私も椅子を引いて座りかけて、箸がないことに気がついた。
 食器棚の引き出しを開ける。ご飯が喉を通らなくなって、しばらく開けることのなくなっていた、そこに。
 二対の箸がしまわれていた。
 上部がピンク色で桜の柄の入った私の箸と、色違いで同じ柄の入った紺色の箸。
 明とデートに出かけた鎌倉で買った夫婦(めおと)箸で、ここ数年ふたりで使っていたものだった。
 そうか、明はこれは残していったんだ。
 すべて身の回りのものは持って行ったと思っていたのに。
 私との仲の良かった証のようなこれは、捨てて行ったんだな。
 薄い膜に覆われて私だけ時が止まったようになった。
 呼吸が浅くなって、急速に楽しかった気持ちは萎んでいく。
 私みたいに明に捨てられてしまった箸。
 無機物に対してこんな感情を抱くのは変かもしれないけれど、私はとても気の毒に思った。
 自分に重ねて、胸が苦しくなる。
 鼻の奥がツンとして、目に涙が滲んだ。

「彼氏の箸?」

 真横から聞えた湊人の声で意識が引き戻された。
 彼は私の背後から引き出しを覗き込んで、私が気付いたときには明の箸を取り上げていた。
 私は応えるのも気が重かったけれど、なんとか声を絞り出す。

「もと、ね」
「元彼?」
「そう。二ヶ月くらい前に、出て行ったの」

 今の私はどんな顔をしているだろう。
 またゾンビみたいな青白い顔をしているだろうか。
 きっとみっともない姿に違いない。
 そんな私の気持ちをよそに、湊人は「ふーん」とちょっと考える素振りをしてから、あっけらかんと言った。

「じゃぁ、これ借りるわ。冷める前に食べようぜ」

 私はそんな彼の態度に呆然とする。
 この状況でも何も聞かないのか。
 彼は私の肩にやんわりと手を置くと、ダイニングチェアに座るように促した。
 自分も向かいの席に座ると、箸を皿の端っこに載せる。
 いつも明が座っていた椅子。
 フローリングの床から明の幻影が浮かんできて、湊人に重なった。
 下唇を噛む。

「結衣」

 私の名前を呼ぶ声が明のものなのか、湊人のものなのか一瞬分からなかった。
 生まれ変わったつもりだったのに、前を向けそうに思えていたのに。
 私はまだ、こんなにも明に(とら)われている。

「結衣!」

 霧がかかったようにぼんやりしていた思考が、湊人の力強い声でまた引き戻される。
 私の視線が彼の鋭くて真摯な瞳とぶつかった。
 じっと私を映すその目を見ていると、徐々に 明のシルエットが薄れていく。 

「結衣はどうしたいんだ」
「どうって……」

 突然の問いに次の言葉で出てこない。

「そうやって、ずっとそいつのことを引きずって、死んだみたいに生きていきたいのか」

 そんなこと、望んでいるわけがなかった。
 今日だって思っていたのだ。
 生まれ変わったつもりで、自分を取り戻したいと。
 心配してくれる瑠璃や両親のためにも、見ず知らずの私に手を差し伸べてくれた湊人のためにも。
 そしてなにより、自分のために。