「え?」
その声に驚き、一瞬で涙が止まる。
この部屋には、誰もいないはずだ。
なのに、男性の低い声が聞こえた。
パチパチと瞬きをすると、紺色の着物姿の男性が、私の目の前に立っていた。
「遅くなったな。俺の嫁になる決心はついたか?」
彼は私の頬に手をかけ、自分の方を向かせる。
「――っ」
端正な顔立ちの人だ。
深くて澄んだ黒い瞳。濡れ羽色の髪の毛。真っ白な肌。
どれも人間の物とは思えないくらい美しくて、思わず見とれてしまう。
けれど骨格はがっしりとしていて、弱々しい印象はない。
なんて素敵な人だろう。
彼に数秒見惚れた後、私ははっとして言葉を発した。
「あ、あなた誰なんですか!? 鍵をかけたはずなのに、どうやってここに入ったの!?」
もしかして、不審者だろうか。助けを呼んだ方がいい!?
「何だ、もしかして俺のことを忘れてしまったのか?」
少し残念そうに言うその声に、なぜか強い懐かしさを覚えた。
それに彼の深い瞳と、悪戯っぽい笑みにも見覚えがある。
遠い夏の日の記憶が、急に鮮明になったように思えた。
蝉の鳴き声。照りつける日差し。手を繋いで、潮の香りのする坂道をどこまでも走った。
「……廉冶? まさか、廉冶……さんなの?」
「なんだその呼び方は。よそよそしいな」
「だって……!」
私が知っていた廉冶は子供で。
成長するのは当たり前だけど、突然こんな風にかっこよくなって目の前に現れても、まるで知らない人のようだと思ってしまう。
「まぁいい、好きに呼べ」
そう言ってぐっと手を引かれ、彼の腕の中に抱き寄せられる。
顎に手を当てられ、視線をあげると鼻先が触れそうな距離に、彼の顔があった。
その深い瞳に縫い付けられる。
「約束通り、迎えに来た。俺の花嫁になれ、弥生」