「この写真面白いですね」
そのうちに校舎が騒がしくなり、ぽつりぽつりと写真展に人が入ってきた。
やっぱり彼女の写真は興味深いようで、「どうしてこれを撮ろうと思ったんですか?」なんて、質問もされている。
困っていたらフォローするつもりでいたけれど、響は不器用ながらに一生懸命自分の言葉を紡いでいた。
出逢った頃は身体中から棘が生えているんじゃないかと思うほど角立っていたのに、今はちゃんと自分以外の人をわかろうとしている。
その変化を嬉しく思う反面、大人になっていく彼女に少しだけ寂しさも感じている。
できればその姿をこれからも傍で見ていきたいけれど……。
願いと現実は時として大きく離れた場所にあったりする。
「うわあ、この写真綺麗……!」
小学生くらいのふたり組が見上げる先には、仲良く並んでいる二枚の写真がある。互いに一番気に入ってる写真は引き伸ばそうと決めていて、俺と響が選んだのは……。
「これ写真部の部室から見える夕日なんだよ」
俺は得意げに説明する。打ち合わせをしたわけでもないのに、俺たちは一番最初にスマホで撮ったこの写真を大きく飾った。
同じ夕日を二枚並べると、まるで一枚の絵になったようで。きっと響とじゃなきゃ残せなかったものだ。
そして無事に文化祭が終わり、誰もいなくなった教室でふたりだけの打ち上げをすることにした。
「お疲れ」
クラスの出し物で余った缶ジュースで乾杯をする。
「うん。お疲れさま。クラスの打ち上げのほうに行かなくてよかったの?」
「だって俺、ほとんど写真部のほうにいたしさ。まあ、響が行くなら行ってもいいけど」
「行かない。ってか誘われてないし」
「はは」
「笑うとこ?」
「いや、その清々しさがいいなと思って」
響と作り上げた写真展は思いのほか好評だった。実は俺も不安に思っていた部分があったけれど、今はやってよかったと心から思う。
「私、最初の頃、旭のこと苦手だった」
「え、そ、そうだったの?」
唐突に言われた告白に、缶ジュースを落としそうになった。
「うん。いい人を演じてる腹黒だと思ってたよ」
「そういや人に好かれすぎて怖いって言われたよな」
あれはびっくりというより笑った。思っていても普通は口に出さないだろうって。
最初は俺も響に対しての接し方は手探りだった。
どんな人か気になって声をかけたけれど、市川響という女の子を知れば知るほど、俺はその魅力に惹かれていった。
「猫を追いかけて神社の石段を上ったことも面白かったよな」
「旭が息切れしまくってた時だよね」
「そうそう。そのおかげで押し付けられそうになってたリレーを響が走るって宣言してくれた」
「旭がはっきり断らないからだよ」
「嬉しかったよ、マジで」
彼女との思い出は尽きることがない。
種を植えるために花壇の草とりをしたことも。
その種に芽が出た時、雨を気にして傘を差してあげていたことも。
初めて一緒に出掛けた日のことも。
響のことを好きになるには十分すぎるほどの時間だったと思う。
「これからもずっと一緒にいて同じ時間を過ごしていければいいのにな……」
俺は小さな声で、ぽつりと呟いた。
おそらく言葉とは裏腹に暗い表情を隠せていなかったんだろう。響が不思議そうに首を傾げていた。
「なんでそんなに悲しそうなの?」
ずっといつ言おうか迷っていたけれど、文化祭が終わって一段落したら伝えようと決めていた。
「俺、引っ越すことになったんだ」
「え……?」
響は驚いたように目を見開いていた。
「岐阜。母さんの故郷」
「な、な、なんで急に……?」
「俺の喘息のこともあるし前から話し合ってたことだったんだ。区切りがいいように二学期が終わって冬休みにはあっちに行く予定になってる」
母さんはすでに向こうで暮らす準備を始めているし、転校の手続きについても調べているそうだ。
母さんに『行ってもいいよ』と言ったのは夏休みの終わりだった。
友達と離れることは寂しいし、向こうでやっていけるのかという不安もある。でも一番渋っていた理由は、響に会えなくなることだ。
せっかく仲良くなれたし、当然のようにこれからも一緒にいられると思っていた。
けれど、好きな人がいるからという理由で俺だけここに残ることは不可能だ。
母さんが故郷で暮らすことを望んでいるのなら、拒否する権利は今の俺にはない。
「岐阜って言ってもそんなに遠いわけじゃないし、行き来できない距離じゃないよ」
これは響にというより、自分に言い聞かせていることだ。
海外に行くわけじゃないし、同じ陸で繋がっているのだから、会おうと思えばいつだって……。
「遠い。……遠すぎるよ」
響の寂しそうな一言が耳に届く。
大人になれば、もう少し広い世界を知れば、東京と岐阜なんて大したことはないんだろう。
でも、なんの力もない十四歳の俺たちには果てしなく遠い距離のように思える。
同じ街ではない。同じ学校ではない。近所でたまたま会うこともない。
それがどんなに大きなことなのか、響の表情を見て改めて実感していた。
*
俺は病院のベッドの上でスマホを見つめる。消灯時間が過ぎている病室は空調の音がわかるほど静かだった。
あのあと母さんも病室にやって来て、すぐに検査をした。肺のCTを撮ると影は以前見た時よりも倍に膨らんでいた。
このままだと肺以外の場所にも影響が出てしまうかもしれないと言われ、切除するなら早いほうがいいと告げられた。
こっちだって取れるもんなら今すぐにでも取りたい。
でも手術が成功しても俺が生きている保証はない。
右肺を切除したあと俺が自分で呼吸できる確率はどのくらいあるのかと聞いた。
明確な数字は出せないけど、俺の弱った気管から推測すると三十パーセントだと言われた。つまり、手術をしても七十パーセントの確率で俺は死ぬということだ。
そう考えると自分から死に向かうより、その時を待ったほうが長く生きられるかもしれない。
どっちに転がっても命のカウントダウンは見えている。
そういうギリギリのところに俺は立っているんだと思うと、大声で叫びたくなる。
……響は今なにをしてるだろう。
クラス会には行ったんだろうか。
おそらくだけど、早坂に会って俺が来ないことを知って、そのまま帰宅した可能性が高い。
あの時、倒れなければ俺たちは確実に二年ぶりの再会ができるはずだった。
なのに俺の頭にいる彼女は今も十四歳のままだ。
色々悩んで、やっと会う決心をしてたっていうのに結果がこれだ。
……俺たちって、会えないようにできてるのかもしれない。
――『旭が幸せそうでよかった』
ふと、彼女に言われた言葉が頭を過る。
友達がいて、環境にも恵まれていて不満もない。でも、幸せかと聞かれたらきっと違う。
俺は十七歳で人生を終わりにしたくなんてないし、もっとやりたいこともあるし、幸せはこの先にあるって思っている。
できることなら、もう一度響に会いたい。
空白の二年間は埋まらないけれど、あのふたりで過ごした季節を越えたいって思う。
今の彼女のことを知るためには、まず自分が話さなきゃいけない。
俺は震える指先で、彼女に向けて文字を打ち込んだ。
【大事な話がある。時間がある時でいいから電話しよう】
もしも強い人がいるなら、それはきみのような人だと思っていた。
いつも笑顔で、いつも優しくて、いつも誰かに必要とされてるきみは眩しかった。
でも、私が知っているきみのことなんて、ほんの一部なのかもしれない。
私はきみのことを本当はなにひとつ知らないのかもしれないと思ったら……。
寂しいというより悔しかった。
夏休み明けの新学期。課題なんてそっちのけで遊び呆けていたクラスメイトたちがうるさく騒いでいる。
「響、久しぶりー!」
友達たちがぞろぞろと机の周りに集まってきた。みんなの肌がこんがりといい色に焼けている。
海に行こうとか、お泊まり会をしようとか、頻繁に誘いの連絡があったけれど、適当な嘘をついて断った。
遊びたくないわけじゃなかった。
現に夏休み中、私には使いきれないほどの時間があったけれど、みんなの上がり切っているテンションに付いていける気がしなかったのだ。
「この前デイキャンプに行ったけど、めちゃくちゃ楽しかったよ! 今度は響も絶対に行こうよ!」
「う、うん。そうだね」
私はいつまでこんな表面的な付き合いを続ける気なんだろう。
みんな見捨てずにこうして友達関係を続けてくれているのに、仲間には入れないという疎外感が拭えない。
【大事な話がある。時間がある時でいいから電話しよう】
そんな中で私は旭からのメールを思い出していた。
大事な話って……急な用事のことだろうか。
結局、私は旭がいないのなら意味はないとクラス会には出席しなかった。行けなかったことは残念ではないし、旭が来なかったことも怒ってない。
ただ、心配はしている。
本当は旭の身になにかあったのではないかと考えてしまう。
彼からどんな話をされるのかは想像もつかないけれど、私はすぐに【いいよ】と返事をした。予定では今夜八時に電話がかかってくる。
「マキちゃんが付けてるこのリップ超可愛い!」
友達たちは話題を変えて、また動画を食い入るように視聴していた。
……マキちゃん。早坂さん。
本当に可愛い人だった。あんな子が近くにいたら、男子は間違いなく好きになると思う。
旭は……どうなのかな。きっとあの子は旭のことが好きだ。じゃなかったらわざわざ彼の代わりに私に会いに来たりはしないだろうし、言葉の隙間から隠すことのない嫉妬心が見えていた。
――『ねえ、あんたって旭のことどう思ってるの?』
私はなんにも言えなかった。
あの日だってそうだ。私はなにも言葉にしないまま、平気なふりをしてただけ。
*
気づけば旭の引っ越し日である前日を迎えていた。
ついこの間までセミが鳴いていたというのに、新緑は枯れ落ちて、白い息が目立つようになっていた。
「あ、やっぱり響もそれ?」
今日私たちはまたレトロな喫茶店に来ていた。以前出掛けたように街探索をしながら写真を撮り、お腹がすいたからとこの店を選んだ。
サンドイッチやハンバーグと美味しそうなメニューがたくさんあるのに、私たちはまたオムライスを注文した。
「前より俺たち堂々としてない?」
クローバーのスプーンを口に運びながら旭が言う。
「でもカウンター席はいかがですかって聞かれた時、ものすごく動揺してたじゃん」
「いや、カウンター席はまだハードルが高い」
旭は引っ越すと打ち明けてくれた時から、なにも変わらない。
私はきっと寂しい気持ちが顔に出ていると思うけど、そういうのも感じられない。
旭は……平気なんだろうか。
地元を離れるって相当なことだと思うし、引っ越すことが伝えられた学校ではみんな大騒ぎだった。
彼と仲良くしていた友達は激しく戸惑い、彼に好意を寄せていた子は泣いていた。
いつでも側にあると思っていた太陽がいなくなる。
その喪失感は言葉では語れない。
「こういう喫茶店が似合う大人になれたらいいよな」
「……そう、だね」
私もオムライスを口に運ぶ。
私は先のことなんて考えられない。
このまま明日を迎えずに、旭のことを引き止めていたい。