部屋に戻ると、湊人はドライヤーを持って椅子の前で待っていた。

「おつかれさまでした」
「美容師っぽいね」
「だろ?」と湊人が肩をすくめてニヤリと口角を上げるから、私も思わず笑ってしまう。

「座って」

 彼に勧められるがままに、おずおずと座面に腰を落としてみる。
 すぐにカチッとスイッチを入れる音がしてドライヤーの熱風が頭にあたり始め、湊人の大きな手のひらが私の髪を乾かしていく。
 ごつごつとした手の感触。髪をすく長い指。
 他人に髪を触られることって、こんなに心地よかったっけ。
 湊人は櫛で毛先にカールをつけるようにブローしてドライヤーを止めると、伸びて耳にかけるようになっていた前髪にハサミを入れた。
 眉毛が少しだけ隠れる位置で切り揃えて横に流し、タオルで顔についた毛を払うと、私の気持ちを推し量るような視線を鏡越しに投げてくる。
 それから満足そうに頷いてケープを外してくれた。

 鏡に映る私は、まるで別人のようだ。
 肩の上で丸くふわっとワンカールしたボブは、短いのに女性らしくて可愛らしい。
 長く傷んだ髪をしてゾンビみたいに夜の街を徘徊(はいかい)していた、冴えない三十路女とは違って見える。
 ――不思議。生まれ変わったみたいだ。
 さっきまで顔の横で温もりを感じていた湊人の男性らしい手が、掛け値なしに魔法の手のように感じる。
 鏡の中で湊人が自信に満ち溢れた笑顔でうなずいた。

「うん。綺麗になったな」
「すごい……。ありがとう」

 自然と私の口元からも笑みがこぼれていた。清々しいような嬉しいような、気恥ずかしいような不思議な気持ちで、心の奥の方がムズムズしてくる。
 湊人が私をまじまじと見つめた。

「笑った顔もいいじゃん。もっと笑ったら? せっかく綺麗なのに、もったいねぇよ」

 綺麗という言葉。
 さっきも言われたはずなのに、今はまったく違う意味合いをもつように感じて、顔がカーッと熱くなる。

「変なこと言わないで。からかってるんでしょ」
「そんなんじゃねぇって。結衣は綺麗だよ」

 湊人が大真面目にそんなことを言うから思わず彼から目を逸らした。
 フローリングに落ちた毛束をなんとはなしに見つめる。
 口下手だった明は絶対にこんなことは言わなかった。
 誰かのお世辞以外で、男性からこんなにすんなり綺麗だなんて言葉をかけられたことはない。

「さっきの子達だって言ってたでしょ? こんなおばさんに、やめてよ」

 恥ずかしくてたまらなくなって、苦笑する。
 誰に対してそんなことを思うのか、勝ち負けなんかじゃないのに真に受けたら負けだと思った。
 顔が赤くなってることを悟られたくなくて、(うつむ)いた顔を戻せない。

「だから」

 湊人がため息をつく。

「だから、さっきも言ったろ? おばさんだなんて、思ってねぇから」

 その言葉に咄嗟に鏡を見ると、真面目な顔をした湊人と視線がぶつかった。
 茶色く澄んだ色をした瞳が私を見つめている。
 心臓が大きな音をたてた。
 真に受けてはいけない。
 舞い上がってはいけない。
 勘違いしてはいけない。
 そう思うのに、彼の言葉を自分に都合良く呑み込んでしまいたいと思う自分もいて。
 このままここにいちゃ、だめ。痛いおばさんになる前に、冷静にならなきゃ。
 胸が高鳴ってしまっていることすら、恥ずかしくてたまらない。

「今日は帰るね。本当にありがとう」

 (かす)れた声を絞り出して早口に言うと、急いで濡れたままの洋服とハンドバッグを掴んで玄関に向かう。

「急にどうしたんだよ?」

 背中に湊人の戸惑ったような声を受け止めながら、今夜はもう彼の瞳を見つめ返すことはできないと思った。
 そのまま振り返らずに、サンダルをつっかけて外に出る。

「ごめんね。また彼女役、必要になったら呼んで。ちゃんと協力するから。着替えも今度、洗濯して返すね」
「なぁ、待てって」

 湊人の声は玄関ドアの閉まる重たい音にかき消された。
 もうすっかり雨は上がっている。
 ほんの一時間ほど前、湊人に手を引かれながら二人で夜道を駆け抜けた時よりも、ずいぶん空気が冷たい。
 ――湊人がセットしてくれた髪が雨に濡れなくて良かった。
 私は濡れたアスファルトに一歩、足を踏み出すと自分の気持ちを振り切るように駆け出した。
 水たまりを跳ねあげて、サンダル履きの足が冷たい。
 今、湊人に追いかけてこられたら、どんな顔をしていいか分からない。
 彼は来ないかもしれないけれど、それでも息を切らして記憶を頼りに駅までの道のりを走った。
 自制心を働かせなければならないと思う意識と、焦り。
 それなのに、妙に気分が良くて、足が濡れることも走って肺が痛くなることも全然気にならなかった。