あの日のことは、今でも思い出すと血の気が引いたようになり、肌が粟立(あわだ)って胃からむかむかとしたものが込み上げてくる。
 結婚式の準備も終盤にさしかかった、四月中旬の土曜の午後。
 夏が梅雨を押しのけて先まわりしてやってきたような、やたらと暑い日の昼下がりだった。
 明はここ数ヶ月、年度末に向けて仕事が忙しくなるからと会社に泊まりこんだり、休日出勤や終電近くまで残業することが多かった。
 そんな彼の負担にならないように、結婚式の打ち合わせや明の両親への連絡は、私一人でするようにしていた。
 入籍したら私の姑になる彼のお母さんは、明が忙しいと知ると私を労い、息子の好きな食べ物などをめいっぱい詰めた段ボールを宅配便で送ってくれた。
 私も夕飯はいらないと言われない限りは、毎日食事を作って彼の帰りを待っていた。

 あの日、金曜に会社に泊まった明は、正午をまわってから不思議なほど上機嫌で帰宅した。
 明はどんな気分で私に「ただいま」と言っていたのだろう。
 罪悪感や葛藤など、まるでない、幸せに緩みきった笑顔だったように思う。
 すぐにシャワーを浴びると言って浴室に入っていた彼のスマートフォンが、ダイニングテーブルの上で震えた。
 明はいつもスマホでゲームをしているからと、大体トイレや洗面所まで持っていくことが多い。
 その日は本当にたまたまダイニングテーブルに置き忘れたようだった。
 普段ならそんことはないのに、私の視線は彼のスマホのディスプレイに吸い寄せられた。
 おそらく、彼の急な変化を無意識に気にしていたのだと、今になって思う。

 ディスプレイにはメッセージアプリの四角い通知の枠に、知らない女性の名前と「また泊まりにきてね」の文字が並んでいた。
 一気に鼓動が跳ね上がった。
 指先から体が急速に冷えていくのに、頭だけが熱い。信じられなかった。
 明が浮気? まさか。
 めまいがする。なにこれ。なにかの間違いじゃないの。
 頭がパンクしそうだ。
 彼のことを信じていたし、信じきっていた。
 明がそんなことをするはずがない。
 嘘をつけるような人じゃないのに。
 なのに。

 浴室からは明の鼻歌とシャワーの音が聞こえている。
 彼の好きな洋楽のアップテンポなラブソング。
 私はフリーズしてしまいそうになる頭をなんとか動かして考える。
 明がしていることを知りたいわけではないし、真実を知るのは怖かった。
 それでも一度見てしまったからには、何もなかったように彼の前で笑うことなんて、私にはできない。
 しばらく悩んだあと、明が仕事で使っているバッグを(あらた)めることにした。
 私が昨年の誕生日にプレゼントした黒いナイロンのビジネスバッグ。
 なにも出てこなければ迷惑メールの類だったのかもしれないと、自分を落ち着かせようと心に決めた。