翌朝になっても、廉冶さんは朝食に現れない。
 私はいつものようにマオ君を幼稚園に送り、それでも廉冶さんが起きてこないので、彼の仕事部屋の扉を開いた。

 すると寝室まで行かず、仕事部屋の畳の上で眠っている廉冶さんを発見した。
 私はぎょっとして彼の身体を揺さぶる。

「廉冶さん、こんなところで寝ちゃダメですよ!」

 廉冶さんは私の声でハッとしたように眠りから目覚める。

「今何時?」

「え? えっと、朝の九時ですけど」

 廉冶さんはふらふらしながら起き上がる。

「やべぇ、雑誌の質問の回答かえさなきゃいけねぇんだった。弥生、起こしてくれてありがと」

 私は彼の着物の背中辺りをぎゅっと引っ張った。

「廉冶さん、ちゃんと朝ご飯食べてください!」

「あぁ……でも、あんまり食欲がなくてな」

 私は顔を洗いに行く廉冶さんを見送りながら考える。
 廉冶さんと最後に一緒にご飯を食べたのっていつだっけ。ここ数日、しばらくまともに食事をとっていない気がする。

 どうにかしたいけれど、どうすればいいのか分からない。
 考えこんでいるうちにマオ君を幼稚園に送る時間になったので、私は家を出た。


「どうしたものかなぁ」

 夕方、マオ君を幼稚園にお迎えに行き、二人で手を繋いで帰りながら、廉冶さんのことを考える。

「お父さん、お仕事やりだすと、そればっかり考えちゃう時があるので」

「お仕事に一生懸命なことはいいことだけどさ。限度があるよね」

 二人で悩みながら、家に入ろうとすると、家の玄関の前に、知らない男の人が立っていた。

 服装は、カチッとしたビジネススーツだ。

 この島の人は、自営業だったり漁業関係の人、自分の家の畑を耕す人が多かったりで、スーツを着ている人はほとんどいない。そういう意味でも珍しかった。
 しかも、彼はなぜか半泣きだ。子供ならともかく、大人なのにここまで弱った表情の人を見る機会はなかなかない。
 彼は泣きそうな声を張り上げて、必死に玄関の扉を叩いていた。

「先生、開けてくださいよー! 私に嫌がらせをしても、仕事の納期は延びませんよー! 先生、聞こえてますか? 先生、開けてもらえるまで絶対に帰りませんからね!」

 私はどういう状況だろうと悩みつつ、彼に問いかける。

「あのぅ……家に何か御用ですか?」

 私が声をかけると、彼はひゃっと飛び上がった。

 小柄で気の弱そうな印象を受ける。
 私と目線の高さがそんなに変わらない。160センチくらいだろうか。

 顔つきが頼りないせいもあり、スーツを着ていなかったら、高校生くらいだと思ったかもしれない。

「私はあやしいものではありません! 成瀬先生のマネージメントを勤めさせていただいてるものでして!」

「マネージメント?」

 私が首を傾げ、お互いに焦っていると、私の後ろにいたマオ君が彼の名前を呼んだ。

「あ、藍葉(あいば)さんです」

 彼は自分を知っている人間が現れてほっとしたようだ。マオ君の手をきゅっと握った。

「マオ君、お久しぶりです!」

「マオ君、知ってるんだね」

「はい、藍葉さんはお父さんのマネージャーさんです」

「え、廉冶さんマネージャーさんなんているんだ。鍵、開いてませんでした?」

 藍葉さんはまた泣きそうな顔で私に訴える。

「はい、最初は開いてたんですけど、先生、私の顔を見た途端に鍵をかけました!」

「あはは……」

 この島の人たちは、めったに家の鍵を閉めない。
 都会なら不用心な、と言われそうだけど、この島に住んでいる人は知り合いばかりだ。

 だから知人の家に用があって家人が留守だと、勝手に入って玄関で待たせてもらうのもよくあることみたいだ。
 実際、廉冶さんの生徒さんも、家の玄関に座って廉冶さんのことを待っていたりするし。

 それを考えると、廉冶さんは普段鍵をかけていないのに、わざわざ彼に入られないように戸締まりしたのだろうか。