波の音が一際大きく聞こえる。
 おかしい。
 今日はずっとこんな調子だ。
 何も言えないでいる私を、湊人が覗き込む。
 不用意に距離を縮めてくる彼にハッとした。
 近い。

「どうしたんだよ?」

 一歩あとずさって距離をとって、私は「急にまた変な冗談、言うから」とかろうじて答える。
 これ以上、踏み込んできてほしくない。近づいてきてほしくない。
 だって、今、私は。私は。
 いきなり湊人に繋いだ手を強く引かれる。
 え、と思った時には、私は湊人の胸の中にいた。
 彼の柑橘系の香水のかおりで胸がいっぱいになる。
 くらくらして、息ができなくなるんじゃないかと思った。
 心臓が壊れてしまいそうなくらい、鼓動が激しい。
 湊人の腕がやんわりと私を抱きしめている。
 どうして。
 頭が混乱して、うまく身動きがとれない。私の手からカップが滑り落ちる。
 頭上から、湊人の切実そうな声が降ってきた。

「冗談でこんなこと言わねぇよ。マジで綺麗だと思った」
「どうして……」

 どうして、今、抱きしめるの。
 鼓動が激しく鳴って、息苦しくてうまく言葉にできない、
 ダメだ。
 このままでは、どんどん落ちてしまう。湊人との恋に、深く深く落ちてしまう。
 どうしようもなく、湊人を愛してしまう。
 彼がこんなおばさんに本気になるわけがない。
 きっと気まぐれに違いない。
 私なんかに何があるというのだ。
 これはきっと悪い冗談に違いない。
 それに、もし湊人を信じて、愛して、また裏切られたら。
 また一人ぼっちになったら。
 明が私を捨てた日のことが脳裏に蘇ってくる。
 あの深い絶望感と孤独。
 もうあんな思いだけはしたくない。
 また誰かを愛して、深く傷つくことが怖い。

「やめて。どうして、こんなこと、するの?」

 私は湊人の胸に手を押し当てて、彼から身体を離した。(かす)れた声を絞り出すと、涙がこみ上げてくる。
 湊人の顔が見れない。どんな表情をしているのか知るのも怖かった。

「俺のことが、嫌なのか?」

 彼は私の質問には答えずに心なしか傷ついたような声で、静かに言った。
 嫌……?
 そんなわけない。嫌なわけがない。
 だって、湊人は私を助けてくれた。
 強引に私を絶望の海から引きずり上げてくれた。
 私を変えてくれた。外の世界に連れ出して、ご飯のおいしさや誰かといる楽しさを思い出させてくれた。
 この声も、強引さも、高い背も、くしゃくしゃに笑う顔も、優しさも、仕事への情熱も、色素の薄い瞳も、湊人の全部を。
 嫌になれるわけがない。こんなに、いやおうなく惹かれているのに。
 私は声も出せずに首をぶんぶん振った。

「じゃぁ、まだ元彼のことが忘れられないのか」

 湊人の声が悲しそうに聞えるのは、私の願望だろうか。
 おそるおそる顔を上げると、湊人が強張(こわば)った顔でまっすぐ私を見ていた。