある日突然「友達として、信じろっていうことだったんだけど」なんて言われても、辛い。
それって裏切られる以前の問題だ。
私が口ごもっていると、湊人がふっと苦笑する。
ポンポンと私の頭を軽く撫でて、身体を離した。
「困らせて悪かった。無理に信じようとしなくていいし、もうしばらくこのままでいいから」
そう言うと、くるっと私に背を向ける。
すっかり陽は落ちて、暗くなった空にライトアップされたレインボーブリッジが浮かんでいる。
湊人はそれを眺めながら、うーんと伸びをした。
もう夜景を楽しむ気分にはなれそうにない。
彼の優しさに胸が痛む。
きっと困らせたのは私だ。
あのまま湊人を突き放さずに抱きしめられていたら。
まっすぐに信じると言えていたら。どうなっただろう。
彼はどうしただろう。
信じるのも裏切られるのも、湊人に踏み込んでいくのも怖い。
それでも、もう見ないふりをすることはできない。
「帰ろうぜ」
湊人が私の足元に転がっていたカップをひょいっと拾い上げて、すれ違いざまに私の肩にやんわり手を置くと先に歩き出す。
当たり前のように何度も手を繋いできたのに、今は私の手をとろうとはしない。
宙ぶらりんになった私の手がなんだかすごく切なかった。
抱きしめられて拒んだくせに数歩分だけ先を歩く彼の背中に駆け寄って抱きついてしまいたくなる自分がいる。
この関係を友達と呼ぶことは、もうできない。
自分を誤魔化すことは、もうできない。
私はどうしようもなく湊人に恋をしてしまった。
『今度の木曜、仕事早く上がれるから、レイトショーで映画観に行こうぜ』
お台場での一件があった三日後、湊人から何事もなかったようにメッセージが届いた。
スマホのディスプレーに湊人の名前でメッセージの着信を知らせる通知が出るだけで、脈拍がやたらと早くなる。
あれから、私の頭の中では負の感情がぐるぐると渦巻いていた。
あんな変な態度をとってしまって、嫌われたかもしれない。
気まずくなってしまったかもしれない。
面倒くさい女だと思われたかもしれない。
もう会ってもらえないかもしれない。
心が不安定に揺れて、連絡してみようかするまいか悩んだりもした。
でも返信がこなかったらと思うと、それがまた怖くて何もアクションを起こせずにいた。
そもそも、こんな年上の女が湊人に恋心を抱いてしまった以上、自分から連絡してガツガツしているように思われるのも恥ずかしい。
とことんネガティブになって、しばらくカタツムリのようにベッドの上で布団にもぐって過ごしていた。
湊人からのお誘いのメッセージは以前と何も変わらない。
変に意識してしまっていたのは、私だけだったのかな。
彼のその普通の態度を思わせるメッセージに、嬉しいような寂しいような複雑な気持ちになった。
それでも、正直、湊人に会えると思うと落ち込んでいた気持ちが浮上する。
私は極力、前のめりになっていると悟られないように、あっさりした文面を心がけながら返信した。
『了解。時間が分かったら、また連絡してね』
この十七文字を送ることに決めるまで、きっかり三十分を費やした。
年甲斐もなく、恋するティーンエイジャーみたいになっている自分に呆れる。
約束の木曜日。
私たちはいつも通り、美容院のビルの前で待ち合わせた。
近頃、ようやく夜は暑さも落ち着き、過ごしやすくなってきている。
半袖のTシャツにロングスカートで出かけてきたけれど、少し肌寒いくらいだ。
エレベーターの扉が開いて、湊人が出てきた。
今日は湊人ガールズを二人従えている。
前にも増して髪がさらさらになったさゆと、金髪に近いような明るい髪をした派手な印象の女の子。
湊人よりも、さゆが先に私に気付いて手を振ってきた。
花柄シフォンのワンピースの裾が風でふわりと揺れる。彼女の行動は相変わらず読めない。
「わー、結衣さん、こんばんは!」
湊人もこっちに気付いて、彼女たちに見えないように私に顔をしかめて見せた。
「こんばんは」
私が答えると彼女はご丁寧にも「今日はトリートメントとヘッドスパをしてもらいに来たんですよぉ」と、語尾を延ばして説明してくれた。
女の子はさゆから私の話を聞いているのか、彼女と目配せをして私に会釈する。
この子はさゆとは違い大人しいタイプのようで、それ以上、何も言おうとはしなかった。
湊人が営業用の爽やかな笑顔を私に向ける。
「お疲れ」
「お、お疲れ様」
なんでもない挨拶ですら、どもってしまったことが情けない。
前まで何とも思わなかった余所行きのこの笑顔にも、今はときめいてしまう。
素の彼とは全然違うって分かっているのに。
こんなに綺麗な顔の男の子、そうそういない。
そんなことを思ってから、これじゃぁ湊人につきまとっている女の子たちと何も変わらないなと一瞬で落ち込む。
湊人が一番嫌うタイプじゃない。
「これから二人でご飯ですか? さゆも一緒に行きたいなぁ」
さゆが甘えたような声を出して上目遣いで湊人を見つめる。
あざといとはこの子のためにあるような言葉だな。
若い子向けのモテマニュアルに載っていそうな、ベタで分かりやすい手法。
きっと大方の男性は計算してやっていると分かっているだろう。
それでも若くて可愛ければ、大体アリなのだ。
彼女の攻めの姿勢と努力は私にはないものだから、若さと積極性がなんだか眩しい。
さゆがすごすぎて、もう一人の女の子も私も空気だ。
それでも湊人はそれをひらりとかわす。
「すいません。今夜は二人きりで過ごしたくて」
「えー!」
さゆはすぐさま唇をとがらせて不服そうな声をあげる。
同時に、二人きりで過ごしたいなんて嘘の口上に、馬鹿になった私の心臓が思いっきり飛び跳ねた。私は思わず胸を押さえる。
「どうした?」
「な、なんでもない!」
訝しげな湊人に私は慌てて首を振る。
顔は赤くなっていないだろうか。
この、おかしな胸の内を悟られていませんようにと、こっそり願った。
「結衣さんはいいですよね? 私が行っても。一緒にお話しましょうよぉ」
いくらなんでも、それは逆効果だと思うよ。
人生の先輩として、さすがに引くことも大事だと思う。なんてことは言えない。
湊人に目だけで助けを求めると、自分で言えというように顎をしゃくられた。
首を傾げながら私にまで上目遣いをするさゆを前に、頭を捻る。
こういうとき、いつも正解が分からない。
「できれば、私も二人がいいかな……なんて」
なんとか搾り出した台詞に、今度はさすがに顔がぼっと赤くなった。
嘘でもこんな台詞を人前で言うなんて!
湊人は彼女たちの視線が私に集まっているのをいいことに、面白がっているのかニヤニヤしていた。
なんだか満足そうだ。これが正解だったみたい。
「そういうことなので、またお店でお待ちしてますね。今度はうちの腕利きの子にヘッドスパお願いしますんで」
「えー、湊人くん指名でお願いします!」
突き放されても、絶対に食らいつくさゆを私も見習うべきだろうか?
湊人はそれを微笑みであしらって一礼すると、彼女たちをその場に残して歩きだした。私も軽く会釈をして、小走りで追いかける。
後ろの方で「湊人くん、結衣さん、今度は一緒に遊んでくださいねー!」とさゆが叫んでいる。
金髪の女の子はさゆに圧倒されて、最後まで無言だった。
分かるよ、私もそっち側だよ、と彼女に無駄な同情をしてしまった。
私たちは新宿三丁目方面にあるシネコンを目指して歩いた。
新宿の夜の雑踏を肩を並べて歩いていると、湊人と出会った日のことや、初めて恋人役として呼び出された日のことが思い出される。
あの日、湊人は私の手をとってくれた。
湊人と出会わなかったら、きっと私は今もふさぎ込んで、世界の全ての不幸をしょいこんだような顔をしていただろう。
こんな風に夜気を心地よいと思うことも、また恋をすることもなかったと思う。
だれかれ構わず身体を重ねていたときだって、湊人に対するような胸の高鳴りは一度だってなかった。
酔っ払っているのか大騒ぎしながら早歩きで通り過ぎていくグループを脇にずれて避けると、隣を歩く湊人の腕と私の腕にかすかにぶつかる。
それだけでまた鼓動が早くなった。
今夜は、手を繋いではくれないのかな。
触れ合った場所が熱を帯びて、そんな期待が胸の奥で疼き始める。
もしかしたら、先日の私の態度から手を繋がないようにしているのだろうか。
何度も湊人がとってくれた私の手が、今度は自分から彼を求めている。
私、今、湊人に触れたいと思ってるんだ……。
そんな自分に気付いてしまうと、いたたまれなくなった。
どうしても年の差がネックになって、その感情を受け入れられない。
「なに、難しい顔してんだよ?」
立ち止まった湊人に、いきなり眉間のあたりを人差し指でグリグリと押された。
どうやら考えすぎて眉間に皺が寄っていたらしい。
「ちょっと、やめてよ」
「変な顔してるからだろ」
私が手で顔を覆って抵抗すると、湊人が可笑しそうに笑った。
いじめっこの男子小学生のような表情をしている。
いきなり誰かに顔を触れられるなんて普通だったら不快なはずなのに、そんな気分にならないのはきっと惚れた相手だからなのだろう。
変な顔と評される表情を晒してしまったことは恥ずかしいけれど、それで湊人が笑ってくれたことが嬉しい。
「もう、やめてってば」
「はいはい。ほら、行くぞ」
彼は何事もなかったようにその手を差し出す。
その姿にまた鼓動が跳ねる。
期待していたのに、いざそうなると口から心臓が飛び出てきそうなほど緊張して、どうしようもなくときめいた。
私は平静を装って彼の左手に手のひらをそっと重ねる。
湊人に指を絡められ、ぎゅっと握られた。
誰にでも、こういうことするのかな。
私は顔色ひとつ変えずに前を向いて歩く湊人の顔を盗み見る。
異性と手を繋ぐことなんて、湊人にとっては普通のことなのかもしれない。
自分を特別だなんて思ってはダメ。
あの日、夕焼けのなか私に言ってくれた言葉。
あれがどういう意味にせよ、変に期待してはいけないと自分を戒めた。
映画館のロビーに着くと平日の夜だというのになかなかの混雑ぶりだった。
チケット購入の端末とドリンクやポップコーンの売り場には列ができている。
何かここ数日で上映開始された作品でもあったのだろうか。
ふたりで上映スケジュールの表示されているモニターを見上げた。
前に私が観たアメコミものの映画もまだ上映されているようだし、ラブストーリーやホラー、時代劇、アニメと色々な作品が羅列してあった。
「結衣は何観たい?」
「あれ? 観たい映画があったわけじゃないの?」
湊人に問いかけられて、私は首を傾げた。
何か観たい作品があって、誘ってくれたのかと思っていたのに。
「いや。なんとなく結衣と映画見てぇなって思っただけ」
湊人が何の気なく言ったのだろう言葉で、私の感情は簡単に急浮上する。
顎を指で撫でながら上映作品のタイトルを目でなぞっている彼は顔色ひとつ変わらない。
その横顔を見上げながら、ただ私と一緒に過ごしたいと思ってくれたのかなと思うとたまらなく嬉しくなってしまう。
ついさっきまでの自戒は何の意味もなさない。
ふたりで映画を観るなんて、ただでさえデートっぽいことを、こんな台詞付きで。
湊人は格好良いし一目惚れされることもかなり多いだろうけれど、もしも気安く触れたり、こんな殺し文句を意識せずに言っているとしたら。
きっと彼には、さゆみたいに分かりやすくつきまとうファンだけでなく、かなりの数のファンがいるだろう。罪作りな男だ。
だけど、願わくば。
こういうことをするのが私にだけだったらいいなと、こっそり思った。
「結衣が観たいのがあれば、それにしようぜ」
「そうだなぁ……」
決めかねて、うーんと唸ると湊人が「何もないなら、あれな」と言って近くの壁に貼ってあるポスターを親指で指し示した。
暗い子供部屋のクローゼットの隙間からゾンビが顔を出して、こっちに手を伸ばしている。
洋物のホラー映画か。
「いいけど……湊人、こういうのが好きなんだ? ちょっと意外かも」
「まぁな」
湊人はよっぽど楽しみになったのか、ニヤニヤしながら上機嫌な様子でチケット売り場の方にどんどん歩いていってしまった。
小走りに追いかけて、二組のカップルの後ろに並ぶ。
上映時間まではまだ二十分あるようだから、きっと余裕で間に合うだろう。
お腹がすいたから何か食べ物でも買おうか。
順番がきて、湊人がさっさと端末を操作してチケットを買う。
どこの席がいいか聞かれたけれど、特に希望もなかったので彼にお任せした。
料金支払いの段になっても、湊人はやっぱり一円も払わせてくれなかった。
ドリンクとフードの売り場に行っても、それは同じだ。
「チケット代、出してもらったんだから、これくらい出させてよ」
「いいから。ほら、ホットドッグ持てよ」
財布を取り出そうとする私に、店員から受け取ったばかりのトレーを強引に押し付けて湊人がクレジットカードでお会計を済ませてしまう。
こんな年上の私に、湊人はいつもご馳走してくれる。
恐縮しつつも、またそれが女性として扱われているようでなんだかくすぐったかった。
湊人が選んだのは劇場の一番端の、スクリーン正面から通路を隔てた三席だけシートの並ぶエリアだった。
私も一人で映画館に来るときは、こういう座席を選ぶことが多い。
端を好む人がそこまでいないのか誰かが隣に座ることは少ないし、通路側の座席なら両隣のスペースが空くから他人に気兼ねしないで鑑賞できる。
たまたまかもしれないけれど、湊人の席の選び方に勝手に親近感がわいた。
スクリーンには次から次へと流れ続ける上映予定映画の予告編。
あまり人気のない作品なのか、ロビーの混雑具合に反してまばらにしか客はいなかった。
私たちはプラスチックカップのビールで小さく乾杯をして、ゾンビを見て食欲が失せてしまう前に急いでホットドッグをたいらげた。
上映が始まる。
暗がりで映像の光に照らされた湊人の綺麗な横顔を盗み見た。
すっと通った鼻梁に、はっきりとした二重の瞳。
何度も手を繋いだこともあれば、この前なんて抱きしめられたのに。
映画館に一緒に来るのが初めてだからか、この距離感にすごく緊張する。
こんなに美しい青年の隣に、こんな私がいてもいいのかとすら思う。
それでも。
見られていることに気付いた湊人が、横目でふっと笑って私の手を強く握る。
それだけで。
ああ、許されるなら、できるだけこの人の隣にいさせてください。
そう、存在を信じたこともない神様に願った。
映画はゾンビものにありがちな、町中の人間がゾンビになったり主人公が仲間とともに逃げながら生存の道を探っていくというストーリーだった。
正直、湊人が観たがっていたから何も言わなかったけれど、私はこの手の作品はそんなに好きではない。
まずゾンビがリアルでないことが多いし、街中を集団で徘徊するシーンなんかはシュールに感じてしまって全然入り込むことができない。
邦画のホラーのひっそりとそこにいるようなお化けになら恐怖を感じるけれど、ゾンビに対しては変に冷静な目で見てしまう。
もはやゾンビよりも、至近距離に湊人がいることの方が何倍もドキドキする。
作り物じみたゾンビが家の中をうろうろしているのを眺めて、意外と食欲も減らないなと思いながらポップコーンを口に運んだ。
湊人の選んだキャラメル味。
ほろ苦い甘さが美味しい。
一人で来てポップコーンを買うことなんてほとんどないから、なんだかこれも特別に感じる。
湊人にも勧めようと隣を見て、私は思わず吹き出した。
吹き出した声はそんなに大きくはなかったけれど、まわりに人がいなくてよかったとホッとする。
ゾンビが飛び出してきたことに驚いたのか、湊人が引きつった顔で座ったままのけぞっていた。
私と繋がれていない方の左手は硬く拳を握りしめている。
――もしかして、怖いの?
いつも強気で自信家な湊人が、まさかホラー映画でこんな反応をするなんて。
私は声をあげて笑ってしまいそうになるのを、なんとか堪えた。
肩が小刻みに震える。
彼はそんな私に気付いて一睨みすると、軽く咳払いをして居住まいを正した。
そこでまた主人公の前に、物陰から元は女性だったのであろう赤いワンピースのゾンビが踊りでてきて、湊人が硬直した。
目を細めながら固唾を飲んで恐怖に耐えている。
今まで湊人の色々な表情を見てきたけれど、こういう顔を見たのは初めてだ。
私は湊人の腕を人差し指でとんとんと軽く叩く。
ハッとした顔の彼に声をださずに「怖いの?」と唇を動かして見せると、あからさまにムッとして「まさか」と湊人も口を動かした。
普段とのギャップが可笑しいような可愛いような、愛しいような。
いつでも私を引っ張って、ここまで立ち直らせてくれた頼もしい彼のこんな一面に母性本能をくすぐられる。
きっとそんなこと言ったら、湊人はそれはそれは嫌そうな顔をするだろうけれど。
私は「大丈夫だよ」と言う代わりに、繋いだままの彼の手をぎゅっと強く握った。
湊人が驚いて目を丸くしている。
そういえば自分から湊人の手を強く握ったことなんて、今までなかったかもしれない。
母性本能、おそるべし。
私が微笑むと彼の見開いた目が細められ、何かを考えているようにこっちを見た。
すぐに唇の端をちょっと上げて、余裕の笑みを浮かべる。
そして、瞬きをしている間に。
湊人の顔が、すぐそこまで迫ってきて。
彼の香水の香りが濃くなる。
あの、抱き寄せられた時みたいだ、と思った時には、私の唇に湊人の唇が触れていた。
柔らかい感触と湊人の息遣いは、一瞬で離れていく。
頭がショートして、何が起きたのか分からなかった。
湊人が不敵に微笑んで、顎をしゃくって舌を出す。
見下されているような流し目に、私の心臓が弾けんばかりに激しい鼓動を刻んでいる。
一生分の鼓動を使い果たしてしまうんじゃないかと思った。
「ちょっ……!」
思わず大きな声をあげそうになると、今度は湊人が可笑しそうに肩を震わせながら口の前に「しー」と人差し指を立ててみせる。
私は叫び出しそうになるのを、掌で口元を覆ってなんとか抑えた。
キス、された。
今、湊人が、私にキスをした。間違いなく、私の唇と湊人の唇が触れ合った。
どうして、こんなこと。
湊人の考えていることは、いつだってさっぱり分からない。
混乱しているのに、唇に残った感触に胸が熱くなる。
やっぱり私、湊人のことが好きだ。
だって、こんなに。
彼の本意なんて欠片も分からないのに、口づけられたことが嬉しい。
湊人は私と反対に急に平静を取り戻したようで、ポップコーンをつまみながら感情の読み取れない瞳でスクリーンを眺めている。
――ずるい。
私だけが動揺しているみたいだ。
ゲリラ的なキスのせいで、映画の内容は全然、頭に入ってこなかった。