...
陽の家庭教師を始めてから、早1ヶ月が過ぎようとしていた。家庭教師の頻度は週2〜4回で、わたしの和烙のシフトがない時間帯に陽が合わせている。
陽は中学レベルの問題も若干怪しい部分があることが分かったけれど、要領が良く暗記も早い。これはわたしの教え方が上達したわけではなくて、陽は多分自頭が良いのだと思う。本人から聞いたわけではないけれど、家庭教師の時間以外にも自主学習をしているよう。
わたしも実際に教え始めてから、教える側も根気が必要だとを思い知って焦ったので、次回陽に教える部分は念入りに予習をしたり、YouTubeで塾講師の講義動画を参考に観たりしている。そんなことをしているとは、絶対に陽には言わないけど。
それから、この1か月の間で“陽”という人のことが見えてきた。陽はこの店の2階に寝泊まりしていて、店主の佐伯さんとはまだどんな関係性なのかは分からない。iuは開店時間の11時からは、お菓子を買い求めにお客さんはコンスタントに訪れていて、お客さんが複数人同時に訪れて佐伯さんの手が回らなくなった時には、勉強の時間でも陽が店に出て販売の手伝いをすることがあった。
常連さんの中には「陽くん」と親しげに呼びかける人がいたり、はじめに和烙に飲みにきた人たちはもともと佐伯さんの知り合いだそうで、iuにお菓子を買いに来て(ガラが悪そうな見た目なのでお菓子を買いに来るのは意外だった)、陽が勉強しているここを覗きに来たりした。
なので、必然的にわたしもその人たちと数回顔を合わせている。その中には、酔っ払ってわたしの手を握ってきた人もいて、あの時は酔っていてすまなかったと謝罪があったりした。大柄で強面だけど、笑顔が柔らかい良い人そうな人だった。いつも陽はニコニコしていて、どの人たちからも可愛がられているようだった。その笑顔は、年相応のように見えた。
陽の“バイト”については、時間帯も頻度もよく分からなかった。初めて会ったあの日以降、陽は一度もその話題を出していない。
今日も、午後1時から約束をしていて、わたしは時間丁度にiuに到着した。初日以降、他のお客さんの目もあるからと裏口から入ることになった。 段差に気を付けて勉強スペースに入るとそこに陽の姿はなかった。いつもなら座って待っているのにと思って携帯を確認したけれど、特にメッセージは届いていない。
「小夜子さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、佐伯さんが顔を覗かせていた。
「こんにちは。 お邪魔します」
「こんにちは。 あのさ、陽まだ居ないみたいなんだけど、なんか連絡来てる?」
「いえ……」
「そっか。 俺も連絡はしてないんだけど、してみようか」
その時、わたしのスマホが鳴り、画面を見ると陽からだった。佐伯さんに画面を見せて通話に出ると『小夜子さん!』と大きな声が聞こえて思わずスマホを耳から離した。
『もう着いてますか?』
「たった今、着きました」
『すみません、じゅ、いや、5分遅刻します! 入って休んでてください!』
電話の向こう側から、駅のホームの音がした。息が切れている様子だったから急がなくていいと言おうとしたけれど、陽は『それじゃ!』と言うと、電話を切った。
「遅刻するそうです」
「珍しいね。 まあ、連絡がついて良かった」
佐伯さんはアイスティーを出してくれた。アールグレイのいい香りが心地よくて、飲むと香りが鼻を抜けて喉もすっきりと潤う。
「陽の勉強、順調?」
「……まだ、なんとも。 でも、すごく頑張ってると思います」
そう言うと、佐伯さんは「うん、俺もそう思う」と頷いた。
「陽さ、小夜子さんと勉強はじめてから雰囲気変わった気がするんだ。 前はもうちょっと暗い感じがあったんだけど、今はなんていうか、活き活きしてるんだよね」
佐伯さんから見ると、今の陽も暗く見えるのだろうかと思って「暗い感じですか。 イメージ、無いです」と言うと、佐伯さんは「そう?」と大人の優しい笑い方で微笑んだ。
「俺と初めて会ったときは、あんなに笑ったりはしなかったよ。 まあ、俺に愛想無いのは変わらないんだけどさ」
「初めて……?」
「うん。 1年ちょっと前かな」
「え、1年? あの、ふたりは親戚とかじゃ……」
「ううん。 あいつ、なんも言ってないんだ?」
わたしは変なことを聞いてしまっていないか今更不安になって、頷きながらグラスを置いた。けれど、佐伯さんは何も気にしていないようで、言葉を続ける。
「俺と陽は全くの他人だよ。 俺がこの店始めたのが1年前なんだけど、そのときにこの空きビルを買い取ろうと思って下見に来たら、陽がここに住み着いてたんだよね」
「え、住み……?」
わたしが驚くと、佐伯さんは「うん」と笑いの混ざった声で言う。佐伯さんは、陽にここで店を始めたいことを伝えたら、陽は“勝手にすれば。俺はここに居るけど”と言ったらしい。普段佐伯さんと接している陽の様子から、ぶっきらぼうな言い方をしているのがなんとなくイメージができた。
「よく追い出しませんでしたね」
「いやあ、追い出そうと思ったよ。2階は自分が住もうと思ってたし。でも、あんな子どもがたった一人で電気もガスも水道も通ってないボロボロの場所で寝泊まりしてるなんて、ものすごく訳アリなんだろうなと思ってさ。 大人として、本来なら警察に引き渡すべきなんだろうけど、本当にここに居るだけで迷惑はかけないようにするって言うから、まあそれならいいかぁと思ってね」
だめな大人だよねぇ、と佐伯さんは困ったように笑う。 わたしは、そんなことはないと思って首を横に振った。
「なんだかんだ開店準備とか手伝ってくれてさ、今は店が忙しい時にも手伝ってくれて、居てもらって助かってる部分もあるんだよね~。 陽には、言わないけど」
ふたりがまさかそんな関係性だったとは考えもしなかった。ただ、陽は佐伯さんのことを心から信頼しているのだろう。
「陽は、佐伯さんにはすごく気を許してる……というか、自然体な感じに見えます」
少なくとも、わたしと接しているときよりは。それに、きっと、陽にとっての“いい大人”は佐伯さんなのだと思う。だから、陽の佐伯さんに対するどこかぶっきらぼうで子どもっぽい態度も、安心感からくるものなのだろうと妙に納得する。
「そう? でも、陽は何も言わないから、俺はあいつのこと何も知らないんだよね。 ここで寝泊まりしてること以外、あと何してるかは全然。 逆に、それが気楽でいいのかもしれないね」
佐伯さんは、陽のバイトのことも知らないのではないか。それとも、知っていても勝手に喋ってしまわないようにという配慮なのか。そう思ったら迂闊に訊くことはできないと思って、わたしは佐伯さんに相槌を打ちながらアイスティーを飲む。
その時、裏口の扉が勢いよく開く音がして驚いてそちらに視線を向けると、息を切らした陽が立っていた。その様子に佐伯さんは笑って「陽の分のお茶も持ってくるね」と言ってお店の方に戻って行った。陽は「準備してきます」と慌ただしく2階に上がって行った。
勉強を開始して、2時間が経過した。2教科続けて行い、ちょうど3時になったので15分ほど休憩することとした。
「小夜子さん、夏休みは残りどのくらいですか?」
わたしはスマホのタイマーをセットしながら「あと1か月です」と返事をする。
「大学生の夏休みって本当に長いんですね」
うん、と頷きながら、佐伯さんに出してもらったクッキーをつまむ。その時、私のスマホの通知音が鳴った。バイト中は通知音はいつも切るようにしていたけれど、今日はうっかり忘れてしまった。
「小夜子さん、今日は和烙のバイト入ってましたっけ」
「5時からです」
「そっか、そうでした。 あと1時間半しかない」
陽は再びペンを握ってノートに向き直るので、わたしは「休憩はちゃんとしないと」と止めたけれど「でも、勿体無いから」と陽は聞かない。時々、陽は時間が勿体無いと言って休憩をしない時がある。本音を言うと、勉強を教えるわたしはどっと疲れてしまうので、出来れば休んでほしい。わたしが、休みづらい。
椅子の背もたれに寄りかかっていた重たい背中を持ち上げようとしたとき、本棚の向こう側から聞き覚えのある声が聞こえた。
「えーっと、アップルパイ2つと、あと……」
わたしは思わず立ち上がってショーケースの方を覗くと、そこには由希が立っていたので「由希?」と呼んだ。由希は目を丸くして「え、小夜子?!」と声を上げる。接客をしていた佐伯さんは、わたしと由希を交互に見ながら「なに、知り合い?」と小首を傾げる。わたしは頷いて友達だと伝えると「そうなんだ。 偶然だね」と笑顔で答えてくれた。今度は由希がわたしと佐伯さんを交互に見て「小夜子はここで何してるの」と目を丸くして言う。
「この前言ったじゃん。 家庭教師のバイト」
「え?」
わたしの後ろから「なになに?」と陽が顔を覗かせると、由希はさらに目を丸くして驚いた顔をする。陽はそんなことは気にも止めずに「こんにちは〜」と呑気な声で由希に挨拶をする。由希の見開かれた目が、少しだけ鋭くなったような気がした。
「今から小夜子の家に行こうとしてたところだったんだけど……」
「あ、そうなの? じゃあ、さっきの……」
スマホを開くと、さっきの通知音は由希からのメッセージだった。
「じゃあ、アップルパイはお土産?」
佐伯さんに聞かれて、由希はバツが悪そうな顔をしてコクリと頷いた。
「それなら、ここで一緒に食べて行ったらどうですか」
突然の陽の提案に「えっ」とわたしと由希の驚いた声が重なった。陽が「佐伯、いい?」と訊くと、佐伯さんは笑顔で「特別にね」と言う。由希は「い、いいんですか」と佐伯さんとわたしの後ろの陽を見ると、陽は「俺も食べたい」と言い、佐伯さんは「調子に乗るなよ〜」と言いながら、トングでアップルパイを3つトレイに載せている。
「こっち、どうぞ」
陽はテーブルの上の参考書とノートを重ねてスペースを作ってくれると、由希はおずおずと本棚の隙間からこちらに入ってきた。
「はじめまして。 陽っていいます。 小夜子さんから、勉強教えてもらってます」
「どうも、立花です……」
ものすごく他人行儀に、このふたりが自己紹介しているのがちょっとだけ面白い。それが顔に出ていたようで、由紀は「何笑ってんの」とわたしを見て言う。
「ううん。 なんか2人がこの空間にいるのが不思議な感じがして」
「まあ、そうだよね。 ていうか、勉強の邪魔じゃない?」
「大丈夫です。 ちょうど休憩中だったんです。 ね」
わたしが頷いたとき、佐伯さんがアップルパイとアイスコーヒーと持ってきてくれた。もともと甘い匂いで満たされていた空間が、より芳醇なりんごとバターの香りと、コーヒーのほろ苦い香りに包まれる。
「わあ、美味しそう」
思わず呟くと、佐伯さんは「美味しいよ〜。どうぞ、ごゆっくり」と言って再び戻って行った。いただきますと3人で言って、アップルパイにフォークをさす。何層にも重なったパイはサクッと音を鳴らして、薄いパイ生地がはらはらと皿の上に落ちていく。口に運ぶと、パイの中に包まれたリンゴのフィリングとカスタードがとろっと濃厚で甘酸っぱい。
「わ、ほんとに美味しい。 ……えっ、コーヒーもうまっ」
「由紀は、このお店もともと知っていたの?」
由希に聞くと、ちょうどアップルパイをもう一口食べていたところで、口をもぐもぐをさせながら「バイト先の子に聞いたの」と言った。
「どのお菓子も美味しいから、食べてみてほしいって。 ただ、その子は……」
由紀がチラッと陽に視線を向けると、目が合ったようで陽は「ん?」と小首を傾げた。
「ううん。 で、勉強って、科目は?」
「俺、高卒認定受けたいんですけど、その科目全部を教えてもらってます」
「ええ?」
なにそれと言いたげな目で由希は次に横目でこちらを見る。わたしは頷きつつ、コーヒーをストローで啜った。水出しコーヒーなのか、すっきりとした後味で濃厚なアップルパイとよく合う。
「きみ、高校生じゃないの?」
「歳は17ですけど、高校は行ってません」
陽がそう言った後、由希の表情がほんの一瞬だけ変わった。きっと由希も自覚していないほどわずかに眉根が寄って、目線が硬くなる。わたしはそれを見て、決してわたしに向けられた視線ではないのに、身体に力が入った。由希は「そうなんだ」と声色を変えずに言って、コーヒーを啜る。
「じゃあ、普段はバイトとかしてるの? あ、ここで働いてるの? ていうか、小夜子は家庭教師の、なんか教室?とか入ってんの?」
「普段はバイトしてます。 ここも、時々手伝ってます。 小夜子さんとはたまたま知り合って、家庭教師をしてほしいって俺が個人的に頼んだんです」
「個人的に? どういう経緯で?」
「ちょっと、由希」
グイグイと詰め寄る由希を止めようとしたとき、わたしの携帯のタイマーがけたたましく鳴り響いた。飛び上がるほど驚きながら、わたしはタイマーを慌てて止める。
「ご、ごめん」
「ううん。 あたし、そろそろバイト行かなきゃ」
由希はアップルパイの最後のひとくちを口に放り入れてコーヒーで流し込むと、椅子から立ち上がってショーケースの向こう側にいる佐伯さんに声を掛けた。
「あ~いいよいいよ。 それはサービス。 今度、またお菓子を買いに来てね」
「いいんですか。 ありがとうございます」
由希はわたしたちの方を向くと「それじゃあ、頑張って」とひとこと言って、お店を出て行った。
「あれ、これ由希さんのじゃない?」
テーブルの上を見ると、ワイヤレスイヤホンが置いてあった。わたしは「届けてくる」と陽に伝えて、表から店を出た。駅がある方向に由紀の後ろ姿が見えたので、走りながら呼びかけると由紀は振り向いて驚いた顔で「どうしたの」とわたしを見る。
「これ、忘れ物」
「あっごめん、ありがとう」
無事にイヤホンを渡して「じゃあ由希もバイト頑張って」と伝えてiuに戻ろうとしたら、呼び止められて足を止めた。「小夜子、大丈夫なの?」と眉根を寄せて言う由希に、わたしは「なにが?」と小首を傾げる。
「家庭教師のこと。 小夜子、男苦手じゃん」
走ったおかげで身体の力が抜けたかと思ったけれど、今度は気持ちの糸がピンと張り詰める。由希はわたしの事情は知らないけれど、わたしは昔から男の子と距離を置いて過ごしていた。別に関わる必要もなかった。ただ、大学生にもなるとそういう訳にもいかず、人並みに会話をする程度には関わっているけれど、必要以上には関わっては来なかった。
「……バイトとそれとは、割り切れるよ」
そんな風に言いながら、苦しい言い訳だと思う。それでも、なぜか陽といる時は、息が詰まらない。
「あの子と、どこで知り合ったの」
説明するにはなんだかややこしい気がして「和烙の、お客さんで」とだけ言う。
「小夜子、キッチンでしょ? お客さんとどうして知り合うの」
「たまたまホールに出るときがあったんだよ」
「それで、家庭教師?」
まるで尋問されているみたいだ。そう思ったら、胃の辺りが重たくなってむかむかとしてきた。
「わ、わたしだって好きでやってるわけじゃないよ。 でも、どうしてもって言われて……ていうか、別になんでも良くない?」
「あたしはただ、ちゃんと教えて欲しかったの」
「教えたじゃん」
「そうだけど……」
由希はそこまで言うと、ごめん、と小さく言う。由希との間に流れる空気の中にチクチクと細かい針が漂っているようで、居心地が悪い。
「ただ、びっくりして心配になっただけ。 そうだよね、ただのバイトだもんね。 でも、いくらバイトでも嫌々やってるのってしんどくない?」
あ、と思った。本心じゃない言葉を口走ってしまって、ハッとする。訂正しなきゃ。嫌々なんて、やっていないって。いまは、ちがうんだって。
「ごめん、もうあたし行くね。 イヤホン、ありがと」
「あ、うん。 頑張って」
わたしに背を向けて歩いていく由希の細い背中を見つめながら、自分が発した言葉を反芻する。好きでやっているわけじゃない。確かに最初はそうだったけれど、でも今は……。陽が一生懸命ノートと向き合う姿が思い浮かぶ。さっきまで空気中に漂っていた針が集まって、胸の奥底を突き刺す。わたしは、酷いことを言った。
iuに戻って佐伯さんにお礼を伝えて店の奥に入ると、陽がノートから顔を上げた。
「おかえりなさい。 渡せました?」
「はい」
氷が解けて、上澄みに透明が水が浮かんでいるコーヒーを啜る。コップにじっとりかいた汗が、指先を伝う。
「あの、ありがとうございました。 気、遣ってくれて……あと、友達が色々聞いちゃって、ごめんなさい」
「え、気なんて遣ってないですよ」
「勉強しようとしてたのに、由希のこと誘ってくれたじゃないですか」
「それは、俺も食べたかったから」
陽はまだ皿に残っていたアップルパイをかじる。「甘いもの好きですか」と聞いたら、口をもぐもぐしながら、はいと頷く。子どもの顔だ。
「普段の小夜子さんは、あんな感じなんですね。 ちょっと新鮮でした」
「別に、普通です」
そう言いながらも、由希の前ではつい普段よりもラフな感覚になっていた自覚はある。そんな自分を陽に見られてしまったことがどこか恥ずかしくて、今更普段の陽の前での態度を取り繕ってみる。
「んー、そうかなぁ。 俺といる時より自然な感じに見えました。 あ、もうお互い敬語使うのやめてみません?」
「それは……やりづらいのでいいです。 休憩終わったから、再開しましょう」
「あ、話逸らした」
陽は楽しそうに笑いながら、アップルパイを最後のひと口をパクリと食べる。
陽もきっと、まだわたしの前では取り繕っているところがあるのだろう。そんな風に思うと、なんだか胸の真ん中あたりに隙間が空いたような気がした。
陽の家庭教師を始めてから、早1ヶ月が過ぎようとしていた。家庭教師の頻度は週2〜4回で、わたしの和烙のシフトがない時間帯に陽が合わせている。
陽は中学レベルの問題も若干怪しい部分があることが分かったけれど、要領が良く暗記も早い。これはわたしの教え方が上達したわけではなくて、陽は多分自頭が良いのだと思う。本人から聞いたわけではないけれど、家庭教師の時間以外にも自主学習をしているよう。
わたしも実際に教え始めてから、教える側も根気が必要だとを思い知って焦ったので、次回陽に教える部分は念入りに予習をしたり、YouTubeで塾講師の講義動画を参考に観たりしている。そんなことをしているとは、絶対に陽には言わないけど。
それから、この1か月の間で“陽”という人のことが見えてきた。陽はこの店の2階に寝泊まりしていて、店主の佐伯さんとはまだどんな関係性なのかは分からない。iuは開店時間の11時からは、お菓子を買い求めにお客さんはコンスタントに訪れていて、お客さんが複数人同時に訪れて佐伯さんの手が回らなくなった時には、勉強の時間でも陽が店に出て販売の手伝いをすることがあった。
常連さんの中には「陽くん」と親しげに呼びかける人がいたり、はじめに和烙に飲みにきた人たちはもともと佐伯さんの知り合いだそうで、iuにお菓子を買いに来て(ガラが悪そうな見た目なのでお菓子を買いに来るのは意外だった)、陽が勉強しているここを覗きに来たりした。
なので、必然的にわたしもその人たちと数回顔を合わせている。その中には、酔っ払ってわたしの手を握ってきた人もいて、あの時は酔っていてすまなかったと謝罪があったりした。大柄で強面だけど、笑顔が柔らかい良い人そうな人だった。いつも陽はニコニコしていて、どの人たちからも可愛がられているようだった。その笑顔は、年相応のように見えた。
陽の“バイト”については、時間帯も頻度もよく分からなかった。初めて会ったあの日以降、陽は一度もその話題を出していない。
今日も、午後1時から約束をしていて、わたしは時間丁度にiuに到着した。初日以降、他のお客さんの目もあるからと裏口から入ることになった。 段差に気を付けて勉強スペースに入るとそこに陽の姿はなかった。いつもなら座って待っているのにと思って携帯を確認したけれど、特にメッセージは届いていない。
「小夜子さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、佐伯さんが顔を覗かせていた。
「こんにちは。 お邪魔します」
「こんにちは。 あのさ、陽まだ居ないみたいなんだけど、なんか連絡来てる?」
「いえ……」
「そっか。 俺も連絡はしてないんだけど、してみようか」
その時、わたしのスマホが鳴り、画面を見ると陽からだった。佐伯さんに画面を見せて通話に出ると『小夜子さん!』と大きな声が聞こえて思わずスマホを耳から離した。
『もう着いてますか?』
「たった今、着きました」
『すみません、じゅ、いや、5分遅刻します! 入って休んでてください!』
電話の向こう側から、駅のホームの音がした。息が切れている様子だったから急がなくていいと言おうとしたけれど、陽は『それじゃ!』と言うと、電話を切った。
「遅刻するそうです」
「珍しいね。 まあ、連絡がついて良かった」
佐伯さんはアイスティーを出してくれた。アールグレイのいい香りが心地よくて、飲むと香りが鼻を抜けて喉もすっきりと潤う。
「陽の勉強、順調?」
「……まだ、なんとも。 でも、すごく頑張ってると思います」
そう言うと、佐伯さんは「うん、俺もそう思う」と頷いた。
「陽さ、小夜子さんと勉強はじめてから雰囲気変わった気がするんだ。 前はもうちょっと暗い感じがあったんだけど、今はなんていうか、活き活きしてるんだよね」
佐伯さんから見ると、今の陽も暗く見えるのだろうかと思って「暗い感じですか。 イメージ、無いです」と言うと、佐伯さんは「そう?」と大人の優しい笑い方で微笑んだ。
「俺と初めて会ったときは、あんなに笑ったりはしなかったよ。 まあ、俺に愛想無いのは変わらないんだけどさ」
「初めて……?」
「うん。 1年ちょっと前かな」
「え、1年? あの、ふたりは親戚とかじゃ……」
「ううん。 あいつ、なんも言ってないんだ?」
わたしは変なことを聞いてしまっていないか今更不安になって、頷きながらグラスを置いた。けれど、佐伯さんは何も気にしていないようで、言葉を続ける。
「俺と陽は全くの他人だよ。 俺がこの店始めたのが1年前なんだけど、そのときにこの空きビルを買い取ろうと思って下見に来たら、陽がここに住み着いてたんだよね」
「え、住み……?」
わたしが驚くと、佐伯さんは「うん」と笑いの混ざった声で言う。佐伯さんは、陽にここで店を始めたいことを伝えたら、陽は“勝手にすれば。俺はここに居るけど”と言ったらしい。普段佐伯さんと接している陽の様子から、ぶっきらぼうな言い方をしているのがなんとなくイメージができた。
「よく追い出しませんでしたね」
「いやあ、追い出そうと思ったよ。2階は自分が住もうと思ってたし。でも、あんな子どもがたった一人で電気もガスも水道も通ってないボロボロの場所で寝泊まりしてるなんて、ものすごく訳アリなんだろうなと思ってさ。 大人として、本来なら警察に引き渡すべきなんだろうけど、本当にここに居るだけで迷惑はかけないようにするって言うから、まあそれならいいかぁと思ってね」
だめな大人だよねぇ、と佐伯さんは困ったように笑う。 わたしは、そんなことはないと思って首を横に振った。
「なんだかんだ開店準備とか手伝ってくれてさ、今は店が忙しい時にも手伝ってくれて、居てもらって助かってる部分もあるんだよね~。 陽には、言わないけど」
ふたりがまさかそんな関係性だったとは考えもしなかった。ただ、陽は佐伯さんのことを心から信頼しているのだろう。
「陽は、佐伯さんにはすごく気を許してる……というか、自然体な感じに見えます」
少なくとも、わたしと接しているときよりは。それに、きっと、陽にとっての“いい大人”は佐伯さんなのだと思う。だから、陽の佐伯さんに対するどこかぶっきらぼうで子どもっぽい態度も、安心感からくるものなのだろうと妙に納得する。
「そう? でも、陽は何も言わないから、俺はあいつのこと何も知らないんだよね。 ここで寝泊まりしてること以外、あと何してるかは全然。 逆に、それが気楽でいいのかもしれないね」
佐伯さんは、陽のバイトのことも知らないのではないか。それとも、知っていても勝手に喋ってしまわないようにという配慮なのか。そう思ったら迂闊に訊くことはできないと思って、わたしは佐伯さんに相槌を打ちながらアイスティーを飲む。
その時、裏口の扉が勢いよく開く音がして驚いてそちらに視線を向けると、息を切らした陽が立っていた。その様子に佐伯さんは笑って「陽の分のお茶も持ってくるね」と言ってお店の方に戻って行った。陽は「準備してきます」と慌ただしく2階に上がって行った。
勉強を開始して、2時間が経過した。2教科続けて行い、ちょうど3時になったので15分ほど休憩することとした。
「小夜子さん、夏休みは残りどのくらいですか?」
わたしはスマホのタイマーをセットしながら「あと1か月です」と返事をする。
「大学生の夏休みって本当に長いんですね」
うん、と頷きながら、佐伯さんに出してもらったクッキーをつまむ。その時、私のスマホの通知音が鳴った。バイト中は通知音はいつも切るようにしていたけれど、今日はうっかり忘れてしまった。
「小夜子さん、今日は和烙のバイト入ってましたっけ」
「5時からです」
「そっか、そうでした。 あと1時間半しかない」
陽は再びペンを握ってノートに向き直るので、わたしは「休憩はちゃんとしないと」と止めたけれど「でも、勿体無いから」と陽は聞かない。時々、陽は時間が勿体無いと言って休憩をしない時がある。本音を言うと、勉強を教えるわたしはどっと疲れてしまうので、出来れば休んでほしい。わたしが、休みづらい。
椅子の背もたれに寄りかかっていた重たい背中を持ち上げようとしたとき、本棚の向こう側から聞き覚えのある声が聞こえた。
「えーっと、アップルパイ2つと、あと……」
わたしは思わず立ち上がってショーケースの方を覗くと、そこには由希が立っていたので「由希?」と呼んだ。由希は目を丸くして「え、小夜子?!」と声を上げる。接客をしていた佐伯さんは、わたしと由希を交互に見ながら「なに、知り合い?」と小首を傾げる。わたしは頷いて友達だと伝えると「そうなんだ。 偶然だね」と笑顔で答えてくれた。今度は由希がわたしと佐伯さんを交互に見て「小夜子はここで何してるの」と目を丸くして言う。
「この前言ったじゃん。 家庭教師のバイト」
「え?」
わたしの後ろから「なになに?」と陽が顔を覗かせると、由希はさらに目を丸くして驚いた顔をする。陽はそんなことは気にも止めずに「こんにちは〜」と呑気な声で由希に挨拶をする。由希の見開かれた目が、少しだけ鋭くなったような気がした。
「今から小夜子の家に行こうとしてたところだったんだけど……」
「あ、そうなの? じゃあ、さっきの……」
スマホを開くと、さっきの通知音は由希からのメッセージだった。
「じゃあ、アップルパイはお土産?」
佐伯さんに聞かれて、由希はバツが悪そうな顔をしてコクリと頷いた。
「それなら、ここで一緒に食べて行ったらどうですか」
突然の陽の提案に「えっ」とわたしと由希の驚いた声が重なった。陽が「佐伯、いい?」と訊くと、佐伯さんは笑顔で「特別にね」と言う。由希は「い、いいんですか」と佐伯さんとわたしの後ろの陽を見ると、陽は「俺も食べたい」と言い、佐伯さんは「調子に乗るなよ〜」と言いながら、トングでアップルパイを3つトレイに載せている。
「こっち、どうぞ」
陽はテーブルの上の参考書とノートを重ねてスペースを作ってくれると、由希はおずおずと本棚の隙間からこちらに入ってきた。
「はじめまして。 陽っていいます。 小夜子さんから、勉強教えてもらってます」
「どうも、立花です……」
ものすごく他人行儀に、このふたりが自己紹介しているのがちょっとだけ面白い。それが顔に出ていたようで、由紀は「何笑ってんの」とわたしを見て言う。
「ううん。 なんか2人がこの空間にいるのが不思議な感じがして」
「まあ、そうだよね。 ていうか、勉強の邪魔じゃない?」
「大丈夫です。 ちょうど休憩中だったんです。 ね」
わたしが頷いたとき、佐伯さんがアップルパイとアイスコーヒーと持ってきてくれた。もともと甘い匂いで満たされていた空間が、より芳醇なりんごとバターの香りと、コーヒーのほろ苦い香りに包まれる。
「わあ、美味しそう」
思わず呟くと、佐伯さんは「美味しいよ〜。どうぞ、ごゆっくり」と言って再び戻って行った。いただきますと3人で言って、アップルパイにフォークをさす。何層にも重なったパイはサクッと音を鳴らして、薄いパイ生地がはらはらと皿の上に落ちていく。口に運ぶと、パイの中に包まれたリンゴのフィリングとカスタードがとろっと濃厚で甘酸っぱい。
「わ、ほんとに美味しい。 ……えっ、コーヒーもうまっ」
「由紀は、このお店もともと知っていたの?」
由希に聞くと、ちょうどアップルパイをもう一口食べていたところで、口をもぐもぐをさせながら「バイト先の子に聞いたの」と言った。
「どのお菓子も美味しいから、食べてみてほしいって。 ただ、その子は……」
由紀がチラッと陽に視線を向けると、目が合ったようで陽は「ん?」と小首を傾げた。
「ううん。 で、勉強って、科目は?」
「俺、高卒認定受けたいんですけど、その科目全部を教えてもらってます」
「ええ?」
なにそれと言いたげな目で由希は次に横目でこちらを見る。わたしは頷きつつ、コーヒーをストローで啜った。水出しコーヒーなのか、すっきりとした後味で濃厚なアップルパイとよく合う。
「きみ、高校生じゃないの?」
「歳は17ですけど、高校は行ってません」
陽がそう言った後、由希の表情がほんの一瞬だけ変わった。きっと由希も自覚していないほどわずかに眉根が寄って、目線が硬くなる。わたしはそれを見て、決してわたしに向けられた視線ではないのに、身体に力が入った。由希は「そうなんだ」と声色を変えずに言って、コーヒーを啜る。
「じゃあ、普段はバイトとかしてるの? あ、ここで働いてるの? ていうか、小夜子は家庭教師の、なんか教室?とか入ってんの?」
「普段はバイトしてます。 ここも、時々手伝ってます。 小夜子さんとはたまたま知り合って、家庭教師をしてほしいって俺が個人的に頼んだんです」
「個人的に? どういう経緯で?」
「ちょっと、由希」
グイグイと詰め寄る由希を止めようとしたとき、わたしの携帯のタイマーがけたたましく鳴り響いた。飛び上がるほど驚きながら、わたしはタイマーを慌てて止める。
「ご、ごめん」
「ううん。 あたし、そろそろバイト行かなきゃ」
由希はアップルパイの最後のひとくちを口に放り入れてコーヒーで流し込むと、椅子から立ち上がってショーケースの向こう側にいる佐伯さんに声を掛けた。
「あ~いいよいいよ。 それはサービス。 今度、またお菓子を買いに来てね」
「いいんですか。 ありがとうございます」
由希はわたしたちの方を向くと「それじゃあ、頑張って」とひとこと言って、お店を出て行った。
「あれ、これ由希さんのじゃない?」
テーブルの上を見ると、ワイヤレスイヤホンが置いてあった。わたしは「届けてくる」と陽に伝えて、表から店を出た。駅がある方向に由紀の後ろ姿が見えたので、走りながら呼びかけると由紀は振り向いて驚いた顔で「どうしたの」とわたしを見る。
「これ、忘れ物」
「あっごめん、ありがとう」
無事にイヤホンを渡して「じゃあ由希もバイト頑張って」と伝えてiuに戻ろうとしたら、呼び止められて足を止めた。「小夜子、大丈夫なの?」と眉根を寄せて言う由希に、わたしは「なにが?」と小首を傾げる。
「家庭教師のこと。 小夜子、男苦手じゃん」
走ったおかげで身体の力が抜けたかと思ったけれど、今度は気持ちの糸がピンと張り詰める。由希はわたしの事情は知らないけれど、わたしは昔から男の子と距離を置いて過ごしていた。別に関わる必要もなかった。ただ、大学生にもなるとそういう訳にもいかず、人並みに会話をする程度には関わっているけれど、必要以上には関わっては来なかった。
「……バイトとそれとは、割り切れるよ」
そんな風に言いながら、苦しい言い訳だと思う。それでも、なぜか陽といる時は、息が詰まらない。
「あの子と、どこで知り合ったの」
説明するにはなんだかややこしい気がして「和烙の、お客さんで」とだけ言う。
「小夜子、キッチンでしょ? お客さんとどうして知り合うの」
「たまたまホールに出るときがあったんだよ」
「それで、家庭教師?」
まるで尋問されているみたいだ。そう思ったら、胃の辺りが重たくなってむかむかとしてきた。
「わ、わたしだって好きでやってるわけじゃないよ。 でも、どうしてもって言われて……ていうか、別になんでも良くない?」
「あたしはただ、ちゃんと教えて欲しかったの」
「教えたじゃん」
「そうだけど……」
由希はそこまで言うと、ごめん、と小さく言う。由希との間に流れる空気の中にチクチクと細かい針が漂っているようで、居心地が悪い。
「ただ、びっくりして心配になっただけ。 そうだよね、ただのバイトだもんね。 でも、いくらバイトでも嫌々やってるのってしんどくない?」
あ、と思った。本心じゃない言葉を口走ってしまって、ハッとする。訂正しなきゃ。嫌々なんて、やっていないって。いまは、ちがうんだって。
「ごめん、もうあたし行くね。 イヤホン、ありがと」
「あ、うん。 頑張って」
わたしに背を向けて歩いていく由希の細い背中を見つめながら、自分が発した言葉を反芻する。好きでやっているわけじゃない。確かに最初はそうだったけれど、でも今は……。陽が一生懸命ノートと向き合う姿が思い浮かぶ。さっきまで空気中に漂っていた針が集まって、胸の奥底を突き刺す。わたしは、酷いことを言った。
iuに戻って佐伯さんにお礼を伝えて店の奥に入ると、陽がノートから顔を上げた。
「おかえりなさい。 渡せました?」
「はい」
氷が解けて、上澄みに透明が水が浮かんでいるコーヒーを啜る。コップにじっとりかいた汗が、指先を伝う。
「あの、ありがとうございました。 気、遣ってくれて……あと、友達が色々聞いちゃって、ごめんなさい」
「え、気なんて遣ってないですよ」
「勉強しようとしてたのに、由希のこと誘ってくれたじゃないですか」
「それは、俺も食べたかったから」
陽はまだ皿に残っていたアップルパイをかじる。「甘いもの好きですか」と聞いたら、口をもぐもぐしながら、はいと頷く。子どもの顔だ。
「普段の小夜子さんは、あんな感じなんですね。 ちょっと新鮮でした」
「別に、普通です」
そう言いながらも、由希の前ではつい普段よりもラフな感覚になっていた自覚はある。そんな自分を陽に見られてしまったことがどこか恥ずかしくて、今更普段の陽の前での態度を取り繕ってみる。
「んー、そうかなぁ。 俺といる時より自然な感じに見えました。 あ、もうお互い敬語使うのやめてみません?」
「それは……やりづらいのでいいです。 休憩終わったから、再開しましょう」
「あ、話逸らした」
陽は楽しそうに笑いながら、アップルパイを最後のひと口をパクリと食べる。
陽もきっと、まだわたしの前では取り繕っているところがあるのだろう。そんな風に思うと、なんだか胸の真ん中あたりに隙間が空いたような気がした。



