梅雨が明けると連日、気温が三十五度を超え猛暑日が続いていた。
 突き抜けるくらい青い空にむくむくと浮かぶ入道雲。
 明のいない初めての夏がやってきた。
 あれから私は湊人から連絡を受け、週に何度か一緒に出かけるようになっていた。
 恋人役を演じるために彼の職場の前で待ち合わせることもあったし、目的を告げられずに呼び出され相変わらずの湊人のペースで彼の洋服選びに付き合わされたり、また私の部屋にあがりこんで食事をすることもあった。
 湊人につれまわされるのは純粋に楽しく、一人の時間に負の感情に浸ることも徐々に減っていった。
 その分、湊人の顔を思い浮かべてしまう瞬間が増えてきて私は少し焦っていた。
 彼のファンである女性客の前で、恋人扱いされていることに気を良くしている自分もいて。
 いくら彼の存在に救われているとは言え、十歳も年下で未来もあり、えげつない程モテる湊人に、女性としての感情を持つべきではない。
 もしも湊人に突き放されるようなことがあれば、今度こそ立ち直れなくなりそうな気がした。
 あくまでも湊人は友人のひとりで、年の離れた弟みたいなものだ。
 自分自身にそう言い聞かせることも度々あった。
 先日、会った瑠璃には「それってもう気になってるってことだって」と嬉々として言われたけれど、私はさすがにそれはないよと応えた。
 だって、もし本当にそうだったら困る。
 痛い目をみたばかりで、もう誰かを好きになったり信じたりということが怖かった。
 信じてもまた裏切られるのではないかという男性全員に対する不信感。
 男は浮気する生き物だなんて割り切ることができたら、どんなに楽だろう。
 もしこの先、愛してしまった相手に裏切られたら、きっともう生きていけない。
 
 美容院のビルの下で湊人を待っていると、どこからか蝉の声がした。
 こんなに都会なのに蝉がいるんだと驚いて、あたりを見回しても私の立っている場所からは蝉の姿は見えない。それから、少し歩けば自然豊かな新宿御苑や新宿中央公園だってあるのだから当たり前かと考えて一人納得する。
 あまりの暑さに頭と背中にじっとりと汗が噴きだしてきて不快だ。
 今年の夏は暑すぎる。
 ハンドタオルで汗を流しながら待つこと十分。
 約束の時間を過ぎても湊人が出てこないので、近くのショッピングビルの中にあるCDショップにでも行って時間を潰そうか考える。
 移動するならメッセージを入れておいた方がいいかな。
 斜め掛けにしたショルダーバッグからスマホを取り出していると、エレベーターの扉が開いて湊人が出てきた。

「お疲れ様」
「おつかれ。待たせて悪い。あちぃなぁ」
「大丈夫だよ。本当に暑いね。昼間よりましだけど」

 湊人は手のひらをパタパタさせて扇いでいる。
 今夜は出待ちしている女の子は一人もおらず彼はどこかホッとしているように見えた。

「誰もいなくて安心した?」

 私がそう言うと「まぁな。ただでさえ暑いのに、鬱陶(うっとう)しいだろ」と湊人が眉間にしわを寄せる。
 そういう女の子たちは駄目で、こんなくたびれた三十路女は大丈夫だというのが、やっぱりいまいち理解できない。
 ――年齢が離れているし恋愛対象として見られるはずがないから安心ってことなのかな。
 今更、確認するのも恐ろしい気もして、私は何も言わなかった。

 湊人は「じゃぁメシ行こうぜ。なに食いたい?」と話しながら歩き出す。
 夜のにぎやかな街は、建ち並ぶビルの照明やネオンで明るい。
 私は子供の頃、家族で行った夏祭りの夜を思い出した。
 行き交うたくさんの楽しげな人々と、夏のベタついた空気。
 空は暗いのに、提灯と屋台の灯りでやけに明るい道。
 こんな風に思うのは、昨日、久しぶりに実家に帰って一泊したからだろうか。
 私は「なんでもいいよ」と返して、ちょっと早歩きで湊人と肩を並べた。
 彼はうーんと唸ってから口を開く。

「じゃぁ焼肉行こうぜ。スタミナつくだろ」
「こんなに暑いんじゃバテちゃいそうだし、いいかもね」

 それから彼が職場の同僚とよく行くという、東口近くのチェーンの焼肉店に入った。
 週末だからか店はかなり賑わっているようで、テーブルに案内されるまで少し待たされた。
 店内は会社帰りのサラリーマンやカップルと思しき男女、浴衣姿の若い子たちのグループで騒がしい。
 私と湊人は他人の目には、どんな風に見えているだろう。