蛍の頃に会いにきて

 彼はこちらの気持ちなんていざ知らず、黒いプラスチックの枠の姿見を運んでくる。
 そして私の背後にまわった。
 鏡ごしに湊人と目が合う。
 すぐに布の擦れるような音がして、首にタオルが巻かれケープをかけられた。美容院で髪をカットする時の格好だ。

「最後に美容院行ったの、いつ?」

 湊人が私の髪の毛先を指でつまみながら問いかけてきた。
 最近、美容院に行ったのはいつだったろう。
 以前は結婚式のために髪を伸ばしていた。
 ヘアアイロンやコテで巻くのが好きだったので、痛む毛先だけを二、三ヶ月ごとにカットして整えてもらうために美容院に通っていた。
 そうだ。明の浮気が発覚して、二日後に入っていた美容院の予約をキャンセルしたんだ。
 あの時は、とてもじゃないけれど美容院になんて行く気になれなかった。
 それからずっと髪の手入れを放ったらかしにしてしまっていた。

「もう半年近いかもしれない」
「だろうな。伸ばしてんの?」

 もう伸ばす理由なんてないから、私は首を横に降った。
 またセンチメンタルな気持ちが胸の奥の方から波のように打ち寄せてきそうになる。
 それを打ち消すようにため息をつくと、湊人がぽんと私の両肩に手を置いた。

「よし。じゃぁバッサリいこうぜ」
「え?切るの?」

 彼の力強い物言いと突然の提案に、私は驚いて目を見開いた。
 彼は淡々とスチールラックの棚から取り出したコームで髪をとかし始めている。

「切る。なんか嫌なこと、あったんじゃねぇの?」

 今までの意地悪な湊人とは対照的な、穏やかな声が頭上から降ってきて、私は尚更分からなくなった。

「どうして……」
「嫌なことでもなきゃ、あんな風になってないだろ」

 分かりやすい荒れ方だよなと目を細めて笑う。
 私はまた恥ずかしくなった。いい歳して、あんな風になっていたことを呆れられているのかもしれない。
 自然と膝の上に置いた手をギュッと握りしめた。

「別に何があったとか、話さなくていいよ」
「聞かないの?」
「話したきゃ話せばいいんじゃね?」

 湊人が笑うから、少し落ち着いてきて指の力が抜けた。

「ただ、俺は美容師だから」

 鏡の中の彼は真剣な眼差しを私に向けている。

「髪は女の命なんだろ? しばらく手入れもしてなさそうだし、カットすれば気分も変わるんじゃねぇの?」

 そうか。
 湊人は美容師だから。
 人の髪を綺麗にするという自分の力で、誰かが変われるって信じているんだ。
 若くて、チャラチャラした男の子だと思っていたけれど、きちんと仕事にプライドを持っている、立派な大人なんだ。
 無意識に、彼に対して偏見をもっていた自分に気付いた。
 なんて浅はかなんだろう。
 湊人は道端に落ちていた石ころのような私を、なにも聞かずに自分の美容師としての腕で立ち直らせようとしてくれている。
 私は胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。

「そうだね、じゃぁ湊人にお任せしようかな」

 思い切って言葉にすると、自然と笑みがこぼれた。
 目尻にじんわり涙が浮かんできて、目をこする。

「お、初めて名前呼んだな」

 湊人が私の頭をやんわりポンポンと二度叩いた。
 声色と同じ優しい笑顔。
 ――ああ、湊人ってこんな風にも笑うんだと思った。
 新宿の路上でお客さんである女の子たちに向けた、どこか嘘くさい爽やかな笑顔とは違う。 
 意地悪な彼を知っているからそう感じたのかもしれないけれど、今は心から私に笑いかけてくれているような気がした。
 湊人は私の髪をヘアクリップでブロッキングして、ハサミを入れていく。
 胸の下あたりまで伸ばした髪がどんどん短くなっていった。
 結婚式のために伸ばしていた髪。
 明が好きだと言っていたロングヘア。
 ハサミの先から床に落ちていく髪の毛を見ていると、明との思い出までが一緒に切り落とされていくように感じた。
 どんなに涙を流しても、どんなにお酒に溺れても、消えてくれなかった絶望感と悲しみが私から(こぼ)れていくようで。

「ありがとう」

 私が小さく呟くと、湊人は何も言わずに頷いた。
 不思議な子だ。意地悪で強引で自信家で、優しくて親切な人。
 外から聞える激しい雨音と湊人の動かすハサミの音だけが部屋に響いている。
 私はぼんやりと鏡ごしの湊人を眺めいた。
 私の髪に向ける真剣な眼差し。
 ハサミを握る細い指。
 私と二人きりでいることの似つかわしくない美貌。
 なぜこんな子が私なんかを気にかけてくれるのだろう。
 昨夜出会ったばかりなのに。
 今、私の頭の中は彼で(あふ)れていた。
 
 湊人がハサミを置いた。
 乾き始めた癖っ毛が肩口で切り揃えられて、ふわっと丸いシルエットを描いている。 
 こんなに短くしたのはいつぶりだろう。
 私は明と離れてから初めて、気持ちがすっきりしていくのを感じていた。
 土砂降りの雲の切れ間から、青空を垣間見たような気分。
 湊人の言うように、ヘアスタイルひとつでこんなに気分が変わるものなんだ。

「シャワー使って、頭流してきて。戻ったら仕上げするから」
「ありがとう」

 私は彼に(うなが)され、ユニットバスに向かった。
 扉の脇にあるワゴンに、さっき渡された着替えとバスタオルが置かれている。
 湊人はベッドの上に座って、こちらに背を向けた。
 ――気を遣ってくれてるんだ。
 少しホッとして、浴室に入る。部屋と同様、浴室も掃除が行き届いていた。
 雨で湿った洋服を脱ぐと、体が軽くなったような気がした。
 脱いだ洋服を畳んでトイレの蓋に置くとシャワーカーテンをひいて、浴槽内でシャワーを浴びた。

 熱い湯で冷えた身体を温めながら、私はまた湊人のことを考えていた。
 明のことを思うと心が凍えたようになっていたのに、今は徐々に温まっていく身体と一緒に心まで温もりを取り戻していくようだ。
 昨夜、新宿で私の腕を掴んだ湊人の手。
 私をダサいと言った時の瞳。
 今朝、ベッドの上で伸びをしていた姿。
 女の子たちにむけた嘘みたいに爽やかな笑顔。
 自信満々にあがる口角。
 私を綺麗にしてくれた指。
 ユニットバスの壁面に掛けられた鏡の中の私は、ずいぶん生気を取り戻したような顔をしている。
 このお返しに、私も何かしてあげなければ。
 何にもない私だけれど湊人が困っているのなら、彼女のふりでもなんでもしてあげよう。
 そう決心するとシャワーの蛇口をひねり、浴室内に持ち込んであったタオルで頭と体を拭いて、おっかなびっくり湊人の洋服を身につけた。
 大きめに作られた洋服のようで、私でも余裕で着ることができて胸を撫で下ろした。
 部屋に戻ると、湊人はドライヤーを持って椅子の前で待っていた。

「おつかれさまでした」
「美容師っぽいね」
「だろ?」と湊人が肩をすくめてニヤリと口角を上げるから、私も思わず笑ってしまう。

「座って」

 彼に勧められるがままに、おずおずと座面に腰を落としてみる。
 すぐにカチッとスイッチを入れる音がしてドライヤーの熱風が頭にあたり始め、湊人の大きな手のひらが私の髪を乾かしていく。
 ごつごつとした手の感触。髪をすく長い指。
 他人に髪を触られることって、こんなに心地よかったっけ。
 湊人は櫛で毛先にカールをつけるようにブローしてドライヤーを止めると、伸びて耳にかけるようになっていた前髪にハサミを入れた。
 眉毛が少しだけ隠れる位置で切り揃えて横に流し、タオルで顔についた毛を払うと、私の気持ちを推し量るような視線を鏡越しに投げてくる。
 それから満足そうに頷いてケープを外してくれた。

 鏡に映る私は、まるで別人のようだ。
 肩の上で丸くふわっとワンカールしたボブは、短いのに女性らしくて可愛らしい。
 長く傷んだ髪をしてゾンビみたいに夜の街を徘徊(はいかい)していた、冴えない三十路女とは違って見える。
 ――不思議。生まれ変わったみたいだ。
 さっきまで顔の横で温もりを感じていた湊人の男性らしい手が、掛け値なしに魔法の手のように感じる。
 鏡の中で湊人が自信に満ち溢れた笑顔でうなずいた。

「うん。綺麗になったな」
「すごい……。ありがとう」

 自然と私の口元からも笑みがこぼれていた。清々しいような嬉しいような、気恥ずかしいような不思議な気持ちで、心の奥の方がムズムズしてくる。
 湊人が私をまじまじと見つめた。

「笑った顔もいいじゃん。もっと笑ったら? せっかく綺麗なのに、もったいねぇよ」

 綺麗という言葉。
 さっきも言われたはずなのに、今はまったく違う意味合いをもつように感じて、顔がカーッと熱くなる。

「変なこと言わないで。からかってるんでしょ」
「そんなんじゃねぇって。結衣は綺麗だよ」

 湊人が大真面目にそんなことを言うから思わず彼から目を逸らした。
 フローリングに落ちた毛束をなんとはなしに見つめる。
 口下手だった明は絶対にこんなことは言わなかった。
 誰かのお世辞以外で、男性からこんなにすんなり綺麗だなんて言葉をかけられたことはない。

「さっきの子達だって言ってたでしょ? こんなおばさんに、やめてよ」

 恥ずかしくてたまらなくなって、苦笑する。
 誰に対してそんなことを思うのか、勝ち負けなんかじゃないのに真に受けたら負けだと思った。
 顔が赤くなってることを悟られたくなくて、(うつむ)いた顔を戻せない。

「だから」

 湊人がため息をつく。

「だから、さっきも言ったろ? おばさんだなんて、思ってねぇから」

 その言葉に咄嗟に鏡を見ると、真面目な顔をした湊人と視線がぶつかった。
 茶色く澄んだ色をした瞳が私を見つめている。
 心臓が大きな音をたてた。
 真に受けてはいけない。
 舞い上がってはいけない。
 勘違いしてはいけない。
 そう思うのに、彼の言葉を自分に都合良く呑み込んでしまいたいと思う自分もいて。
 このままここにいちゃ、だめ。痛いおばさんになる前に、冷静にならなきゃ。
 胸が高鳴ってしまっていることすら、恥ずかしくてたまらない。

「今日は帰るね。本当にありがとう」

 (かす)れた声を絞り出して早口に言うと、急いで濡れたままの洋服とハンドバッグを掴んで玄関に向かう。

「急にどうしたんだよ?」

 背中に湊人の戸惑ったような声を受け止めながら、今夜はもう彼の瞳を見つめ返すことはできないと思った。
 そのまま振り返らずに、サンダルをつっかけて外に出る。

「ごめんね。また彼女役、必要になったら呼んで。ちゃんと協力するから。着替えも今度、洗濯して返すね」
「なぁ、待てって」

 湊人の声は玄関ドアの閉まる重たい音にかき消された。
 もうすっかり雨は上がっている。
 ほんの一時間ほど前、湊人に手を引かれながら二人で夜道を駆け抜けた時よりも、ずいぶん空気が冷たい。
 ――湊人がセットしてくれた髪が雨に濡れなくて良かった。
 私は濡れたアスファルトに一歩、足を踏み出すと自分の気持ちを振り切るように駆け出した。
 水たまりを跳ねあげて、サンダル履きの足が冷たい。
 今、湊人に追いかけてこられたら、どんな顔をしていいか分からない。
 彼は来ないかもしれないけれど、それでも息を切らして記憶を頼りに駅までの道のりを走った。
 自制心を働かせなければならないと思う意識と、焦り。
 それなのに、妙に気分が良くて、足が濡れることも走って肺が痛くなることも全然気にならなかった。
「うそ! なにその少女漫画みたいな展開!」

 お団子頭にからし色のターバンをつけた瑠璃が、テーブルの向こう側で前のめりになって小さく叫んだ。
 好奇心でキラキラ輝く猫みたいな目。
 お昼時の騒がしい店内で一際大きく響く彼女の声に、隣のテーブルの年配の男性がギョッとしてこちらを睨んだ。
 私は苦笑いしながらストローでアイスティーをすする。
 汗をかいたグラスの中で、氷がカランと音をたてた。

 瑠璃とは大学で知り合ってから、もう十年以上の付き合いになる。
 結婚や出産のタイミングの違いで疎遠になってしまうことの多い友人関係のなかで、ライフスタイルが変わっても親交の続く貴重な友人のひとりだ。
 明とも面識があり、結婚式では友人代表のスピーチをお願いする予定でいた。
 彼と別れてから、一番心配してくれたのも瑠璃だった。
 二年前に結婚し、夫婦でカフェを経営し始めたばかりの彼女は、忙しい合間を縫って時間を見つけては定期的に私とランチに出かけてくれている。
 今日も瑠璃に連れ出され、下北沢のイタリアンレストランで昼食をとっていた。

 雑誌にも掲載されたという話題の店は、イタリア語なのか、すんなりとは読めないおしゃれな名前の看板が掲げられていた。
 客の大多数が女性で、店の前に入店待ちの列ができている。
 私たちも額に汗を浮かべながら四十分ほど並んで入店した。
 味も評判通りらしく、瑠璃が前菜の盛り合わせからメインのポークカツレツまであっという間にたいらげて、しきりに褒めちぎっている。
 私は本日のパスタランチだという夏野菜のペスカトーレを注文した。
 茄子やトマトがごろごろ入った魚介の旨みたっぷりのソースが細いパスタによく絡んでおいしい。
 私が六割がた食べられたのを見て、手放しで褒めてくれる瑠璃。
 明と別れてから激減してしまった食欲を、ずっと気にかけてくれていたのだ。
 そういえば今日はちゃんと味を感じて楽しむことまでできた。
 私にとって大きな変化だ。
 彼女は白いスクエアプレートに載せられたデザートのチーズケーキをフォークですくって口に運ぶ。
 うんうんと頷いてから、続けた。

「本当に似合ってる、その髪型」
「ありがとう。こんなに短くしたの初めてだよ」
「美容師としての腕は確かだね、その子。それでそれで? また会う予定はあるの?」

 瑠璃はなんだか楽しそうに訊いてくる。
 明と別れてから陰鬱(いんうつ)とした話題しかなかったからだろうか。
 学生時代に恋愛に関する密談をしていた時のようなテンションだ。
 はしゃぐ彼女を見ていると一瞬、ふたりしてその頃にタイムスリップしたような気がして、可笑(おか)しい。

「彼女役、引き受けるって言ったから、たぶん」
「彼女役って笑える。番犬?」

 ルリがけらけら笑う。ちょっとひどいけど、言い得て妙だ。

「でもそんなイケメンの彼女役をするなんて、現実であるんだねぇ」
「実際、現実味ないよ。夢だったのかなぁって思うときもあるし」

 でも鏡で自分のさっぱりしたヘアスタイルを見るたび、ちゃんと現実のことなのだと実感するのだ。
 どうでもいいと思っていたのが嘘のように、不思議とヘアアイロンで毛先を巻いてみたり髪の毛をいじる気力も湧いてきた。
「そんなにかっこいいなら、一度、ご尊顔(そんがん)を拝んでみたいわ」
「でも自信満々ですごいんだよ。ナルシストを地で行っちゃってるかんじ」
「まぁでも結衣が新しい恋に踏み出せそうでよかったよ」

 私の言葉に大げさなくらいゲラゲラ笑っていた瑠璃が満足げにそんなことを言うから、アイスティーを噴き出しそうになって思いきりむせた。

「そ、そんなんじゃないって」

 慌てる私を見て、瑠璃はまた愉快そうに声をあげて笑う。

「いいじゃん。年下くん。やっぱり失恋を癒すには新しい恋だね」
「もう。こんなおばさんが、おこがましいよ。それに恋愛自体、こりごりだし」
「そう? けどさぁ、好意がなかったら、そんなことしないんじゃない?その子も」
「やめてってば。二回しか会ったこともないんだよ。年の差だけじゃなくて、そもそもそんな要素ないって」

 恥ずかしくなって両頬を手で覆うと熱でもあるのかと思うほど熱くなっていた。
 顔が赤くなっているんだろうと思うと余計に恥ずかしい。
 瑠璃はコーヒーカップの中にミルクを注ぎながら、ちょっと考えて口を開いた。

「じゃぁ、実は前に会ったことがあるとか?」
「まさか。あんな自信家で強引な人、一度会ったら覚えてるはずだよ」

 私がストレートに言うと、瑠璃はまた大きな口を開けて笑う。
 彼女の耳元で大ぶりのピアスが揺れている。
 ターコイズカラーの丸い石。

「それもそうか。とにかく、結衣が少し元気になって良かったよ。ついこの間まで、まさに生ける(しかばね)ってかんじだったもんね」

 茶化してはいるけれど、心から私を気にかけてくれていたことが感じられる。
 その気持ちがとても嬉しく、有難かった。
 瑠璃が居住まいを正して咳払いする。

「それで、ちょっと提案なんだけど……もう少し落ち着いたら、うちの店で働かない? リハビリがてら、週に何度かのアルバイトでいいから」

 瑠璃の突然の申し出に私は驚いて目を見張った。

「私なんかが、いいの?」
「当たり前じゃない。結衣は真面目だし、信用してるもん」

 瑠璃がまっすぐに私を見つめて微笑んだ。

「ありがとう。嬉しい。考えてみる」
「うん。焦らないでいいからね。ちょっと気分転換に働いてみようかなって思えてからでも、全然」

 瑠璃がご主人と営むカフェはやっと経営も軌道にのってきて、繁盛していると聞いていた。
 それでも恐らくもう人手は足りているはずだし、本来であれば同情で人を雇うほど余裕はないはずだ。
  経営というものがそんなに甘くないということは、一企業でOLしかしたことのない私でも分かる。
 それでも瑠璃は全てを失くした私に、社会との接点を取り戻させようとしてくれているのだ。
 気負わせないように、かなり気を遣って言葉を選んでくれたことも伝わってきた。
 良い友人を持ったとしみじみ思う。
 私なんかのために、ここまで言ってくれる人が他にいるだろうか。
 すると彼女は人の悪い笑みを浮かべて言った。

「まぁでも、ちょっと悔しい気もする。結衣を回復傾向にしたのが私じゃなくて、その年下くんなんだもんなぁ」
「またそんなこと言って。……瑠璃の存在にも救われてるよ」

 面と向かって言うのは照れくさかったけれど、せめてもの感謝の気持ちを伝えると瑠璃もまた照れくさそうにはにかんだ。
 瑠璃と十五時過ぎに解散して、これからどう過ごそうか考えた。
 数日前までは、どこかアルコールを摂取できる店に行って飲んだくれていたけれど。
 気付かせてくれた湊人と、手を差し伸べてくれた瑠璃のことを思うと、今はもうそんなことをする気分にもなれなかった。
 そろそろまともな生活に戻らなくてはならない。
 私がどんなに独りで辛く暗い世界にいるつもりでいても、現実の時間は待ってはくれないし止まってもくれない。
 世の中からどんどん置いていかれて、アルコールに依存して社会復帰すらできなくなってしまうかもしれない。
 そもそも私の経験したことなんて、きっとこの世界にごまんと転がっているような不幸話なのだ。
  男は浮気する生き物だと言い切る人だっているくらい、よくある話。
 それでもみんな経験者たちはきっと乗り越えて生きている。
  どうにかして普通の日常を取り戻しているのだ。
 湊人の手を借りて生まれ変わったつもりで、少しずつでも前を向かなくてはいけない。

 私の人生のほぼ三分の一をともに過ごしてきた明。
 私の一部になってしまっていた彼に裏切られて捨てられたという事実は、たぶん一生忘れることはできないし、消えない傷として残るだろう。
 いつかこんなこともあったねと笑える日がくるなんて何かの歌詞みたいなことは、きっと起きない。
  それでも思い出したとき、こんな絶望的な気持ちでなく胸の古傷が少し疼くくらいの、苦い思い出に変わってくれていればいいなと思う。
 もちろんすぐに乗り越えられる問題ではないけれど。
  湊人にもらった気持ちの変化を大切にしたい。
  いや、これをきっかけに前を向くべきだ。

 まずは明と別れる前に自分の好きだった生活を取り戻すことから始めよう。
  会社を辞めて時間が有り余っているから、余計に悲しみにどっぷりと浸かっていたのだ。
 時間があるから、毎日、夕方から飲み歩き酒に溺れていた。
 しばらく忘れていた小さな幸せ。
  映画を観ることや読書、おいしいものを食べること。
 あれから趣味を楽しむ余裕もなかった。
 もう少し元気になったら、瑠璃のところで少しお世話になろう。
 でもそれまでは小さな幸せを、自分を取り戻そう。

 私は下北沢から小田急の急行小田原行きに乗り込むと自宅の最寄り駅を通り過ぎて新百合ヶ丘で下車した。
 明はもともと残業や同僚との飲み会で帰宅が遅くなることも多かったので、私は仕事のあと、ひとりでレイトショーの映画を観にくることが好きだった。
 ジャンルの好き嫌いも特にないので、ラブストーリーからアクション、ミステリーとその時々の話題作を見る。
 原作の映像化作品であれば、翌日、本屋で原作小説を買って帰った。
 帰宅して夕飯を作ったあと、明の帰りを待ちながらその本を読む。
 ささやかな趣味の時間。
 改札を出て、帰宅時間にさしかかり通行人の多い駅前を映画館の入っている商業施設のビルに向かって歩き始める。
 久しぶりに映画を観て、本屋に寄って帰ろう。
 ここ数ヶ月、テレビもスマホも大してチェックしていなかったから、流行や話題作はよく分からないけれど。
 映画館のロビーに入って、一番大きくポスターの貼り出されている作品にしよう。
 本も新書のなかに惹かれるタイトルのものがあれば買ってみようかな。
 これまでお酒にばかりお金をかけて自分をすり減らしていた分、今度は自分を取り戻すためのお金を使おうと思った。
 それから私はアメコミヒーローが地球征服を目論む宇宙人と闘う大味なハリウッド作品を観て映画館をあとにした。
 勧善懲悪のストーリーは分かりやすくスカッとさせてくれて好きだ。
 そのまま帰りがけ本屋に立ち寄って、店員のおすすめコーナーに置かれていた小説とファッション誌を買った。
 それだけでなんだか気分が良い。
 見える景色すら、いつもと違って見える気がした。
 趣味で自分らしい生活を取り戻すことも大切だけれど、これからは少しずつでも食事を摂るようにしなくてはならない。
 久しぶりに料理をしてみようか。どんなに気持ちだけ無理やりにでも前向きにしたところで体が資本なのだ。
 もともとそんなにスタイルは良くなかったから痩せた分まるまる元に戻そうとは思わないけれど、人並みに食べる生活には戻さなきゃ。

 私は最寄り駅に着くと駅前のスーパーで食材を買って帰ることにした。
 今日も暑いし、まだ食欲も戻りきっていない。
 なにかさっぱりしたものを作ろう。
 冷蔵庫は空っぽだ。
 食べることを習慣にしていた、お気に入りの銘柄のヨーグルトも買って帰ろうか。
 結局、久しぶりに買い物するとあれもこれもとカゴに入れてしまい、野菜や牛乳、卵なんかでいっぱいのレジ袋が二袋できあがった。
 二人暮らしに慣れていたから、そのときの癖でつい買いすぎたかなとため息がでる。
 そこでもまた思い出の明がひょっこり顔を出しそうになったので、スーパーの自動ドアに映る自分を見て雑念を振り払った。
 きゅっと下唇を噛む。
 もう今までの私じゃない、と何度も自分に言い聞かせた。
 両手に買い物袋を持って歩き始める。
 ここから自宅マンションまでは目と鼻の先だ。
 二十時をまわった夜の駅前は今夜も雑然としている。
 久しぶりの重い荷物に肘から下の腕がちょっと痛い。
 筋肉も落ちてしまったかと、細くなった手首を眺める。
 取り戻さなければならないことは、自分らしさとか食欲以外にも色々ありそうだなと思った。
 自宅であるレンガ色のマンションが見える距離まで来て、外壁に寄りかかりながら立っている湊人がいるのに気付いた。
 彼の淡色のデニム地のシャツに黒いパンツ姿のひょろっとしたシルエット。まるでファッション誌の街角スナップにそのまま使えそうな絵面だ。
 思わず立ち止まると、すぐに私に気付いた湊人が片手をあげた。

「よぉ」
「なんでいるの?」

 湊人は呆然とする私に小走りで駆け寄って、ひょいっと買い物袋を取り上げる。
 戸惑っている私に気安いかんじで笑いかけて言った。

「腹減った。なんか作ってよ」
「どうして突然……」
「結衣だって、この前突然帰ったろ。突然返し」

 おかしな造語にぽかんと口が開いてしまう。
 彼といるとこんな風になってばかりだ。

「なにそれ」
「で、作ってくれんの? メシ」
「なんで湊人の分まで作らないといけないのよ」
「この前のカット料金、もらってないんだけど?」

 そう言って、湊人は私の髪に触れる。
 急に距離が縮まって、すぐそこにある湊人の茶色く澄んだ瞳を見て固まってしまう。
 心臓がうるさく音をたてた。
 私はそれを誤魔化(ごまか)すように早口に言う。

「お金とるんだ」
「当たり前だろ」

 湊人は私を見下ろして、初めて出会った日のように意地悪な笑みを浮かべる。
 その表情ですら魅力的で嫌味なくらいだ。

「一応、プロの美容師なんで。まさか無料でやってもらえたと思った?」

 私はぐうの音もでなくなってため息をつくと、おとなしく玄関を開け彼を招き入れた。
 湊人が再びこの部屋に入ることになるとは思いもしなかった。
 今朝、久しぶりに掃除機をかけてきて良かったと、心の内でホッとする。
 湊人はまた「おじゃまします」と言って部屋にあがった。
 ヴァンズのデッキシューズを玄関のたたきにきちんと揃えている。
 こういうところは、親の教育だろうか。
 意外とちゃんとしてるんだな。

 湊人は買い物袋をダイニングテーブルに置くと、自分の家かのようにキッチンの流しで手を洗った。
 私はもうそれに言及することもなく、冷蔵庫に食材をしまいながら何を作ろうか考えを巡らしていた。
 元々は暑いし食欲も本調子ではないから素麺でいいかと思っていたけれど、湊人がそれで満足するだろうか。
 キッチンの棚に買い置きしてあったツナ缶があるから、そうめんチャンプルーにでもしようかな。
 それなら少しはお腹にたまるかもしれない。
 湊人くらいの年のころに明と行った沖縄の民宿で初めて食べた、そうめんチャンプルー。
 ごま油とツナの食欲をそそる香りが気に入って自宅でもレシピを調べて作るようになったものだ。
 私は好きだったけれど、今思えば明はどうだったのだろう。
「好き嫌いはある?」

 問いかけると、湊人は真顔で即答した。

「ピーマンとセロリ」
「子供みたい」

 ベタな好き嫌いに思わず吹き出してしまった私を見て湊人は面白くなさそうに、ふんと鼻を鳴らす。
 隣に並んで、こちらを見下ろしてきた。

「うるせぇよ。腹減った。俺も手伝うから、さっさと作ろうぜ」

 まさか彼がそんなことを言い出すとは思わなかったので、ちょっと驚いた。
 そもそも湊人は料理なんてできるんだろうか。
 彼の住む部屋は綺麗に整理整頓されていたけれど、自炊まですようなタイプには見えない。

「でも、それじゃぁヘアカットの料金払うことにならないじゃない」
「いいから。何作んの?」

 相変わらず、こうと言ったら聞かない。強引に彼のペースに巻き込まれる。

「そうめんチャンプルー」
「なんだそれ?」

 初めて聞いたという素振りで湊人が言うので、私はそれが沖縄の郷土料理で、素麺やツナ、卵、人参、たまねぎなどの具材をごちゃ混ぜにして炒めたものだと説明する。
 本来であればニラとスパムのような肉を入れるのが一般的なようだけれど、あいにく用意がないので割愛(かつあい)することにした。

「へー、うまそうじゃん。よし、作ろうぜ。何すればいい?」

 湊人が子供みたいに無邪気に笑った。その顔になんだかまた可笑しくなって私まで笑ってしまう。
 そういえば明とは一緒にキッチンに立つなんてことはなかったな。彼は目玉焼きを焼くことすら、できない人だった。
 私が料理するとき、明は決まってソファーに陣取ってテレビを観ていた。
 はた、とまた明のことを思い出していることに気付いて、私は湊人を見上げた。
 明より幾分、上背のある彼は首をかしげて私を覗き込んでくる。
 訝しそうにする湊人に、私は人参と玉ねぎの下ごしらえをお願いした。
 どうなるかなと見ていると、彼は包丁で手際よく玉ねぎの皮をむき、等間隔にスライスしていく。
 なかなかの正確さだ。
 その後もあっという間に人参の細切りまでこなした。手先がとても器用で調理すること自体、慣れているように感じる手さばきだった。

「すごい、上手」

 私が素麺を入れたばかりの鍋を菜ばしで混ぜながら素直に褒めると、湊人は当然という顔をする。

「親が共働きでガキの頃から料理はしてたからな。一人暮らし始めてから外食とか買い食いも増えたけど、わりと作るんだ」

 私は素直に感心した。
 世の中、自分のこともまともにできない男性もいると聞く。
 実際、明だって家事のほとんどはできなかったし、私に聞かないと目的の洋服をクローゼットから探し当てることもできなかった。
 既婚の友人たちとの飲み会では旦那さんの愚痴大会になったとき、どこも似たようなことを言っていた。
 もしかしたら湊人は彼なりに苦労して家事のスキルや几帳面さを身につけたのかもしれない。
 仕事に対するプライドにしてもそうだけれど、彼にはギャップに驚かされてばかりだ。
 若いのに立派な青年なのだなと、おばあちゃんが若者を見るような気持ちになってしみじみしてしまう。
 湊人はそんな私を「なんだよ、気持ち悪ぃな」と言って呆れたように笑った。
 そうめんチャンプルーができあがると香ばしい匂いにつられて、食欲のなかったはずの私のお腹が大きく鳴った。
 湊人に馬鹿にされるだろうかと赤面したけれど、聞こえていなかったのか優しさなのか彼は何も言わなかった。

「うまそう」

 嬉々として皿に盛り付けている湊人を見ながら、私は明の浮気相手が作ったオムライスを思い出していた。
 やっぱり私の料理なんて所帯じみて可愛げがないな。
 思わず苦笑しながら「女子っぽい料理じゃなくて、なんか恥ずかしいな」とつぶやいた。

「俺はこういうのけっこう好きだけどな」

 湊人はさらっとそんなことを言って料理の載った皿をダイニングテーブルまで運ぶと、いそいそと席に座る。

「早く食おうぜ」
「はいはい」

 子供みたいに急かしてくる湊人に母性本能がくすぐられる。
 自然と口元に笑みが浮かんだ。
 湊人と一緒に料理をして食事をしようとしているこの時間が、純粋に楽しい。