あの日、私の世界は足元から崩れて、すっかり変わってしまった。
 (あきら)が私のすべてで、私の世界だった。
 私たちが恋人として過ごしてきた十三年という長い年月は、いつの間にか互いを家族のような存在にしていた。
 パートナーであり、親友であり、家族。
 なんでも話すことができたし、私たちの間に秘密はなかった。
 楽しいことも悲しいことも辛いことも、喜怒哀楽のすべてを彼と共有してきたのだ。

 明は同棲していた部屋を出て行くとき、歯ブラシ一本すら残しては行かなかった。
 彼がいなくなって、この世の終わりのように感じたのに朝は必ずやってくる。
 あれからもう二ヶ月。
 ダイニングテーブルを見れば口をモグモグさせながら「美味しいよ」と笑いかけてくる姿が浮かぶし、ソファーを見れば映画を観ながらうたた寝をする彼の姿が思い浮かぶ。
 空っぽのクローゼット、本棚、CDラック。
 そもそも、その家具のほとんどが同棲を始めるときに明と一緒に買い揃えたものだ。 
 思い出そうとすればすぐに二人でインテリアショップを巡った記憶が(よみがえ)る。
 それなのに、彼の洋服も髭剃りも歯ブラシも、彼の生活に関わるものだけが、きれいさっぱり無くなって。
 私は一人、取り残された。
 アキラのいない、思い出ばかりが残る部屋。
 この部屋に一人でいると、悲しみや怒りや絶望感をドロドロと煮詰めたような感情と、たまらない孤独感に襲われる。
 絶え間ない負の感情のループでどうにかなってしまいそうで、我を忘れるまで飲み歩く日が続いていた。
 
 明とは仲は良い方だと思っていた。
 付き合いが長くなるにつれ、マンネリ化したり倦怠期(けんたいき)がやってきたりしたけれど。
 それはどのカップルにも起こり得ることだし、乗り越えて一緒に過ごしてきたからこそ家族のような存在になっているのだと思っていた。
 私と明に限って、別れる日がくるなんて考えたこともなかった。
 だから昨年のクリスマスにプロポーズしてもらえた時も、喜びとともにどこか当然のことのように思う自分もいた。
 明はロマンチックなデートを計画することが好きではなかったので、昨年も例年通り部屋で私の作ったクリスマスディナーを二人で食べていた。
 いつもより早起きをして準備した、毎年ほとんど変わらない二人だけのパーティーメニュー。
 グラタン、ローストチキン、サラダにスープ。
 そして彼が駅前にある個人経営の小さなケーキ屋で買ってきてくれた、ストロベリーショートケーキ。
 同棲し始めてから、お互いの誕生日やクリスマスには決まってそのケーキを食べた。
 今年もまた彼と、この手作り感のある素朴なケーキを食べられることが純粋に嬉しい。
 食後、私が手洗いに立って席に戻ると机の上に小さな箱が載っていて。
 一目でアクセサリーが入っている箱だと分かるそれを、ついにプロポーズか、それともクリスマスプレゼントのアクセサリーかと胸を躍らせながら、そっと開封した。
 細い銀色のリングに鎮座したダイヤモンドが、キラリと輝いて私を見上げている。
 こんにちわ、これから一生の付き合いになるわねと囁かれたような気がした。

「待たせてごめん。結婚しよう」

 涙ぐむ私にアキラは首をもみながらはにかんで、そう言ってくれた。
 戸籍の上でも二人が家族であると認められる。
 私の山本結衣(やまもとゆい)という名前が、杉山結衣という名前に変わる。
 ただそれだけのことが、嬉しかった。

 さっそく結婚することを両親に報告すると、二人ともとても喜んでくれた。
 これでようやく結衣のウェディングドレス姿が拝めるのねと、お母さんは涙ぐんだ。
 お父さんは、私の将来のために積み立てておいてくれたというお金を、早々に銀行からおろしてきてくれた。
 娘の結婚式が楽しみでたまらないといった様子で、「気が早いよ」なんて呆れるような素振りを見せながらも内心は嬉しかった。
 やっと両親を安心させることができる。
 子供は二人くらい欲しいし、子煩悩(こぼんのう)だった父も世話焼きの母も、孫ができたらきっと喜んでくれるだろう。
 私が三十路(みそじ)に入っても決して「まだ孫の顔が見られないの?」なんて押しつけがましいことは言わなかった母だって、きっと早く孫が欲しかったに違いないのだ。
 そんなことを日々考えることはとても楽しく、結婚式の計画をたてる際にもいかに両親やお世話になった方々に喜んでもらえるかに重きをおこうと決めた。
 結婚式と披露宴はアットホームなものにしようと都内の結婚式場を予約して、招待状ももうすべて投函済みだった。