私は大学卒業後、横浜にある広告代理店で事務職として勤務していた。
 勤続十二年。
 自分なりに真面目に仕事に取り組んできたつもりでいたのに。
 私の結婚式直前の婚約破棄の噂は、あっという間に社内を駆け巡った。
 給湯室で、喫煙所で、飲み会で。話の種に、酒の(さかな)に。
 トイレの個室に入っていても、洗面スペースで女子社員が私の婚約破棄の話題で盛り上がっているのが聞こえてくるし、おもしろ半分で私に話をふって、どういう経緯で浮気されたのか聞き出そうとする人もいた。
 優しい言葉をかけてもらっても、疑心暗鬼になった。
 ショックで食事も喉を通らず、眠れない夜を過ごしながら、なんとか無理をして出社していたのに。
 仕事も手につかないうえに、いつも見られているような、誰かに笑われているような気がして、私は退職することを選んだ。
 会社に対して無責任かもしれないし、この先の人生、どうするつもりだと言われても仕方ない。
 それでも、もう全てから逃げ出したかった。

 理由が理由なだけに、父も母も退職について何も言わなかった。
 だからもう何時に起きようが、何時に帰ろうがなんのしがらみもない。
 明のご両親から振り込まれた慰謝料と、こつこつ貯めてきた貯金を食いつぶし、夕方から繁華街で飲み歩く。
 バーや居酒屋で知り合ったどうでもいい男と寝て、また浴びるように酒を飲んで夜が明ける頃、家に帰る。
 そしてまた夕方まで泥のように眠る。
 食欲もなく、十キロ以上、痩せてしまった。
 そんな私を心配し励まそうと、母や友人は口を揃えてこう言った。

「明さんがそんな人だったってこと、結婚前に分かってよかった」

 結婚してからでは遅い。
 離婚となれば戸籍にバツがつくところを、戸籍が綺麗なうちに別れられてよかったと。
 確かに一般的に見れば、そうなのかもしれない。
 けれど、私は。
 戸籍の綺麗さなんて心底どうでもよかった。
 入籍前だろうが後だろうが、明に捨てられてしまったという事実は変わらない。
 
 以前までは知らない異性と一夜を共にするなんて、どうかしてると思っていた。
 そんなことは貞操観念(ていそうかんねん)が低い人間がやるものだとか、どこか別世界のような、テレビドラマや小説の中だけのできことのような気さえしていた。
 でも明のいなくなったことでできた心の穴を埋められるなら、もうどうでもよかった。
 自分を消してしまいたい欲求と、どうしようもない寂しさ。
 嘘でも誰かに求められれば、傷が塞がっていくような気がした。
 実際は塞がるどころか()んでいくだけかもしれないのに。
 当たり前だと思っていた日常から恋人も仕事も失って、私は完全に迷子になっていた。