タクシーが私の住むマンションの前で停車した。
新宿からけっこうな距離があったため、料金は一万円を余裕で超えている。
それなのに彼は平然とクレジットカードで料金を支払うと、私を引っ張ってタクシーから降りた。
「二○三だっけ?」
「ここまでで大丈夫です。お金……」
彼は財布を取り出そうとする私の手を遮って、マンションのエントランスにどんどん入っていく。
エレベーターのボタンを押して、扉が開くと「ん」と顎でしゃくり、ここでもまた私を先に乗せる。
私は黙って、二階のボタンを押した。
どこまでついてくるつもりなのだろう。
家にあがりこんでくるとしたら、やっぱり目的はそういうことなのだろうか。
タクシー代すら私に払わせないのだから、お金目当てとか、詐欺とかそういった類のものでもないような気がする。
――男なんて、誰しもみんな欲求に正直に生きているものなのかな。
こんなおばさん相手でもいいから、とにかく性欲を発散させられればいいのか。
私はぼんやりと黙ったままの彼を見上げながら、それならそれでいいやと思った。
エレベーターが一階から二階に上がるまでのほんの一瞬が、なんだかとてつもなく長く感じた。
エレベーターが二階につくと、彼は先に立って降りていく。
ひとつずつドアプレートの部屋番号を確かめて、私の部屋の前につくと、また顎で「ん」とドアを開けるように促してきた。
私はハンドバッグを手探りして鍵を取り出す。
キーホルダーもキーケースもなにもない、銀色のそれは廊下の灯りをにぶく反射している。
明とペアで持っていたブランドのキーホルダーは、この前、思い切って一般ゴミに出したばかりだ。
私は一瞬どうしようかと思ったけれど、大人しく鍵を鍵穴に差し込んだ。
シリンダー錠がガチャンと音をたてる。
ドアを開くと、彼もそのまま一緒に室内に入ってきた。
「おじゃまします」
強引で有無を言わせない態度だったのに、あまりにも自然にそんなことを言うから、驚いて彼の顔を見る。
彼の彫刻のように整った横顔が、ちょっと笑っていた。
私がどうしたらいいのか分からず立ち尽くしていると、彼は壁を手探りして勝手にスイッチを押してライトをつける。
まぶしくなって目を細める私をソファーに座らせて、彼はキッチンに向かった。
明と選んだグリーンの布張りのソファー。
一瞬でまた明との思い出がフラッシュバックしそうになって、唇を噛んでやり過ごした。
彼は他人の家だというのに、勝手に食器棚からグラスを取り出して、水道水を注いでいる。
「飲めよ」
差し出されたグラスを受け取ると、蛍光灯の灯りを反射して銀色に光る水面がちゃぽんと揺れた。
「……ありがとう」
セックスがしたいだけなら、こんなに親切にしてくれなくていいのに。
優しくなんかしなくてもいい。
さっさと済ませてしまえばいいのに。
彼は空っぽのCDラックを首を傾げて見つめている。
明は抜き取って行ったお気に入りのCDを、今どこで誰と聴いているのだろう。
これもまた明との思い出の抜けがらだった。
私が惨めに捨てられたという痕跡と、明の抜けがら。
……見ないで。こんな自分を、知られたくない。
私は焦燥感に突き動かされて立ち上がると、彼の胸に抱きついた。
「そういうつもりで来たんだよね? いいよ、抱いても」
強気なふりをして言ったつもりなのに、声が少し上ずっている。
彼は何も言わない。
冷蔵庫が唸るような音を発している以外は、ただ沈黙が流れた。
彼の腕は下ろされたまま、私を抱き返そうとしない。
しばらくして、頭上から冷淡な声が降ってきた。
「あんた、いつもこんなことしてんの?」
「え?」
驚いて見上げると、鋭い瞳をした彼に体を引き剥がされる。
表情や声色に反して、そんなに強い力ではなかったのが意外だ。
口ごもっていると、彼が言葉を続ける。
「そうやって自分を安売りして、虚しくない?」
心がグッと冷えていく。
私が自分をどうしようと、彼にはなんの関係もない。
そんなこと言われる筋合いもない。
こんな人生経験もまだ少なさそうな、私よりずっと年下であろう彼に何が分かるというのか。
それなのに無性に恥ずかしくなって、私は彼から目を逸らした。
視線を合わせられない。
「減るもんじゃないし、あなたに関係ないでしょ」
苦しまぎれに呟くと、彼はじっと私を見据えて言った。
「本当にそうか? 自尊心は減ってくだろ」
減るものじゃない。
失うものなんてない。
そう思わないと、愛情のない他人に抱かれることができなかった。
でも、彼の言うように間違いなくすり減っていたものがあった。
見ないふりをして、精神を保っていただけだ。
私は彼を睨みつけた。
「あなたに、なにが分かるの?」
まったく怯む様子もない彼が、強く言い放つ。
「今のあんた、すげぇダサいよ」
彼の言葉が鋭利な刃のように私の心をえぐる。
カーッと頰が熱くなって、頭に血がのぼった。
たまらなく恥ずかしくて、消えてしまいたい。
そんなこと本当は痛いくらい分かっている。
自分が一番、分かっているのに、どうすることもできないでいるのだ。
何か言い返したいのに、息のできない魚みたいに唇を開いたり閉じたりすることしかできない。
見ず知らずの、私よりかなり若そうなこの子に、そんなことを言われても何も言い返せない。
自分が情けなくて、苦しかった。
だって、きっと、彼の言う通りだから。
今の私はどんな顔をしているだろう。
とてつもなくみっともなくて、惨めな顔に違いない。
見ないで。誰にも見られたくない。
涙が溢れてくるのを感じて、顔を伏せた。
彼はそれ以上なにも言わず、そっと私の左肩に手を置いた。
大きなてのひらの温もり。
……温かい。
そこから堰を切ったように涙が止まらなくなって、喉の奥から抑えられない嗚咽が漏れた。
膝が崩れてその場にしゃがみこむ。
私、何してるんだろう。
明が私を不必要と決めた時から、嘘でもいい、嘘でもいいから誰かに必要とされたかった。
独りじゃないと思いたかった。
泣いて泣いて、泣いて。
明が部屋を出て行ったあの日のように、泣き疲れて眠るまで子供みたいに声をあげて泣いた。
もう一生分の涙は流したような気でいたのに、次から次へと溢れて止まらなかった。
目覚めると身体中が軋むように痛かった。
まぶたが腫れ上がっているのか、重たくて目が開けづらい。
部屋にはカーテンの隙間から陽の光が差しこんでいる。
昨夜のアルコールと号泣のせいで、最後の方のことはあまり思い出せない。
カーペットの上につっぷして泣いたまま寝てしまった気がするけれど、私はちゃんとベッドの上にいるようだった。
飲み過ぎたせいか泣き声をあげ続けたせいか喉がヒリヒリと痛い。
水が飲みたくて、今にもギシギシと音がしそうな体を無理やり起こした。
ベッドが揺れる。
「んんー」
隣で何かがもぞもぞと動く気配と聞き慣れない声がした。
――え?
私はギョッとして、飛び退る。
ベッドの上で昨日の男の子が、横になったまま伸びをしてこちらを見上げていた。
とっさにお互いの服を目視する。
たしかにあの後、彼が帰ったかどうか覚えていない。
でもあんなことを言われたあとだし、何もなかったはずだ。
顔色を変える私に、彼は片方の口角をちょっと上げて、意地悪そうに笑った。
不敵な笑みという形容詞がぴったりだ。
「おはよ。心配しなくても、何もしてねぇから」
「……どうして、いるの?」
「さぁ?」
彼は起き上がるとまた伸びをして、立ち上がった。
「まぁ、昨日よりはマシな顔になったし、とりあえずは大丈夫そうだな」
どういうこと?
もしかして私が起きるまで待っていた、とか?
昨夜から頭の中がクエスチョンマークでいっぱいだった。
混乱している私をよそに、彼はまた勝手に私のハンドバッグに手を突っ込んでスマホを取り出す。
「ん、ロック解除して」
そう言って、私に差し出した。
今度はなんなの。
もう訳が分からなくて、なんでそんなことと、言おうとすると、途中で遮られた。
「いいから」
有無を言わせないというように、私を見つめる瞳。
どうしてこんなに強引なのだろう。私は居心地が悪くなって、癪だったけれど渋々ロックを解除した。
彼はまたそれを私の手からひょいっと奪い取って、なにやら操作している。
一、二分で用事が済んだのか、スマホを私に向かって軽く放り投げた。
咄嗟のことに取り落としそうになりながら、なんとかキャッチする。
彼はその様子を見てニヤッと笑った。
「またあとで詳しい場所は連絡するから。二十時に来いよ」
「どういうこと?」
「そういうこと。じゃ、またあとでな」
そう言うと、私にひらひらと手を振って、さっさっと玄関の方に行ってしまう。
昨夜から何から何まで説明不足だ。
ろくに説明もなく、どんどん私を彼のペースに巻き込んでいく。
私はただ呆然と彼の後ろ姿を見送った。
靴を履く音と扉の開閉する音で、彼が出て行ったことが分かる。
スマホのディスプレイを確認すると、メッセージアプリが立ち上がっていた。
勝手に彼のIDを友達登録したようで、私の連絡先が分かるようにということなのか、トーク画面でスタンプが送られている。
名前欄には湊人と表示されている。
みなと、と読むのだろうか?
湊人。
彼は湊人というのか。
その文字を私は指でなぞった。
そっと、小さく湊人と呟いてみる。
その声は窓の外から聞こえてくる野鳥のさえずりや、自動車の通り過ぎる音に混じって消える。
私はのろのろ立ち上がると冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出して口をつけた。
冷たい水が喉を通って胃の方へ流れていくのが分かる。
頭も身体も痛いけれど、気分は悪くなかった。
私はベッドに戻って腰掛けると、ぼんやりと湊人のことを考えた。
湊人という名前と、あの色素の薄い茶色の瞳。
その他のことは年齢も職業も、なにも知らない。
彼の目的も分からない。
彼は私を抱かずに、ただ、朝までただそばにいてくれた。
それだけは確かな事実で。
明と別れて自暴自棄になってから、体目当てでない男性に出会ったのは初めてだった。
どさりとベッドに背中から倒れこんで、目を閉じた。
朝陽の透けている白っぽいまぶたの裏に、湊人の顔が浮かぶ。
そうしていると、この部屋にいても明の亡霊が立ち上ることはなくて、なんだか不思議だった。
湊人からメッセージアプリに送られてきたのは、JR新宿駅東南口からすぐのビルの住所だった。
昼過ぎに住所が届いてから、私はスマホのディスプレイに開いた地図アプリとにらめっこしていた。
行くべきなのだろうか。
見ず知らずの、ふてぶてしい彼の言うことを聞く必要があるだろうか。
行ったら何があるのか気にはなるけれど、言うとおりにするのも癪だった。
このまま湊人の連絡先を消去してしまってもいいはずだ。
けれど、彼は不幸のどん底をさまよっていた私にとって、異質な存在だった。
漠然と湊人がこの生活に変化をもたらしてくれそうな気がする。
昨夜のことをなかったことにして、また底なし沼に戻るのは嫌だ。
私は悩むことも煩わしく感じながら、夕方になってから家を出た。
五分ほどで最寄り駅に到着する。
駅から少し歩いたところに大学のキャンパスがあるため、駅前は学生と思しき若者たちで混雑していた。
幼い頃、母はよく私のことを「好奇心旺盛で危なっかしい」と評した。
怖がりのくせに高さのある遊具に上って、案の定、恐怖で降りられなくなって大泣きしたり、下校中に行ったことのない道に行ってみたくなって迷子になったり、度々、母の肝を冷やしていたらしい。
さすがに向こう見ずなことはしなくなったけれど、思春期を迎えても、大人になっても好奇心旺盛さは変わらなかった。
やったことのないことには挑戦してみたくなるし、行ったことのない場所には行ってみたくなる。
私は小田急線の改札を抜け、ホームへの階段を上った。
一段ずつ上るたびに、行こうか行くまいか思考が二転三転する。
でも私の心の中では、好奇心が「行くべきだ」と囁いていた。
そうしているうちに上り線のホームに着いてしまい、ちょうどタイミングよく急行電車が停まるから、私は思い切って乗り込んでしまった。
帰宅ラッシュ前の小田急線はほとんどの座席が埋まっている。
私はドアの横に立ち、暮れていく車窓を眺めた。
濃い青から淡いオレンジ色へとグラデーションを描く空。
胸がギュッと苦しくなる。
明が好きだった空だ。
いつだったかこの空になる時間帯のことを、ブルーアワーというのだと教えてくれたことを思い出した。
何を見ても何をしていても、未だに明を想ってしまう。
意識が明といた過去に引き戻される。
なんとかこの感情の波をやり過ごそうとショルダーバッグの紐をギュッと握って耐える。するとパンツのポケットでスマホが震えた。
ハッとして、意識がこちら側に戻ってくる。
スマホを取り出してディスプレイを確認すると、湊人からメッセージが届いていた。
『絶対こいよ』
どこまでも強引なメッセージに昨夜の彼の不遜な態度が思い出されて、自然とため息がもれる。
湊人は初めて出会ったタイプの人間だと思う。
年上や目上の人間に対する礼儀を重んじるタイプだった明とは正反対だ。
新宿に着いてもそのまま下り電車に乗って引き返すか、どこかバーにでも入ってお酒を飲むこともできるけれど、私は湊人の指定した場所に行ってみようと決めた。
そこに何があるのか、彼にどんな目的があるのか知りたかった。
時間まで駅ナカのカフェで時間をつぶして、二十時より前に指定された住所に向かった。
アルコールを摂取していない夜なんて二ヶ月ぶりだ。
新宿はたくさんの人が行き交っている。
頭上にはほとんど星も見えず、暗いのに明るい都会の空。
東南口からパチンコ屋やゲームセンター、いくつかの飲食店の入るビルを通り過ぎて立ち止まった。
なにかの企業の事務所や美容院の入るテナントビル。
そのビルの前に湊人がいた。
隣には彼と同い年くらいの女の子が二人立っている。
カジュアルな服装の黒髪の子と、色白でひらひらしたワンピースの細身の女の子。
二人とも良い香りのしそうな美人で、何事かしきりに湊人に話しかけている。
それに対して湊人もにこやかに応じていて、私はどうしていいか分からなくなった。
私のことを痛い中年女がいるからと笑いものにするつもりで呼び出したのかもしれないなどという、被害妄想じみた考えが頭の中に湧き出してきて、次の一歩が踏み出せなかった。
途端に彼の言うとおりにここまで来てしまった自分がとんでもなく恥ずかしく感じる。
いっそこのまま回れ右して帰ってしまおうか。
逡巡していると、湊人と目があった。
――見つかっちゃった。
湊人がこっちに向かって手を振る。
「おーい! こっちこっち」
女の子たちが怪訝そうな顔をして私を見ている。
私も彼女たちに負けないくらい怪訝な顔をしているに違いない。
私は一気に気が重くなって、返事をせずに逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。
それでもここにきて今更そんなことをするわけにもいかない気がして、のろのろと三人に近付いていく。
一歩一歩が鉛のように重い。
彼らの前に立つと、女の子たちは二人して私を頭のてっぺんから足の先まで視線を走らせると顔を見合わせた。
湊人は今朝までの話し方とはまるで別人のように朗らかな声で言う。
「おつかれさま。迎えにきてもらっちゃって、ごめんね」
優しげかつ、爽やかに笑う湊人に、私は面食らった。
――誰、これ。
本当に同じ人物なのだろうか。
色白の女の子が苦笑いしながら湊人を見上げて首を傾げた。
いかにも女子というかんじの可愛らしい声で訊く。
「湊人くんのお姉さん?」
私が違いますと言おうとした瞬間、湊人が「彼女ですよ」と満面の笑みで即答した。
女の子ふたりが強張った笑顔で目配せし合っている。
なにがなにやら分からない。
昨日から分からないことだらけだったのに、また分からないことが増えた。
私がなんと言っていいのか固まっていると、湊人が私の肩を掴んで、顔を覗き込んでくる。
私を見つめる茶色くて綺麗な目。
「どうした? 具合でも悪い?」
頭の中に色々な思考が飛び交う。
女の子たちが不信感たっぷりの視線を向けてくる。
なにか理由があるのかもしれないし、ここは話を合わせるべきか……。
湊人の嘘みたいな笑みを見ながら、私はおそるおそる言った。
これが正解かは、分からないけれど。
「ううん、大丈夫」
私の心配をよそに、湊人は優しげに目を細めた。
「よかった」
そして二人に軽く頭を下げた。
「これから一緒に帰る約束してるので、今日はこれで失礼します。また店でお待ちしてますね」
彼女たちの目は、私を穴が空くほど見つめている。
色白の子が引きつった顔で言った。
「冗談だよね? こんなおばさん、本当に彼女のわけないよね?」
おばさん。
分かってはいるけれど、直に言われるとなかなかにショックだ。
彼女たちは確かに若い。
身に着けているオフショルダーのトップスや、ミニスカートから覗く肌がその証拠だ。
私はもうこんな風に肌を露出することはできない。
ゆるっとしたブラウスにワイドパンツの自分が悲しかった。
それでも君たちだって、必ずいつかはそのおばさんになるのに、平気で他人にそんなこと言えちゃうんだもんなぁ。
若さゆえの無敵感が眩しくすらある。
この場所にいる自分がいたたまれないような気持ちになって下を向いていると、湊人が私の手を取った。
はっと驚いて彼を見上げる。
目と目が合って、湊人が笑った。
「おばさんじゃないよ」
優しげな瞳に見つめられて、そっと囁かれた。
鼓動が一瞬、大きくなる。
「でも……」
なにか言いかけた女の子たちを遮って、湊人は続ける。
「嘘なんてつかないですよ。彼女に失礼なことは言わないでください」
それじゃぁまた、と清涼感たっぷりな笑顔で会釈して、私の手を握ったまま駅の方にむかって歩き出す。
どうして。聞きたいことはいっぱいあるのに、何から聞いていいのかも分からない。
耳から顔が一気に火照って、しばらく湊人の顔をまともに見ることができなくなってしまった。
いい歳して、本当に恥ずかしい。
しばらく歩いてから後ろを振り返ると、ずいぶん小さくなった彼女たちが、口々になにかを言い合いながら、まだこちらを見ていた。
何を話しているのか想像するだけでも恐ろしい。
「えっと、今のって……」
隣を歩く湊人を見上げると、ニヤッと笑っていた。
先程、女の子たちに向けていた笑顔とは全然違う、ちょっと意地悪そうな笑顔。
今朝までの彼と同じ笑い方だ。
「彼女のふり。次はもう少しちゃんと喋れよ」
「なにそれ」
「さっきの、店の客なんだけど……」
店。そしてさっきのモテている様子。私は早押しクイズに挑戦する回答者になったような気分で、彼の話を遮って言った。
「やっぱりホストなんだ」
私の言葉を聞いた湊人が思いきり眉間に皺を寄せる。
「昨日から、どうしても俺をホストにしてぇのな。違ぇから。スタイリスト……美容師だよ。さっきのビルにサロンが入ってたろ? あれが俺の職場」
美容師。
美容師といっても、ハタチそこそこじゃまだ専門学校を出たてで、カラーやブロー、シャンプーなんかをしてくれるアシスタントのイメージがあるけれど。
こんなに若くてもスタイリストになれるものなんだ。
「若いのに、すごいね」
「そうか? もう二十四だけどな」
「二十四歳? 成人したてだと思ってた。それでも私より十才も下……」
見た目から予想していたよりは年齢を重ねていたけれど、若い。
改めて、こんな若い男の子と手を繋いでいる事実にバツが悪くなって、おずおずと手を離して引っ込めた。
それに気づいた湊人が、こちらをチラッと横目で見て言った。
「さっき、悪かったな」
「え?」
「あいつら、ひどいこと言ったろ」
「あー、気にしてないよ」
気にしてないと言うのは嘘だけれど、私はちょっと笑って見せた。
あの時、私を見つめて「おばさんじゃないよ」と言ってくれた時の、湊人の瞳を思い出す。
あれもお芝居だったのだろうけれど、彼が私を庇ってくれたように感じて、ちょっと嬉しくなってしまった。
なんだかそんな自分が恥ずかしくて、考えるのをやめる。
「それで、彼女のふりってなに?」
湊人の足は新宿駅の東南口からJRの改札を抜ける。
私は慌ててICカードを取り出して自動改札機に押し当てた。
駅の構内はたくさんの人たちでごった返している。
人混みをぬうようにして歩く彼に、少し早歩きをしてついていく。
身長が高いからか、湊人は歩くのが早かった。
「さっきの客や何人かが頻繁に店に来て、ああやってつきまとわれるんだよ。しつこく連絡先を訊かれたり、遊びに行こうなんて誘われて。迷惑してるけど、客だから下手なことも言えねぇし、彼女でもいれば諦めるんじゃねぇかと思って」
「それで彼女のふり?」
「そ」
湊人のシャープな横顔が頷く。
「そんなにモテて、大変だね」
「まぁ、顔が良いから、しゃーないな」
湊人が片側の口角をくいっとあげて笑いながら、あまりにも当たり前のようにそんなことを言うから、私は閉口した。
ナルシストとは彼のためにある言葉なのではないか。
普通の男性が言えば顰蹙を買いそうなセリフなのに全然違和感がなくて、ちょっとおかしかった。
たしかに湊人は芸能人だと言われても疑いようのないルックスをしている。
そして私よりもとても若い。
私が二十歳の時、彼はまだ小学生だったのだ。
そんな湊人に嘘でも彼女と紹介された事実が、申し訳ないような、くすぐったいような、気恥ずかしいような妙な気持ちだった。
私たちは総武線のホームに出て、電車を待つ列の後ろに並ぶ。
湊人は平然と線路の向こう側に見えるビールの看板広告を眺めている。
相変わらず、どこに行くのかを説明するつもりはなさそうだった。
――このままついて行っていいのかな。
「結衣」
突然、湊人の唇から私の名前が発せられて、思わず隣に立つ彼を見上げた。
戸惑って何も言えずにいると「なんだよ?」と覗き込まれる。
「えっと、名前……」
「アプリで見た。結衣っていうんだろ」
そうじゃなくて。湊人が私の名前を知っているかどうかよりも、突然呼び捨てにされたことに驚いていた。
「いきなり呼び捨てで呼ぶから。一応、けっこう年上なんだけど」
「結衣も呼び捨てでいいよ。その方が彼女っぽいだろ」
「彼女っぽいって……もうさっきので私の役目は終了でしょ?」
「まさか。一度、彼女っぽい女を見たくらいで諦めねぇだろ、ああいう連中は」
湊人は頭をかいて、ため息をついた。
その様子に、心底迷惑しているらしいことは分かった。
でももっと年相応の女友達の一人や二人、いるだろうにと思う。
むしろ彼の彼女役なら喜んで引き受けてくれる子なんて大勢いそうだ。
「どうして私なの?」
「別に。なんか昨日も暇そうにしてたし?」
「暇って、なによ」
「路上で寝てただろ。忙しそうには見えねぇけど」
どうしてこう、痛いところを突いてくるのだろう。
私は口をつぐんだ。
年上の威厳は、おそらく今のところゼロだ。
自分が情けなく思えてくる。
それでも何か言い返そうかと逡巡している内に、ホームに電車が入ってきた。
ドアが開くと湊人が何も言わずに乗り込むので、私もつい一緒に乗りこんでしまう。
どうせ、好奇心でここまで来たのだ。最後まで付き合わないでどうする。
車内はかなり混雑していたけれど、一ヶ所だけ座席が空いていた。
湊人はまた私の腕を掴むと、そこに引っ張っていく。
特別、笑うでも優しそうな顔をするでもなく「座れば?」と顎をしゃくった。
私は遠慮するべきか一瞬考えたけれど、そんなことを考えるのも無駄な気がして大人しく腰をおろした。
私の前でつり革に捕まって車窓を眺める湊人。
細い首に喉仏がくっきりと浮き出ている。
――不思議な子だなぁ。
クールな表情に、強引でふてぶてしい態度をとっているくせに、要所要所では私に親切にしてくれる。昨夜だってそうだ。
彼らの年代から見たら、おばさんだと思うような私。
そんな女が道端でどうにかなろうと、見て見ぬふりをするのが普通だ。
それなのに私を家まで運び、朝まで様子を見ていてくれていた。
発言を抜きにすれば、間違いなく、ありえないほど親切にしてくれている。
若い子の気まぐれなのか親切心なのか、まだ湊人を見ていても分からない。
彼女のふりをしてほしいというのが目的らしいけれど、それだって腑に落ちない。
そこまで考えて、湊人のことをもっと知りたいと思い始めている自分に気がついた。
――十歳も年下の相手に興味をもつなんて、痛いおばさんじゃない。
いい歳して路上であんなことになっていた時点で、もうとっくに痛いんだろうけど。
新宿を出てから十分も経たずに停車した駅で、湊人は「降りるぞ」と言ってドアの方へ歩いていく。
私は慌てて彼のあとについて電車を降りた。
天井からぶら下がる駅名の看板には、今まで下車したことのなかった駅名が表示されている。
漢字の読み方が怪しくアルファベット表記を目でなぞった。
冷房のきいた車内から出ると、むわっと蒸した空気が私を包んだ。
日本の夏の不快指数は年々上がっている気がする。
額に汗がにじんできた。
湊人はそんな私と反して、涼しげな顔をして歩いていく。
彼でも汗をかくことがあるのかな? なんて意味のないことを考えながら改札を抜け駅の外に出た。
見たことのない街の景色。
近くに大きな丸い建物が見える。
なにかの競技場か体育館のようなもののようだ。
街灯の下、湊人は慣れた様子で駅前を左手に歩いていく。
「どこに行くの?」
思い切って聞いてみると、湊人はなんてことないというような顔で「俺んち」と応えた。
「なんでよ!」
驚いて思わず大きな声をあげてしまった私を見て、彼は目を細めて言う。
「昨日は自分から迫ってきたくせに、なに驚いてんだよ」
自分で顔が赤くなるのが分かる。
こんな若い子に自分から迫って、しかも断られたという事実。
思い出すと、穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。
「そ、それは酔ってたし……」
「へー、酒のせいにするんだ?」
慌てて言い返したのに、淡々と言われて口ごもる。
湊人が声を上げて笑った。心底愉快そうにお腹を抱えている。
「結衣って、おもしれぇな。本当に年上ってかんじしねぇ」
絶対、からかわれてる。
年上ってかんじがしないって、自分だって年上に対する態度じゃないじゃない。
そんな私の憤りをよそに湊人は気にもとめていない様子で、また歩き出す。
納得がいかずに彼の背中を睨んでいると、パタタッと音がしてアスファルトが濡れる匂いがした。
大粒の雨のしずくが、私の鼻先に当たる。
あ、と思った時には雨足が強くなり、一気に本降りになった。
頭や肩がどんどん濡れていく。冷たい。
「急ぐぞ」
湊人はそう言うと、私の腕を掴んで走り出した。
彼のTシャツも肩のあたりから濡れて色が変わっている。
私は片腕で顔をかばいながら走った。
二人の靴が地面の雨水をバシャバシャと蹴り上げる。
湊人のハイカットのコンバースが水を吸って重たそうだ。
走るのなんて、いつぶりだろう。すぐに息があがって苦しい。
湊人はそんな私を振り返ると、少しだけ走るスピードを落とした。
やっぱりなんだかんだ優しい。
駅前の通りから鳥居のある角を曲がるとマンションや背の低いビルの建ち並ぶ住宅街に入った。
一戸建てはほとんどなくて、わりと田舎育ちで川崎市に引っ越した私にとって新鮮な町並みだ。
久しぶりに走ったのでわき腹のあたりがちょっと痛い。
目にも雨水が入って鬱陶しかった。
ブラウスが肌に貼りついて気持ち悪い。
五分くらい走って、湊人は灰色の三階建てのマンションに入っていく。
モルタル塗りの外壁は色あせていて、かなり築年数が経っていそうだ。
ふたりとも髪の毛から水滴が滴っている。生温い空気と雨の匂い。
共用廊下を入ってすぐの、くすんだクリーム色をした鉄製の扉の前で、湊人はデニムのポケットからキーケースを取り出した。
「本当に家なんだ」
私が呟くと「そう言ったろ」と湊人がこちらを横目に見ながら、ちょっと口角をあげて笑った。
雨に濡れているせいだろうか、彼の流し目が妙に色っぽくてドキッと心臓が音を立てる。
たとえ湊人が女の子に生まれていたとしても、この顔ならモテただろうなとぼんやりと考えた。
間違いなく並大抵の女性よりは美人だろう。
「どうぞ」
「お邪魔します」
促されるがままに、湊人が開いた扉の中へと足を踏み入れる。
靴が四足ほどでいっぱいになってしまいそうな玄関の先は、十畳弱のワンルームになっていた。湊人の香水の匂い。
スニーカーを脱いで部屋にあがる彼に続いて、私もサンダルを脱いで部屋にあがった。彼の靴と一緒にサンダルを揃えて並べる。
玄関も部屋も男性の一人暮らしのわりに綺麗に整理整頓されていた。
二人掛けの革張りの黒いソファーや小さなガラステーブル。
隅にある木製ベッドも黒で、マットレスの上のタオルケットは綺麗に畳まれている。
壁沿いのキッチンと居住スペースを隔てるようにカウンターがあって、その上にCDや雑誌類がきちんと揃えてブックスタンドで並べられていた。
けっこう几帳面なタイプなんだ。
明みたいに靴下を脱ぎっぱなしにしたり、読んだ本をあったところに片付けないなんてことはないんだろうな。
考えてみたら、明以外の異性の部屋に入るのは初めてだ。
「拭けば」
私が感心していると、湊人がクローゼットの衣装ケースから取り出したフェイスタオルを差し出してくれた。
Tシャツとスウェットパンツも添えてある。
気配りも完璧。
「ありがとう」
着替えまで借りていいのかなと思ったけれど、それよりもすらっと薄い身体をしている湊人を見て、彼のサイズの服がちゃんと入るのか心配になった。
とりあえずタオルを広げて髪と顔を拭く。
ふわっと甘い柔軟剤の香りがした。
自分もタオルでがしがし頭を拭いてから湊人は「髪も濡れてるし、ちょうどいいか」と言って、カウンターに据えられていた椅子を引っ張ってきた。
周りに何もないフローリングの上。
「座って」
「なんで?」
「いいから」
またもやろくに説明もせずに強引に物事を進める湊人に、モヤモヤしながらも大人しく椅子に腰かけた。