眠れない夜は、きみの声が聴きたくて



「猫を追いかけて神社の石段を上ったことも面白かったよな」

「旭が息切れしまくってた時だよね」

「そうそう。そのおかげで押し付けられそうになってたリレーを響が走るって宣言してくれた」

「旭がはっきり断らないからだよ」

「嬉しかったよ、マジで」

彼女との思い出は尽きることがない。

種を植えるために花壇の草とりをしたことも。

その種に芽が出た時、雨を気にして傘を差してあげていたことも。

初めて一緒に出掛けた日のことも。

響のことを好きになるには十分すぎるほどの時間だったと思う。

「これからもずっと一緒にいて同じ時間を過ごしていければいいのにな……」

俺は小さな声で、ぽつりと呟いた。

おそらく言葉とは裏腹に暗い表情を隠せていなかったんだろう。響が不思議そうに首を傾げていた。

「なんでそんなに悲しそうなの?」

ずっといつ言おうか迷っていたけれど、文化祭が終わって一段落したら伝えようと決めていた。 


「俺、引っ越すことになったんだ」

「え……?」

響は驚いたように目を見開いていた。



「岐阜。母さんの故郷」

「な、な、なんで急に……?」

「俺の喘息のこともあるし前から話し合ってたことだったんだ。区切りがいいように二学期が終わって冬休みにはあっちに行く予定になってる」

母さんはすでに向こうで暮らす準備を始めているし、転校の手続きについても調べているそうだ。

母さんに『行ってもいいよ』と言ったのは夏休みの終わりだった。

友達と離れることは寂しいし、向こうでやっていけるのかという不安もある。でも一番渋っていた理由は、響に会えなくなることだ。

せっかく仲良くなれたし、当然のようにこれからも一緒にいられると思っていた。

けれど、好きな人がいるからという理由で俺だけここに残ることは不可能だ。

母さんが故郷で暮らすことを望んでいるのなら、拒否する権利は今の俺にはない。

「岐阜って言ってもそんなに遠いわけじゃないし、行き来できない距離じゃないよ」

これは響にというより、自分に言い聞かせていることだ。

海外に行くわけじゃないし、同じ陸で繋がっているのだから、会おうと思えばいつだって……。

「遠い。……遠すぎるよ」

響の寂しそうな一言が耳に届く。

大人になれば、もう少し広い世界を知れば、東京と岐阜なんて大したことはないんだろう。

でも、なんの力もない十四歳の俺たちには果てしなく遠い距離のように思える。

同じ街ではない。同じ学校ではない。近所でたまたま会うこともない。

それがどんなに大きなことなのか、響の表情を見て改めて実感していた。








俺は病院のベッドの上でスマホを見つめる。消灯時間が過ぎている病室は空調の音がわかるほど静かだった。

あのあと母さんも病室にやって来て、すぐに検査をした。肺のCTを撮ると影は以前見た時よりも倍に膨らんでいた。

このままだと肺以外の場所にも影響が出てしまうかもしれないと言われ、切除するなら早いほうがいいと告げられた。

こっちだって取れるもんなら今すぐにでも取りたい。

でも手術が成功しても俺が生きている保証はない。

右肺を切除したあと俺が自分で呼吸できる確率はどのくらいあるのかと聞いた。

明確な数字は出せないけど、俺の弱った気管から推測すると三十パーセントだと言われた。つまり、手術をしても七十パーセントの確率で俺は死ぬということだ。

そう考えると自分から死に向かうより、その時を待ったほうが長く生きられるかもしれない。

どっちに転がっても命のカウントダウンは見えている。

そういうギリギリのところに俺は立っているんだと思うと、大声で叫びたくなる。



……響は今なにをしてるだろう。

クラス会には行ったんだろうか。

おそらくだけど、早坂に会って俺が来ないことを知って、そのまま帰宅した可能性が高い。

あの時、倒れなければ俺たちは確実に二年ぶりの再会ができるはずだった。

なのに俺の頭にいる彼女は今も十四歳のままだ。

色々悩んで、やっと会う決心をしてたっていうのに結果がこれだ。

……俺たちって、会えないようにできてるのかもしれない。


――『旭が幸せそうでよかった』

ふと、彼女に言われた言葉が頭を過る。

友達がいて、環境にも恵まれていて不満もない。でも、幸せかと聞かれたらきっと違う。

俺は十七歳で人生を終わりにしたくなんてないし、もっとやりたいこともあるし、幸せはこの先にあるって思っている。

できることなら、もう一度響に会いたい。

空白の二年間は埋まらないけれど、あのふたりで過ごした季節を越えたいって思う。

今の彼女のことを知るためには、まず自分が話さなきゃいけない。

俺は震える指先で、彼女に向けて文字を打ち込んだ。


【大事な話がある。時間がある時でいいから電話しよう】




もしも強い人がいるなら、それはきみのような人だと思っていた。

いつも笑顔で、いつも優しくて、いつも誰かに必要とされてるきみは眩しかった。

でも、私が知っているきみのことなんて、ほんの一部なのかもしれない。

私はきみのことを本当はなにひとつ知らないのかもしれないと思ったら……。

寂しいというより悔しかった。


夏休み明けの新学期。課題なんてそっちのけで遊び呆けていたクラスメイトたちがうるさく騒いでいる。

「響、久しぶりー!」

友達たちがぞろぞろと机の周りに集まってきた。みんなの肌がこんがりといい色に焼けている。

海に行こうとか、お泊まり会をしようとか、頻繁に誘いの連絡があったけれど、適当な嘘をついて断った。

遊びたくないわけじゃなかった。

現に夏休み中、私には使いきれないほどの時間があったけれど、みんなの上がり切っているテンションに付いていける気がしなかったのだ。

「この前デイキャンプに行ったけど、めちゃくちゃ楽しかったよ! 今度は響も絶対に行こうよ!」

「う、うん。そうだね」

私はいつまでこんな表面的な付き合いを続ける気なんだろう。

みんな見捨てずにこうして友達関係を続けてくれているのに、仲間には入れないという疎外感が拭えない。

【大事な話がある。時間がある時でいいから電話しよう】

そんな中で私は旭からのメールを思い出していた。

大事な話って……急な用事のことだろうか。



結局、私は旭がいないのなら意味はないとクラス会には出席しなかった。行けなかったことは残念ではないし、旭が来なかったことも怒ってない。

ただ、心配はしている。

本当は旭の身になにかあったのではないかと考えてしまう。

彼からどんな話をされるのかは想像もつかないけれど、私はすぐに【いいよ】と返事をした。予定では今夜八時に電話がかかってくる。


「マキちゃんが付けてるこのリップ超可愛い!」

友達たちは話題を変えて、また動画を食い入るように視聴していた。

……マキちゃん。早坂さん。

本当に可愛い人だった。あんな子が近くにいたら、男子は間違いなく好きになると思う。

旭は……どうなのかな。きっとあの子は旭のことが好きだ。じゃなかったらわざわざ彼の代わりに私に会いに来たりはしないだろうし、言葉の隙間から隠すことのない嫉妬心が見えていた。

――『ねえ、あんたって旭のことどう思ってるの?』

私はなんにも言えなかった。

あの日だってそうだ。私はなにも言葉にしないまま、平気なふりをしてただけ。






気づけば旭の引っ越し日である前日を迎えていた。

ついこの間までセミが鳴いていたというのに、新緑は枯れ落ちて、白い息が目立つようになっていた。

「あ、やっぱり響もそれ?」

今日私たちはまたレトロな喫茶店に来ていた。以前出掛けたように街探索をしながら写真を撮り、お腹がすいたからとこの店を選んだ。

サンドイッチやハンバーグと美味しそうなメニューがたくさんあるのに、私たちはまたオムライスを注文した。

「前より俺たち堂々としてない?」

クローバーのスプーンを口に運びながら旭が言う。

「でもカウンター席はいかがですかって聞かれた時、ものすごく動揺してたじゃん」

「いや、カウンター席はまだハードルが高い」

旭は引っ越すと打ち明けてくれた時から、なにも変わらない。

私はきっと寂しい気持ちが顔に出ていると思うけど、そういうのも感じられない。

旭は……平気なんだろうか。

地元を離れるって相当なことだと思うし、引っ越すことが伝えられた学校ではみんな大騒ぎだった。

彼と仲良くしていた友達は激しく戸惑い、彼に好意を寄せていた子は泣いていた。

いつでも側にあると思っていた太陽がいなくなる。

その喪失感は言葉では語れない。

「こういう喫茶店が似合う大人になれたらいいよな」 

「……そう、だね」

私もオムライスを口に運ぶ。

私は先のことなんて考えられない。

このまま明日を迎えずに、旭のことを引き止めていたい。



店を出て、私たちは再び歩き始めた。

目的地を決めずに行きたい場所にいき、好きなものにスマホを向けた。

彼とこうやって出掛けるのは最後かもしれないのに、なにをしてもなにを話していても楽しくて、まるでデートみたいだと思った。

そして夕方になり、私たちの別れの時間が近づく。明日クラスメイトたちは旭のことを見送るためにバス停に集まると言っていた。

「響は来ないんだろ?」

「……うん。明日は用事があって」

「そっか。なら仕方ない」

ごめん、旭。本当は用なんてないんだよ。

でもちゃんと見送れる自信がないし、手も振れるかわからない。

もしかしたら寂しさで崩れ落ちてしまうかもしれない。

そんな姿を見せたら、旭が心配する。

バスにだって乗りづらくさせてしまうと思うから。

「旭なら新しい土地に行っても上手くやれるよ」

「うん。俺もそう思う」

「もしこっちに帰ってくることがあれば連絡して。あ、べつに強制じゃないからしなくてもいいけど」

「はは、なんでだよ。するする」

嘘をついて明日の見送りを断ったんだから、今日は明るくいたいって思うけれど、泣かないことで精いっぱいで言葉を探せない。

「あのさ」

「うん」

「あのね」

「うん」

「今までありがとう」

たくさん言おうとしてたことがあったのに、結局ありきたりなことしか言えなかった。



ねえ、旭は本当にこの街を離れていいの?

未練はない? 

後悔はない?

私と……離れることはどう思ってる?

明日になれば、本当に会えなくなるんだよ。

おはようもおやすみもごめんねもありがとうも直接言えなくなる。

旭って呼んでも振り向いてくれない。

響って心地いい声で呼ばれても私だって振り向けない。

そのくらい遠い場所に行くってことなんだよ。なのに……。

「こっちこそ、ありがとう。住所がわかったら連絡するから」

なのに、なんでそんなに平気なの?

旭にとって自分が特別な存在だなんて思ったことはない。

近くにいたからって、自惚れてもない。

でも、散々私の世界に入ってきたくせに、あっさり出ていくなんて、それはね、ズルいよ。

ズルすぎるよ、旭。


「うん、わかった」

でも、私は思っていることを口には出さなかった。

泣かないことが、すがらないことが、問いたださないことが、自分と彼のためになると思ったからだ。 


「ばいばい、旭。またね」

〝また明日〟はもう言えない。締め付けられるくらい胸が痛かったけど、私は笑った。

彼がいつも明るい気持ちにさせてくれたように、私も明るくさよならしたかった。


「おう、またな……!」

旭が私の頭を優しく撫でる。大きくて温かな手がそっと離れた時、本当にもうこれでお別れなんだと思った。

彼は眩しいほどの笑顔を残して、私から一歩、また一歩と離れる。

それが私たちの、十四歳の旭との、最後の時間だった。