眠れない夜は、きみの声が聴きたくて







ガラッと稲田商店の引き戸を開けると、先生がレジカウンターにいた。

「おー三浦じゃん」

先生はパイプ椅子に座りながら新聞を読んでいて、どうやら店番を任せられているようだ。

「親父が町内会でいないんだよ。あ、言っとくけど金はもらってねーから副業じゃないぞ」

「べつに疑ってないし、副業してても驚かないよ」

「え、俺ってそんなに適当に見えてんの?」

先生はまだ若いってこともあるけれど、いい意味で教師らしくない。とくにこうして学校外で会うと俺にとっては親しみやすい兄貴のような存在だ。

俺は頼まれた卵をカゴに入れて、ついでにシャーペンの芯も買った。

「ご贔屓(ひいき)にどうも。柿ジュースでも飲んでく?」

「うん」

先生はレジ横に置かれた小型冷蔵庫から冷えた缶を出してくれた。この町では麦茶の次くらいに好まれている飲み物だ。

缶に口を付けると、ドロッとした液体が舌に広がる。味は甘くて、柿というよりマンゴーに近い。

「お前、いつまでみんなに隠しとくの?」

先生の質問に、わかりやすく視線を落とした。

「肺、このまま放っておいていいもんじゃねーんだろ」

先生は俺の病気を知っている。学校でなにかあるかもしれないからと、診断書とともに母さんが詳しく説明済みだ。

「でも手術しても成功率は半分もないよ」

呼吸機能が回復しなければ俺に明日はない。でも手術をしなければもう少し明日を迎えられる。そう考えると、手術をしないことが最善の選択なのではないかと思う。

「俺なんてタバコも酒もやるっていうのに、なんでなにもやらない三浦が肺の病気になんてかかるんだろうな……」

「誰かに呼ばれてるのかも」

「誰に?」

「さあ」

曖昧に答えたあと、稲田商店を後にした。



ひとりで畦道を歩いていると、無性に響に会いたくなる。

もしも東京にいた時に病気が発覚していたら俺たちの関係はどうなっていたんだろうか。

なにを考えても絵空事にしかならないけれど、俺は今の状況と同じように彼女から離れたかもしれない。

大切に想うからこそ隠したい。彼女が思い浮かべる俺の姿が暗いものにならないように。


「おーい、旭ー!」

甲高い声が田んぼに(とどろ)いていた。ぞろぞろと男子を引き連れて歩いてきたのは早坂だ。

友達はみんな同じクラスで、いつものメンバーだった。どうやらせっかくの日曜だというのに、とくに予定もなく日中はダラダラと過ごしていたらしい。


「これからまたもんじゃ会なんだけど、旭も来てよ」

「いや、俺、母さんから卵頼まれてるし、手持ちもないから家で食うわ」

「えー! じゃあ、私も旭の家でご飯食べる! おばさんに連絡するからさ」

そう言って早坂はメッセージを早打ちで送信していた。


「ってことで、みんなじゃあね」

「は? お前がもんじゃ会やろうって言い出したんじゃん」

「私は暇なら集まろうって声かけただけだし」

「ったく。まあ、いいわ。旭またな。俺らだけでもんじゃしてるから気が向いたら来いよ」

「おー」

小さい頃からの付き合いであるみんなのほうが早坂の気まぐれに慣れている。愚痴は言っても許し合えてしまう関係が、やっぱり人情を大切にしてるこの町ならではだと思う。


「おばさんオッケーだって!」

「俺は許可してないけど?」

「旭よりおばさんのほうが偉いもん」

たしかにそうだと、しぶしぶ一緒に家へと続く道を歩く。

西の空が焼けるような赤色をしていた。とても綺麗なのに、どこか寂しい気持ちにもさせる。

あの頃、死ぬとか生きるとか重みは知っていても、自分に置き換えて考えたことはなかった。

後悔したくないからと電話をかけたのに、今は余計に恋しくなりすぎて後悔してる。

今、響の街は何色の空をしてるんだろう。

手を伸ばせば触れられる距離にいた頃が、やっぱりこの夕焼けよりもずっと遠い日のことに感じていた。



私はきみがカメラを向けたいと思う綺麗なものになりたい。

そんなことができたら、幸せだろう。

幸せすぎて、きっと泣いてしまうと思う。


「あ、おはよう。響」

目が覚めてリビングへと向かうと、元気のいいお母さんの声が飛んできた。テーブルにはすでに朝食の準備がされていて、しばらく使っていなかったミキサーを使いスムージーまで作ってあった。

「う、うん。おはよう。どうしたの?」

どんなに忙しくても朝ごはんは用意してくれるけれど、こんなにご機嫌なのは滅多にない。

「ずっと煮詰まってた仕事が一段落したのよ。って言ってもまた次のことをやらなきゃいけないんだけどね」

そう言って、お母さんにお弁当を手渡された。最近は負担にならないように私が作っていたから、お母さんの手作り弁当は久しぶりだった。

「いつも響に無理なことばかりさせてごめんね。今日は響の好きなものをいっぱい詰めておいたから」

「ありがとう……」

お母さんだって私のことを考えていないわけじゃない。

こうして時間に余裕ができれば、ちゃんと気にかけてくれるんだって思ったら泣きそうになった。

と、その時。リビングと繋がっている隣の部屋から未央が起きてきた。

「あ、ねーねがいる! あのね、このクマたんとパジャマ可愛いでしょ?」

妹は見たことがないパジャマを着ていた。その腕にはお世話ができるクマのぬいぐるみを抱いている。

「ふふ、未央ったら、ずっと響に見せるんだって楽しみにしてたのよ」

昨日未央のことを寝かしつけたのはお母さんなので、私はさっさと自分の部屋にこもっていた。

「このぬいぐるみは、お父さんが買って送ってくれたの」

側にあった箱にはデラックスと書かれていて、着替えや哺乳瓶がセットになっているようだ。この手のおもちゃはそこそこに値段が張ることを知っている。



「パジャマは私が買ったのよ。サイズもぴったりだし、未央も気に入ってるから今度違う色も買ってみてもいいかなって」

「……そう、なんだ」

こんなことで悶々とするのはおかしい。

未央と張り合ったって仕方ない。

でも私はお弁当ひとつで感動してるのにって比べてしまう自分に嫌気がしてくる。

さらにはお母さんに時間ができたこともあって、今日はふたりで公園に行くそうだ。

「私も学校、休みたいな……」

甘えるようにぽつりと漏らすと、「あら、響はダメよ。学校に行くことがあなたの仕事なんだから」と、言われてしまった。

私なりに珍しく弱いことを言ってみたって、お母さんには届かない。


重たい気持ちのまま駅に着いた。ホームは通勤ラッシュということもあり毎朝うんざりするほど混んでいる。

いつものように女性専用車両の列に並んでいると、「あれ?」という声がした。気配を感じたので視線を送ると、そこには他校の制服を着た女子二人組がいた。

なんとなく顔に見覚えがある。クラスは違ったけれど、多分同じ中学の人だと思う。

「やっぱり市川さんだよね? なんか雰囲気変わったね!」

それは良いほうなのか悪いほうなのかどっちだろうと思いながらも、親しげに話しかけられたことに驚いた。だって私は名前すら知らない。

「どこの高校に通ってるの?」なんて他愛ない質問をされたあと、「そういえばさ」と本題を振られた。

「市川さんって旭くんと仲よかったよね? 今も連絡取り合ったりしてるの?」

きっとこれが聞きたくて声をかけてきたに違いない。ここは正直にならないほうがいいと察して、首を横に振った。

「えーそうなの? 絶対市川さんなら取ってると思ってた。だって、ね?」

「うん、ふたりは付き合ってるって噂あったしね」

まるで打ち合わせでもしてたように息がぴったりだ。たしかに私たちのことをそういうふうに思ってる人は少なくなかった。

人気者だった彼がわざわざマイナーな写真部に入り、しかも活動していた部員はふたりだけ。私が部室で旭のことを誘惑してるんじゃないかって、言いがかりをつけられたこともあったっけ。

「この際だから聞いちゃうけど、噂は本当だったの?」

「……違うよ」

私たちは恋人じゃなかった。でも友達……という表現もなんだか違う気がしてる。

だったら私と旭の関係はなんだったんだろう。自分でも名前がつけられない。


「あの時みんなが言ってたんだよ。市川さんだけ旭くんのことを独り占めしてズルいって。きっと旭くんは優しいからひとりだった市川さんのことを放っておけなかったんだろうね」

「………」

「ちょっと、あんた旭くんのこと好きだったからって直球すぎ!」

「だってさー」

なにも言い返せない代わりに、ホームにアナウンスが届いた。私は逃げるように、さっさと到着した電車に乗り込む。

女子たちはある程度聞きたいことも言いたいことも口にできたのか、追いかけてくることはせずに別の車両に乗っていた。


あの頃、彼に想いを寄せていた人は数えきれないほどいた。

もちろん一緒にいたいと望む人も。

けれど、旭はほとんどの時間を私にくれていた。

それがどれほど贅沢なことだったのか、今のほうが強く身に染みている。


彼は私のことをすごいと言ってくれた。

自分の心に素直なところを褒めてくれた。

旭に認めてもらえたことが誇らしかった。
 
でも、どうして?

なんで旭はあんなにも私のことを見てくれていたのだろうか。

やっぱりひとりぼっちだったから放っておけなかっただけ? 

そこに同情という気持ちがあったのかなかったのかは、私には判断できない。

本当は私に対してどう思っていたのかな?

彼の時間をあれだけもらっておいて、私はなにひとつ聞きたかったことは言葉にしていないって今さら気づいた。






旭と一緒に見守ってきた花壇に花が咲いたのはセミの声が聞こえ始めてきた初夏のことだった。

燦々と照り付けている太陽の下で咲いている花にカメラを向けて、彼は隣で写真を撮っている。


「そのカメラって、先生のじゃなかった?」

以前彼が部室の棚から取り出していたカメラと一致していた。


「そう。先生から借りたんだ」

「高価そうに見えるけど、よく貸してくれたね」

「勝手に堅物な人だと思ってたけど、話してみたら意外と気さくだったよ」

旭はそう言って目を細めている。きっとカメラを貸してくれたのは彼だからなんじゃないかと思う。旭は人の(ふところ)に入るのが上手くて、すぐに好感を持たれる人だから先生たちからも可愛がられている。

「それ、フィルムカメラだっけ」

「うん。響も撮ってみる?」

返事をする前にカメラを渡された。写真はスマホでしか撮ったことがないから、カメラを持つのも初めてだ。

しっかりした重量感がありながらも、なんだか落としたらすぐに壊れてしまいそうで、大切に扱わなくてはいけないという意識になっていた。

「ここのファインダーを覗いてみて」

彼に言われるがまま、カメラの上のほうにある小窓に目を近づける。

「なんにも見えないよ?」

「ここに左右に回せるリングがあるんだけど、これで撮りたい被写体に合わせてピントを調整するんだよ」

「どうやってやればいいの?」

「このリングの回りに数字があるだろ。小さいほど狭い範囲で写真が撮れて、数字が大きいほど広い範囲でピントが合うようになってる」

「……なんか花はちゃんと写ってるけど、背景がぼけてるよ」

「単体を撮る時はそれでいいよ。写したい主人公を決めるって感じで」

……写したい主人公。なんて素敵な言葉なんだろう。絶対に旭しか言えない台詞だ。


「フィルムカメラは速度とか光を自分で設定しなきゃいけないけど、覚えてしまえば難しいものじゃないよ」

「やっぱり詳しいじゃん、カメラ」

「詳しくないよ。撮り方を知ってるだけ」

でも普通は知らないことだ。たしか前にフィルムカメラがうちにあるって言ってたっけ。

それは旭のものなのかな。聞いていいのか悪いのか。聞くほどのことなのか、そんな面倒なことを考えてしまう。

そういえば私、人に興味って持ったことがない。彼のことを知りたいと思うのは……興味なんだろうか。

「花、たくさん咲いてよかったよな」

風に揺れてる花は彼みたいな黄色をしている。名前はわからない。でも名前なんてなんでもいい。だってこんな私でも綺麗だってことぐらいはわかるから。

「シャッターって、このボタンで合ってる?」

「うん」

私はファインダーから見える小さな花を主人公にしてボタンを押した。


それから写真を確認するために部室へと戻った。

彼が手をかけたのは、暗室と書かれた部屋のドアノブだ。ゆっくりと扉を開けると、窓がない四畳ほどの空間があった。

狭いわりには物が多くて、ふたりで横並びで入るのがやっとだ。

部室には入部してから何度も出入りしてきたけれど、暗室に入ったのは今日が初めて。旭もそうだろうと思っていたけれど、慣れたようにカメラからフィルムを取り出して機械へとセットしている。

「写真を現像したことあるの?」

「実はこっそり先生に教えてもらった。響にすごいって思われたくて」

へへと、気恥ずかしそうな顔をする。それを素直に伝えてくるのが彼らしいと思った。

「じゃあ、電気消すよ」

旭が蛍光灯のスイッチを切ると、部屋は怖いくらいに真っ暗になった。

「あ、旭……」

完全に光が遮断されているのでなにも見えない。思わず彼の腕を掴むと「大丈夫だよ」という言葉と一緒にセーフライトがつけられた。私の視界は一瞬で赤色に包まれる。

「なんか……怪しい雰囲気だね」

「実験みたいだろ」

「うん。これから悪いことをするみたい」

「ははっ」

旭は笑いながら、機械のノブを回して高さやピントを合わせている。そしてイーゼルの上に置かれた白い紙に光が当てられた。