彼はこちらの気持ちなんていざ知らず、黒いプラスチックの枠の姿見を運んでくる。
そして私の背後にまわった。
鏡ごしに湊人と目が合う。
すぐに布の擦れるような音がして、首にタオルが巻かれケープをかけられた。美容院で髪をカットする時の格好だ。
「最後に美容院行ったの、いつ?」
湊人が私の髪の毛先を指でつまみながら問いかけてきた。
最近、美容院に行ったのはいつだったろう。
以前は結婚式のために髪を伸ばしていた。
ヘアアイロンやコテで巻くのが好きだったので、痛む毛先だけを二、三ヶ月ごとにカットして整えてもらうために美容院に通っていた。
そうだ。明の浮気が発覚して、二日後に入っていた美容院の予約をキャンセルしたんだ。
あの時は、とてもじゃないけれど美容院になんて行く気になれなかった。
それからずっと髪の手入れを放ったらかしにしてしまっていた。
「もう半年近いかもしれない」
「だろうな。伸ばしてんの?」
もう伸ばす理由なんてないから、私は首を横に降った。
またセンチメンタルな気持ちが胸の奥の方から波のように打ち寄せてきそうになる。
それを打ち消すようにため息をつくと、湊人がぽんと私の両肩に手を置いた。
「よし。じゃぁバッサリいこうぜ」
「え?切るの?」
彼の力強い物言いと突然の提案に、私は驚いて目を見開いた。
彼は淡々とスチールラックの棚から取り出したコームで髪をとかし始めている。
「切る。なんか嫌なこと、あったんじゃねぇの?」
今までの意地悪な湊人とは対照的な、穏やかな声が頭上から降ってきて、私は尚更分からなくなった。
「どうして……」
「嫌なことでもなきゃ、あんな風になってないだろ」
分かりやすい荒れ方だよなと目を細めて笑う。
私はまた恥ずかしくなった。いい歳して、あんな風になっていたことを呆れられているのかもしれない。
自然と膝の上に置いた手をギュッと握りしめた。
「別に何があったとか、話さなくていいよ」
「聞かないの?」
「話したきゃ話せばいいんじゃね?」
湊人が笑うから、少し落ち着いてきて指の力が抜けた。
「ただ、俺は美容師だから」
鏡の中の彼は真剣な眼差しを私に向けている。
「髪は女の命なんだろ? しばらく手入れもしてなさそうだし、カットすれば気分も変わるんじゃねぇの?」
そうか。
湊人は美容師だから。
人の髪を綺麗にするという自分の力で、誰かが変われるって信じているんだ。
若くて、チャラチャラした男の子だと思っていたけれど、きちんと仕事にプライドを持っている、立派な大人なんだ。
無意識に、彼に対して偏見をもっていた自分に気付いた。
なんて浅はかなんだろう。
湊人は道端に落ちていた石ころのような私を、なにも聞かずに自分の美容師としての腕で立ち直らせようとしてくれている。
私は胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「そうだね、じゃぁ湊人にお任せしようかな」
思い切って言葉にすると、自然と笑みがこぼれた。
目尻にじんわり涙が浮かんできて、目をこする。
「お、初めて名前呼んだな」
湊人が私の頭をやんわりポンポンと二度叩いた。
声色と同じ優しい笑顔。
――ああ、湊人ってこんな風にも笑うんだと思った。
新宿の路上でお客さんである女の子たちに向けた、どこか嘘くさい爽やかな笑顔とは違う。
意地悪な彼を知っているからそう感じたのかもしれないけれど、今は心から私に笑いかけてくれているような気がした。
湊人は私の髪をヘアクリップでブロッキングして、ハサミを入れていく。
そして私の背後にまわった。
鏡ごしに湊人と目が合う。
すぐに布の擦れるような音がして、首にタオルが巻かれケープをかけられた。美容院で髪をカットする時の格好だ。
「最後に美容院行ったの、いつ?」
湊人が私の髪の毛先を指でつまみながら問いかけてきた。
最近、美容院に行ったのはいつだったろう。
以前は結婚式のために髪を伸ばしていた。
ヘアアイロンやコテで巻くのが好きだったので、痛む毛先だけを二、三ヶ月ごとにカットして整えてもらうために美容院に通っていた。
そうだ。明の浮気が発覚して、二日後に入っていた美容院の予約をキャンセルしたんだ。
あの時は、とてもじゃないけれど美容院になんて行く気になれなかった。
それからずっと髪の手入れを放ったらかしにしてしまっていた。
「もう半年近いかもしれない」
「だろうな。伸ばしてんの?」
もう伸ばす理由なんてないから、私は首を横に降った。
またセンチメンタルな気持ちが胸の奥の方から波のように打ち寄せてきそうになる。
それを打ち消すようにため息をつくと、湊人がぽんと私の両肩に手を置いた。
「よし。じゃぁバッサリいこうぜ」
「え?切るの?」
彼の力強い物言いと突然の提案に、私は驚いて目を見開いた。
彼は淡々とスチールラックの棚から取り出したコームで髪をとかし始めている。
「切る。なんか嫌なこと、あったんじゃねぇの?」
今までの意地悪な湊人とは対照的な、穏やかな声が頭上から降ってきて、私は尚更分からなくなった。
「どうして……」
「嫌なことでもなきゃ、あんな風になってないだろ」
分かりやすい荒れ方だよなと目を細めて笑う。
私はまた恥ずかしくなった。いい歳して、あんな風になっていたことを呆れられているのかもしれない。
自然と膝の上に置いた手をギュッと握りしめた。
「別に何があったとか、話さなくていいよ」
「聞かないの?」
「話したきゃ話せばいいんじゃね?」
湊人が笑うから、少し落ち着いてきて指の力が抜けた。
「ただ、俺は美容師だから」
鏡の中の彼は真剣な眼差しを私に向けている。
「髪は女の命なんだろ? しばらく手入れもしてなさそうだし、カットすれば気分も変わるんじゃねぇの?」
そうか。
湊人は美容師だから。
人の髪を綺麗にするという自分の力で、誰かが変われるって信じているんだ。
若くて、チャラチャラした男の子だと思っていたけれど、きちんと仕事にプライドを持っている、立派な大人なんだ。
無意識に、彼に対して偏見をもっていた自分に気付いた。
なんて浅はかなんだろう。
湊人は道端に落ちていた石ころのような私を、なにも聞かずに自分の美容師としての腕で立ち直らせようとしてくれている。
私は胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「そうだね、じゃぁ湊人にお任せしようかな」
思い切って言葉にすると、自然と笑みがこぼれた。
目尻にじんわり涙が浮かんできて、目をこする。
「お、初めて名前呼んだな」
湊人が私の頭をやんわりポンポンと二度叩いた。
声色と同じ優しい笑顔。
――ああ、湊人ってこんな風にも笑うんだと思った。
新宿の路上でお客さんである女の子たちに向けた、どこか嘘くさい爽やかな笑顔とは違う。
意地悪な彼を知っているからそう感じたのかもしれないけれど、今は心から私に笑いかけてくれているような気がした。
湊人は私の髪をヘアクリップでブロッキングして、ハサミを入れていく。