「もう呼んでくんないの?」
『なにが?』
「俺の名前」
最初はお互いに名字呼びだったけれど、途中で名前に変わった。たしかそれも俺が強引に言い出したことだった気がする。
『……まあ、呼ぶ時があれば』
「その言い方、二年前と一緒!」
思わず吹き出した。なんでだろう。毎日楽しいし友達もいるし不満もない。だけど、響は他の誰とも違って、あの頃に感じていた気持ちが沸々とよみがえっていた。
「なあ、……明日も電話していい?」
繋ぎ止めたいなんて図々しいことはもう言えない。
でも、指先ひとつで声が聞ける電話だけでも繋がっていたいと思う。
響は迷っていた。わずかな間、沈黙が続く。
『……いいよ』
キジバトの声に掻き消されそうなほど小さな返事だった。
明日も響と喋れる。少しは成長してるはずなのに、あの頃と同じでバカみたいに嬉しくなっていた。
「ありがとう。じゃあ、そろそろ切るな。おやすみ。また明日」
『うん、おやすみ』
電話を切ったあと、スマホが熱かったのは古いバッテリーのせいなんかじゃない。わかりやすくにやけていると、後ろから鋭い視線を感じた。
「私のこと放置しすぎじゃないですかね?」
振り向くと、早坂が膨れっ面で立っていた。
「あ、悪い」
スマホの光りが眩しいので、すぐに画面を暗くしてポケットにしまう。
「電話、誰?」
「同じ中学だった子」
「女の子?」
「うん、そう」
「なに話してたの?」
「色々」
「色々とかやらしい!」
勝手になにを想像してるのか、早坂が怒り出した。「詳しい内容を教えなさいよ!」と、上から目線で言ってくる声を無視して、再び夜道を歩き出す。
なあ、響。
もしかしたらこの二年間で俺は変わったことのほうが多いかもしれない。
この町は本当に長閑で、争いごともないから優劣もない。
みんな手を繋いで一等賞の、助け合いの精神が根強くあって居心地もいい。
でも、たまにお前の言葉を思い出すよ。
『いい人って、疲れない?』
べつに自分の中に悪があるわけじゃない。
無理もしてないし、演じてもない。
けれど、みんなと違うことが俺にはあって、それを隠してるってことは、本当の自分を見せていない気がしてる。
響はどう?
ちゃんと誰かに本当の自分を見せられてる?
あの頃の私は失敗ばっかりだったけれど、自分の気持ちには正直でいた気がする。
人の顔色ばかりを窺って、言葉を押し込めるだけの今を十四歳の私が見たらなんて言うだろうか。
『大嫌い』
大丈夫。私も今の私が心底嫌いだよ。
「うわああん、やだやだ……っ!」
スマホのアラームよりも先に、未央の泣き声で目が覚めた。部屋の真下にあるリビングからドタバタと激しい音がする。私はため息をつきながら、ゆっくりと起き上がった。
「ほら、未央! お母さんはお仕事があるんだからあんまりワガママ言わないでちょうだいよ」
「やだやだやだ!!」
お母さんは泣きわめく未央のことを抱き上げて、必死であやしていた。これは俗に言うイヤイヤ期というやつだ。
ご飯も嫌、お風呂も嫌、手を洗うのもお気に入りのオモチャで遊ぶのも嫌。目に入るものすべてが嫌。
私にもこんな時期があったのかな。
周りの迷惑も考えずに泣けるなんて、少し羨ましくも思う。だって私はもうそんなこと許される歳じゃない。
「響、ごめん。朝ご飯はそこにあるパンを焼いて食べて。冷蔵庫に卵もウインナーもあるから」
「うん、平気。自分でやるよ」
「あと悪いんだけど今日も早めに帰ってきてね。夕方から仕事の人と電話打ち合わせがあるのよ」
「わかった」
お母さんにとって私は子供だけど、大人として扱われている。
今思えば子供扱いされていた時に、話せばよかったと思う。
妹ができることへの不安とか、お父さんのことをどうやってお父さんと思えばいいのかとか。なんでもいいから、相談できるうちに話すべきだったんじゃないかと考える。
でも、そんなことに今さら気づいたって、この状況を見ればお母さんが手いっぱいなのはわかる。私のことで負担を増やすわけにはいかない。
「朝ごはんはいいや。いってきます」
私の声よりも大きく、また妹が泣く。もしかしたら私の声はお母さんの耳に届いていないかもしれない。それでも、もう一度言うほどのことではないと、静かに家を出た。
学校までは電車で七駅。いつか電車通学をしてみたいなんて安易に思っていたけれど、実際は混んでいるし、ストレスも溜まるし、そんなにいいものじゃない。
高校生になったら当然のように世界も広がっていくものだと思っていたけれど……なんだか日に日に息苦しさが増してくる。
「響、おはよう!」
教室に入ると、すぐに友達が声をかけてくれた。
「うん、おはよう」
「あれ、今日メイクしてない?」
「いつも日焼け止めだけでメイクはしないよ」
「うそっ!? じゃあノーメイクでその完成度なの?」
友達はよほど驚いたようで、「ねえ、みんな知ってた?」と、他の人にも大声で知らせている。ぞろぞろと顔を覗き込まれ、最終的にはここのアイシャドウは発色がいいとか、保湿性があるリップはあそこのがいいとか、いつものように弾丸トークが始まってしまった。
私は話に付いていけないので、差し支えがないように頷くだけ。そんな様子をクラスメイトの女の子が遠巻きに見ていた。
それは表側だけ笑顔で取り繕っても、心では違うことを考えてるんでしょっていう冷めた視線だ。
……わかるよ、その気持ち。私だって友達も協調性もいらないと思っていた。
でも友達は必要だし、協調性も大切だし、ひとりでは成り立たない世界があることを今の私は知っている。
だからこうして頑張って、せっかくできた友達を失わないようにしてるのだ。
けれど、頑張ってるって言ってる時点で間違っているのか。
私はこの輪の中にちゃんと溶け込めているのか。
なんにもわからないから、浮かないようにただ必死になって踏ん張ることしかできない。
*
誘われるがまま入部した写真部。適当に最初だけ参加して、しばらく経ったら他の人たちと同じように幽霊部員になるつもりだったのに……。
なぜか今日も私は放課後に三浦と一緒にいた。
「とりあえず草とりしようぜ!」
「は? なんで?」
「だって土を作んないと種撒いても育たないだろ」
「……面倒くさ」
私は荒れ放題の花壇にため息をつく。
『今日はいいものがある』なんて言うから中庭まで付いてきたものの、三浦が意気揚々と見せてきたのはポチ袋に入った小さな種だった。どうやら国語の先生からもらったらしい。
この学校に園芸部がないため、先生たちが交代で敷地内にある草花を手入れしてることは知っていた。
おそらくなにかの手伝いをしたお礼に種をもらったんだろうと予想する。
「……なんの種?」
「品種はわかんないけどなんかの花だと思う」
「そりゃ、そうでしょ。野菜が生えてきたらびっくりするよ」
「野菜かあ……いいな、それ!」
ヤバい、余計なことを言うんじゃなかった。
三浦は宣言どおり綺麗なものをスマホで撮るということを続けていた。
綺麗なものと言っても縛りがあるわけではなく、その時に見つけたものや、その瞬間に目に入ったものを撮るだけでもいいらしい。しかも今回は花を一から育てて写真を撮ろうとしている。
こんな活動になんの意味があるんだろう。
本当に草取りを始めた三浦を横目に、私はまだ前向きになれていない。
思えば彼は教室でもそうだ。
これしよう、あれしようって突拍子もないことを言い出すのはいつも三浦で、みんながそれに付いていく。
私が参加しなかった親睦会も彼が中心になって盛り上げたそうで、クラスメイトたちに「早く次の計画を立ててよ」なんて、せがまれている姿をよく目にする。
「……三浦って、怖いよね」
気づくと、そんな言葉を投げていた。
「え、怖い?」
「うん、人に好かれすぎて」
天性なのか人柄なのか、特別なことをしなくてもおのずと人が寄ってくる。
旭先輩、旭、旭くんって、下級生も同級生も上級生もみんなが彼と話したくて順番待ちをしている。
それを遠目から見てる私は、人気者って大変だなと思う一方で、怖くも感じていた。
どんな人にも分け隔てなく接して、言葉選びもテンションも間違えない。私からすれば、細い糸さえ通らないくらいに、隙がないように見えてしまう。
「人から怖いなんて初めて言われた……」
さすがに怒るだろうか。怒ってくれたら普通の人なんだなって思えるのに三浦は……。
「ふ、ははは。市川ってやっぱ面白いな」
笑った。
いたずらっぽく顔をくしゃりとして。
私は基本的に人のことを斜めから見てしまうから、表面上だけの笑顔はすぐにわかる。でもこれは作ってる笑顔じゃない。どうやら私が言ったことが本当に可笑しかったようだ。
「俺は市川のこと、すごいって思う」
「……どこが?」
「自分の心に素直なところ」
……素直、なんて初めて言われた。
いつも偏屈とか意固地とか、自分の欠点ばかりを挙げられるほうが多いから。
「やっぱり三浦って怖い」
このままだと私まで彼の色に染まってしまいそうだ。
「あれ、面倒くさいんじゃなかったの?」
気づくと私はしゃがみこんで、草に手を伸ばしていた。
「気が変わっただけ。疲れたらすぐ止めるから」
そんなことを言っておきながら、結局花壇が綺麗になるまで草取りを手伝ってしまった。
ふう、と一息ついたところで、なにやらシャッター音が聞こえた。
「顔に土がついてる市川の写真」
「は、ちょっと、今すぐ消してよ!」
彼のスマホを奪おうとしたが、あっさりと交わされた。
「消すから連絡先教えて」
「なにそれ、脅してんの?」
「半分はそう。もう半分は俺が単純に知りたいだけ」
「……やだよ。私、メールとかしないし」
「してよ。これからは撮った写真も送り合おう?」
三浦の目はビー玉かなにかで作られているのかな。まん丸でキラキラしてて、拒む理由を無条件に打ち砕いてしまう。
「本当に消してよね」
私は彼と連絡を交換した。
最初に送られてきた写真は薄く広がっている空に浮かぶ飛行機雲だった。
迷いがないように一直線に伸びている白線が、まるで彼のようだと思った。
*
ホームルーム終わりの放課後。帰り支度をしていると、友達が寄ってきた。
「響、たまには遊びにいこうよ」
「え?」
「この前は用事があるって言って行けなかったじゃん。だから今日こそみんなで遊ぼう!」
同じグループの友達たちが、うんうんと後ろで頷いている。
どうしよう。今日もお母さんから早く帰ってきてと言われている。でも、記憶にある限り前回も前々回も断っているし、さすがに今日もダメとは言いづらい空気だ。
「う、うん、いいよ」
タイミングを見計らって早めに帰れば大丈夫だろう。
近場でぷらぷらするだけだと思いきや、電車に乗って都心部へと移動した。洋服を見たり、SNSで話題のケーキ屋に行ったり、おそろいで持てる雑貨などを探したりした。
すれ違う女子高生が同じようにはしゃいでいて、私もああやって他の人から楽しそうに見えているんだろうか。
そうだったらいいけれど、ふとした瞬間にやっぱり私は馴染めていないのではないかと、勝手に疎外感を感じている。
「あ、ねえ、見て。マキちゃんの動画アップされてるよ!」
「わあ、本当だ! マキちゃんって、マジで可愛いよね! 事務所に入ってる子なのかな?」
また私の知らない話になってしまい、先ほど買ったチーズティーを無言で飲む。元からチーズ類が得意じゃない私には濃厚すぎる味だ。
でもみんな美味しいって言ってたし、残したりしたら気を遣わせてしまうかもしれない。飲めるうちに飲んでしまおうと、一気にストローで啜った。
「えー? 響、電車乗らないの?」
「うん、なんかお母さんが近くにいるらしいから車で帰るよ」
「そっか! わかった。また明日ね!」
「うん、ばいばい」
駅前で友達を見送ったあと、私はトイレへと駆け込む。
チーズティーを無理して飲んだせいか胃がムカムカとする。こんな状態で電車に乗れるはずがない。
少しだけ戻したらスッキリできたけれど、満員電車に揺られる自信がなくて、再び街に向かって歩き出す。
いつの間にか飲食店のネオンが目立つ夜になっていた。
忙しそうに歩く人の波。テールランプを付けながら客待ちをしてるタクシーに、クラクションを鳴らしている乱暴な軽自動車。
どこもかしこもみんなスマホを片手に歩き、ぴんっと背筋が伸びてる人はいないのに誰も人とはぶつからない。ある意味すごい技だと思う。
きらびやかな通りにある看板が目に止まった。私は吸い寄せられるようにビルの中へと入り、パーテーションポールが立てられている列に並ぶ。前にいたのは二、三組だけで、すぐに受付まで進むことができた。
「いらっしゃいませ」
「展望デッキ。大人一枚お願いします」
「はい。二千五百円になります」
愛想のいいお姉さんに対応してもらい、ガラス張りのエレベーターに乗り込む。そしてあっという間に三十八階に到着した。