「好き嫌いはある?」
問いかけると、湊人は真顔で即答した。
「ピーマンとセロリ」
「子供みたい」
ベタな好き嫌いに思わず吹き出してしまった私を見て湊人は面白くなさそうに、ふんと鼻を鳴らす。
隣に並んで、こちらを見下ろしてきた。
「うるせぇよ。腹減った。俺も手伝うから、さっさと作ろうぜ」
まさか彼がそんなことを言い出すとは思わなかったので、ちょっと驚いた。
そもそも湊人は料理なんてできるんだろうか。
彼の住む部屋は綺麗に整理整頓されていたけれど、自炊まですようなタイプには見えない。
「でも、それじゃぁヘアカットの料金払うことにならないじゃない」
「いいから。何作んの?」
相変わらず、こうと言ったら聞かない。強引に彼のペースに巻き込まれる。
「そうめんチャンプルー」
「なんだそれ?」
初めて聞いたという素振りで湊人が言うので、私はそれが沖縄の郷土料理で、素麺やツナ、卵、人参、たまねぎなどの具材をごちゃ混ぜにして炒めたものだと説明する。
本来であればニラとスパムのような肉を入れるのが一般的なようだけれど、あいにく用意がないので割愛することにした。
「へー、うまそうじゃん。よし、作ろうぜ。何すればいい?」
湊人が子供みたいに無邪気に笑った。その顔になんだかまた可笑しくなって私まで笑ってしまう。
そういえば明とは一緒にキッチンに立つなんてことはなかったな。彼は目玉焼きを焼くことすら、できない人だった。
私が料理するとき、明は決まってソファーに陣取ってテレビを観ていた。
はた、とまた明のことを思い出していることに気付いて、私は湊人を見上げた。
明より幾分、上背のある彼は首をかしげて私を覗き込んでくる。
訝しそうにする湊人に、私は人参と玉ねぎの下ごしらえをお願いした。
どうなるかなと見ていると、彼は包丁で手際よく玉ねぎの皮をむき、等間隔にスライスしていく。
なかなかの正確さだ。
その後もあっという間に人参の細切りまでこなした。手先がとても器用で調理すること自体、慣れているように感じる手さばきだった。
「すごい、上手」
私が素麺を入れたばかりの鍋を菜ばしで混ぜながら素直に褒めると、湊人は当然という顔をする。
「親が共働きでガキの頃から料理はしてたからな。一人暮らし始めてから外食とか買い食いも増えたけど、わりと作るんだ」
私は素直に感心した。
世の中、自分のこともまともにできない男性もいると聞く。
実際、明だって家事のほとんどはできなかったし、私に聞かないと目的の洋服をクローゼットから探し当てることもできなかった。
既婚の友人たちとの飲み会では旦那さんの愚痴大会になったとき、どこも似たようなことを言っていた。
もしかしたら湊人は彼なりに苦労して家事のスキルや几帳面さを身につけたのかもしれない。
仕事に対するプライドにしてもそうだけれど、彼にはギャップに驚かされてばかりだ。
若いのに立派な青年なのだなと、おばあちゃんが若者を見るような気持ちになってしみじみしてしまう。
湊人はそんな私を「なんだよ、気持ち悪ぃな」と言って呆れたように笑った。
そうめんチャンプルーができあがると香ばしい匂いにつられて、食欲のなかったはずの私のお腹が大きく鳴った。
湊人に馬鹿にされるだろうかと赤面したけれど、聞こえていなかったのか優しさなのか彼は何も言わなかった。
「うまそう」
嬉々として皿に盛り付けている湊人を見ながら、私は明の浮気相手が作ったオムライスを思い出していた。
やっぱり私の料理なんて所帯じみて可愛げがないな。
思わず苦笑しながら「女子っぽい料理じゃなくて、なんか恥ずかしいな」とつぶやいた。
「俺はこういうのけっこう好きだけどな」
湊人はさらっとそんなことを言って料理の載った皿をダイニングテーブルまで運ぶと、いそいそと席に座る。
「早く食おうぜ」
「はいはい」
子供みたいに急かしてくる湊人に母性本能がくすぐられる。
自然と口元に笑みが浮かんだ。
湊人と一緒に料理をして食事をしようとしているこの時間が、純粋に楽しい。
私も椅子を引いて座りかけて、箸がないことに気がついた。
食器棚の引き出しを開ける。ご飯が喉を通らなくなって、しばらく開けることのなくなっていた、そこに。
二対の箸がしまわれていた。
上部がピンク色で桜の柄の入った私の箸と、色違いで同じ柄の入った紺色の箸。
明とデートに出かけた鎌倉で買った夫婦箸で、ここ数年ふたりで使っていたものだった。
そうか、明はこれは残していったんだ。
すべて身の回りのものは持って行ったと思っていたのに。
私との仲の良かった証のようなこれは、捨てて行ったんだな。
薄い膜に覆われて私だけ時が止まったようになった。
呼吸が浅くなって、急速に楽しかった気持ちは萎んでいく。
私みたいに明に捨てられてしまった箸。
無機物に対してこんな感情を抱くのは変かもしれないけれど、私はとても気の毒に思った。
自分に重ねて、胸が苦しくなる。
鼻の奥がツンとして、目に涙が滲んだ。
「彼氏の箸?」
真横から聞えた湊人の声で意識が引き戻された。
彼は私の背後から引き出しを覗き込んで、私が気付いたときには明の箸を取り上げていた。
私は応えるのも気が重かったけれど、なんとか声を絞り出す。
「もと、ね」
「元彼?」
「そう。二ヶ月くらい前に、出て行ったの」
今の私はどんな顔をしているだろう。
またゾンビみたいな青白い顔をしているだろうか。
きっとみっともない姿に違いない。
そんな私の気持ちをよそに、湊人は「ふーん」とちょっと考える素振りをしてから、あっけらかんと言った。
「じゃぁ、これ借りるわ。冷める前に食べようぜ」
私はそんな彼の態度に呆然とする。
この状況でも何も聞かないのか。
彼は私の肩にやんわりと手を置くと、ダイニングチェアに座るように促した。
自分も向かいの席に座ると、箸を皿の端っこに載せる。
いつも明が座っていた椅子。
フローリングの床から明の幻影が浮かんできて、湊人に重なった。
下唇を噛む。
「結衣」
私の名前を呼ぶ声が明のものなのか、湊人のものなのか一瞬分からなかった。
生まれ変わったつもりだったのに、前を向けそうに思えていたのに。
私はまだ、こんなにも明に囚われている。
「結衣!」
霧がかかったようにぼんやりしていた思考が、湊人の力強い声でまた引き戻される。
私の視線が彼の鋭くて真摯な瞳とぶつかった。
じっと私を映すその目を見ていると、徐々に 明のシルエットが薄れていく。
「結衣はどうしたいんだ」
「どうって……」
突然の問いに次の言葉で出てこない。
「そうやって、ずっとそいつのことを引きずって、死んだみたいに生きていきたいのか」
そんなこと、望んでいるわけがなかった。
今日だって思っていたのだ。
生まれ変わったつもりで、自分を取り戻したいと。
心配してくれる瑠璃や両親のためにも、見ず知らずの私に手を差し伸べてくれた湊人のためにも。
そしてなにより、自分のために。
私は涙がこぼれそうになるのを堪えて、首を何度も横に振った。
湊人は私から視線を外さない。まっすぐこちらを見ている。
彼の澄んだ色をした瞳を見つめえ返すと、明の姿はすっかり消えていなくなった。
真剣な顔をした湊人がゆっくりと言葉を区切るようにして言った。
「そいつのためじゃなく、自分のために生きろ。結衣は、変われる」
優しく諭すような声色に、私はまた明への思いが、未練が、身体の中からそぎ落とされていくみたいな感覚になった。
湊人に髪を切ってもらった、あの夜のように。
胸の中がぼんやり温かくなって、それが体中に広がっていく。
湊人の声を聞いていると不思議と本当に変われそうな気がしてくる。
自分でも驚くほど、自然と「ありがとう」と感謝の言葉が口をついて出た。
声が掠れている。
「よし、じゃぁ食うぞ」
湊人はそう言って、柔和な笑みを浮かべた。
「いただきます」と顔の前で手を合わせると何事もなかったように、さっさと料理に箸をつける。
口いっぱいに頬張って、もぐもぐ咀嚼している。
「めっちゃうまいじゃん。また作ってよ」
湊人は育ち盛りの子供のように口を動かしている。
彼といると、私の中から明に囚われている自分が一欠けらずつ消えていく。
出会って数日しか経っていないのに、私ができなかったことを湊人はやってのけている。
あんなに苦しんでいたのに、もうずっとこのまま悲しみながら生きていくのだと思っていたのに。
消えてしまいたかったのに。
湊人の手で、無様で滑稽で、いびつだった私が変わっていく。
「ほら、結衣も食えって」
彼がそう言って、私を急かすので冷めた料理に口をつける。
なんだかやたらとしょっぱいような気がして、そこで初めて私は自分が泣いていることに気付いた。
出会ってから湊人の前で泣いてばかりだ。
私の方が随分年上なのに、またみっともないところを見られてしまったと思うと同時に、彼に妙な安心感を感じ始めている自分がいる。
「おいしいね」
涙はとめどなく流れ続けているけれど、私は笑った。
そうめんチャンプルーをどんどん口に運ぶ。
相変わらず、味は涙でよく分からない。
けれど、生きていくために私は食べた。
私は、生きていく。
明との思い出や未練のためではなく、自分自身のために。
「変なやつだな」
そんな私を見て湊人も呆れ顔で笑った。
湊人の笑顔が何故だか嬉しい。
都会の片隅で、すべて失くして絶望の海で溺れかけていた私を彼がすくい上げてくれた。
運命を変える出会いがあるというなら、きっとこれがそうだ。
あの日から彼に振り回されてばかりだけれど、出会えて良かったと心から思った。
梅雨が明けると連日、気温が三十五度を超え猛暑日が続いていた。
突き抜けるくらい青い空にむくむくと浮かぶ入道雲。
明のいない初めての夏がやってきた。
あれから私は湊人から連絡を受け、週に何度か一緒に出かけるようになっていた。
恋人役を演じるために彼の職場の前で待ち合わせることもあったし、目的を告げられずに呼び出され相変わらずの湊人のペースで彼の洋服選びに付き合わされたり、また私の部屋にあがりこんで食事をすることもあった。
湊人につれまわされるのは純粋に楽しく、一人の時間に負の感情に浸ることも徐々に減っていった。
その分、湊人の顔を思い浮かべてしまう瞬間が増えてきて私は少し焦っていた。
彼のファンである女性客の前で、恋人扱いされていることに気を良くしている自分もいて。
いくら彼の存在に救われているとは言え、十歳も年下で未来もあり、えげつない程モテる湊人に、女性としての感情を持つべきではない。
もしも湊人に突き放されるようなことがあれば、今度こそ立ち直れなくなりそうな気がした。
あくまでも湊人は友人のひとりで、年の離れた弟みたいなものだ。
自分自身にそう言い聞かせることも度々あった。
先日、会った瑠璃には「それってもう気になってるってことだって」と嬉々として言われたけれど、私はさすがにそれはないよと応えた。
だって、もし本当にそうだったら困る。
痛い目をみたばかりで、もう誰かを好きになったり信じたりということが怖かった。
信じてもまた裏切られるのではないかという男性全員に対する不信感。
男は浮気する生き物だなんて割り切ることができたら、どんなに楽だろう。
もしこの先、愛してしまった相手に裏切られたら、きっともう生きていけない。
美容院のビルの下で湊人を待っていると、どこからか蝉の声がした。
こんなに都会なのに蝉がいるんだと驚いて、あたりを見回しても私の立っている場所からは蝉の姿は見えない。それから、少し歩けば自然豊かな新宿御苑や新宿中央公園だってあるのだから当たり前かと考えて一人納得する。
あまりの暑さに頭と背中にじっとりと汗が噴きだしてきて不快だ。
今年の夏は暑すぎる。
ハンドタオルで汗を流しながら待つこと十分。
約束の時間を過ぎても湊人が出てこないので、近くのショッピングビルの中にあるCDショップにでも行って時間を潰そうか考える。
移動するならメッセージを入れておいた方がいいかな。
斜め掛けにしたショルダーバッグからスマホを取り出していると、エレベーターの扉が開いて湊人が出てきた。
「お疲れ様」
「おつかれ。待たせて悪い。あちぃなぁ」
「大丈夫だよ。本当に暑いね。昼間よりましだけど」
湊人は手のひらをパタパタさせて扇いでいる。
今夜は出待ちしている女の子は一人もおらず彼はどこかホッとしているように見えた。
「誰もいなくて安心した?」
私がそう言うと「まぁな。ただでさえ暑いのに、鬱陶しいだろ」と湊人が眉間にしわを寄せる。
そういう女の子たちは駄目で、こんなくたびれた三十路女は大丈夫だというのが、やっぱりいまいち理解できない。
――年齢が離れているし恋愛対象として見られるはずがないから安心ってことなのかな。
今更、確認するのも恐ろしい気もして、私は何も言わなかった。
湊人は「じゃぁメシ行こうぜ。なに食いたい?」と話しながら歩き出す。
夜のにぎやかな街は、建ち並ぶビルの照明やネオンで明るい。
私は子供の頃、家族で行った夏祭りの夜を思い出した。
行き交うたくさんの楽しげな人々と、夏のベタついた空気。
空は暗いのに、提灯と屋台の灯りでやけに明るい道。
こんな風に思うのは、昨日、久しぶりに実家に帰って一泊したからだろうか。
私は「なんでもいいよ」と返して、ちょっと早歩きで湊人と肩を並べた。
彼はうーんと唸ってから口を開く。
「じゃぁ焼肉行こうぜ。スタミナつくだろ」
「こんなに暑いんじゃバテちゃいそうだし、いいかもね」
それから彼が職場の同僚とよく行くという、東口近くのチェーンの焼肉店に入った。
週末だからか店はかなり賑わっているようで、テーブルに案内されるまで少し待たされた。
店内は会社帰りのサラリーマンやカップルと思しき男女、浴衣姿の若い子たちのグループで騒がしい。
私と湊人は他人の目には、どんな風に見えているだろう。
すぐに運ばれてきたビールで乾杯した。
湊人と出会ってからお酒を飲むこともほとんどなくなっていたので、久しぶりのビールだった。
外が暑かったので、喉を流れていく冷たさが嬉しい。
「今日、実家から帰ってきたんだっけ?」
私は湊人がてきとうに注文した牛肉の盛り合わせを網に載せながら、彼の問いかけに頷く。
七輪の中で木炭が赤く燃えている。
「結衣の地元って、どんなところ?」
「突然、どうしたの?」
「別に。聞いたことなかったなと思って」
湊人が私の地元のことに興味を示すなんて思ってもいなかった。
単なる世間話のひとつかもしれないけれど。
私はどう説明しようか、しばし考えを巡らす。
「新宿からだと急行で一時間ちょっとくらいかな? 神奈川県の片田舎だよ」
「その距離の場所で田舎ってことはないだろ」
「ううん。実際、畑や田んぼだってあるし。一応、うちから徒歩圏内にJRの駅があるんだけどね、単線だしドアを毎回ボタンで開け閉めするの」
この前、東京生まれだと話していた湊人は、露骨に驚いた顔をする。
「そんな電車あんのかよ。知らなかった」
自分から田舎だと説明したくせに、なんだかちょっと恥ずかしくなって何か良いところはないかと考える。
実際、思春期以降は都会に憧れたし、進学だって都内の大学を選んだ。
今だって「うちに帰ってきて暮らしたっていいのよ」と母は言ってくれるけれど、地元よりずっと便利な街に住んでいる。
十代の頃のような憧れはもうなかったけれど、車社会の地元と比べ電車でどこにでも行けてしまうこの場所は純粋に便利だった。
明と同棲していた今のマンションは一人暮らしには少し広いから、余裕ができたら同じ駅の別の物件に引越そうと考え始めていたくらいだ。
それでもその便利さと引き換えにペーパードライバー歴は長くなっていた。
今いきなり運転しろと言われたら、きっとできないと思う。
湊人が「もーらい」と言って網の上から生焼けのカルビをさらっていく。
私も牛肉はちょっとレアくらいの方が柔らかくて好きだけれど、さすがに火が通ってなさすぎじゃないかな。
そう注意しても、湊人はうまいうまいと喜んで食べている。
彼はいつも運動部の中学生かと思うような食べっぷりで、見ていて気持ちがいい。
それなのにひょろっとしていて、足首などは私より細いんじゃないだろうか。
あれから食欲はほとんど戻りつつあったけれど、食べ過ぎないようにしなきゃ。
私は網の上の肉の七割を湊人に、三割を自分の皿に取り分けた。
カルビを咀嚼しながらジョッキに口をつけると、口内が肉の脂とビールの苦味でいっぱいになる。
先日までのただ酔うために飲んでいただけのアルコールとは全然違う、幸せな感覚に私の顔が自然とほころんだ。
「結衣も焼いてばっかりいないで、どんどん食えよ」
湊人が満足げに笑いながら、私の前にある生肉の載った皿を自分の方に引き寄せた。
トングで肉をつまんで焼いていく。
湊人のこういうところが、私にとってはすごく新鮮だ。
今思えば、明は全部、私任せだった。
デートで行く店を決めるのも料理の注文も肉を焼くのも、普段の家事や料理も、すべてやるのは私。
エスコートとかリードとかレディーファーストとか、そういったことを明からされたこともなかった。
思考のなかに明が出てきても今日は悲しくなんてならない。
それどころか肉をひっくり返している湊人を眺めながら、こうして一緒に楽しめる人っていいなと思ってしまっていた。
恋愛対象になりえない湊人と明を比べるなんて、どうかしている。
私は結露で汗をかいたジョッキをあおってビールを飲み干した。
湊人のビールも空になっている。
おかわりしようと二人で決めると、私が店員を呼ぶより早く湊人が手を挙げる。
店員に生ビールをふたつ注文している彼を眺めていると、胸のなかにまたさっきの思考がちらついて、私はそれをかき消すように頭を振った。
「それで、電車以外になんかないの、地元の話」
湊人が一通り肉を食べ終わって、追加するつもりなのかメニュー表をながめながら言った。
私は店内の浴衣姿のグループを見て、夏祭りの話を思いつく。
「けっこう規模の多きな夏祭りがあるよ。神奈川のまつり五十選っていうのに入ってるって母が言ってた」
「へー、盆踊りみたいなの?」
「ううん。道路が歩行者天国になって、いくつかお神輿がでるの。屋台もたくさん並ぶんだ」
「楽しそうだな」
「そうだね。あっちに住んでた時はほとんど毎年行ってたよ」
湊人は塩キャベツをつまみながら楽しそうに私の話を聞いている。
高校生くらいまではこの夏祭りにいくことと、もうひとつ初夏の習慣があったことを思い出した。
いかにも田舎っぽい気がして、都会育ちの湊人に話すのもどうかなと思いながら、私は口を開く。
「あと、うちの近くに広い公園があって。滑り台とか遊具があるようなところじゃなくて、林みたいな場所に丘と池と遊歩道があるだけの公園なんだけど」
「公園?」
「うん。そこね、蛍がいるの。毎年、六月の二週間くらいだけ見られるんだよ」
ちょうど湊人と出会った季節だなと思う。
外灯もなく真っ暗で足元もろくに見えない公園の中を、柔らかい土の地面を踏みしめながらゆっくりと進む。
湿った土と草の匂い。
さすがに田舎といっても、近くに車が走る道路もあれば工場や民家だってあるから、そんなにたくさんいるわけではないけれど。
池のそばまで歩くと、緑っぽい光を一定のリズムで明滅させながら飛び交っている蛍を見ることができる。
なんとも幻想的で、私は毎年その光景を家族で見に行くのが楽しみだった。
「すげぇな。俺、蛍なんて見たことねえよ」
湊人が感嘆の声をあげる。
私は自分が褒められたような気がして、ちょっと照れくさくなった。
「綺麗だよ。暗闇のなかを光ったり消えたりしながら、ふわふわ飛んでるの」
湊人の反応に気を良くして、父から聞きかじった知識を披露する。
「蛍の光って求愛の光なんだって。オスが飛び回りながらメスに声をかけるように光って、メスもそれにオッケーなら光返すんだって」
「すげぇ。よく知ってるな」
「お父さんの受け売り。求愛のためのものだなんてロマンチックな光なんだなと思って覚えてた」
湊人が「女の子らしいところあるじゃん」と笑う。
「蛍、いつか一緒に見に行こうぜ」
さらりと笑顔でそんなことを言われて、私は驚いた。
悟られないように曖昧に頷いたけれど、果たして本当にそんな日がくるのだろうか。
私の生まれ育った場所を湊人が歩いている姿が想像できない。
およそ一年後に、私と彼がこうして一緒にいるかどうかも分からなかった。
気分良さそうにビールを流し込む湊人を見ながら、私は心の中で叶うかどうかも怪しい約束を反芻していた。
蛍の光が舞う、あの光景を本当に彼とふたりで眺めたいという期待がにじみ出てきて、私も温くなったビールをあおった。
そんな感情は持ってはいけない。
これが高じて、恋愛感情を抱いてしまいそうで怖かった。
こうして湊人と友達としてそばにいるだけで、救われているのに。
やっと前を向けそうになっているのに。
湊人が私を好きになるはずがないのに、こんな気持ちになっちゃダメ。
そのあと、私たちは終電間近になって店を出た。
お会計は私がトイレに入っている間に彼女役のバイト代だなどと言って湊人が済ませてしまっていた。
自分の分のお金を渡そうとする私を頑なに断って、彼はどんどん歩いていく。
――彼女役のバイト代、かぁ。
やっぱり大人しく番犬の務めを果たさないとなと思いながら、小走りにその背中を追いかけた。
東京の夏の夜はまだ蒸し暑い。
終電の時間帯になっても、新宿はまだたくさんの人々で溢れている。
人ごみのむこうで、湊人がこっちを振り向いて薄く微笑んだ。
そんな一瞬でも絵になってしまう湊人に、どうしようもなく、胸が高鳴った。
その日、私は早朝からクローゼットを前に頭を悩ませていた。
湊人に職場主催のバーベキューに誘われて、どんな洋服を着ていったらいいのか分からなかったからだ。
絶対に来いという彼のメッセージに、職場の人の前でまで彼女役なんてできないよと返信しても、業務命令という四文字と集合時間や会場の詳細だけが送られてきた。
相変わらずの強引さで、私はそれ以上の抵抗を諦めた。湊人に対しては、どんな抗議をしても無駄だ。
無視して行かないという選択肢もあるけれど、それで湊人との関係が切れてしまうのは嫌だった。
あくまでも私が立ち直るのに手を貸してくれている友人のひとりとして、今後も彼と関わっていきたい。
だから渋々、バーベキューに参加することにした。
バーベキュー自体、子供の頃に家族と家のそばの川原でしたことがあるくらいで、大人になってから参加するのは初めてだ。
特別考えたことはなかったけれど、自分の趣味はインドアなものばかりだなと気付く。
バーベキューとかキャンプとか登山とか、ほとんどしたことがない。
どんな服装がTPOに合うのだろうか。
Tシャツとデニムパンツではラフすぎやしないか。
私はインターネットの検索エンジンでバーベキューにおすすめコーディネートと検索してみた。
女性むけファッション誌のホームページに掲載されていた、いくつかの画像とクローゼットの中身を見比べる。
手持ちでも真似できそうな格好を見つけて、ボーダーのTシャツにベージュの膝下丈のタイトスカートを合わせ、肩にUV効果のある薄手のパーカーを羽織ってみる。
靴は白のスタンスミスを履いていくことに決めた。
お台場のショッピング施設の屋上にあるバーベキュー場らしく、屋根もありそうだったけれど念のためツバが大きめの帽子もかぶる。
年齢的にも子供のいる母親に見えなくもないコーディネートな気がして、何度か鏡の前でまわってみた。
湊人の彼女と紹介されても大丈夫だろうか。
またおばさんだと思われて恥をかきはしないかと不安になった。
そこで、湊人の「おばさんじゃないよ」と言ってくれた声を思い出して、頬が熱くなる。
そんな自分に辟易して、私はため息をついた。
集合時間の十分前に東京テレポート駅の出口で湊人と落ち合う約束だったので、先に地下の改札からエスカレーターで路上に出て待つことにする。
明り取りの天窓のある白くて大きな半円状の出口は、どこか近未来的だ。
そろそろ湊人も来るだろうなとエスカレーターをぼんやり眺めていると、下から上がってくる湊人の頭が見えた。
「湊人」と手を挙げかけて、彼が地上に降り立った瞬間、私は絶句する。
湊人も私を上から下まで見て、うぇっと舌を出した。
「お前なぁ……。ボーダーは人とかぶるかもしれないとか思わなかったのかよ」
「こっちの台詞だよ。どうしよう、帰りたい」
湊人がボーダーのTシャツとベージュのハーフパンツ姿で、げんなりしている。
彼の羽織っているシャツと、私のパーカーまで同じ紺色だ。
ボーダーの幅や間隔だってほとんど一緒で、他人からは完全にコーディネートを合わせてきたかのように見えるだろう。
どう見ても、ペアルック。
湊人はせめてもの抵抗なのか、シャツを脱いで手に持った。
恋人役をやるのは仕方ないこととして、こんなペアルックのバカップルみたいなことをしたかったわけでは断じてない。
これから湊人の職場の人たちに会って、なにを言われるのかと考えただけで恐ろしかった。
「私、どこかで洋服買って着替えて行こうか?」
これから行く店は八階建ての大型のショッピング施設だから、アパレルの店舗だって、きっといくつも入っているはず。
私が苦肉の策でそう言うと、湊人は「俺だってそうしてぇけど、時間に遅れるのもまずいだろ」とため息をついた。
今日も空はどこまでも青く、八月の太陽がかんかんと照りつけている。
私たちはそんな天気と正反対な曇った表情でとぼとぼと会場に向かった。
バーベキュー場は私が想像していたよりずっと豪華で、さっきまでの憂鬱な気持ちが一気に吹き飛んだ。
青空の下、広々としたスペースに屋根のみのテントのようなものがいくつも設置され、テーブルと椅子がずらっと並んでいる。
その向こうには東京湾が見渡せて、隣にいる湊人も珍しく目を輝かせて辺りを見回している。
入り口のそばにはプールがあって子供たちが楽しそうに水遊びに興じていた。
はしゃぎ声が辺りに響いている。
世間は夏休みだからか、平日でもなかなかの客入りなようだ。
私たちが案内されたのは、パーティー用のスペースだという長方形の幌馬車のような大きなテントだった。
もうすでに集まっている面々で準備を始めていたのか、何人かテントの外にあるグリルのまわりを取り囲んでいる。
そのそばにハンモックが置いてあったので寝転んでみたくなった。
私は湊人について挨拶をしてまわった。
二十人くらいが参加していて、一人で来た人から家族や恋人同伴の人たちまで様々だ。
たいていの人が湊人と私のペアルックをからかった。
美容師のなかでもスタイリストは店長と湊人の他に、湊人の二年先輩だという女性が一人と後輩だという男性が一人いるのみで、あとの数名はアシスタントだった。
アシスタントの中には専門学校を卒業したばかりの人もいて、当たり前のことだけれど湊人よりも若いのだと思うとくらくらする。
肉を焼く係りを買って出た彼らの学生のようなはしゃぎぶりが懐かしい。
ちょっと炭から火柱が上がるだけで飛び退って歓声をあげている。
特にサロンの店長だというアロハシャツを着た髭面の陽気な男性は、私たちの格好を見て、会場中に聞えるのではなかろうかと思うほどの盛大な笑い声をあげた。
彼とは反対に上品で感じの良い奥さんが「そんなに笑ったら悪いわよ」と店長をたしなめてくれた。
二人とも三十代後半くらいだろうか。
湊人とより、私との方が年齢が近そうだ。
私は自己紹介しながら、とんでもない年上の彼女と付き合ってるんだなと思われているだろうかと考えていた。
湊人は堂々と私を紹介し、彼女かと聞かれれば当たり前のようにそうだと答える。
おどおどしても仕方ないので私もできるだけにこやかに話を合わせた。
そういえば付き合ってどれくらいなのかとか、出会いはどこだとか設定をまったく練ってこなかった。
――大丈夫かな。
不安になって湊人を窺い見ると、店長の問いにしれっとした顔で適当なことを言っている。
口からでまかせとはこのことだ。
私は笑顔の裏で、湊人が言うことを聞き漏らすまいと気を遣った。
あとで話の帳尻が合わなくなると困る。
「お前、彼女がいるなんて全然言ってなかったじゃねぇか。いつから付き合ってるんだよ?」
「二年前くらいですかね」
「けっこう長えじゃねえか。それで、馴れ初めくらいは聞かせてくれるんだろうな?」
店長が目を細めてニヤニヤしている。湊人は頭をかいて、ちょっと言いにくそうに切り出した。演技とは思えない。すごい。
「あー……言いにくいんですけど、実はお客さんで」
その言葉に店長が目を丸くして「おいおい、やめてくれよ。まぁ、うちもそうなんだけどな」と奥さんを親指でくいっと指し示した。
「しかし水臭いじゃねえか。言えよー、そういうことは」
「すいません。結婚するときはすぐ報告しますから。な、結衣」
爽やかな笑顔で私を見る湊人が突然さらっとそんなことを言うから、鼓動が跳ね上がった。
ワンテンポ遅れてしまったけれど、なんとか「そうだね。いつになるかなぁ」なんて私も応える。
どうしてこの男はわざわざこんなことを言うのかな。
不意打ちでドギマギさせられて、恨み言のひとつでも言ってやりたい気分だ。
湊人には、きっとそんなつもりは一ミリだってないのだろうけれど。