誰が為の、どうか、君へ。

「ここ、照らしてもらってもいいですか」

 外はまだ明るいけれど、部屋の中はもう陰っている。わたしは言われた通りに、その人の手元をスマホのライトで照らす。

 「店員さん、これ一人でやろうとしてたんですか?」

 その人は言いながら、以前ここに越してきたときにわたしがすごく苦戦した蛍光灯カバーを難なく外した。その手つきを見て、器用なんだなと思いながら「そうです」と返事をした。

 「店員さんの背だと、ギリギリじゃないですか? あ、ちょっとこれ持っててください」

 その人が蛍光灯のカバーを渡されて両手で受け取った。確かに、わたしの身長だとスツールに上がってもギリギリだったけど、わざわざ言うなんて失礼じゃないか……?

 「これ、一人でするなんて、危ないですよ」

 その人は新しい蛍光灯とカバーをまた器用にあっという間に取り付ける。電気のスイッチを押すと、蛍光灯は数回点滅した後に部屋をパッと暖色の暖かい色に包み込んだ。その明るさが、今までの暗さに慣れていた目には酷く眩しく映り込んで、わたしは思わず眉根を寄せて目を細める。

 「良かった。 ちゃんとつきましたね」

 スツールから降りたその人も、わたしと同じような顔をして瞬きをしていた。

 「ありがとうございました。 ……助かりました」

 「いえ。 なんていうか、俺が無理言って来ちゃったんで」

 その人は「これ、戻しておきますね」と言ってスツールをベッドの方まで持っていく。その人が動くと、僅かに石鹸の香りがした。

 「……店員さん、大学生なんですか?」

 「え……はい」

 なんでそんなことが分かったんだろうと考えたけれど、部屋の床には書き途中のレポートに必要な資料や教科書が乱雑に置かれていた。忘れてた……こんなことになるんだったら、本棚に仕舞うまでしなくても部屋の隅に寄せておくとかするべきだった。

 「えっ、てか、法学部ってことですか? これ、見てもいいですか?」

 「……どうぞ」

 その人はしゃがみ込んで、参考書を拾い上げてページをパラパラと捲る。わたしは電気のスイッチの横に突っ立ったまま、参考書を見るその人の横顔に視線を向ける。

 「難しそう……」

 その人が呟いたとき、ぐうっと低い音がどこからか鳴った。反射的に音が聞こえた方に視線を落とすと、恥ずかしそうにその人はお腹を摩る。

 「す、すみません。 朝から何も食べてなくて」

 その人は「一人暮らしだと、ついついご飯抜いちゃいませんか?」と照れ隠しをするみたいに困ったように笑うので、「……そうですね」と頷いた。

 「……何か、食べます?」

 そんな言葉が口をついて出てしまった。たぶん、さっきの困ったような笑顔がどこか切なく感じられたからだと思う。その人は目をパチッとさせて「えっ!」と表情を明るくする。それを見て“しまった”と思い、わたしはすぐに「いや、それよりすぐ帰った方がいい用事とかあるなら……」とちょっと早口で言い直したけれど、その人は首をふるふると横に振った。

 「食べたいです!」

 「……作り置きと、冷凍ご飯しかないですけど」

 冷蔵庫を開けて、母親の料理が入った保存容器を2つ取り出す。

 「わあ、いいんですか?」

 「…………蛍光灯の、お礼ってことで」

 そんな取ってつけたみたいな理由を言う必要はなかったけれど、自分に納得させるために何となく言う。本音を言うと、母が作ってくれた料理をわたしは食べずに捨てることになるだろうから、そうなる前に誰かに処理して欲しかった。

 「お詫びしに来たのにそれにお礼してもらうって、なんか変な感じですね」

 「確かに……」

 わたしはロールキャベツのタッパーと冷凍ご飯を電子レンジへ、レンコンのサラダのタッパーは蓋を開けて皿に取り分けると、「俺もやります」とその人はわたしの隣に立った。わたしはさりげなく一定の距離を保つように、あくまで自然に振る舞って「いいですよ、座っててください」と言う。

 「うーん。 座って待つのは申し訳ないです」

 「……じゃあ、これ温めてもらえますか」

 めんどくさ、と思ったけれど、自分から誘っておいてそんな態度は出せない。わたしからタッパーを受け取ったその手は細長くて、関節が目立つ綺麗な手だった。わたしは、自分のささくれだって赤くなっている傷んだ手が恥ずかしくて、引っ込めた。

 「……あの、なんで、わざわざ追いかけて来たんですか」

 たかがコーヒー牛乳1本でわざわざ走って追いかけてくるなんて、普通じゃない。そう思うと、もしかしてこの人は今話題の闇バイトとかで窃盗犯なんじゃないかとあらぬ想像をしてしまい、なんだか途端に怖くなる。ただ、その人はそんな素振りもなく「うーん」と小首を傾げて視線を宙に浮かせる。

 「……なんか、心配だったからですかね」

 「心配?」

 そのとき電子レンジの温め完了の音が鳴って、その人は電子レンジを開けてロールキャベツが入った保存容器を待つ。

 「開けてもいいですか?」

 「どうぞ」

 その人は蓋を開けると「わあ、美味しそう!」と目の前に上がる湯気を見て言う。まるで宝箱を開けたみたいな無邪気なリアクション。窃盗犯……ではなさそうだ。

 「これ、店員さんが作ったんですか?」

 「いえ。 母が時々、送ってくるんです」

 「へえ、すごい。 いいお母さんですね」

 その言葉に咄嗟に返事が出来ず、一拍置いてから「はい」とだけ応えて、一人前の茶碗や箸を準備する。 

 「あれ、店員さんの分は?」

 「さっき、食べたので。 食べられたら、全部食べてください」

 「えっ、でも」

 「苦手なんです、ケチャップ味の食べ物」

 果肉の残った真っ赤なトマトソースを纏ったロールキャベツを皿に移す。湯気とともに、ケチャップのツンとした香りが鼻をさす。隣で、その人はラップに包まれたご飯を茶碗へとよそった。

 「じゃあ、やっぱり来てよかったです。 俺、これ好きなんで」

 「……それなら、よかった」

 気を遣わせてしまったと思った。わたしが、大人げなかった。冷蔵庫にはまだ開けていないペットボトルの緑茶があったので、それをコップに注ぐ。部屋が明るいおかげか、緑茶の薄緑色がガラスの中でキラキラと反射する。本当ならここに氷も入れたかったけど、冷凍庫を見たら作っていなかった。

 トレイなんて気の利いた物はないのでお皿をそのままテーブルへと運んで、手遅れ感が否めないけれど床に散らばっていた資料や教科書をささっとまとめて端に寄せる。あの人はここでご飯を食べるにしても、特に何も食べる用事のないわたしが一緒になってテーブルを囲むのもなんだか気まずいと思って、取り敢えず立ち上ろうとしたとき、後ろから手がふっと伸びてきて思わず肩がビクッと震えた。

 「あ、ごめんなさい。 これ、店員さんのです」

 そう声が聞こえて、テーブルの上にもう一つ緑茶の入ったコップが置かれた。じわりと嫌な汗が流れるのを感じる。手で、首元を拭う。

 「……ありがとうございます。 どうぞ、食べてください」

 その人は「いただきます」と手を合わせて、ロールキャベツから箸をつける。わたしはテーブルに置かれた緑茶をなんとなくその人の隣ではなく、斜めに位置する辺り移動させて座った。

 「んん、めちゃくちゃ美味いです!」

 「そうですか、よかった」

 わたしが言うのもなんだか変だけど、そう言う以外に言葉が思い付かない。その人は、まだ十分に熱をこもらせたご飯やロールキャベツを、ふうふうと冷ましながら、本当に美味しそうに食べ進める。由希が作ってくれたチャーハンを食べている時のわたしは、こんな風に美味しそうな顔が出来ていただろうか。

 その人は部屋のベッドが置かれている方に視線を向ける。ベッドの足元には、中高生の頃に読んでいた小説や参考書が仕舞われたボックスが置かれている。

 「本がいっぱい。 店員さん、頭良いんですね」

 「……全然、良くないですよ」

 勉強は、わたしにとっては唯一の逃げ道だった。それに没頭していれば嫌なことを考えなくて済んだし、忙しいからという口実で家族との接触も極力避けることができた。ただ、都合が良かっただけ。

 「俺、来年に高卒認定取りたいって考えてるんですけど、全然勉強出来そうにないんですよねー。 なんか、コツとかありますか?」

 「高卒認定?」

 思わず聞き返すと、その人は緑茶を一口飲んでから「はい」と言って頷いた。

 「大学行きたくて。 来年18になるんで、なんとか間に合わせたいんですけど」

 「……18?」

 また聞き返す。けれど、その人はなんてことないみたいに頷く。

 「ってことは……今、17歳?」

 「はい」

 その人は、レンコンサラダを口に運ぶと「これも美味いです」とわたしに向かって笑う。母親の料理はそんなに美味しかったっけとその笑顔を見て一瞬思う。けれど、そんなことよりもわたしはさっきこの人と知り合う前の光景しか頭の中になかった。

 いや……でもよく考えてみれば、この世の中色々なカップルがいるのは当たり前なんだ。OLと男子高校生が付き合うことだって、十分にあり得る話なのかもしれない……。そう自分を納得させようと思ったけれど、ふと先程の何気ない会話を思い出す。さっきこの人、この部屋に来る時に「何も問題ない」とか言ってなかったっけ……。

 「参考書とか買ってはみたんですけど、何が何だかで。 やっぱり、ある程度勉強したことないと理解できないんですかねー」

 「……高卒認定試験の範囲は、どこまでなんですか」

 「えっと、国語、数学、英語、地理、歴史、理科、英語の7教科で、理科は、物理とか化学とかの科目から選択できるみたいで。 内容は、基礎的なところだけみたいです」

 「へえ……」

 この会話を広げたところで話の着地点が見つかる気がしなかったので、黙ってもう一口緑茶を飲む。何より今は、会話に集中できない。その人は、レンコンサラダをもう一口食べようとした所でふと手を止めた。

 「……大学生は、今夏休みですか?」

 その人は、さっきわたしが一応隅に寄せた教科書や資料の方に視線を向ける。

 「そうですけど」

 「店員さんは、バイト掛け持ちとかしてるんですか?」

 「この前掛け持ちしてたとこが一つ無くなって……いま探してるところです」

 どうしてこんなことを突然聞くのだろうと思いながらも、そんなことよりも気になることがあったからか、すんなりと答えてしまった。すると、その人は何かを考えるように視線を斜め下に向けて数回瞬きをする。まつ毛が一本一本まっすぐ伸びていて、長くて、少しだけ羨ましいと思った。

 「じゃあ、家庭教師やりませんか」

 「……家庭教師? 誰の?」

 「俺のです」

 「……は?」

 わたしは間抜けな声で言って、思わず眉根を寄せた。

 「時給は……うーん。家庭教師って、どれくらいするんだろう」

 その人はスマホを取り出して調べ始めるのでわたしは咄嗟に止める。

 「ま、まって。 どうしてわたしなんですか」

 あまりに急な話で、こればかりはすんなりと受け入れられるわけがない。

 「だって、店員さん、頭良いじゃないですか。 それにバイト探してるならちょうど良いかなと思って」

 「探してますけど、でも、家庭教師なんて考えてません。 勉強だって、人に教えられるほどじゃないし」

 「そんなことないですよ。 きっと出来ますよ」

 「適当なこと言わないでください」

 胸の辺りがざわざわして少し声に角が立つが、無理もない。

 「適当じゃないですよ。 少しの間だけ、店員さんの時間がある時だけで良いんです」

 困惑した表情をしているわたしをその人は真面目な顔でまっすぐ見る。

 「都合は店員さんに合わせます。 それに、和烙の時給よりも多く支払います」

 「ええぇ……」

 「どうですか、好条件じゃないですか?」

 確かにその条件なら、なんて都合の良いバイトだろう……。そう思いながら、ハッとした。

 「一緒にいた、あの人に教えて貰えば良いじゃないですか」

 「あの人?」

 「そう。 向かいのマンションの、彼女に」

 その人はポカンとした後に「え?」と小首を傾げる。わたしはもういいやと投げやりな気持ちを抑えて、なるべく自然に、はぁ、と息をついた。

 「……すみません。 わたしも、今日あなたがそこのマンションに入って行くところを見かけたんです」

 本当に偶然見かけただけなのに、なんで謝っているんだろう。その人は、「ああ」と気の抜けた声で、けれどどこかバツの悪そうな表情で続けた。

 「あの人じゃ都合が悪いんですよ。 それに、彼女じゃないです」

 「都合? ……え?」

 都合が悪いとか、彼女じゃないとか、よく分からないことが立て続けで混乱する。

 「……うーん……なんていうか、そういうことを頼むのは面倒な人なんですよ」

 「どうしてですか。 高校に行ってるって、嘘ついてるとか?」

 「ううん、違います」

 「じゃあ、都合が悪いってなんですか」

 初対面のわたしに頼む理由も、よく分からない。社会人より大学生の方が暇だろうし金欠だと思われるのは理解できるけれど、既に関係性が出来ている人に頼む方がお金を支払ったりすることなく気軽に頼めるのではないか。

 「あの人は、お客さんなんです。 だから、自分の頼み事はしづらいんです」

 「客……? お客さんだけど、付き合ってるってことですか」

 「違います」

 「……じゃあ、なんで」

 そこまで言って、言葉を止めた。その人は一瞬不思議そうな顔をしたけれど、マンション側の窓の方に視線を向けると、何かを理解したような表情で「あ」と呟いた。

 「……もしかして、ここから向かいの部屋、見えます?」

 「…………すみません」

 やっぱり、どうして謝ってるんだろうと思いつつ、わたしは手を膝の上に置いて、下を向く。ここにきて今が一番気まずい状況な気がした。今、こんなにも部屋が明るいことが憎い。 

 「あれはバイトです。 そうか、カーテン……こちらの不注意というか、そういう要望だったんですけど……すみません。 不快な思いをさせましたよね」

 「……意味が分かりません」

 というか、もう考えるのが面倒になってきた。流石に、なんかもう分かる。だけど、“要望”の意味までは別に理解したくなかった。

 「未成年じゃないですか」

 「そうですね」

 また、淡々と。そんなことはなんてことない、どうってことないみたいな、そんな声だ。なんで、そんな風に平然といられるんだろう。

 「嫌ですか?」

 「何がですか」

 「そういうのを、仕事にしてるのは」

 「……そういうことを、言いたいんじゃありません」

 だからといって、何が言いたいのかは分からない。だけど、どうして。 

 「あなたが何してようと、わたしには、関係ないことです」

 「……じゃあ、家庭教師。 引き受けてくれますか」

 「それは…………他を、当たってください」

 「……そうですか」

 そう言うと、その人はレンコンサラダを一口食べる。

 ……食べるんだ……。ぽりぽりと小気味のいい咀嚼音だけが微かに部屋に響く。何なんだこの状況。陽もだいぶ落ちて涼しいはずの部屋なのに、あまりの気まずさに変な汗をかいてきた。さすがにこの状況ではこの人も気まずいと感じているようで、ただ無言が続く。

 その時、窓の外で何かがぶつかったような音が聞こえた。その人とわたしは同時に音がした方を向くと、そこには、部屋の外に取り付けられたアンテナによく留まるカラスがいた。

 「……あのカラス、あそこが定位置なんですよ」

 「へえ。 きっと、居心地がいいんですね」

 「そうなんですかね……」

 そんな話をしてる隙に、カラスは翼を広げて再びどこかへ飛んでいってしまった。またこの人と二人きりで無言が続くのかと思うと耐えられず、わたしは無理やり口を開いた。

 「あの、どうして、大学に行きたいんですか」

 その人は、わたしの質問に答えるために緑茶を一口飲む。つられてわたしも自分のコップに視線を向けると、いつの間にか飲み切ってしまった。

 「俺、施設で育ててもらってたんですけど、高校は一年で辞めて、出てきました。はやく、大人になりたくて」

 わたしは、口の中で「え」と呟く。その人はどこか自嘲気味に笑って続ける。

 「働いて自分ひとりで暮らせるようになったら大人になれると思ってたんですけど、現実、中卒は選べる仕事が少ないんですよね。今になって、ちゃんとした仕事に就くには、ちゃんと手順踏まなきゃいけないってわかって。周りの話聞くと、高校行かずにバイトして大学費用とか自分で工面して、高卒認定取って大学受験もいるって聞くし……だから、俺もそうできたらなって。我ながら、アホだなって感じなんですけど」

 「……そんなことは、ないですよ」

 気安く聞いていいことじゃなかったと思いながら、わたしは視線が自分の膝の上で丸まった手に落ちていた。

 この人が中学生だった頃に、高校は出た方がいいと言ってくれる大人はいなかったのだろうか。高校に行かずとも、何かちゃんと良い職場を一緒に探してくれるような大人は、いなかったのだろうか。その時だけでも、寄り添ってくれる、いい大人が。

 「美味しかったです、ご馳走様でした」

 食器を見ると、料理は綺麗になくなっていた。その人が食器を持って立ち上がろうとするので「いいです」とそれを止める。

 「これくらい、させてください」

 またゆるりとした笑顔で言って、その人は重ねた食器を持ってキッチンへと向かう。なんだかそれが、もう何度もそうしてきたみたいだ。わたしは座ったまま、キッチンに立つその人に視線を向けた。

 ……17歳と言われれば、そういう見た目に見えてきた。だけど、バイト先の高校生と比べるとやっぱり雰囲気が違う。たぶん、あのゆるりとした、年齢に相応しくない笑い方のせい。だけど、食事をしている時は無邪気な笑顔できっと年相応だった。あの笑顔が、この人の自然な顔である気がしてしまう。横顔をぼうっと見ていたら、食器を洗い終えたらしいその人がこちらに視線を向けたので、不意に目があった。

 「終わりました」

 「あぁ、はい……」

 わたしは取り敢えず立ち上がって、玄関に向かうその人の後ろを着いて歩く。

 「本当、ご馳走様でした。 それじゃあ、また」

 その人は笑って、部屋から出て行った。 ……あの人“また”って言ってた? ……また店に来るってことなのかな。

 「……まあ、なんでもいいか……」

 何だか、どっと疲れた。これは蛍光灯を買いに行っただけの疲労感じゃないよなと思いながら、キッチンに戻ってお茶を飲もうと冷蔵庫を開けると、見覚えのないビニール袋が入っていた。

 「何これ……」

 恐る恐る手に取って中身を見ると、あのコーヒー牛乳とプリンが入っていた。さっきまで冷蔵庫にこんなの入っていなかった。多分、いや絶対あの人の仕業なのだろうけど、いつの間に冷蔵庫に入れたんだろう。しかも、普通に忘れて行ってる。 ……いや、もしかして、わざと置いて行った?

 ……なんで、こんなに胸がざわつくんだろう。

 少し考えて、ビニール袋を仕舞わないまま冷蔵庫の扉を閉めた。ベッドの足元に置いているボックスのもとに向かい、高校生の時に使っていた参考書を数冊引っ張り出す。久々に見たそれのせいで、高校受験の時、少しでも遠くの場所に行きたいと思って、寮のある高校に行きたくてとにかく必死で勉強した過去を思い出す。それからずっと、手に入れたその場所を自分の居場所だと感じていたくて必死だった。あの家から少しでも距離を置いて、あの部屋にいる自分と区切りをつけたかった。

 こういう時に限って、丁度いい紙袋とかそういうものって見つからない。仕方なく大学用のトートバッグに参考書を放り込んで、部屋を飛び出した。階段を降りて、アパートの前の道を左右見る。あの人は、どっちに、どこまで行ったんだ。

 街灯や他人の家の灯りで足元は明るいけれど、数メートル先までは見通せない。わたしはほぼ無意識的に、あのコンビニの方へ走る。走ったのなんていつぶりだろう。たぶん、高校の体育での持久走以来だろうか。いや、あの頃だって真面目に走っていた訳ない。だとしたら、どうしてわたしは、今こんなに。

 もう限界だと思った。呼吸をしただけで喉の奥が裂けるみたいに痛い。たぶん、今のわたしはわたしが小学生だった頃よりも体力がないのかもしれない。コンビニが見えた。あそこまで着いたら、諦めよう。最後の力を振り絞って、だけどふらふらの状態でなんとかコンビニの目の前に着いた。腰をかがめて、膝に手をつく。その拍子に、肩にかけていたトートバッグが滑り落ちて地面にどさっと音を立てて落ちた。

 けれど、呼吸をする度に胸が痛くて自分の鼓動が耳元で鳴り響いている今は、そんなこと気にしてられない。立ち止まった瞬間、思い出したように汗が一気に滲んでくる。コンビニから放たれる灯りが酷く眩しくて、なんとか顔を上げて向こうの方を見てみたけれど、あの人らしい姿は見えない。

 ……もう帰ろう。体力の限界だ。今すぐ冷たい水を飲みたい。こんなに、必死になってしまったのがあほらしい。

 どうにか身体を起こしてトートバッグを肩に掛け直したとき、コンビニの自動ドアが開いて軽快な音楽と同時に「あれ」と聞き覚えのある声が聞こえた。

 「店員さん?」

 視線を向けると、そこには涼しい顔をしたその人が立っていた。

 「どうしたんですか、こんなところで」

 「…………」

 どうしたんでしょう、こんなところで。そんなこと、わたしが聞きたい。未だに呼吸は落ち着くことなく、わたしはその苦しさに思わず眉根を寄せる。 

 「あ、見てください。 ちゃんと補充されてましたよ」

 そう言って、その人はこちらにやってきて手に持っている何かを差し出して見せる。コンビニからの眩しい逆光で何を持ってるのか見えず、更に眉根を寄せて見てみるとそれはコーヒー牛乳だった。

 「それ……うちの……」

 息も切れ切れで、身体の内も外も燃えるように熱あ。その所為かふっと足から力が抜けてわたしは言葉を言い切る前にその場にしゃがみ込んで、地面に手を着く。アスファルトの上に散らばった細かな砂利が、手のひらをチクチクと刺す。汗をかいた所為なのか、それともこのジメジメとした湿気の所為なのか、その砂利たちが手のひらにペタリとくっついて気持ちが悪い。痛い。

 「大丈夫ですか」

 焦ったような声がすぐ目の前で聞こえた。視界には、地面についたわたしの手のすぐ近くに黒色のスニーカーがあった。顔を上げると、同じ目線にあの人がわたしと同じようにしゃがみ込んで、困り顔でわたしの顔を覗き込んでいた。

 「ハァ、ハァ……それ、うちの冷蔵庫に……ハァ、入ってたんですけど……あと、プリンも……」

 「ああ、そうなんですよ。 すぐ飲まないから冷やさせてもらおうと思って、忘れて来ちゃいました」

 だから、店員さん飲んでいいですよ。プリンも良かったら食べてください。 そう言って、その人はにこりと笑う。

 「その荷物、どうしたんですか?」

 その人はわたしが持っていたトートバッグに視線を落とす。参考書を乱雑に入れたせいか、それは歪な形を保ったまま地面に横たわっていた。

 「……これ、渡そうと思って」

 トートバッグをその人に差し出す。けれど、持ち上げたつもりのそれは全く地面から浮くことなく、ズリリ、とアスファルトの上を滑っただけだった。その人は不思議そうな顔をしてそれを片手で受け取る。

 「5年とか、そのくらい前のだから……ハァ、参考になるか分からないですけど……」

 言いながら、自分が高校生だったのがもう5年も前だったことに驚く。その人はトートバッグの中を覗くと、すぐに顔をパッと上げてこちらを見て「これ、店員さんが使ってたんですか」と訊くので頷いた。

 「貸してくれるんですか」

 「……譲ります。 わたしはもう使わないので、自由に使って下さい」

 その人はトートバッグの中から一冊取り出してパラパラとページを捲る。わたしはやっと呼吸も落ち着いてきて、その人が開く参考書を覗き込む。

 「これ、解説もすごく分かりやすいんです。 あまり書き込みもしてなかったと思うんですけど……」

 「これのために、わざわざ追いかけて来てくれたんですか」

 そう言われて、わたしは「え……まあ」と濁した。

 「どうして?」

 ……どうして? 確かにそう言われると、理由が思い付かない。 どうして。 どうしてだろう。

 「……特に、理由はありません」

 「理由もなく、走って来てくれたんですか」

 そんな風に聞かれると、言い淀んでしまう。だけど、この人の言うとおりで、「そ……、そうです」と呟いた。

 「そうなんだ。 嬉しいです、すごく」

 そう言ってその人は言葉通り嬉しそうに微笑むので、わたしは急に居心地が悪くなってきて、視線を逸らす。理由もなく、こんな重たい物を頼まれてもいないのにわざわざ走って運んできたと思うと、恥ずかしい気持ちも湧いてきた。早く、帰りたい。

 「店員さん。 名前、教えてください」

 視線が絡む。コンビニの灯りが、その人の顔をよく照らしている。

 「俺、陽(よう)っていいます。 店員さんは?」

 「…… 満澄(みすみ)、です」

 「……下の名前は?」

 「……小夜子」

 その人は、「満澄、小夜子さん。 綺麗な名前ですね」と言った。その時、コンビニの自動ドアが開く音がしてわたしは視線をそちらに向ける。若い男女が出てきて、そのふたりと目が合う。うわ、変な人いる。そんな視線。そりゃそうだ。コンビニの真ん前でふたりでしゃがみ込んでいるのなんて、変に思われるに決まってる。恥ずかしくて思わず立ち上がると、その拍子にわたしの手がその人の持っていた参考書にぶつかってバサッと地面に落ちた。

 「ご、ごめんなさい」

 「大丈夫ですよ」

 その人が落ちた参考書を拾い上げると、ちょうど最後のページで開かれていた。それを見ると、何かが不自然に切り取られた跡がある。

 「あ、」

 思い出した。この参考書、解説と解答の冊子が本書にくっついてるせいで答え合わせがやりづらくて、切り離したんだ。

 「あれ、これ答えが……」

 その人も気付いたらしく、切られた部分を触る。

 「すみません。 解答の冊子、探してきます」

 わたしは来た道の方向へ引き返そうとしたけれど、「待って」と立ち上がったその人が引き留める。

 「いらないです。 いらないから、小夜子さんが教えてください」
 
 「そんなの、解答があれば済むじゃないですか」

 「俺、多分それ読んでも理解できないです。 ほんと、めちゃくちゃ馬鹿なんですよ」

 そんなこと言われても……。わたしは言葉に困って、「ええ……」と声を漏らす。

 「時給、小夜子さんが決めていいから。 和烙よりも、多く払います」

 「なんで、そんなに」

 さっき確かにわたしはこの話をきっぱり断った筈なのに、どうしてこんなにしつこいのか。そのわたしの考えが伝わってしまったのか、その人は自嘲気味に少し笑った。

 「必死すぎて、引きますよね。 でも、諦めたくないんです。 日にち時間、場所も自由、こんな好条件のバイト、他にないと思いますよ」

 確かに、こんな好条件のバイトは今まで出会ったことがない。 今ここで首を縦に振るだけで、ちまちまと求人を探す手間も省ける。

 「時給3,000円。 さっき、家庭教師の時給調べてたんです。 どうですか」

 「さ……それは高すぎるでしょ」

 提示された金額に、あからさまに目が眩む。だけど、未成年からそんな大金を貰うわけにもいかない。

 「未成年だから、とかは気にしないでください。 俺、働いて普通に生活していけてるし、大丈夫なんで」

 普通に? そう疑問に思ったら、喉の奥がキュッと苦しくなった。たった17歳のこの人にとって、あの仕事でお金を稼ぐことが“普通に働く”ということなのか。

 それって、ものすごく、ダメなんじゃないだろうか。でも、いまこの人はそうする他にないのかもしれない。こんな見ず知らずのわたしに頼るしか、他に方法がないのかもしれない。

 「どうですか? まだ、ダメですか?」

 念を押すように、わたしに考える余地を与えないかのようにその人は言う。

 「……ひとつだけ、お願いがあります」

 「なんですか?」

 「場所は、必ず他の誰かがいる場所で。 ……いいですか」

 「もちろんです。 決まりですね」

 そう言って、その人は満足げに微笑んだ。