...
あれから3日が過ぎても、陽から連絡が来ることはなかった。何かあったかと言えば、あの日にコンビニの前で連絡先を交換しただけ。
「はぁあ〜、良いオトコ居ないかなあ」
和烙のバイト仲間の佳奈美は、デシャップに唯一置かれている丸椅子に座って、スマホの画面を素早くスワイプしながら呟く。見ているのは、マッチングアプリ。その隣で、わたしは立って冷凍のフライドポテトを軽量しながらポリ袋に詰めていく。開店まであと10分。今日は日曜で開店後すぐに予約が入っている為、手を動かすスピードを速める。
「この前会うって言ってた人は?」
「それがさぁ、やっぱり“あっち”だったんだよねぇ。 会う前は希望があったのにー」
佳奈美から、この手の話題で“あっち”と言うワードが出たのはこれで何回目だろうかと考えたながら、数日前の『この人はメッセージもマメで変なこと言わないし、大丈夫な気がするの』という言葉と浮かれた様子を思い出す。あのセリフとあの顔も何回も見聞きしたことか。
「でも、会うとそういうのわかるんだよねー。 最初っから、こっちのことそういう風にしか見てない感じが顔から滲み出ててさ」
「ふうん」
「あ、ほら。 こういう顔は大体ダメね」
そう言って佳奈美がこちらに向けてきたスマホには、どこにでも居るような黒髪で色白のさっぱりした顔の男の子が映っている。不意に陽の印象が重なって、わたしらスマホから目線をポテトに移す。
「……そんな風には見えないけど」
「そんな風に見えないから、なの。 騙しに来てんの」
佳奈美はそのさっぱり顔を親指でトントンと突きながら「でもタイプなんだよね」と呟くと、ピロンと通知音が鳴った。
「うわっ、“この前の”からメッセージ来た。 “次いつ空いてる?”だって」
伏し目になった佳奈美の瞼には今日もラメのアイシャドウがのっていて、まつ毛も櫛で梳かしたみたいに細長い束になってクルンとセパレートしている。それ見ながら、冷凍フライドポテトを掴んでいる右手が冷たいなあと考える。
「どうしようかな〜、次いつ休みだっけな〜」
「会うんだ?」
「まあ、あと1回くらいはね。 もしかしたら、印象変わるかもしれないじゃん?」
佳奈美はスマホの写真フォルダでバイトのシフト表を見る。彼女は和烙の他にも駅前にあるクレープ屋とコールセンターのバイトを掛け持ちしている。世間では佳奈美のような人のことをフリーターと言うけれど、3つの仕事を難なくこなしている彼女にはその言葉は当てはまらない気がする。
知り合った頃はそんなに働いて寝る暇はあるのだろうかと疑問に思って聞いたことがあった。佳奈美は、『あたし、色々やってみたいことが多いんだよね。 だから、やってみてるだけ』と飄々と言ってきた。わたしはなんてタフなんだろうと思ったけれど、佳奈美は運命の相手を探す方に必死で、バイトの忙しさはなんてことないみたいだった。
表面が少し溶けかかって滑りが良くなってきた冷凍フライドポテトの仕分けが終わったとき、ボトムのポケットに入れていたスマホのバイブが鳴った。ビニール手袋を外して画面を確認すると、メッセージが届いている。由希かなと思って見てみると、表示されていたのは“陽”という文字で、わたしは咄嗟にスマホの画面を隠すように胸元に当てた。あまりにも不意なことで、驚いてしまった。
「どうしたの?」
「あ、あたらしいバイトの……採用通知」
あながち嘘ではない。メッセージの内容はまだ見てないけど。
「へえ! なにすることにしたの?」
「家庭教師……」
「家庭教師?! すごぉ」
佳奈美は何の嫌らしさもなく、本当に感心したように言う。そう思えるのは、佳奈美はスマホを見ながらではなくて、ちゃんとわたしの顔を見て話してくれるからだ。
「ずっと探してたもんね。 よかったね」
「うん」
その時、キッチンにいた店長から開店準備をお願いされて、佳奈美が「はぁい、あたし行きまーす」と言ってデシャップを出た。もうそんな時間かと思い、わたしはメッセージを確認せずに予約テーブルの準備に向かった。
...
「ここ……?」
わたしは携帯の画面に表示されているマップと目の前の建物を見比べる。昨日は週末だったから予約外の客も多くて、陽からのメッセージを見れたのは休憩になってからだった。
『こんばんは。 すぐ連絡できなくてすみません。 空いてる日、ありますか?』
そんな淡白なメッセージだった。写真フォルダに保存している和烙のシフト表を送信したら、陽から日にちと場所を指定された。
場所は、駅から徒歩10分、大通りから外れた路地裏の“cafe iu”という隠れ家的雰囲気のお店だった。2階建ての小さなビルで、他の建物と馴染んでいて何度か店の前を通り過ぎてしまった。
今の時刻は14時過ぎ。どうして日中でこんな一番暑い時間帯を指定してきたのかと額に滲む汗を拭いながら思う。時給3,000円じゃなかったら帰っていたかもしれない。
恐る恐るドアノブに手を掛けようとした時、ガチャ、という音とともに向こう側から扉が開かれてわたしは「ヒッ」と小さく声を上げた。
「小夜子さん!」
開かれた扉から陽が顔を出したと同時に、扉の中からひんやりとした冷気が感じられた。
「よかった。 道、分かりづらくなかったですか?」
「いや……大丈夫です」
「……すみません、駅から一緒に来ればよかったですね」
入ってくださいと陽はさらに扉を開ける。中に入ると、目の前に焼き菓子が綺麗に並べられたショーケースが飛び込んできて、バターと砂糖と小麦の甘くて香ばしいたっぷりとした匂いに全身が包まれた。ショーケースには、タルトやパウンドケーキが置かれており、店内の棚にはフィナンシェやマドレーヌ、クッキーなどの様々な焼き菓子が並べられている。つい、わたしはその光景に釘付けになる。
「陽の、家庭教師の人?」
声が聞こえた方を向くと、そこには背の高い男の人がショーケースの向こう側に立っていた。こんにちはと笑顔で言われて、わたしは慌てて会釈をする。
「うん。 奥、借りる」
「どうぞ~」
陽はショーケースが置かれたスペースの右側にあるスイングドアを開けて奥に入っていく。ついて行くと、そこは壁際に本棚が並べられて、丸テーブルの席がいくつか置かれていた。本棚にはびっしりと本が詰まっていて、わたしはその光景に圧倒される。
「この本、全部さっきあそこにいた人のなんですよ」
「雑な紹介するなよ~」
背後から聞こえた声に驚いて振り向くと、先程の男の人がグラスが2つ載ったトレンチを持ってそこに立っていた。
「佐伯です。 外、暑くなかった?」
「満澄です……。 ありがとうございます」
佐伯さんは、参考書やノートが置かれている丸テーブルにグラスを置く。グラスの中にはレモンの輪切りが浮かんでいて、中の透明な液体にはとろりとした水流ができている。
「ここはもともとイートインスペースだったんだけど、今は使っていないし、お客さんからも見えないようになっているから気楽に使ってね。 それにしても、陽の家庭教師なんて、面倒な仕事を引き受けちゃったんだねぇ」
「いや、そんな……」と言葉を濁して隣を横目で見ると、陽はなんだか拗ねたような表情で「ねえ、もうあっち行って」と言う。そんな表情をするのがなんだか意外だった。佐伯さんは肩をすくめて、わたしに「じゃあ、頑張って」と声を掛けてショーケースの方へと戻って行った。
「ここなら必ず佐伯がいて、お客さんもコンスタントに入ってくるし、時間を気にしなくていいからと思ったんですけど……どうですか?」
「あ、はい。 ありがとうございます」
わたしが付けた条件に対して、陽は理由は聞かずに律儀に守ってくれているのはありがたかった。
テーブルに置かれている参考書を見てみると、先日わたしが渡したものだった。「読んでみたんですけど、やっぱり難しくて……」と陽は参考書を一冊手に取ってパラパラと捲る。
「みんな、最初は分からないですよ」
わたしもテーブルに置かれていた高卒認定用の参考書を手に取って見る。「過去問集とか持っていますか?」と聞くと、陽は首を横に振った。
「各教科の参考書をひとつずつ見ていくのも良いとは思うんですけど、もう少しコンパクトで、教科がまとまったような過去問集があればもっと良いと思うんです」
あと1年程しか期間がないのなら尚更見やすい参考書の方が良い。基礎を固めていくのと同時に過去に出題された問題から傾向を読み解いて、出来るだけ勉強する範囲を絞った方がきっと効率が良い気がする。
「それじゃあ、小夜子さんが良さそうだと思うやつ、買いに行きましょう」
佐伯さんが持ってきてくれたレモン水を飲もうとグラスに手を伸ばしたのに、陽は座ったばかりの椅子から立ち上がった。
「い、今から?」
「はい。 少し待っててください」
陽は奥にある扉を開けて姿が見えなくなると、階段を駆け上る音が聞こえた。そっちに階段があるのかなぁと考えながらレモン水を一口飲む。キンと冷たくて、ほのかにレモンの酸味の中にハチミツのような柔らかい甘さを程よく感じられて、喉に心地いい。バイト先の居酒屋でレモンサワーを作るときにレモンを絞るけれど、そんな時に感じる香りとはまるで違う、さらりとした爽やかさのある香りがスッと鼻を抜けて、自分は緊張していたのだなと気付く。
周りにある本棚にはどんな本が置かれているんだろうと思って席を立とうとしたら扉の開く音が聞こえて、視線をそちらに向けると、陽は隙間から顔を覗かせた。
「こっちに裏口があるんで、来てもらって良いですか?」
陽がいる扉の向こう側は、狭くて薄暗くて、足元には店の物品らしきものが置かれて足元が狭くなっている。陽は扉を押さえてくれているようで、すぐ目の前に上の階に続く階段、左側にはもうひとつ扉があった。
「そこ、段差があるので気を付けてください」
「段差?」
そう聞き返した時にはすでに踏み出していた足は、思ったところに着地せずに踏み外してしまい、「わっ」と声を上げてバランスを崩した。それとほぼ同時に、右腕を引っ張られてわたしはそのまま何かに寄りかかった。反射的に身体が硬直して、喉が引き攣る。
「大丈夫ですか?」
直ぐ後ろ、耳元でそう聞こえた。一瞬の出来事で、腕を引き寄せられて陽に寄りかかってしまったのだと気付くのに少し時間が掛かった。
「ご、ごめんなさい」
身体をぱっと離すと、陽は「そこの左側の扉、開けてください」とさっきと変わらない声で言った。そちらに視線を向けると、薄暗い視界の左側に黄土色のドアノブが見える。それを捻って向こう側へ押すと、ギィと低い音と共に隙間から眩しい光と湯気みたいにゆらゆらとした暑さが肌を包んだ。外へ出ると、太陽の熱とアスファルトの焼ける熱で、上からも下からもじりじりと肌を焼かれていくような感覚になる。
「暑いですね~」
わたしと同じように眩しさに目を細めながら、陽は駅を背にして歩いて行く。
さっき、階段を踏み外したときに陽に掴まれた腕をさする。感触が、残っていない。自分のあかぎれた手を見る。耳鳴りも、しない。もしかしたら、わたしの感覚では、陽は“男性”というカテゴリーから少しズレているのかもしれないと、分析する。
「小夜子さん? 大丈夫?」
陽は少し先を歩いた所で立ち止まって、不思議そうにこちらを見ている。わたしは「大丈夫」と頷いて、陽の後に続いた。
書店に到着して、さっそく学生の参考書が置いてある棚の方へと向かい、ざっと高校教科と資格系の書籍が並ぶ棚を見渡す。 「特に苦手な教科ってありますか?」と質問すると、 「……たぶん、全部?」と居心地が悪そうな返事が返って来た。
「ぜんぶ……」
高卒認定試験は、大体高校1年生修了時の内容らしいが、それでも確実に合格できるようにと思うと範囲は広い。
「とりあえず……良さそうなやつ探しましょう」
そう言いながらも、高卒認定の過去問集自体置かれているものが少なかった。これならネットで購入した方が良かったと思いながら、それを待っているのももどかしい気がして、数冊手に取った中でわたしが1番見やすいと思った問題集と参考書を陽が自分で購入した。使うのは自分なんだから選んでと言っても、「小夜子さんが良いのが1番良いです」と陽は聞かなかった。
iuに戻ってから、テーブルに数学の参考書を広げて1時間が経った。進んだのは、3ページだ。
「えっと……これは……」
「さっきの公式を当てはめれば、解けますよ」
「んん〜〜〜」
陽の顔が問題集の距離とどんどん近くなっていく。その様子を見て、わたしも眉根に力が入る。人に教えるのって、ものすごく難しいことなのかもしれない。ましてや、これを全教科だなんて……。
「高校生って、こんなに難しいことやってるんですか……」
「……わたしの教え方が、下手なんだと思います」
改めて参考書を見てみると、数学はまだしも世界史や公民はわたし自身がうろ覚えの部分も多い。それに、この人の得意不得意を理解しないと受験する科目だって選ぶことも出来ない。
「そんなことないです。 小夜子さんの教え方は、すっごく分かりやすいです」
そう言って、陽は再びノートに視線を落とす。年下の人に気を遣わせてしまった。情けない。
「それに、ほら、あと1年あるわけだし」
「……でも、今年の11月も試験日はあるんですよね」
「はい。 ネットで実際に高卒認定受けた人の話を見てみると、中学の基礎がなってない人は4ヶ月とかじゃ難しくて、大体1年くらいは勉強したって人が多かったから」
わたしも、同じような内容をネット掲示板で見た。
「……あの、やっぱりちゃんとした家庭教師に教えてもらうとか——」
「勉強が全然できないのは、今まで勉強してこなかった俺の問題です。 でも、小夜子さんが教えてくれるなら、大丈夫です」
陽があまりに正々堂々と言うので、「なんでそこにそんな自信があるんですか」とわたしは弱気な声で言う。
「分かんないけど、そんな気がするんです。 それに、小夜子さんが家庭教師をしてくれるのは俺にとっても都合が良いんです」
「都合? どうしてですか」
「国立大学の法学部に通ってる人から直接教えてもらえるなんて、めちゃくちゃラッキーだからです。 それだけで、半分は合格したようなもんです」
「流石にそれは無理あるし、プレッシャーです」
「あはは。 そうかな」
陽はへらっと笑って見せる。わたしは自分の額を掻きながら「大丈夫かなあ」と溢す。
「大丈夫です。 大丈夫に、するんで。 俺、頑張るんで、できるところまで、必死に勉強します。 だから、どうか、お願いします」
弱気なことばかり言うわたしに、陽は改まって頭を下げた。わたしはそんな陽に「ちょ、ちょっと」と戸惑う。この人は、どうしてそんなに……。そう思ったけれど、ふと、自分が高校受験、大学受験に必死になっていたことを思い出す。わたしも、あの時は自分を変えたくて必死だった。実現出来るか分からない不安に押しつぶされそうになりながら、自分が置かれている環境から脱したくて、無我夢中だった。なりふり構っていられる余裕はなくて、必死で、努力することしかできない自分の小さな可能性くらいにしか縋れなかった。
「……わかりました。 すみません。 引き受けたのに、弱音言って」
陽はパッと顔を上げる。その一瞬の表情が、不安と安堵が入り交ざったような複雑な表情で、迷子になって助けを求めに来たような子どもみたいな顔をしていた。
ちがう、この人はまだ、子どもだ。
「もう一度公式の説明をします。 分からない所は、遠慮せず聞いてください」
「……はい」
そう返事をした陽は、ペンを握り直した。
あれから3日が過ぎても、陽から連絡が来ることはなかった。何かあったかと言えば、あの日にコンビニの前で連絡先を交換しただけ。
「はぁあ〜、良いオトコ居ないかなあ」
和烙のバイト仲間の佳奈美は、デシャップに唯一置かれている丸椅子に座って、スマホの画面を素早くスワイプしながら呟く。見ているのは、マッチングアプリ。その隣で、わたしは立って冷凍のフライドポテトを軽量しながらポリ袋に詰めていく。開店まであと10分。今日は日曜で開店後すぐに予約が入っている為、手を動かすスピードを速める。
「この前会うって言ってた人は?」
「それがさぁ、やっぱり“あっち”だったんだよねぇ。 会う前は希望があったのにー」
佳奈美から、この手の話題で“あっち”と言うワードが出たのはこれで何回目だろうかと考えたながら、数日前の『この人はメッセージもマメで変なこと言わないし、大丈夫な気がするの』という言葉と浮かれた様子を思い出す。あのセリフとあの顔も何回も見聞きしたことか。
「でも、会うとそういうのわかるんだよねー。 最初っから、こっちのことそういう風にしか見てない感じが顔から滲み出ててさ」
「ふうん」
「あ、ほら。 こういう顔は大体ダメね」
そう言って佳奈美がこちらに向けてきたスマホには、どこにでも居るような黒髪で色白のさっぱりした顔の男の子が映っている。不意に陽の印象が重なって、わたしらスマホから目線をポテトに移す。
「……そんな風には見えないけど」
「そんな風に見えないから、なの。 騙しに来てんの」
佳奈美はそのさっぱり顔を親指でトントンと突きながら「でもタイプなんだよね」と呟くと、ピロンと通知音が鳴った。
「うわっ、“この前の”からメッセージ来た。 “次いつ空いてる?”だって」
伏し目になった佳奈美の瞼には今日もラメのアイシャドウがのっていて、まつ毛も櫛で梳かしたみたいに細長い束になってクルンとセパレートしている。それ見ながら、冷凍フライドポテトを掴んでいる右手が冷たいなあと考える。
「どうしようかな〜、次いつ休みだっけな〜」
「会うんだ?」
「まあ、あと1回くらいはね。 もしかしたら、印象変わるかもしれないじゃん?」
佳奈美はスマホの写真フォルダでバイトのシフト表を見る。彼女は和烙の他にも駅前にあるクレープ屋とコールセンターのバイトを掛け持ちしている。世間では佳奈美のような人のことをフリーターと言うけれど、3つの仕事を難なくこなしている彼女にはその言葉は当てはまらない気がする。
知り合った頃はそんなに働いて寝る暇はあるのだろうかと疑問に思って聞いたことがあった。佳奈美は、『あたし、色々やってみたいことが多いんだよね。 だから、やってみてるだけ』と飄々と言ってきた。わたしはなんてタフなんだろうと思ったけれど、佳奈美は運命の相手を探す方に必死で、バイトの忙しさはなんてことないみたいだった。
表面が少し溶けかかって滑りが良くなってきた冷凍フライドポテトの仕分けが終わったとき、ボトムのポケットに入れていたスマホのバイブが鳴った。ビニール手袋を外して画面を確認すると、メッセージが届いている。由希かなと思って見てみると、表示されていたのは“陽”という文字で、わたしは咄嗟にスマホの画面を隠すように胸元に当てた。あまりにも不意なことで、驚いてしまった。
「どうしたの?」
「あ、あたらしいバイトの……採用通知」
あながち嘘ではない。メッセージの内容はまだ見てないけど。
「へえ! なにすることにしたの?」
「家庭教師……」
「家庭教師?! すごぉ」
佳奈美は何の嫌らしさもなく、本当に感心したように言う。そう思えるのは、佳奈美はスマホを見ながらではなくて、ちゃんとわたしの顔を見て話してくれるからだ。
「ずっと探してたもんね。 よかったね」
「うん」
その時、キッチンにいた店長から開店準備をお願いされて、佳奈美が「はぁい、あたし行きまーす」と言ってデシャップを出た。もうそんな時間かと思い、わたしはメッセージを確認せずに予約テーブルの準備に向かった。
...
「ここ……?」
わたしは携帯の画面に表示されているマップと目の前の建物を見比べる。昨日は週末だったから予約外の客も多くて、陽からのメッセージを見れたのは休憩になってからだった。
『こんばんは。 すぐ連絡できなくてすみません。 空いてる日、ありますか?』
そんな淡白なメッセージだった。写真フォルダに保存している和烙のシフト表を送信したら、陽から日にちと場所を指定された。
場所は、駅から徒歩10分、大通りから外れた路地裏の“cafe iu”という隠れ家的雰囲気のお店だった。2階建ての小さなビルで、他の建物と馴染んでいて何度か店の前を通り過ぎてしまった。
今の時刻は14時過ぎ。どうして日中でこんな一番暑い時間帯を指定してきたのかと額に滲む汗を拭いながら思う。時給3,000円じゃなかったら帰っていたかもしれない。
恐る恐るドアノブに手を掛けようとした時、ガチャ、という音とともに向こう側から扉が開かれてわたしは「ヒッ」と小さく声を上げた。
「小夜子さん!」
開かれた扉から陽が顔を出したと同時に、扉の中からひんやりとした冷気が感じられた。
「よかった。 道、分かりづらくなかったですか?」
「いや……大丈夫です」
「……すみません、駅から一緒に来ればよかったですね」
入ってくださいと陽はさらに扉を開ける。中に入ると、目の前に焼き菓子が綺麗に並べられたショーケースが飛び込んできて、バターと砂糖と小麦の甘くて香ばしいたっぷりとした匂いに全身が包まれた。ショーケースには、タルトやパウンドケーキが置かれており、店内の棚にはフィナンシェやマドレーヌ、クッキーなどの様々な焼き菓子が並べられている。つい、わたしはその光景に釘付けになる。
「陽の、家庭教師の人?」
声が聞こえた方を向くと、そこには背の高い男の人がショーケースの向こう側に立っていた。こんにちはと笑顔で言われて、わたしは慌てて会釈をする。
「うん。 奥、借りる」
「どうぞ~」
陽はショーケースが置かれたスペースの右側にあるスイングドアを開けて奥に入っていく。ついて行くと、そこは壁際に本棚が並べられて、丸テーブルの席がいくつか置かれていた。本棚にはびっしりと本が詰まっていて、わたしはその光景に圧倒される。
「この本、全部さっきあそこにいた人のなんですよ」
「雑な紹介するなよ~」
背後から聞こえた声に驚いて振り向くと、先程の男の人がグラスが2つ載ったトレンチを持ってそこに立っていた。
「佐伯です。 外、暑くなかった?」
「満澄です……。 ありがとうございます」
佐伯さんは、参考書やノートが置かれている丸テーブルにグラスを置く。グラスの中にはレモンの輪切りが浮かんでいて、中の透明な液体にはとろりとした水流ができている。
「ここはもともとイートインスペースだったんだけど、今は使っていないし、お客さんからも見えないようになっているから気楽に使ってね。 それにしても、陽の家庭教師なんて、面倒な仕事を引き受けちゃったんだねぇ」
「いや、そんな……」と言葉を濁して隣を横目で見ると、陽はなんだか拗ねたような表情で「ねえ、もうあっち行って」と言う。そんな表情をするのがなんだか意外だった。佐伯さんは肩をすくめて、わたしに「じゃあ、頑張って」と声を掛けてショーケースの方へと戻って行った。
「ここなら必ず佐伯がいて、お客さんもコンスタントに入ってくるし、時間を気にしなくていいからと思ったんですけど……どうですか?」
「あ、はい。 ありがとうございます」
わたしが付けた条件に対して、陽は理由は聞かずに律儀に守ってくれているのはありがたかった。
テーブルに置かれている参考書を見てみると、先日わたしが渡したものだった。「読んでみたんですけど、やっぱり難しくて……」と陽は参考書を一冊手に取ってパラパラと捲る。
「みんな、最初は分からないですよ」
わたしもテーブルに置かれていた高卒認定用の参考書を手に取って見る。「過去問集とか持っていますか?」と聞くと、陽は首を横に振った。
「各教科の参考書をひとつずつ見ていくのも良いとは思うんですけど、もう少しコンパクトで、教科がまとまったような過去問集があればもっと良いと思うんです」
あと1年程しか期間がないのなら尚更見やすい参考書の方が良い。基礎を固めていくのと同時に過去に出題された問題から傾向を読み解いて、出来るだけ勉強する範囲を絞った方がきっと効率が良い気がする。
「それじゃあ、小夜子さんが良さそうだと思うやつ、買いに行きましょう」
佐伯さんが持ってきてくれたレモン水を飲もうとグラスに手を伸ばしたのに、陽は座ったばかりの椅子から立ち上がった。
「い、今から?」
「はい。 少し待っててください」
陽は奥にある扉を開けて姿が見えなくなると、階段を駆け上る音が聞こえた。そっちに階段があるのかなぁと考えながらレモン水を一口飲む。キンと冷たくて、ほのかにレモンの酸味の中にハチミツのような柔らかい甘さを程よく感じられて、喉に心地いい。バイト先の居酒屋でレモンサワーを作るときにレモンを絞るけれど、そんな時に感じる香りとはまるで違う、さらりとした爽やかさのある香りがスッと鼻を抜けて、自分は緊張していたのだなと気付く。
周りにある本棚にはどんな本が置かれているんだろうと思って席を立とうとしたら扉の開く音が聞こえて、視線をそちらに向けると、陽は隙間から顔を覗かせた。
「こっちに裏口があるんで、来てもらって良いですか?」
陽がいる扉の向こう側は、狭くて薄暗くて、足元には店の物品らしきものが置かれて足元が狭くなっている。陽は扉を押さえてくれているようで、すぐ目の前に上の階に続く階段、左側にはもうひとつ扉があった。
「そこ、段差があるので気を付けてください」
「段差?」
そう聞き返した時にはすでに踏み出していた足は、思ったところに着地せずに踏み外してしまい、「わっ」と声を上げてバランスを崩した。それとほぼ同時に、右腕を引っ張られてわたしはそのまま何かに寄りかかった。反射的に身体が硬直して、喉が引き攣る。
「大丈夫ですか?」
直ぐ後ろ、耳元でそう聞こえた。一瞬の出来事で、腕を引き寄せられて陽に寄りかかってしまったのだと気付くのに少し時間が掛かった。
「ご、ごめんなさい」
身体をぱっと離すと、陽は「そこの左側の扉、開けてください」とさっきと変わらない声で言った。そちらに視線を向けると、薄暗い視界の左側に黄土色のドアノブが見える。それを捻って向こう側へ押すと、ギィと低い音と共に隙間から眩しい光と湯気みたいにゆらゆらとした暑さが肌を包んだ。外へ出ると、太陽の熱とアスファルトの焼ける熱で、上からも下からもじりじりと肌を焼かれていくような感覚になる。
「暑いですね~」
わたしと同じように眩しさに目を細めながら、陽は駅を背にして歩いて行く。
さっき、階段を踏み外したときに陽に掴まれた腕をさする。感触が、残っていない。自分のあかぎれた手を見る。耳鳴りも、しない。もしかしたら、わたしの感覚では、陽は“男性”というカテゴリーから少しズレているのかもしれないと、分析する。
「小夜子さん? 大丈夫?」
陽は少し先を歩いた所で立ち止まって、不思議そうにこちらを見ている。わたしは「大丈夫」と頷いて、陽の後に続いた。
書店に到着して、さっそく学生の参考書が置いてある棚の方へと向かい、ざっと高校教科と資格系の書籍が並ぶ棚を見渡す。 「特に苦手な教科ってありますか?」と質問すると、 「……たぶん、全部?」と居心地が悪そうな返事が返って来た。
「ぜんぶ……」
高卒認定試験は、大体高校1年生修了時の内容らしいが、それでも確実に合格できるようにと思うと範囲は広い。
「とりあえず……良さそうなやつ探しましょう」
そう言いながらも、高卒認定の過去問集自体置かれているものが少なかった。これならネットで購入した方が良かったと思いながら、それを待っているのももどかしい気がして、数冊手に取った中でわたしが1番見やすいと思った問題集と参考書を陽が自分で購入した。使うのは自分なんだから選んでと言っても、「小夜子さんが良いのが1番良いです」と陽は聞かなかった。
iuに戻ってから、テーブルに数学の参考書を広げて1時間が経った。進んだのは、3ページだ。
「えっと……これは……」
「さっきの公式を当てはめれば、解けますよ」
「んん〜〜〜」
陽の顔が問題集の距離とどんどん近くなっていく。その様子を見て、わたしも眉根に力が入る。人に教えるのって、ものすごく難しいことなのかもしれない。ましてや、これを全教科だなんて……。
「高校生って、こんなに難しいことやってるんですか……」
「……わたしの教え方が、下手なんだと思います」
改めて参考書を見てみると、数学はまだしも世界史や公民はわたし自身がうろ覚えの部分も多い。それに、この人の得意不得意を理解しないと受験する科目だって選ぶことも出来ない。
「そんなことないです。 小夜子さんの教え方は、すっごく分かりやすいです」
そう言って、陽は再びノートに視線を落とす。年下の人に気を遣わせてしまった。情けない。
「それに、ほら、あと1年あるわけだし」
「……でも、今年の11月も試験日はあるんですよね」
「はい。 ネットで実際に高卒認定受けた人の話を見てみると、中学の基礎がなってない人は4ヶ月とかじゃ難しくて、大体1年くらいは勉強したって人が多かったから」
わたしも、同じような内容をネット掲示板で見た。
「……あの、やっぱりちゃんとした家庭教師に教えてもらうとか——」
「勉強が全然できないのは、今まで勉強してこなかった俺の問題です。 でも、小夜子さんが教えてくれるなら、大丈夫です」
陽があまりに正々堂々と言うので、「なんでそこにそんな自信があるんですか」とわたしは弱気な声で言う。
「分かんないけど、そんな気がするんです。 それに、小夜子さんが家庭教師をしてくれるのは俺にとっても都合が良いんです」
「都合? どうしてですか」
「国立大学の法学部に通ってる人から直接教えてもらえるなんて、めちゃくちゃラッキーだからです。 それだけで、半分は合格したようなもんです」
「流石にそれは無理あるし、プレッシャーです」
「あはは。 そうかな」
陽はへらっと笑って見せる。わたしは自分の額を掻きながら「大丈夫かなあ」と溢す。
「大丈夫です。 大丈夫に、するんで。 俺、頑張るんで、できるところまで、必死に勉強します。 だから、どうか、お願いします」
弱気なことばかり言うわたしに、陽は改まって頭を下げた。わたしはそんな陽に「ちょ、ちょっと」と戸惑う。この人は、どうしてそんなに……。そう思ったけれど、ふと、自分が高校受験、大学受験に必死になっていたことを思い出す。わたしも、あの時は自分を変えたくて必死だった。実現出来るか分からない不安に押しつぶされそうになりながら、自分が置かれている環境から脱したくて、無我夢中だった。なりふり構っていられる余裕はなくて、必死で、努力することしかできない自分の小さな可能性くらいにしか縋れなかった。
「……わかりました。 すみません。 引き受けたのに、弱音言って」
陽はパッと顔を上げる。その一瞬の表情が、不安と安堵が入り交ざったような複雑な表情で、迷子になって助けを求めに来たような子どもみたいな顔をしていた。
ちがう、この人はまだ、子どもだ。
「もう一度公式の説明をします。 分からない所は、遠慮せず聞いてください」
「……はい」
そう返事をした陽は、ペンを握り直した。



