私の髪を切ってくれたあの日、彼は私に何も聞かなかった。
 無理に話せと言われていたら、また違っていたかもしれない。
 私は湊人の優しさに甘えて、家で号泣してしまった時もまともに話しをしようとしなかった。
 あのときだって、湊人はまったく詮索(せんさく)せずにいてくれた。
 それが有難かったし、救われていた。
 出会ってからずっとそばにいて私を変えてくれた湊人に、このまま何も打ち明けずに逃げるなんて不誠実だ。

「忘れられないわけじゃない」
「だったら、なんなんだよ」
「怖いの。誰かをまた信じることが」

 私は迷いながらも、明のことをぽつりぽつりと話し始めた。
 十三年という長い月日をともにした婚約者に挙式直前に浮気されて捨てられたなんて、とてつもなくみっともなくて恥ずかしい話。
 震える声で、何度も詰まってしまいながら少しずつ言葉にしていく。
 そんなくだらないことで、あんなに打ちひしがれていたのかと呆れられるだろうか。
 湊人は真剣な顔で急かしたりもせずに静かに頷きながら聞いてくれる。

「彼は私を捨てたの。あんなに信じてたのに。強い絆で結ばれてるって思ってたのに。だから、怖い。あんな気持ちに、もうなりたくない」

 ただたどしく話し終えると、深く息を吐き出した。
 気付くと肩が震えている。また泣いてしまいそうだ。
 でもこれは、ちょっと前までの気持ちとは違う。
 きっと惨めに捨てられてしまった情けない私を湊人に知られたくないからだ。
 湊人はしばらく私をじっと見つめていたけれど、いまいましげに吐き捨てるように言った。

「マジだせぇ。自分が選んだ女ひとり幸せにできないなんて、しょうもない男だな」

 鋭くて曇りのない瞳が私を射抜く。

「俺は結衣を裏切ったりしない」

 きっぱりとした湊人の言葉に、思わず強く唇を噛んだ。
 裏切らないって、どういう意味だろう。
 男として? それとも友達として?
 人の気持ちに絶対なんてない。
 どんな意味だとしても素直に受け入れて喜んでしまいたいのに、彼を突き放さねばならないという焦燥感にかられた。
 彼は若いから、簡単にそんなことが言えるんだ。
 ちょっとしたきっかけで、タイミングで、人が変わってしまうということを経験したことがないから。
 だから、そんなことを言うんだ。
 いたずらに私の心をかき乱さないで。
 手放しに喜んで、湊人を信じて。
 それでまた湊人が私から去っていったら。

「でも湊人だって、浮気のひとつやふたつ、したことあるんじゃないの?」
「なんだよ、それ」

 湊人が呆れ顔になった。
 そこまで言うべきではないと思っているのに、心のなかの男性に対する不信感が私を突き動かして、無駄に饒舌(じょうぜつ)にさせる。
 今の私、きっとすごく嫌な顔をしているだろうな。

「だって、男は浮気する生き物でしょう。それに、湊人にはさゆちゃんみたいなファンだって、いっぱいいるじゃない。選び放題で相手に不自由しないよね」
「本気で言ってんのか? 結衣と出会ってから、一度でも俺があいつらになびいたことがあったか?」
「でも、誘惑が多いっていうのは事実でしょう? 魔が差すなんてことも、いくらでもあるんじゃないの?」
「俺は浮気したことなんて一度もねぇよ。そんな、しょうもない奴等と一緒にするな」
 はっきりとした物言いに、私は口をつぐんだ。