誰が為の、どうか、君へ。

...

 土曜日、本来なら大学はないはずなのに休日にレポートの締め切りを設定する悪趣味な教授がいるおかげで、せっかくのゆっくり過ごせる午前中を潰して大学にレポート提出に来た。いつもなら前もって取り掛かるけど、締切日をうっかり落としてしまった自分の過失でもある。わたしの顔を見た教授から「あはは、“いい顔”しているね」と嫌味を言われて腹が立ったけれど、まあ無事提出できたから良いかと気持ちを収めた。

 今は午後5時。今日は和烙と陽の家庭教師のバイトがない、ここ最近では珍しく1日フリーの日だった。このまま真っ直ぐ帰っても良いけれど、何だか気分はスッキリしている。教授の一言がなければもっと晴々とした気持ちだったのに。自分でもアンバランスな情緒だなと思う。

 そういえば今日はろくに食べていない。そのせいで気持ちがよりムカムカするのかもしれない。適当にどこかで買い食いをしようか、それとも店でも入るかと大学近くの、商店街をぶらぶらしていると、ふと、古びたビルの前を通りかかった。1階の入口脇に、映画のポスターが何枚か並んでいる。その1枚に、あの人が作った映画。そういえば、公開日は陽と会った日だったか。
 
 ふらりと、よく考えるよりも先に足が映画館に向く。

 次の上映時間は、15分後だった。受付で、ちょうどカップルらしき男女が『海が青いなら、』と口にしている。公開日から2ヶ月近く立っていても、まだ観る人はいるんだなと考える。

 ただの興味本位。あんな人が作った映画、観たくもない。そう胸の中で悪態をつきながら、頭の中では昔一度だけ観たあの人が作った映画のことを思い出していた。 

 まだ、家族になる前だった。

 わたしの父は、わたしが5歳の時に駅のホームから線路に転がって、電車に轢かれて死んだ。父は、きっと誰かに背中を押されたのだと思う。押した人間は、今もわからない。わたしは、父がどんな性格で、どんな声で、どんなことで笑って、何が好きで、嫌いなのか、知らない。でも、自殺のはずがない。そんなことをするような人ではない。それなのに、父は死因は自殺になった。

 父が死んでからは、母と2人きりの生活だった。母は、社会に出て働くよりも家の中での生活を楽しむことの方が好きな人だから、パートを週6入れて働かなければ生活が維持できなくなったことに相当なストレスを感じていたと思う。父にも母にも、頼れる親戚はいなかった。わたしは保育園の延長保育常連となって、母が迎えに来る時間はいつも閉園ギリギリだった。

 そんな生活の中で、母はよくわたしに謝っていた。寂しい思いをさせてごめんねとわたしを抱きしめながら泣いていた。わたしは、父が死んだことは悲しかったけど、母がいたから寂しくはなかった。今思えば、寂しかったのは母の方だったのだと思う。

 そして、わたしが小学校に入って父の一周忌が過ぎた頃に、母と初めて映画館に行った。観る映画は母が決めていて、その時流行りのアニメ映画ではなくて、子どもには難しい内容の映画だった。映画館の照明の暗さも相まって、物語の中盤から寝てしまった。それを観終わった後、母に喫茶店でパフェを食べようと誘われて、わたしは昼寝もたっぷり出来て今日はなんて贅沢な日だろうと思った。 

 でもそれは、ただのわたしのご機嫌取りで、母はその場に知らない男を呼んだ。中肉中背の、肌の色がわたしや母よりも、記憶の中の父よりも少し濃くて、一重で、着ているジャケットの肩周りが少しパツパツとした、おじさん。母は「この人はあの映画を作った人で、今日から小夜子のパパになる人だよ」と、どこか照れたような表情で言った。

 あのとき、血の気が引いていくような感覚は今でも時々思い出す。わたしは父とは似ても似つかないそのおじさんが、得体の知れない物体にしか思えなかった。「小夜子ちゃん、よろしくね」と言った言葉に寄り添いなんて感じられず、ただじっとりと言い聞かせるみたいだった。母の隣にはわたしのお父さんがいたのに。こんなにあっさりと、その場所が奪われるだなんて。わたしは死んだ父があまりに可哀想に思えて、その日の夜にひとりで泣いた。

 わたしの地獄が始まったのは、それからだ。

 「あの、お客さま」

 顔を上げると、受付の年配の女性スタッフがこちらを窺うように見ていた。「その映画、もうすぐ上映しますけど、どうします? 今日はレディースデーだから、いつもよりお安いですよ」と言われ、返事をするつもりはなかったのに「あ、えっと……」と言いながら、カバンから財布を取り出していた。

「席は自由ですので、お好きな席に座ってくださいね」

「はい……」

 500円割引がされても、2,000円の出費。あの映画に支払ってしまったと思うと痛い。この紙切れを捨てるのが癪に思えた。有名だか何だか知らないけど、あんな男が作ったものなんて死ぬほど下らないものに決まっている。係員にチケットを渡して、2番シアターに向かう。既に予告が流れ始めていて、他の客の顔が薄暗く照らされる。薄らとさっきのカップルの顔がぼんやりと見えた。後方の席はちらほらと人が座っていたので、彼らとはなるべく離れた前方の端の席に座った。

 背後からこそこそと小さな声が聞こえる。その他の席からも、誰かと話す声が聞こえる。今ここにいる観客全員に、あの男が何をしていたかばらしたらどうなるだろう。知ったら、みんなここから立ち去ってくれるだろうか。

 また耳鳴りだ。ジリジリと、乾いた肌と布団の擦れる音がする。

 周りの音が途端にしんと静まり返って、照明が落ちた。そのせいで、耳鳴りがより強くなる。ジリジリと、あの手が、ゆっくりと身体に添う感覚が蘇る。

 脂汗が出て来て、胃から何か込み上げてくる。全身鳥肌が立ったみたいに寒気がしてくる。もう無理だと思って、席を立とうと顔を上げると目の前のスクリーンには夕陽が沈もうとしている海が映し出された。黒に近くなった青色の海に、陽の色のオレンジが点在しながらゆらゆらと揺れている。さざ波の音に、全身が包まれる。

 綺麗だと、思ってしまった。それが悔しくて、やっぱり席を立った。シアターを出ると、上映を終えたらしい他のシアターから人が出てきたのでそれに紛れてチケット売り場まで出た。人の声や映画のプロモーションの音声でざわざわとしていて、落ち着かない。

 まだ、身体が緊張から解れていない。背筋に、嫌な汗が伝う。指先が、痺れてくる。汚い、汚い、わたしは……。

 「小夜子さん?」

 名前を呼ばれた気がした方に視線を向けると、そこには陽の姿があった。普段なら、えっ、と驚きそうな場面だったけれど、今のわたしはそんな余裕すらなくて「あぁ……」と小さく声を漏らしただけだった。

 「奇遇ですね。 映画、見終わったところですか?」

 陽は小脇に特大サイズのポップコーンとコーラを抱えている。この古びたビルにはなんだか不釣り合いなあまりのポップコーンのボックスの大きさに思わずふっと笑いが溢れた。

 「……途中で出てきたんです。 なんか、合わないなと思って」

 陽はわたしの手元に視線を落とす。チケットの半券を握ったままだったので、何の映画を観ていたかバレてしまったかもしれない。

 「そうなんだ。 ……もしかして、具合悪い?」

 顔を傾げてわたしの顔を少しの覗き込むように見る。ぎくりとして目を逸らそうとしたとき、陽の左の頬が赤くなっているのに気が付いて「どうしたの、それ」とつい聞いた。なにが?と言いたげな顔をする陽に、わたしは自分の頬を触って「ここ、赤い」と示すと、陽は「そう?」となんてことないみたいな顔をした。それが少しだけわざとらしく見えて、触れられたくはないのかなと思ってそれ以上追及はしなかった。

 「それより、小夜子さんは? 大丈夫?」

 「わたしは大丈夫だけど……」

 「よかった。 そしたら、他の映画観ませんか?」

 陽はモニターを指差して「なんか、ご飯の映画っぽいやつなんだけど」とわたしにチケットを見せる。その映画は『ねこ島食堂』というタイトルだった。

 「よし。 小夜子さん、ちょっとこれ持ってて」

 陽はわたしにポップコーンとコーラを預けてチケット受付の方に向かって行った。わたしがポカンとしている間に陽は笑顔でこちらに戻って「はい、これ」と映画のチケットを渡してきた。

 「小夜子さん、なんか飲みます?」

 「え、いや……」

 「観る時は、何も飲まない派?」

 「そういう訳でもないけど……」

 「じゃあ、なんか買いましょうよ」

 「ちょっと、自分で買います。 映画代も」

 「いい、いい。 いらない」

 陽は変なところで頑固だ。でも、わたしも多分同じ。飲み物一杯、チケット一枚でああだこうだ言って、わたしが勝ち取れたのは飲み物一杯だった。「ポップコーンはキャラメルとバター醤油どっちもあるから、半分こにしましょう」と、なぜか得意げに言う陽のペースに完全に呑まれているなあと思いながら「ありがとう」と伝えたら、陽は嬉しそうに笑った。

 あらすじもなにも知らずに観た『ねこ島食堂』は、都会の出版社で長年勤めていた仕事一筋の独身中年女性が、ひょんなことから離島で食堂を始めることとなり、様々な島民たちと食堂を通じて関わっていきながら自分の人生を見つめ直していく話だった。劇中では、時間がゆっくり流れていたけれど、わたしは惹き込まれていたのかあっという間だった。内容以外にも、大きなスクリーンに映し出される料理たちが本当に美味しそうで、あるはずのない醤油やだしの香ばしい匂い、ホットケーキを焼いて食べるシーンではバターとシロップの甘い香りがしてくる気さえした。今日はレポートを書き上げるのに必死でまだ何も食べていないわたしにはとんでもない飯テロで、何回かお腹が鳴ってしまった。陽に聞こえてるかもと思うと、隣を見れなかった。

 エンドロールまで観て座席を立ち、シアターの暗い通路を抜けると、陽が唐突に「めっちゃ、お腹空きません?」と言った。わたしはやっぱりお腹の音が聞こえていたのだとカアッと顔が熱くなったが、陽はどこか恥ずかしそうに「俺、見てる途中からお腹鳴りそうだったんです」とお腹をさすっていたので、つい「わたしも」とこぼした。どうやら、お腹の音は聞こえていなかったらしい。

 じゃあ、決まり!と陽はスマホを取り出して近くの飲食店を調べ始める。小夜子さん、何が食べたいですか?あ、映画で出てきたので一番何が美味しそうでした?と普段よりも声を弾ませて早口で言う。相当お腹が空いていたんだな。
 
 お店はどこがいいかなぁと視線を宙に浮かせたとき、目についた洋食のファミレスチェーン店を指差した。

 「ファミレス? あ、映画にもあったね」
 
 確かに、劇中の離島にはファミレスがなく、お子様ランチが食べたいという男の子とシングルマザーの母親に主人公がオムライスやハンバーグ、エビフライなどを作ってあげるシーンがあった。わたしは、未成年と居酒屋に入るわけにもいかないしなぁと思ったところに丁度あったから、とは言わずに、陽の言葉に「うん」と頷いた。陽は「賛成!」と、まだ何も食べていないのに映画のあの小さな男の子のように無邪気な笑顔で言った。
 
 店は土曜日の夜ということもあって店内はすでに満席だった。ただ、タッチパネルには残り1組と表示されていたので、そのまま待つことにした。

 ただ無言で待つのもなんだと思って、「映画、よく観るの?」と聞く。陽は長椅子にちょこんと腰掛けて「たまーに。今日は時間があったから」と言う。

 「小夜子さんは?」

 「わたしは滅多に観ないんだけど、今日はたまたま」

 「そうなんだ。 じゃあ、タイミング良かった」

 穏やかに微笑むその顔を見て、映画館で会ったときにあった頬の赤みが引いていることに気付く。赤く腫れていた訳は分からないけれど、良かった。

 「あれ、小夜子?」

 不意に名前を呼ばれて振り返ると、そこには佳奈美と、男の人が座っていた。「えー!びっくり!」と言う佳奈美の黄色い声に、男子2人は少しぽかんとした表情をする。佳奈美はそれを察したようで「バイト先で一緒の友達です」と男の人に笑い掛け、わたしには「この前話した、マキタさん」と言った。わたしたちの前に待っていた1組というのは、佳奈美たちのことだったらしい。

 マキタさんは「はじめまして」と少し硬い表情で会釈をした。佳奈美は、わたしと隣にいる陽に視線を向けたので、わたしが説明しようとしたら陽から「こんにちは。俺は、小夜子さんに勉強教えてもらってて」と言った。佳奈美はなぜかさっきよりも嬉しそうに「へぇ!そうなんだ」と笑顔で言う。待合の長椅子に4人で並んで座ると、佳奈美が少し前屈みになって「小夜子、勉強教えるの上手でしょぉ」と言う。

 「はい。 めちゃくちゃ上手です」

 「あはは。 でも、佳奈美は和烙でもデキル子だから、あんまり負担かけないでね〜」

 こんな両サイドから褒められることなんて今までの人生で一度もなく、わたしはなんだか居心地が悪くて肩身が狭くなる。チラリとマキタさんの方に視線を向けると、やっぱりどこか、マキタさんも居心地が悪そうな表情をしていた。あまりジロジロ見るのは失礼だと思いつつ、佳奈美が少し前に“顔はタイプなんだよね”と言った若い男の顔を思い浮かべる。その男とは対極……とまでは言い過ぎかもしれないが、マキタさんは中肉中背で、服装はベージュのノーカラーシャツで、眼鏡をかけていて、雰囲気からして真面目な人という印象を受ける。その時、佳奈美たちの番号が呼ばれたので2人を見送る。陽は「あの2人は付き合ってるの?」と言ったので、わたしは「たぶん……まだ?」と返事をした。

 「そっか。 じゃあ、うまくいくといいね」

 陽は2人が店員に案内されている様子を眺めている。わたしはその陽のなだらかな曲線を描く頬を見ながら「うん。そうだね」と呟いた。

 程なくしてわたしたちも呼ばれ、ボックス席に案内してもらった。早速メニュータブレットを見て何を注文するか考える。

 「お子様ランチって、俺も食べれるのかな」

 「え、うーん。 どうだろう……」

 「冗談ですよ」

 小夜子さん、真面目だねぇと陽は笑う。「そっちが人をからかうのが上手なんでしょう」と言い返したら、陽はまた呑気に「あはは、それ褒めてる?」と言う。なんだか中身のないやり取りで、気楽だ。勉強している時とは流れている空気感が違う。

 注文は、わたしはオムライスで陽がオムライスとハンバーグの特別プレート、あとは一品料理をいくつかとドリンクバーを注文した。わたしは食べ切れるかと不安があるけれど「俺が余裕なんで大丈夫ですよ」と陽は自信ありげに言った。

 「確かに、17歳はたくさん食べられるか」

 「小夜子さん、そんなに歳変わんないじゃん」

 「5歳って、結構違うよ」

 陽は、「えー、そうかなあ」とどこか不服そうだ。そういえば、陽ははやく大人になりたかったんだっけ。正直、大学生のわたしが大人という自覚はまだ一切ないし、本当はぐうたらで由希に怒られるようなダメダメ人間だけれど、陽の前だと少しだけ背伸びをしないといけないような、そんな気持ちになる。
 
 「ファミレスって、結構色んな年代の人がいるんですね。 初めて来たから、面白い」

 「そうなの? 佐伯さんとか、お店に来る仲のいい人たち……えっと、田中さん?とかと来ないんだ」

 「佐伯と飯食いに行ったことはないですね。 田中さんとか他の人はみんな酒好きなんで、大体居酒屋です」

 「そうなんだ。 そこの席に、佐伯さんはいないんだね」

 「そうですね。 佐伯は店終わってからはすぐ帰るし、早朝には仕込みで店に居るから、そういう時間はあんまりないんだと思う。 小夜子さんは?」

 「わたしは……子どもの頃に来たけど、あんまり覚えてない」

 最後にファミレスに来たのは、弟が生まれて間もない頃。わたしは中学生だった。弟の面倒を見るのに忙しい母を労わるための外食と言って連れて来られたけれど、弟を隣に座らせて面倒を見ているのは母親で、寧ろ家よりも周囲に気を遣わなければならず大変そうにしていたのを覚えている。わたしはあの男の隣に座らなければならないのがあまりにも苦痛で、ろくに食べられなかった。

 「覚えてないなら、実質俺と同じく初めてってことにしましょ」
 
 わたしは「そうだね」と笑って言った。きっと、あの時と今日食べる料理の味は、まるで違うのだろう。

 ドリンクバーでソフトドリンクをコップに注ぎ、席に戻ったところで早速フライドポテトとサラダが運ばれてきた。それだけなのに、陽は「はやっ」とリアクションする。普段と環境が違うせいか、口数がいつもより多い。

 「あ、小夜子さんケチャップ、大丈夫?」

 なんでそんなことを言うのだろうと、フライドポテトにかけられているケチャップを見て、ぼんやり思い出した。確か、うちで陽が母親の差し入れを食べた時にそんなやりとりをしたっけ。

 「あれは……母親の料理を食べたくなくて、嘘ついた。 ケチャップは、全然好き」 

 「そうなんだ。 どうして、食べたくないの?」

 わたしはフォークの先がフライドポテトに刺さるまでの一瞬、陽のどうして?にどう言おうかと逡巡する。けれど、雰囲気に飲まれて口数が多くなっているのは、わたしも一緒だ。

 「家族のこと、好きじゃなくて」

 フライドポテトは思ったよりもカリカリで、フォークから逃げてしまった。わたしは、自分が放った言葉を陽がどんな表情で受け取ったのか確認するのがなんだか怖くて、視線は上げずにもう一度、フライドポテトにフォークを刺す。

 「そっか。 じゃあ、またご飯が届いたらさ、俺に頂戴」

 陽もわたしと同じように、フォークでフライドポテトを刺して「小夜子さんが嫌なもの、俺が全部食べるよ」と続けた。
 
 「それ、ただ食べたいだけでしょ」

 「あはは、バレた? あ、ケチャップいっぱいかかってるところ食べなよ。 あ、ハンバーグも来たら、あげるね」

 小さな子どもに言ってあげてるみたいな陽の言い方がおかしくてつい笑う。「うん、ありがとう」と言うと、陽は何でわたしが笑っているか分からないようだけれど、うん、と嬉しそうに頷いた。

 陽はわたしの言葉をただ受け取ってくれるだけで、詮索してこない。それが居心地が良いのだと思う。わたしは「普段は何食べてるの?」と訊くと陽は「コンビニが多いかなあ」と言う。

 「コンビニ飯、好きなんだよね。 あ、俺、施設で育ったって言ったっけ?」

 唐突な話題にわたしは咄嗟に声が出ずに、うん、とだけ頷いた。陽はそんなわたしの反応に気付いてか「重い話とかじゃないからね」と前置きをした。

 「施設はさ、色んな年代の色んな子がいて、ご飯はいつも同じ時間、同じ場所で食べなきゃいけなかったんだけど、毎日毎日、誰々の量が多いとか少ないとか、今日はこれ気分じゃないとか言って、すごく窮屈だった。 でも、コンビニ飯って一人分の量が決まってて、好きなところで好きな時間で食べれるでしょ? それが気楽だし、自由な感じがして好きなんだよね」

 陽は、施設は嫌いじゃなかったんだけどねと付け足した。陽はまだ17歳で子どもだけど、もっと幼かった頃はどんな子だったんだろう。今のままどこか大人びた雰囲気を纏っていたのだろうか。そもそも、どうして施設に入ることになったんだろう。
 
 疑問に思っても、軽々しく聞ける話題ではない。陽がわたしを詮索しないのと同じように、わたしもそうするべきだ。でも、やっぱり気になる。ひとり胸の内でせめぎ合っていると、ふと陽がわたしを詮索しないのはわたしに全然興味がないからでは、と考えが浮かんだ。その瞬間、胸の中にほんの僅かな隙間が生まれたような気がした。

 「小夜子さんって、高校生の時はどんな学生だったの? バイトとかしてた?」

 「普通だったよ。 バイトは、居酒屋とクレープ屋」

 陽は「小夜子さんクレープ作れるの!?」と何となく予想できた反応で驚いて、興味津々な様子で耳を傾けた。わたしは、陽が他愛もない話題でも何か聞いてくれることにどこか安堵する。わたしは、夜は居酒屋で休日の昼はクレープ屋でバイトをしていたこと、高校はバイトをするなら親の同意書が必要だったけど、親に会いたくないし知られたくなかったので、親の字体に似せて同意書を書いて提出していたことを話した。
 
 そんな割とどこでもありそうな話を、陽は楽しそうに聞く。部活は? 得意な勉強は? 学園祭とか、何したの?とたくさん質問をしてきた。その目はキラキラと店内の光を全部集めたみたいにキラキラしていて、わたしはなんの変哲もなさすぎる高校生時代の話を何の脚色もせずに話した。言いながら、なんて地味な学生時代だっただろうと思う。

 「俺も、寮がある高校とか行ったら良かったかなぁ」

 「いやぁ……どうだろう。 2人部屋で、ルールも細かく決まっていたし……わたしの時はちょうどコロナ禍だったから、体調管理にすごく気を遣わないとで窮屈だったよ」

 つい本音が出てしまった。でも、実家に居るよりは何倍もマシだった。夜中にドアがゆっくりと開いて黒い影がゆっくりと入ってくるような、あの恐怖感に襲われることがない。毎晩安心して眠れることが、何よりも幸せだった。陽は、「そっかぁ。じゃあ、俺はやっぱり無理だったかなぁ」と呟いた。

 ……陽は、どうして施設を出たの? どうして、施設に入ることになったの? 会話がひとつ落ち着く度にそんな言葉が浮かぶけれど、かき消す。 陽がどんな理由で施設に入って、どうして施設を出て、今の生活をすることになったのかは分からない。ただならぬ事情があったのかもしれないし、気まぐれかもしれない。

 「小夜子さんとこういう話ってあんまりしたことなかったから、色々聞けて楽しい」

 その言葉を聞いて、ふと気付いた。そうだ。きっと、今はこれでいいんだ。陽について、気になることはたくさんあるけれど、それは陽にとって話してて楽しい内容ではないだろう。それを掘り下げてしまったら、今のこの時間を失ってしまうのはだから、やめよう。陽の過去を知ったところで、わたしと陽の今の関係が変化するわけでもない。

 その時、それぞれが注文した料理が届いた。陽はオムライスとハンバーグの特別プレートを目の前にすると、また目をキラキラとさせた。

 「小夜子さん。 ハンバーグ、あげます」

 「いいよいいよ。 食べて」

 「これ、絶対美味しいやつだから、一緒に食べて欲しい」

 押しに負けて、じゃあ、遠慮なく……と頷く。陽はナイフとフォークを「これで合ってるかな」と少し自信が無さそうに扱って、ハンバーグを切り分けた。もしかしたら、今までナイフとフォークを使う食事場面に出会ったことがなかったのかもしれない。でも、ちゃんと合っている。

 わたしも陽と同じくオムライスとハンバーグの特別プレートになった。ちょっと、嬉しい。ふたりで手を合わせて、まずはオムライスを頬張った。美味しい、と声が重なる。あたたかくて、ちゃんと、美味しい。

 「これ、過去一です。 人生で一番美味い」

 「うん、美味しいね」

 陽は今度はハンバーグを頬張ると「ん~!」と17歳の年相応の幼さの残る笑みを溢した。
 
 陽はパクパクと食べ進めながら、勉強のことなど話した。明日は家庭教師の日なので、範囲を予習しておきたいと言う。そんな話しをしているうちに、「そういえばデザート頼んでなかった!」と言ってタッチパネルを操作する。 小夜子さんは?と聞かれ、わたしはもうお腹いっぱいだなぁと思っていたのに、パネルに表示されるアイスやプリンを見たら、満腹だったはずのお腹に余裕ができた。

 「うーーん、どうしよう。……キャラメルパフェ、にしようかな」

 「いいね。 俺は〜〜、チョコレートのパフェにしよっ」

 デザートを注文し終えて、わたしはお手洗いに立った。お手洗いの扉を開けて中に入ると「あ、小夜子!」と呼ばれた。

 顔を上げると、リップを塗り直していた佳奈美と鏡越しに目が合った。「佳奈美」とわたしが言うと同時に、佳奈美はくるっとこちらに振り返って「あのねっ」と声を弾ませた。

 「あたし、今日の帰りにマキタさんに告白しようと思ってるの」

 「えっ、そうなの?」

 「うん。 なんかマキタさんはちょっと元気がないような気もしなくもないんだけど……でも、今日がチャンスって気がしてるからさ」

 わたしが今日マキタさんに抱いた印象を、佳奈美も受けていたんだ。 ということは、普段のマキタさんはもう少し明るい人なんだろうか。

 「まあ、自信は全然ないんだけどね」
 
 そう言う佳奈美は、俯きがちになってリップの蓋をパチンと閉めた。その指先は、今日も控えめな女性らしい薄ピンク色のネイル。髪もバイトの時は毛先がぱさぱさしていることもあるけれど、今日は綺麗にアイロンがかけられていて、つるんとまとまっている。年上で落ち着いた雰囲気のマキタさんに似合うように雰囲気を変えたのだろう。今までのネイルが派手でメイクばっちりの佳奈美のラフな雰囲気は隠されている。

 「振られなくても振られても、ご飯、行こう。 応援してる」

 友人の、こういう状況の時にどんな言葉を掛けたら良いのか分からず、でも何か伝えたいと思って絞り出した。逆にやる気を削いでいたらどうしようと不安になったけれど、佳奈美は「えー! 行きたい! 小夜子とご飯行けるなら、どうなってもいいかなって思えてきた」と笑った。ぱっと花が咲いたような笑顔に、ほっとする。

 「結果報告するね」

 「うん」

 「小夜子も、楽しんでね。 あの子もことも、また今度教えてね」

 「うん、……ん?」

 佳奈美の言葉に疑問を持った時には、彼女はすでにドアの向こう側に行ってしまった。わたしと陽は全くそんなんじゃない。いま佳奈美は完全に恋愛脳になってしまっているから、もしかしたらそういう風に映ってしまったのかもしれないけれど、わたしと陽は全くそんなんじゃない。今度佳奈美に会った時には、きっぱり訂正する必要があるなぁ。

 トイレから戻ると、陽が「ねえねえ」と少し声を落として話しかけてきた。ただでさえ周りのお客さんの声で賑わっている店内なので聞こえづらく、わたしは「ん?」と前かがみになる。

 「さっき、俺もトイレ行った時にマキタさんに会って少し話したんだけどさ。 今日、佳奈美さんに告白しようと思ってたけど、自信喪失しちゃったって」

 「ええ? なんで」

 「なんか、歳の差があるからって言ってた。 佳奈美さんみたいな人には、年相応な若い男性がやっぱり似合うんじゃないか、こんなおじさんが隣に居たら恥ずかしいんじゃないかって……」

 「ええ……そんなこと、ないのに。 佳奈美は、そんなの気にしないのに」

 佳奈美の笑顔と、控えめなネイルを思い出す。マキタさんに佳奈美の思いが伝わっていないのだと思うとものすごくもどかしくて、胸の辺りがむずむずする。

 「俺もそんなことないって思ったから、そう言った。 別におじさんじゃないし、佳奈美さんだって一緒に居たいからこうしてご飯来たわけじゃないですか。 だから、自分が隣に居たいって思ったら、居たらいいのに」

 「それも言ったの?」

 「うん」

 「……よくやった。 良いこと、言ったよ」

 「あ、そう? 良かった」

 どうか、佳奈美の告白をマキタさんが受け入れてくれますように。彼女の忙しない日々の中に、マキタさんと過ごす時間がゆとりになってくれますように。わたしにはただそう願うことしかできないけれど、こんな風に誰かの幸せや成功を願うのは、自分もなんだか満たされるような気がした。

 デザートを食べ終え、最後のコーヒーも飲み干して、伝票を手に取った。

 「これは、わたしが払うね」と言うと、案の定陽は「え、いいですよ」と案の定食い下がった。

 「いい時給、いただいてるので。 これくらいは」

 「それとこれとは別じゃないですかぁ」

 「いいからいいから」

 陽は「……じゃあ、お言葉に甘えます」と少し困ったように笑って、財布をしまった。