誰が為の、どうか、君へ。

...

 夏休みが終わり、わたしは昼間は大学に通って、夕方は和烙のバイト、それがなければ陽の家庭教師のバイトを行う生活を送っていた。家庭教師の頻度と時間は、夏休みの頃よりも少なくなったけれど、陽ははじめの頃よりも要領を掴んで、覚えた知識も増えていた。

 それに、陽は理系が得意だということが分かってきた。わたし自身は文系なので、彼の苦手分野を自分の得意で補填できるのは良かった。陽が苦戦した問題を自力で解けたときには、わたしも嬉しいと感じるようになっていて、陽がなかなか克服できないときは自分の教え方に問題があったのかと悩み、日々どこが至らなかったと考えるようになっていた。

 だから、部屋で過ごしている時間や講義の空き時間、和烙の休憩時間はレポート作成の他は家庭教師のための勉強に充てていた。改めて、自分が勉強の時間を苦に思わない性格で良かったなと思う。時間潰しにちょうど良い。

 「全然食べてないじゃん」

 今日も和烙の休憩中に勉強をしていると、佳奈美が休憩室に入ってきた。賄いのパスタを載せたトレンチを持っていたので、彼女も休憩になったらしい。

 「あったかいうちに食べた方が美味しいのに。 今日は店長お得意のパスタだしさ、麺伸びちゃうよ」

 わたしの向かい側の席に座って、佳奈美は「いただきまぁす」と手を合わせる。その指先は、先日まで伸びていたネイルが綺麗に整えられてデザインも佳奈美にしては控えめの大人の女性らしい雰囲気だ。

 パスタの麺をフォークでクルクルと巻き取る今日の佳奈美はいつにもより機嫌が良いように見えて、なんだろうと思っていると目が合った。

 「なんか、機嫌いいね」

 「えっ、うそ、分かる?」

 途端に、佳奈美の耳が赤く染まる。初めて見る反応に思わず「良いことでもあった?」と聞くと、佳奈美はフォークを置いて話し始めた。

 「あのね、またかよって思われるかもなんだけど、アプリでめっちゃ良い人に出会っちゃったかも」

 「かも?」

 聞き返すと、佳奈美は頷いて嬉しそうな顔で続ける。

 「アプリであたしが間違えていいねを送っちゃって相手の人が返信くれたんだけど、それからお互いプロフィールに好きなアーティストを載せてたのがキッカケで意気投合したの。 それで、一昨日初めて会ったんだけど、話が盛り上がっちゃってカフェに3時間居たりしてね。 もう本当に楽しくて楽しくて。 あんなに笑ったの、久々だった」

 ひと呼吸で一気に話した佳奈美の目はこの休憩室の蛍光灯の灯りよりもキラキラとしていて、わたしに話している今もそのときと同じ気持ちが続いてるのだと分かる。

 「それに、その人、すごく純粋そうだったの。 歳は7つ上で、落ち着いてる……っていうか、ちょっと地味だけど、なんかそこも飾ってなくてさ」

 な、7つ?とつい口をついて出そうになった言葉を慌てて飲み込む。

 「そっ、か。 次も、会う予定があるの?」

 思わず言葉が詰まったけれど、今の佳奈美はそれを気に留める様子はなかった。

 「ううん。 でも、あたしがまた会いたくて今日メッセージ送ったんだけど、まだ返信が来てないの。 仕事が結構忙しいんだとは言ってたんだけど」

 佳奈美がスマホの画面を指でタップすると、明るくなった画面には彼女の推しの男性歌手が写っていた。 なんとなくわたしもそこに視線を落としていると、通知が一件表示されて佳奈美は声を上げる。

 「マキタさんかもっ」

 素早い動作で画面を確認したと思ったら、途端に肩を落としてため息をついた。どうやら、思ってた相手とは違ったらしい。

 「またこいつ……。 小夜子に言ったっけ。 ちょっと前に会った人なんだけど、なんかしつこくてさ」

 この人、と見せられた画面には見覚えのある人物の画像が写っていた。確か、2ヶ月前に同じように佳奈美の携帯で見た人だ。 

 「2回目会うの誘われてた人だよね?」

 「そう。 でも、結局あたしがシフト入ってて無しになって、それでなんかもう良いかなーと思って会ってないんだよね。 それなのに今でもこうやって送ってくるの。 流石に察してほしいんだけどさ」

 そう言って佳奈美は画面をまたスワイプして、小さくため息を吐く。“マキタさん”からのメッセージが届かないことの方が、今の佳奈美にとっては重要なことのようだった。

 「う〜ん。 まあ、いいや! はやく食べちゃお」

 大口でパスタを食べる佳奈美を見て、思わず笑う。「切り替え早いね」と言うと、佳奈美は頷きながらパスタと一緒に持ってきたりんごジュースを飲む。

 「あたしさ、無理にでも切り替えてかないと、こういう時ってそのことしか考えられなくて変なミスとかちゃうの。 それに、あたしは会いたいって言っても、相手はそう思ってなかったらもう仕方ない。 そこに悩んじゃうと、終わりがないから疲れちゃう。 かと言って答えが欲しくて連絡し続けたら、尚更引かれちゃうし。 実際、あたしがそうなってるみたいにね」

 ふうんと話を聞きながら、佳奈美がしていることはとても労力が必要なことで、わたしには到底できないなと思う。大学で話す子たちも、スマホにはマッチングアプリがマストでインストールされていて、彼氏がいるけれどアプリで複数人掛け持ちしたりと忙しそうだ。周りにそんな子達がいるにも関わらず、わたしはまだ“見ず知らずの人とアプリを通じて会うのは怖い”と思っている。我ながら時代遅れだ。

 「小夜子は? 家庭教師、大変?」

 「うーん。 大変は、大変かも」

 かも? と聞き返されて、わたしはまたうーんと言葉を探す。 

 「未だに自分の教え方が正しいのか不安はあるんだけど……でも、教えてる子が頑張ってるし、ちゃんと成長してくれてるから、大変でも苦にはなってない感じかな」

 「へえ。 なんか、小夜子も最近機嫌いいよね」

 不意な言葉に「えっ、うそ」と素で驚いて思わず左手で自分の頬に触れる。自分ではそんなこと一度も感じたことがないけれど、佳奈美は「前より楽しそうだよ」と付け足した。

 「そうかな……」

 「あたしがそう言うんだからそうだよ」

 どこにそんな自信があるのと思わず笑う。ただ、根拠が無くても佳奈美が言うならそうなのかもしれないと思ってしまうから不思議だ。出会って1年くらいしか経っていないけど、もうずっと前から知り合いだったような気さえしてくるくらい、佳奈美といる時間は居心地がいい。たぶん、佳奈美の纏うラフな雰囲気と自分に正直で素直なところが、わたしも一緒に居て楽なのだと思う。わたしも佳奈美のように自分の気持ちに真っ直ぐに生きられたらと思う。でも、わたしにはそれも到底難しい。

 「小夜子、パスタ食べないならあたしが食べちゃうよ」

 伸びて来た手を「だめ」と阻止する。佳奈美の口の端には、パスタのトマトソースがべったりついていて、「わっ、口べたべた! 汚い!」と声を上げると、「なんだとー!」とさらに手が伸びてきて、わたしもつい騒ぐ。こんな子どもみたいなやり取りだって、佳奈美としかできない。由希ともできなくはないけれど、彼女は凛と大人びているから「子どもじゃないんだから」とただ私を子ども使いする。佳奈美と笑って、早く食べちゃおうと2人で口元が汚れるのも気にせずにパスタをかき込んだ。