初耳だ。

 私の問いかけを受け、藍葉さんは凍り付いた。
 思っていることが全部表情に出る人だ。
 彼は土下座する勢いで私に頭を下げる。

「ちっ、違うんです! ごめんなさい、私バカで、いつもつい余計なことを言ってしまうんです! 今のは忘れてください!」

「いえ……」

 モデルの咲坂レナ……って、何誌もの表紙を飾っていて、海外のコレクションにも頻繁に呼ばれてて、最近は女優としても活躍している、あの咲坂レナだろうか。
 存在感のある美人で、八頭身でスタイルもいい。日本で一番美しい女性だなんて言われて、海外からも注目されている人だけれど。

 そんな人と廉冶さんが個人的に会っていた?
 比べるまでもなく、勝ち目がない。

 私がショックを受けているのが伝わったからか、部屋の空気が気まずくなる。
 藍葉さんは慌てて退去しようとする。

「あ、あの、そそそれでは先生、私はこの辺りでお暇します」

「まてこのアホ狸、余計な禍根を残して行くな! 誤解を解いていけ!」

 廉冶さんが振りかざした腕をひらりとすり抜け、藍葉さんは玄関から飛び出した。

「では先生、作品の納期だけは何卒守っていただけますようにー!」

「うるせぇ! さっさと帰れ!」


 よく喋っていた藍葉さんがいなくなり、仕事部屋にしんと沈黙が落ちる。
 私は廉冶さんの正面に立ち、彼に問いかけた。

「廉冶さん、咲坂レナさんとお知り合いなの?」

「あぁ、まぁな」

「一時期、よく家に来てたって、どういうこと? 私には会いに来なかったのに、モデルとは会ってたんだ」

 私は廉冶さんが迎えに来てくれるまで、ずっと会えなかったのに。他の女の人とは会っていたんだ。
 藍葉さんの話だと、数年前から仕事をしていたみたいだし。

 やっぱり私を迎えに来たのなんて、何かの間違いなんじゃないか。考えれば考えるほど、悲しくなってきて、涙が出そうになる。

「私より、その人と結婚した方がよかったんじゃないの?」

 静かに私の声を聞いていた廉冶さんは、耐えられなくなったように大声で笑う。

「アハハハハハハ!」

「何がおかしいのっ!」

「いや、弥生が嫉妬してくれてるのは嬉しいし、かわいいけど」

「べ、別に嫉妬じゃ……」

「咲坂レナは俺の姉だ」

 あっさりと言いきられ、ぽかんと口が開く。

「えっ!? そうなの!? でも名字も違うし!」

「芸名だからな。ちなみに姉も人間じゃなくて、神様な」

 廉冶さんは子供にするように私の頭をガシガシと撫でる。

「最初っから、弥生以外の女なんかまったく興味ないから。安心したか?」

「別に……」

 正直な所、ほっとした。

「そうなんだ……。でも神様って、やっぱりすごい人ばかりなのね。
廉冶さんも、レナさんも。それに、人間の世界で暮らしている神様って、廉冶さんの他にもいるのね」

 廉冶さんは私と手を繋ぎ、穏やかな声で言った。

「あぁ、何人かいるよ。俺もレナも、しきたりとかそういうのが嫌いでな。
天界での生活みたいなのが嫌になって、人間の世界で生活してるんだ。
ただ、人間の世界で暮らすとなると、他のやつから反対されたり、色々面倒なこともあってな。そのことで姉にも色々相談してたんだ」

「しかし廉冶さん、二年以上前から人間として暮らしてたってこと?」

「その時期は、上の世界と人間の世界を行ったり来たりしてたんだ。その頃の俺は、まだ不安定な存在だったから。
神ってな、食べたり寝たりしなくても生きていられるんだ」

「えっ、そうなの!?」

「あぁ。それに神だと、当然ながら色々力を持っている。たとえば弥生ができるような、何かを癒やす力もそうだし、物を生み出したり、消したり、育てたり、壊したり。
具合が悪くなることもなければ、病気になることもない。だけど人間だと、当然そうはいかないだろ? その切り替わりが辛くてな」

 彼の話を聞くと、昔の廉冶さんは、本当に万能だったのだろう。
 それに比べ、今の廉冶さんが食事や睡眠なしに活動できるとは思えない。

「でも今の廉冶さんは、違うんだよね?」

「人間の世界で生活する代わりに、俺が使える力のほとんどは、取り上げられちまったんだ」

「取り上げられた……」

「今はどこにいても、この島に戻ってくる力があるくらいだ。ほとんど普通の人間と変わらない」

 まぁ、どこにいてもこの島にワープできるのは、ある意味便利だけど。
 そういえば最初に会った時も、関東のホテルからこの島まで一瞬で飛んだものね。

「とはいえ本当に追いつめられた時は、神だった頃の力も使えるけどな。まぁ、代償が大きいからあんまり使いたくないな」

「だとしたら、神様でいたほうが、色々できたんじゃないの?」

「それはそうだな」

 そう答えてから、廉冶さんは私を見つめて、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。

「だけど仕方ない。それだけここで暮らしたいと思う理由ができたからな」

 私は胸がドキリとした。
 そこまでして暮らしたい理由って……私もその理由の一つだと思ってもいいのだろうか。

「あと、仕事が安定するまではかっこ悪いと思って、弥生を迎えに行けないのもあって」

 そんなことを気にしていたんだ。

「人間の身体になって初めて飢えとか痛みを知ったけど、辛いな本当に。
最初に書道家になった頃はもう全然食えなくてさー、仕方ねーから道端に生えてる草とか食べてた」

「それはまたずいぶんアグレッシブなことを」

「弥生にこんな思いをさせるわけにはいかないと思って、頑張ったけど軌道に乗るまで三年もかかっちまった」

「三年で世界的に有名な書道家になれたなら、早いと思うけど」

 廉冶さんはさっきのことを思い出したのか、拳をぎゅっと握り締めた。

「しかし藍葉のやつ、ほんとに抜けてるんだよな。弥生の前で訳の分からないことを言いやがって……。わざとじゃないだろうな」

「いやぁ、さすがに」

 私は苦笑した。わざとだったら腹黒すぎるけど、そんなことはないんじゃないだろうか。

「もし本当にレナが前の恋人だったら、どうするつもりだったんだ」

 私はさっきまで廉冶さんが書いていた作品に視線を落とす。
 私から見ればどの字も上手だけれど、出来が気に入らないのか、同じ言葉を書いた半紙が大量に広がっていた。

「廉冶さんは、どうして書道の道に進もうと思ったの?」