...
目が覚めると、目の前にキラキラと光るものが宙を舞っていた。それがただの埃で、カーテンの隙間から注がれている陽の光に照らされているからそう見えたのだと理解してからも、寝ぼけた目に映るそれは不思議と綺麗に見えた。
けれど、頭が覚めてくると同時に自分の身体がじっとりと汗をかいているのに気が付いて、不快な気持ちになる。また微かにジリジリと耳鳴りが鳴っているのに気付く。
__やめて。
部屋中に漂う空気もじっとりとした重たい湿気を含んでいて、肌に滲む汗をさらに身体に纏わりつかせている。窓は閉め切られているはずなのに、蝉の鳴き声が外から聞こえているのが暑さを助長させている。ベッドに沈み込んでいる身体をのっそりと起こして、再びカーテンの隙間から注がれる光を見てみたけれど、光に反射する埃は、ただの埃だった。
目尻が少し濡れていて、眉間が重い。またかと思いながら洗面所まで行き、顔を洗う。寝ながら眉間に皺を寄せる癖があるから、鏡を見ながら、眉間に皺が刻まれないように摩ってみる。効果があるかはわからない。
歯を磨いて、再びベッドに戻って腰を落ろすと安物のマットレスはすでにスプリングが劣化しているのか大きく軋む音が鳴った。本当はシャワーでも浴びてスッキリしたいところだけれど、身体のだるさに勝てず、首に絡む伸びた髪を後ろで一つにくくる。少しぼうっとした後、枕元にあったスマホを手に取って画面を点けると時刻は16時を過ぎていた。
寝すぎてしまったせいで頭痛がする。昨日のバイトは食事のラストオーダー10分前になった頃に立て続けに3組入ってきた。どの組もダラダラと呑み続け、お陰で帰ってこれたのは夜中の2時半すぎだった。
それに、店長が高校生バイトを早く上がらせた為に普段はキッチンで調理をしているわたしがホールに出る羽目になった。しかも、空いたグラスを回収しているときに酔った男性客から手を握られて、驚いた拍子にグラスを落として割ってしまい、もう散々だった。
それを思い出したら、手を握られた感触が蘇ってきて、慌ててキッチンに向かい蛇口を捻った。冷たい水で手を洗い流す。そうしているのに、感触は消えるどころか徐々に広がってくる。
__やめて、やめて。
また耳鳴りだ。胃のあたりから何かが込み上げて嗚咽したけれど、何も吐き出せなかった。耐えきれず、結局シャワーを浴びて全身を洗い流した。そこでも、手だけは余計に擦り洗いをして、感じるはずのない感触を摩擦で消し去る。いたい、赤くなって、ヒリヒリする。
濡れた髪をタオルで拭きながら、再びベッドに座り込む。髪から滴り落ちる水滴をぼうっと眺める。足の甲に落ちるそれは、冷たくてくすぐったい。
足元に寝そべっている大学用のトートバッグが視界に入る。大学は先週から夏休みに入ったけれど、レポートの締切日は休み期間中に設定されているため、合間を見て進めなければいけない。
トートバッグを引っ張ってパソコンを取り出してみたものの、やっぱり今日は気分になれず、ベッドに転がっているエアコンのリモコンを操作してスイッチを入れる。カビ臭い匂いがして、逃げるようにベッド横の窓を開けた。外はまだ十分暑そうだけれど、16時にもなると昼間のギラギラと眩しい日差しはほんの少しだけ和らいだようだった。
電線が交差する青空から視線を逸らして歩道を見下ろすと、カッチリとパンツスーツを着た女の人が向かいの新築マンションに入って行くのが見えた。わたしが住んでいる家賃4万のボロアパートとは見た目も作りも何もかも違うなぁと思っていると、またひとり、そのマンションに入っていく。線の細い、男の人。
あれ、あの人どこかで……。見覚えがあるなと考えて「あ、」と一人小さく呟いた。
昨日の、触ってきた迷惑な男性客グループの中のひとりで、ずっとコーラやジンジャーエールといったソフトドリンクだけ注文していた。見た目では成人しているか微妙なところだったから、アルコールを頼まないでいてくれたのは年確をする手間も省けるので有り難かった。
このマンションに住んでいたのか。……でも、人違いかもしれない。
外の熱気に顔がジリジリしてきたので窓を閉めると、チャイムの音が聞こえた。その音が消える前に、ガチャッと扉が開けられる。
「鍵、また掛けてないじゃん」
聞き慣れた声にわたしは顔だけをそちらに向けると、膨らんだエコバッグを持った由希が入ってきた。
「もしかしてお風呂上がり? 鍵、開けっぱなしだったよ」
「あ〜、ごめん」
「あたしに謝らなくてもいいけどさ。 今物騒だから、ちゃんとしなよ」
由希は重たそうなビニール袋をテーブルの上にどさっと置いて、目元にかかる髪を耳に掛けた。スラッとした体形と小顔と細い首に、短く整った髪が良く似合っているなあと今日も思う。モデルみたい。わたしも髪は短いけれど、少し癖っ毛なせいで左側がいつもちょっと跳ねている。
「昨日バイトだったんでしょ? 何時に終わったの?」
「うーん、夜中」
「もしかして、今まで寝てた?」
由希の言葉にわたしは「ばれたか~」と返事をしてパソコンを開く。由希はそんなわたしに呆れているのかため息をつくみたいに鼻を鳴らしてビニール袋から卵パックを取り出しながらいつものセリフを言う。「チャーハン、たべる?」
わたしが「ありがたや~」と由希に向けて両手を合わせて拝むようにすると、由希は「寝ながらするな」と笑った。
由希とは中学3年生までの同級生で、大学生になって再会した。 もしかして、小夜子? そう声を掛けてき由希は、当時の面影は残っているけれどとても綺麗になっていて驚いた。多分、由希から声を掛けてもらえなかったら、わたしは気付けなかったと思う。人ってこんなに変わるんだと感心しながら、由希から見たわたしは何も変わっていなかったのだと思うと恥ずかしかった。
わたしは寮付きの高校に進学したくて地元から離れた学校を受験して、中学の頃の同級生とは一切の連絡のやり取りを断ち切っていた。由希とも連絡を取っていなかったので、再会した時は正直気まずかったけれど、由希は何も気にしていない様子だった。
それから数回、由希からご飯に誘ってくれて、なんとなくまたよく話すようになった。話す中で、どうして遠くの高校を受験したのかと改めて聞かれた時、正直に実家と距離を置きたかったからだと伝えたら、由希はそれ以上詮索はしてこなかった。
ただ、なぜかその話をした頃から由希はバイト前の時間にわたしのアパートに寄って、ご飯を作って食べていくようになった。理由を聞いたときには、「小夜子んちの冷蔵庫があまりに空っぽで、放っておくと死ぬと思ったから」だと話していた。あまり自覚していなかったけど、わたしはあまりご飯を食べないし、食べるとしても冷凍ご飯と納豆だけで十分なので、それ以上のものは買わない。でも、由希曰く、明日死ぬ人の冷蔵庫のようらしい。
由希がキッチンで動き始めたので、わたしはもう一度窓の外へと視線を向ける。そのとき、不意に向かいのマンションの一室が視界に入った。そこにはカーテンを開けたまま下着姿になっている女の人の姿と、まだ服を着たままの男の人の姿。わたしは反射的に視線を逸らし、思わず眉間を寄せ、ぎゅっと目を瞑る。
あれ、多分さっき見た2人だ。スーツの女の人と、昨日の客に似た男。よく見えなかったけれど、たぶん。
ドッと、心臓の鼓動が酷く強く打たれる。
__いたい、やだ。
ジリジリと耳の奥で不快な音がして、顔を上げないまま自分の部屋のカーテンを掴んで閉める。もう、向こうは見えない。だから、大丈夫、大丈夫……。そう思うのに、また身体が不快感に飲み込まれる。わたしはベッドから立ち上がって、由希にトイレに行って来ると告げて洗面所に入り込んだ。そして、冷たい水で手を洗った。
チャーハンが出来上がり、わたしと由希はテーブルに向かい合った。この香ばしい匂いを嗅ぐと、お腹が何かを思い出したようにぐうと鳴る。いただきまーすと言ってスプーンで掬って一口頬張る。由希が作るチャーハンはお米がしっかりしていて、コショウが効いていて美味しい。その時々で具材が多少異なるけれど、決まってコーンが入っている。それが嬉しい。
「うん、美味い」と言うと、由希は満足そうに、キュッと口角を上げて微笑んだ。この瞬間を切り取ったら、雑誌の1ページにでもなりそうだなと思うくらい、由希の笑顔は人を惹きつける魅力がある。
「小夜子さ、新しいバイト見つかった?」
「ううん」
2週間前まで、わたしは居酒屋バイトの他にもこのアパートから2駅先にある大手コンビニの食品製造工場でのバイトを掛け持ちしていた。しかし、人件費削減の為大きな機械が導入されたと同時に、バイトとパートはあっさりクビを切られた。時給はそこそこ良かったし、何よりも居酒屋の営業時間と上手い具合にシフトの調整が出来ていたから、解雇になった時はショックだった。
居酒屋のシフトを増やそうにも、夜営業のみなので新しいバイト先を探さなきゃと思っているけれど、接客業・重労働以外で、アパートから2駅圏内と条件を付けるとなかなか見つからない。
「じゃあ、あたしと同じところ来なよ」
「無理無理。 メニュー間違えてクレーム殺到するし、カスタム?とか覚えらんないわ」
「マニュアルあるから大丈夫だよ」
由希は笑って言うけれど、彼女のバイト先の某大手コーヒーチェーン店の店員はオシャレ集団だし、わたしには敷居が高い。
「あそこ駅前で、すごい混むじゃん。 たぶん、耐えらんない」
「それは居酒屋も一緒でしょ」
「あそこは接客しないで済んでるから、大丈夫なの」
昨日は例外だったけれど。由希はふうんと口を尖らせる。
「……この前、おばさんに会ったよ。 連絡しても、全然返事が返ってこないって心配してた」
チャーハンを頬張りながら、わたしは「うん」と籠った声で返事をする。母親から時々連絡が来ていることは、知っている。でも、できれば今後も関わり合いたくない。
「それに、由希のお父さんの映画今日が公開日だから、そのお祝いしようって、連絡してたんだって」
誰が行くか、そんなもの。声には出さず悪態をつく。言葉に出さなかったせいで胸の内に蓄積されるのは嫌なので、炒飯の米粒と共に噛み砕いて粉々にして、飲み込んだ。
「そんなの、興味ないね」
由希は笑って「小夜子らしいわ」と言って、スマホの画面をこちらに向けた。そこには若い俳優と女優の横顔と『海が青いなら、』というタイトルが白字で書かれている画像が映し出されていた。
「映画、こんな感じだよ。 この女優、あたし好きなんだよね〜。 なんか、どことなく顔の雰囲気が小夜子に雰囲気似てない?」
「はぁ? やめてよ、似てない。 無理ありすぎ」
「そうかな〜。 まあでも、小夜子はボーイッシュな雰囲気だもんね」
由希とわたしの実家は近所で、由希よく実家に帰りるので、そのときにわたしの母親に会うことがあるようだ。たぶん、今みたいに母親にわたしの様子を話しているのだと思う。由希はそんな風に“気遣ってくれている”ので、わたしが話したことが、きっと母親に筒抜けなのかもしれない。そう思うと、あまり好き勝手に色々話せない。
何より、わたしの母親も由希に言えばわたしに伝わるとすでに理解している。だから、わざわざ言わなくて良いことを言って、由希を伝書鳩のように使う。それが何より気に食わない。
「そういえば、哉人くん、ピアノのジュニアコンクールに出るって」
ほら、まただ。哉人は、わたしの13才離れた弟。
「コンクール?」と気の抜けた声で聞き返すと、「そう。2週間後なんだって」と由希が答えた。わたしよりも、由希の方が断然わたしの家族のこと詳しいなあと少し可笑しく思う。
そのとき、テーブルに置かれたスマホからメッセージ受信の通知音が鳴って、由希は一度画面を見ると手早く画面に指を滑らせる。キッチンで調理をしている間にも何回か同じ通知音が鳴っていた。由希は、友達が多い。わたしはベッドに放られている自分のスマホに視線を移してみたけれど、すぐに逸らして、もう一口チャーハンを口に運ぶ。おいしい。
「そうだ。 佐々木とミキ、別れたんだよ」
佐々木とミキは、大学の同期でカップルでSNSを運営していて学内では有名なふたりだ。ただ、SNSをしていないわたしはそのふたりの顔がぼんやりとしか思い浮かばなかったが、「え、そうなの?」と知ったかぶりをしてみせる。
「佐々木が浮気してたんだって。 相手、バイト先の女子高生でさ。 しかも、妊娠させちゃったらしくて」
「え」
口に含んだチャーハンの味が薄くなった気がして、咀嚼をやめて麦茶で流し込む。
「まだネットにはバレてないっぽいけど、それも時間の問題だよね。 んでさ、この後、そのミキと、あと他の子たちとも呑み行くんだけど、小夜子も来ない?」
「えっ。 あー、いやぁ」
思いもよらない誘いに動揺する。由希は「多分、男はロクでもないって愚痴だらけの呑みだけど」と付け足した。
「ううん。 今日は遠慮しとく」
「そう? 来るの、女子だけだよ」
「レポート、しようと思っててさ」
由希はわたしのベッドの上に置かれたパソコンに視線を向けて「そっか。そっちの学部、課題多そうだもんね」と言った。
時々、由希は飲みに誘ってくれる。一度だけ参加したけれど、基本的に根暗なわたしは由希の周りにいる根明な子たちのノリには合わせるのがちょっと大変で、しかも話を振られても自分にできる話がなくて、由希がフォローしてくれた。それ自体が、周りになんとなく気を遣わせているような雰囲気を作り出してしまって、由希にも申し訳なくて、何よりもしんどかった。
そしてつくづく、わたしは“普通じゃない”と思う。わたしは、2人以上で会話しようとすると、自分が話して良いタイミングが掴めなくなってしまうのに、みんなは何の合図もしてないのにそれぞれがちょうどよく話をして、会話を繋げている。それを自然にやっているあの子たちの方が、わたしよりも何倍も人生を楽しむことができるのだろう。目の前にいる由希を見ても、そう思う。
由希が帰宅した後、冷蔵庫を開けると空っぽだったはずの冷蔵庫には見覚えのある柄の保存容器が2つ入っていた。それを手に取ると蓋にはまた見覚えのある文字が書かれたメモが貼ってあった。
『レンコンのサラダとロールキャベツです。 どっちも早めに食べてね。』
達筆の母親の文字だった。また由希に持ってこさせたのか。わたしはその蓋を開けずに元の場所へと戻して、炭酸水のペットボトルを手に取った。ふと、先程の由希の言葉を思い出す。わかっている。母親から連絡が来ていることくらい、気付いているに決まっている。
ペットボトルの蓋を開けようと指先に力を込めると、思ったよりもそれが硬くて少しだけ苦戦する。昨日のバイトでビール瓶を沢山運んだ所為か、腕を痛めていることに気付いた。プシュッと小気味よい音が聞こえたときには指先が真っ赤になっていて、じんわりと痛む。炭酸水を飲むと、喉に直接びりびりとした鋭い刺激が走る。わたしはその痛みに近い刺激に眉根を寄せた。
――いたい。
ぞわっと背筋に寒気が走って、思わず咳き込む。喉はさらにびりびりと痛んで、濡れた口元を拭いながらふらふらとベッドへ向かって蓋をしないままのペットボトルをサイドテーブルに置いた。シュワシュワと、炭酸が空気に溶けていく音がする。
耳鳴りは、乾いた肌が布団に擦れる音と、今よりも少し幼い私の声が聞こえる。それが何よりも気持ちが悪い。手は洗いすぎて指先は常にささくれ立っている。痛い、何をするにも、痛くて苦になる。
視界の隅で、スマホの画面が光るのと同時にバイブが短く鳴った。わたしに届く連絡の大体は、バイト先のヘルプ要請か、母親からだ。わたしは画面を見ないまま伏せた。外はもう薄暗くなり始めているのに暑さはまだまだ衰えず、節約のためにさっきエアコンから扇風機に切り替えたせいかじっとりと暑くなってきた。わベッドから立ち上がって、部屋の電気をつけようと扉の横のスイッチを押した。
「あれ?」
何度スイッチを切り替えても、電気がつく気配がない。この家賃4万5千円のボロアパートの照明がLEDではないことくらい分かっていたけど、つい深いため息が零れる。このまま今日は真っ暗のままで過ごそうかと一瞬考えたけれど、いつかは買いに行くのだからと諦めた。
ホームセンターに行くのにわざわざ着替え直すのも面倒で、Tシャツはそのままで良いかと思ったけれど、下は半パンで行くのは少し気が引けたのでジーンズに履き替えて、財布とスマホだけをショルダーバッグに入れた。玄関から出た途端、じんわりと湿気を含んだ熱気が肌を纏う。うう、暑い。さっき由希が作ってくれたチャーハンを食べていなかったら、スタミナ切れで暑さに負けて部屋に戻っていたかもしれない。
階段を下りて、ふと先ほど部屋の窓から見たマンションに視線を向けた。ここに住んで3年になるけれど、このマンションをまじまじと見たのは今日が初めてだ。ここで暮らす為には、いくら位の稼ぎが必要だろうと思って、そういえばさっきも家賃のことを考えていたなと思い出す。
徒歩15分ほどで駅前のホームセンターについて、蛍光灯が置いてあるの通路を探す。ちょうど大型テレビが置かれている通路を横切ったとき、画面に夕方のニュースが流れていて、新作映画の舞台挨拶の様子が映し出されていた。司会のアナウンサーが、出演俳優や子役に話を振る。その中に。
『今回、満澄監督は――』
動けなくなる。金縛りにかかったみたいに。目を逸らしたいのに、逃げ出したいのに、動けない。画面に、あの男が映し出される。
そのとき、「すみません、お客さま」と声を掛けられて、ハッとした。そこには大型テレビを載せた台車を押している店員が立っていて、わたしが通路を妨げていたらしく慌てて謝って避けた。気付かぬうちに呼吸をし忘れていたのか、息が苦しい。それから、手にも力が入っていたみたいで、爪が食い込んだ手のひらが痛い。
再びテレビに視線を向けたら、もう画面はお天気コーナーに切り替わっていた。
…………なんで、よりにもよって。どうして、こんな思いをしなきゃならないんだろう。
蛍光灯を購入して店内から出た。会計の時にレジで店員に「テープでよろしいですか」と聞かれて咄嗟にはいと答えてしまったお陰で、丸形の蛍光灯のイラストがデカデカと描かれているこの真四角の箱を小脇に抱えて持ち帰ることになってしまった。
駅前にはスーツをかっちりと着たサラリーマンや綺麗な格好でヒールを鳴らして歩くOL、お洒落な格好をしたわたしと同い年くらいの子たちが早歩きで忙しそうに歩いている。そんな中、自分の格好を見ると恥ずかしい気持ちもしたけれど、仕方ない。わたしも少しだけ早歩きで、駅裏に向かう。こういった賑やかな場所では下を向いて歩いてしまう。昔からの癖だ。
あの頃から、すれ違う人たちの視線すら居心地が悪い。向けられる視線が、汚い物を見るような視線だったらと思うと、怖くてたまらない。ああ、また、気持ち悪くなってきた。
もうすぐでアパートというところで、耐えられずコンビニに寄った。蛍光灯を小脇に抱えたままだけど、もうそんなこともどうでも良かった。店内に入ると、ヒンヤリした空気に汗で湿った身体が突然包まれて身震いする。トイレに向かうと、“清掃中”の看板が立っていた。小窓から中を覗くと、店員らしき後ろ姿が見える。いま入ったら、迷惑だろうなと思いながら、ガサガサした手に視線を落として、諦める。
何も買わずに出るのは気が引けたので、乳製品や紙パックが置かれた棚へと向かい、いつも買う270mlのコーヒー牛乳へ手を伸ばしたとき、反対側からも手が伸びてきた。
「あっ、すみません」
咄嗟に手を引っ込めて、隣を見る。
「あれ」
そう呟いたのは、向こう側だった。
「和烙の店員さん?」
目の前にいたのは、昨日閉店の間際に来たソフトドリンクしか頼まなかった、あの、マンションの男だった。“和烙”は、わたしがバイトしている居酒屋の名前だ。
「そうですけど……」
「ああ、やっぱり」
ゆるりと、切長でアーモンドみたいな形をした目を少しだけ細めて微笑む。その微笑み方があまりにも自然で、なんだかそれが嫌で、わたしはほんの少しだけ身構えた。
「今日は、お休みなんですか?」
「まあ……はい」
それに、自分のことを聞かれるのもなんだか嫌で、早く会話を切り上げてしまいたくて「先どうぞ」と短めに言う。こんな自分は不愛想だなと思う。
「ありがとうございます」
その人はまたゆるりと微笑んで、棚に手を伸ばしてコーヒー牛乳を手に取った。けれど、丁度その一本で品切れしてしまったのか、棚に一つガランとした空間が空いた。
「あっ」
「…………」
なんでこのタイミングで……。そう思いつつ横目で隣を見ると、その人も多分同じことを思ってそうな、気まずそうな表情だった。
「なんか、すみません。 あの、俺いいんで」
差し出されたコーヒー牛乳に、わたしは首を横に振る。
「いや、大丈夫です。 どうぞ」
そう言って立ち去ろうと思ったけれど、その人は「でも……」と本当に申し訳なさそうに眉を下げる。そんな顔をされたら、こっちまで申し訳ない気持ちになってきた。
「……部屋の蛍光灯、切れたんですか?」
「え?」
その人の視線に促され、わたしは自分の左小脇に抱えられた蛍光灯を見る。
「そうです」
「じゃあ、これのお詫びに蛍光灯の付け替え、手伝わせてください」
「は?」
あまりにおかしい文脈で理解できなかったけれど、自分の持っている蛍光灯にまた視線を落として、やっと言葉の意味を理解する。だけどやはり、「じゃあ」の意味が分からない。それに、わたしのアパートはさっきこの人が女の人と入って行ったマンションの目の前にある。そんなの、良くないんじゃないか。
「いや、結構です。 じゃあ」
足早にその場から離れた。後ろから呼び止められた気もしたけれど、振り返ることなくコンビニを出る。
なんなんだ、一体。まさか、そんな展開になるなんて思わない。コンビニを出てから少し行ったところまで早歩きで進んで、少し疲れて、普通の速度で歩く。あの人は、あのコンビニをよく使うのだろうか。
いや、そもそも人違いかもしれない。向かいのマンションにいた人と、さっきの人は、全くの他人という可能性も、なくはない。
「店員さん!」
突然呼び掛けられて思わず足を止めて振り返ると、さっきの人がこちらに向かって走って来ていた。その人はわたしの目の前まで来ると立ち止まった。
「なんですか」
「いや、やっぱり悪いなと思って」
少し息を切らしながらその人は言う。片手には、コンビニの袋がぶら下がっている。
「なんで、ここが分かったんですか」
アパートはすぐ目の前だけれど、ここはコンビニのある通りからは見えない道で、この人が会計を済ませてコンビニから出た時には、幾らわたしの早歩きが遅かったとしても、わたしの姿は見えていないはずなのに。
「えっと……すみません。 実は今日、店員さんのことを見かけたんです」
「見かけた?」
「さっき……多分、店員さんがそのアパートから出た時、俺向かいのマンションに居たんですよ」
その言葉を聞いて、咄嗟に少し後ずさる。人違いではなかったようだ。その人は「ごめんなさい、びっくりしましたよね」とまた眉を下げて言った。
「……というか、そうか。 普通、知らない人に家に入られるのは、怖いですよね。 ごめんなさい」
その人はまた謝って、頭を下げた。そんなことをされると、やっぱりこっちも申し訳ない気持ちになってしまう。
「大丈夫です……気にしてないですから。 別のとこで、買うんで」
「別のコンビニまで、わざわざ行くんですか」
「……えぇと」
咄嗟についた嘘があまりにも下手で、聞き返されて言い淀む。別のコンビニまでは……行かない。というか、そんなことどうでもいい。
「そもそも、そこまでしてもらうほどのことではないです」
たかがコーヒー牛乳で、どうしてこんなに手間取られているのか。別に、わたしがそれが欲しいと駄々こねたわけでもないのに。
「じゃあ、昨日のお詫びです」
「お詫び?」と聞き返すとその人は頷いた。
「俺の知り合い、酔ってて、店員さんに悪いことしたから」
「……別に、それも気にしてないです」
「でも、怖がらせてしまったじゃないですか」
不意の言葉に言い返せなかった。確かにわたしはあのとき、とても怖かった。図星だ。
「……本当に、蛍光灯付け替えるの手伝うだけですから。 いいですか?」
そう言ってその人はわたしが住むアパートを指差した。ここで問答していても堂々巡りのような気もして、暑さに負けて「はあ……」とだけ気の抜けた声で呟いた。
目が覚めると、目の前にキラキラと光るものが宙を舞っていた。それがただの埃で、カーテンの隙間から注がれている陽の光に照らされているからそう見えたのだと理解してからも、寝ぼけた目に映るそれは不思議と綺麗に見えた。
けれど、頭が覚めてくると同時に自分の身体がじっとりと汗をかいているのに気が付いて、不快な気持ちになる。また微かにジリジリと耳鳴りが鳴っているのに気付く。
__やめて。
部屋中に漂う空気もじっとりとした重たい湿気を含んでいて、肌に滲む汗をさらに身体に纏わりつかせている。窓は閉め切られているはずなのに、蝉の鳴き声が外から聞こえているのが暑さを助長させている。ベッドに沈み込んでいる身体をのっそりと起こして、再びカーテンの隙間から注がれる光を見てみたけれど、光に反射する埃は、ただの埃だった。
目尻が少し濡れていて、眉間が重い。またかと思いながら洗面所まで行き、顔を洗う。寝ながら眉間に皺を寄せる癖があるから、鏡を見ながら、眉間に皺が刻まれないように摩ってみる。効果があるかはわからない。
歯を磨いて、再びベッドに戻って腰を落ろすと安物のマットレスはすでにスプリングが劣化しているのか大きく軋む音が鳴った。本当はシャワーでも浴びてスッキリしたいところだけれど、身体のだるさに勝てず、首に絡む伸びた髪を後ろで一つにくくる。少しぼうっとした後、枕元にあったスマホを手に取って画面を点けると時刻は16時を過ぎていた。
寝すぎてしまったせいで頭痛がする。昨日のバイトは食事のラストオーダー10分前になった頃に立て続けに3組入ってきた。どの組もダラダラと呑み続け、お陰で帰ってこれたのは夜中の2時半すぎだった。
それに、店長が高校生バイトを早く上がらせた為に普段はキッチンで調理をしているわたしがホールに出る羽目になった。しかも、空いたグラスを回収しているときに酔った男性客から手を握られて、驚いた拍子にグラスを落として割ってしまい、もう散々だった。
それを思い出したら、手を握られた感触が蘇ってきて、慌ててキッチンに向かい蛇口を捻った。冷たい水で手を洗い流す。そうしているのに、感触は消えるどころか徐々に広がってくる。
__やめて、やめて。
また耳鳴りだ。胃のあたりから何かが込み上げて嗚咽したけれど、何も吐き出せなかった。耐えきれず、結局シャワーを浴びて全身を洗い流した。そこでも、手だけは余計に擦り洗いをして、感じるはずのない感触を摩擦で消し去る。いたい、赤くなって、ヒリヒリする。
濡れた髪をタオルで拭きながら、再びベッドに座り込む。髪から滴り落ちる水滴をぼうっと眺める。足の甲に落ちるそれは、冷たくてくすぐったい。
足元に寝そべっている大学用のトートバッグが視界に入る。大学は先週から夏休みに入ったけれど、レポートの締切日は休み期間中に設定されているため、合間を見て進めなければいけない。
トートバッグを引っ張ってパソコンを取り出してみたものの、やっぱり今日は気分になれず、ベッドに転がっているエアコンのリモコンを操作してスイッチを入れる。カビ臭い匂いがして、逃げるようにベッド横の窓を開けた。外はまだ十分暑そうだけれど、16時にもなると昼間のギラギラと眩しい日差しはほんの少しだけ和らいだようだった。
電線が交差する青空から視線を逸らして歩道を見下ろすと、カッチリとパンツスーツを着た女の人が向かいの新築マンションに入って行くのが見えた。わたしが住んでいる家賃4万のボロアパートとは見た目も作りも何もかも違うなぁと思っていると、またひとり、そのマンションに入っていく。線の細い、男の人。
あれ、あの人どこかで……。見覚えがあるなと考えて「あ、」と一人小さく呟いた。
昨日の、触ってきた迷惑な男性客グループの中のひとりで、ずっとコーラやジンジャーエールといったソフトドリンクだけ注文していた。見た目では成人しているか微妙なところだったから、アルコールを頼まないでいてくれたのは年確をする手間も省けるので有り難かった。
このマンションに住んでいたのか。……でも、人違いかもしれない。
外の熱気に顔がジリジリしてきたので窓を閉めると、チャイムの音が聞こえた。その音が消える前に、ガチャッと扉が開けられる。
「鍵、また掛けてないじゃん」
聞き慣れた声にわたしは顔だけをそちらに向けると、膨らんだエコバッグを持った由希が入ってきた。
「もしかしてお風呂上がり? 鍵、開けっぱなしだったよ」
「あ〜、ごめん」
「あたしに謝らなくてもいいけどさ。 今物騒だから、ちゃんとしなよ」
由希は重たそうなビニール袋をテーブルの上にどさっと置いて、目元にかかる髪を耳に掛けた。スラッとした体形と小顔と細い首に、短く整った髪が良く似合っているなあと今日も思う。モデルみたい。わたしも髪は短いけれど、少し癖っ毛なせいで左側がいつもちょっと跳ねている。
「昨日バイトだったんでしょ? 何時に終わったの?」
「うーん、夜中」
「もしかして、今まで寝てた?」
由希の言葉にわたしは「ばれたか~」と返事をしてパソコンを開く。由希はそんなわたしに呆れているのかため息をつくみたいに鼻を鳴らしてビニール袋から卵パックを取り出しながらいつものセリフを言う。「チャーハン、たべる?」
わたしが「ありがたや~」と由希に向けて両手を合わせて拝むようにすると、由希は「寝ながらするな」と笑った。
由希とは中学3年生までの同級生で、大学生になって再会した。 もしかして、小夜子? そう声を掛けてき由希は、当時の面影は残っているけれどとても綺麗になっていて驚いた。多分、由希から声を掛けてもらえなかったら、わたしは気付けなかったと思う。人ってこんなに変わるんだと感心しながら、由希から見たわたしは何も変わっていなかったのだと思うと恥ずかしかった。
わたしは寮付きの高校に進学したくて地元から離れた学校を受験して、中学の頃の同級生とは一切の連絡のやり取りを断ち切っていた。由希とも連絡を取っていなかったので、再会した時は正直気まずかったけれど、由希は何も気にしていない様子だった。
それから数回、由希からご飯に誘ってくれて、なんとなくまたよく話すようになった。話す中で、どうして遠くの高校を受験したのかと改めて聞かれた時、正直に実家と距離を置きたかったからだと伝えたら、由希はそれ以上詮索はしてこなかった。
ただ、なぜかその話をした頃から由希はバイト前の時間にわたしのアパートに寄って、ご飯を作って食べていくようになった。理由を聞いたときには、「小夜子んちの冷蔵庫があまりに空っぽで、放っておくと死ぬと思ったから」だと話していた。あまり自覚していなかったけど、わたしはあまりご飯を食べないし、食べるとしても冷凍ご飯と納豆だけで十分なので、それ以上のものは買わない。でも、由希曰く、明日死ぬ人の冷蔵庫のようらしい。
由希がキッチンで動き始めたので、わたしはもう一度窓の外へと視線を向ける。そのとき、不意に向かいのマンションの一室が視界に入った。そこにはカーテンを開けたまま下着姿になっている女の人の姿と、まだ服を着たままの男の人の姿。わたしは反射的に視線を逸らし、思わず眉間を寄せ、ぎゅっと目を瞑る。
あれ、多分さっき見た2人だ。スーツの女の人と、昨日の客に似た男。よく見えなかったけれど、たぶん。
ドッと、心臓の鼓動が酷く強く打たれる。
__いたい、やだ。
ジリジリと耳の奥で不快な音がして、顔を上げないまま自分の部屋のカーテンを掴んで閉める。もう、向こうは見えない。だから、大丈夫、大丈夫……。そう思うのに、また身体が不快感に飲み込まれる。わたしはベッドから立ち上がって、由希にトイレに行って来ると告げて洗面所に入り込んだ。そして、冷たい水で手を洗った。
チャーハンが出来上がり、わたしと由希はテーブルに向かい合った。この香ばしい匂いを嗅ぐと、お腹が何かを思い出したようにぐうと鳴る。いただきまーすと言ってスプーンで掬って一口頬張る。由希が作るチャーハンはお米がしっかりしていて、コショウが効いていて美味しい。その時々で具材が多少異なるけれど、決まってコーンが入っている。それが嬉しい。
「うん、美味い」と言うと、由希は満足そうに、キュッと口角を上げて微笑んだ。この瞬間を切り取ったら、雑誌の1ページにでもなりそうだなと思うくらい、由希の笑顔は人を惹きつける魅力がある。
「小夜子さ、新しいバイト見つかった?」
「ううん」
2週間前まで、わたしは居酒屋バイトの他にもこのアパートから2駅先にある大手コンビニの食品製造工場でのバイトを掛け持ちしていた。しかし、人件費削減の為大きな機械が導入されたと同時に、バイトとパートはあっさりクビを切られた。時給はそこそこ良かったし、何よりも居酒屋の営業時間と上手い具合にシフトの調整が出来ていたから、解雇になった時はショックだった。
居酒屋のシフトを増やそうにも、夜営業のみなので新しいバイト先を探さなきゃと思っているけれど、接客業・重労働以外で、アパートから2駅圏内と条件を付けるとなかなか見つからない。
「じゃあ、あたしと同じところ来なよ」
「無理無理。 メニュー間違えてクレーム殺到するし、カスタム?とか覚えらんないわ」
「マニュアルあるから大丈夫だよ」
由希は笑って言うけれど、彼女のバイト先の某大手コーヒーチェーン店の店員はオシャレ集団だし、わたしには敷居が高い。
「あそこ駅前で、すごい混むじゃん。 たぶん、耐えらんない」
「それは居酒屋も一緒でしょ」
「あそこは接客しないで済んでるから、大丈夫なの」
昨日は例外だったけれど。由希はふうんと口を尖らせる。
「……この前、おばさんに会ったよ。 連絡しても、全然返事が返ってこないって心配してた」
チャーハンを頬張りながら、わたしは「うん」と籠った声で返事をする。母親から時々連絡が来ていることは、知っている。でも、できれば今後も関わり合いたくない。
「それに、由希のお父さんの映画今日が公開日だから、そのお祝いしようって、連絡してたんだって」
誰が行くか、そんなもの。声には出さず悪態をつく。言葉に出さなかったせいで胸の内に蓄積されるのは嫌なので、炒飯の米粒と共に噛み砕いて粉々にして、飲み込んだ。
「そんなの、興味ないね」
由希は笑って「小夜子らしいわ」と言って、スマホの画面をこちらに向けた。そこには若い俳優と女優の横顔と『海が青いなら、』というタイトルが白字で書かれている画像が映し出されていた。
「映画、こんな感じだよ。 この女優、あたし好きなんだよね〜。 なんか、どことなく顔の雰囲気が小夜子に雰囲気似てない?」
「はぁ? やめてよ、似てない。 無理ありすぎ」
「そうかな〜。 まあでも、小夜子はボーイッシュな雰囲気だもんね」
由希とわたしの実家は近所で、由希よく実家に帰りるので、そのときにわたしの母親に会うことがあるようだ。たぶん、今みたいに母親にわたしの様子を話しているのだと思う。由希はそんな風に“気遣ってくれている”ので、わたしが話したことが、きっと母親に筒抜けなのかもしれない。そう思うと、あまり好き勝手に色々話せない。
何より、わたしの母親も由希に言えばわたしに伝わるとすでに理解している。だから、わざわざ言わなくて良いことを言って、由希を伝書鳩のように使う。それが何より気に食わない。
「そういえば、哉人くん、ピアノのジュニアコンクールに出るって」
ほら、まただ。哉人は、わたしの13才離れた弟。
「コンクール?」と気の抜けた声で聞き返すと、「そう。2週間後なんだって」と由希が答えた。わたしよりも、由希の方が断然わたしの家族のこと詳しいなあと少し可笑しく思う。
そのとき、テーブルに置かれたスマホからメッセージ受信の通知音が鳴って、由希は一度画面を見ると手早く画面に指を滑らせる。キッチンで調理をしている間にも何回か同じ通知音が鳴っていた。由希は、友達が多い。わたしはベッドに放られている自分のスマホに視線を移してみたけれど、すぐに逸らして、もう一口チャーハンを口に運ぶ。おいしい。
「そうだ。 佐々木とミキ、別れたんだよ」
佐々木とミキは、大学の同期でカップルでSNSを運営していて学内では有名なふたりだ。ただ、SNSをしていないわたしはそのふたりの顔がぼんやりとしか思い浮かばなかったが、「え、そうなの?」と知ったかぶりをしてみせる。
「佐々木が浮気してたんだって。 相手、バイト先の女子高生でさ。 しかも、妊娠させちゃったらしくて」
「え」
口に含んだチャーハンの味が薄くなった気がして、咀嚼をやめて麦茶で流し込む。
「まだネットにはバレてないっぽいけど、それも時間の問題だよね。 んでさ、この後、そのミキと、あと他の子たちとも呑み行くんだけど、小夜子も来ない?」
「えっ。 あー、いやぁ」
思いもよらない誘いに動揺する。由希は「多分、男はロクでもないって愚痴だらけの呑みだけど」と付け足した。
「ううん。 今日は遠慮しとく」
「そう? 来るの、女子だけだよ」
「レポート、しようと思っててさ」
由希はわたしのベッドの上に置かれたパソコンに視線を向けて「そっか。そっちの学部、課題多そうだもんね」と言った。
時々、由希は飲みに誘ってくれる。一度だけ参加したけれど、基本的に根暗なわたしは由希の周りにいる根明な子たちのノリには合わせるのがちょっと大変で、しかも話を振られても自分にできる話がなくて、由希がフォローしてくれた。それ自体が、周りになんとなく気を遣わせているような雰囲気を作り出してしまって、由希にも申し訳なくて、何よりもしんどかった。
そしてつくづく、わたしは“普通じゃない”と思う。わたしは、2人以上で会話しようとすると、自分が話して良いタイミングが掴めなくなってしまうのに、みんなは何の合図もしてないのにそれぞれがちょうどよく話をして、会話を繋げている。それを自然にやっているあの子たちの方が、わたしよりも何倍も人生を楽しむことができるのだろう。目の前にいる由希を見ても、そう思う。
由希が帰宅した後、冷蔵庫を開けると空っぽだったはずの冷蔵庫には見覚えのある柄の保存容器が2つ入っていた。それを手に取ると蓋にはまた見覚えのある文字が書かれたメモが貼ってあった。
『レンコンのサラダとロールキャベツです。 どっちも早めに食べてね。』
達筆の母親の文字だった。また由希に持ってこさせたのか。わたしはその蓋を開けずに元の場所へと戻して、炭酸水のペットボトルを手に取った。ふと、先程の由希の言葉を思い出す。わかっている。母親から連絡が来ていることくらい、気付いているに決まっている。
ペットボトルの蓋を開けようと指先に力を込めると、思ったよりもそれが硬くて少しだけ苦戦する。昨日のバイトでビール瓶を沢山運んだ所為か、腕を痛めていることに気付いた。プシュッと小気味よい音が聞こえたときには指先が真っ赤になっていて、じんわりと痛む。炭酸水を飲むと、喉に直接びりびりとした鋭い刺激が走る。わたしはその痛みに近い刺激に眉根を寄せた。
――いたい。
ぞわっと背筋に寒気が走って、思わず咳き込む。喉はさらにびりびりと痛んで、濡れた口元を拭いながらふらふらとベッドへ向かって蓋をしないままのペットボトルをサイドテーブルに置いた。シュワシュワと、炭酸が空気に溶けていく音がする。
耳鳴りは、乾いた肌が布団に擦れる音と、今よりも少し幼い私の声が聞こえる。それが何よりも気持ちが悪い。手は洗いすぎて指先は常にささくれ立っている。痛い、何をするにも、痛くて苦になる。
視界の隅で、スマホの画面が光るのと同時にバイブが短く鳴った。わたしに届く連絡の大体は、バイト先のヘルプ要請か、母親からだ。わたしは画面を見ないまま伏せた。外はもう薄暗くなり始めているのに暑さはまだまだ衰えず、節約のためにさっきエアコンから扇風機に切り替えたせいかじっとりと暑くなってきた。わベッドから立ち上がって、部屋の電気をつけようと扉の横のスイッチを押した。
「あれ?」
何度スイッチを切り替えても、電気がつく気配がない。この家賃4万5千円のボロアパートの照明がLEDではないことくらい分かっていたけど、つい深いため息が零れる。このまま今日は真っ暗のままで過ごそうかと一瞬考えたけれど、いつかは買いに行くのだからと諦めた。
ホームセンターに行くのにわざわざ着替え直すのも面倒で、Tシャツはそのままで良いかと思ったけれど、下は半パンで行くのは少し気が引けたのでジーンズに履き替えて、財布とスマホだけをショルダーバッグに入れた。玄関から出た途端、じんわりと湿気を含んだ熱気が肌を纏う。うう、暑い。さっき由希が作ってくれたチャーハンを食べていなかったら、スタミナ切れで暑さに負けて部屋に戻っていたかもしれない。
階段を下りて、ふと先ほど部屋の窓から見たマンションに視線を向けた。ここに住んで3年になるけれど、このマンションをまじまじと見たのは今日が初めてだ。ここで暮らす為には、いくら位の稼ぎが必要だろうと思って、そういえばさっきも家賃のことを考えていたなと思い出す。
徒歩15分ほどで駅前のホームセンターについて、蛍光灯が置いてあるの通路を探す。ちょうど大型テレビが置かれている通路を横切ったとき、画面に夕方のニュースが流れていて、新作映画の舞台挨拶の様子が映し出されていた。司会のアナウンサーが、出演俳優や子役に話を振る。その中に。
『今回、満澄監督は――』
動けなくなる。金縛りにかかったみたいに。目を逸らしたいのに、逃げ出したいのに、動けない。画面に、あの男が映し出される。
そのとき、「すみません、お客さま」と声を掛けられて、ハッとした。そこには大型テレビを載せた台車を押している店員が立っていて、わたしが通路を妨げていたらしく慌てて謝って避けた。気付かぬうちに呼吸をし忘れていたのか、息が苦しい。それから、手にも力が入っていたみたいで、爪が食い込んだ手のひらが痛い。
再びテレビに視線を向けたら、もう画面はお天気コーナーに切り替わっていた。
…………なんで、よりにもよって。どうして、こんな思いをしなきゃならないんだろう。
蛍光灯を購入して店内から出た。会計の時にレジで店員に「テープでよろしいですか」と聞かれて咄嗟にはいと答えてしまったお陰で、丸形の蛍光灯のイラストがデカデカと描かれているこの真四角の箱を小脇に抱えて持ち帰ることになってしまった。
駅前にはスーツをかっちりと着たサラリーマンや綺麗な格好でヒールを鳴らして歩くOL、お洒落な格好をしたわたしと同い年くらいの子たちが早歩きで忙しそうに歩いている。そんな中、自分の格好を見ると恥ずかしい気持ちもしたけれど、仕方ない。わたしも少しだけ早歩きで、駅裏に向かう。こういった賑やかな場所では下を向いて歩いてしまう。昔からの癖だ。
あの頃から、すれ違う人たちの視線すら居心地が悪い。向けられる視線が、汚い物を見るような視線だったらと思うと、怖くてたまらない。ああ、また、気持ち悪くなってきた。
もうすぐでアパートというところで、耐えられずコンビニに寄った。蛍光灯を小脇に抱えたままだけど、もうそんなこともどうでも良かった。店内に入ると、ヒンヤリした空気に汗で湿った身体が突然包まれて身震いする。トイレに向かうと、“清掃中”の看板が立っていた。小窓から中を覗くと、店員らしき後ろ姿が見える。いま入ったら、迷惑だろうなと思いながら、ガサガサした手に視線を落として、諦める。
何も買わずに出るのは気が引けたので、乳製品や紙パックが置かれた棚へと向かい、いつも買う270mlのコーヒー牛乳へ手を伸ばしたとき、反対側からも手が伸びてきた。
「あっ、すみません」
咄嗟に手を引っ込めて、隣を見る。
「あれ」
そう呟いたのは、向こう側だった。
「和烙の店員さん?」
目の前にいたのは、昨日閉店の間際に来たソフトドリンクしか頼まなかった、あの、マンションの男だった。“和烙”は、わたしがバイトしている居酒屋の名前だ。
「そうですけど……」
「ああ、やっぱり」
ゆるりと、切長でアーモンドみたいな形をした目を少しだけ細めて微笑む。その微笑み方があまりにも自然で、なんだかそれが嫌で、わたしはほんの少しだけ身構えた。
「今日は、お休みなんですか?」
「まあ……はい」
それに、自分のことを聞かれるのもなんだか嫌で、早く会話を切り上げてしまいたくて「先どうぞ」と短めに言う。こんな自分は不愛想だなと思う。
「ありがとうございます」
その人はまたゆるりと微笑んで、棚に手を伸ばしてコーヒー牛乳を手に取った。けれど、丁度その一本で品切れしてしまったのか、棚に一つガランとした空間が空いた。
「あっ」
「…………」
なんでこのタイミングで……。そう思いつつ横目で隣を見ると、その人も多分同じことを思ってそうな、気まずそうな表情だった。
「なんか、すみません。 あの、俺いいんで」
差し出されたコーヒー牛乳に、わたしは首を横に振る。
「いや、大丈夫です。 どうぞ」
そう言って立ち去ろうと思ったけれど、その人は「でも……」と本当に申し訳なさそうに眉を下げる。そんな顔をされたら、こっちまで申し訳ない気持ちになってきた。
「……部屋の蛍光灯、切れたんですか?」
「え?」
その人の視線に促され、わたしは自分の左小脇に抱えられた蛍光灯を見る。
「そうです」
「じゃあ、これのお詫びに蛍光灯の付け替え、手伝わせてください」
「は?」
あまりにおかしい文脈で理解できなかったけれど、自分の持っている蛍光灯にまた視線を落として、やっと言葉の意味を理解する。だけどやはり、「じゃあ」の意味が分からない。それに、わたしのアパートはさっきこの人が女の人と入って行ったマンションの目の前にある。そんなの、良くないんじゃないか。
「いや、結構です。 じゃあ」
足早にその場から離れた。後ろから呼び止められた気もしたけれど、振り返ることなくコンビニを出る。
なんなんだ、一体。まさか、そんな展開になるなんて思わない。コンビニを出てから少し行ったところまで早歩きで進んで、少し疲れて、普通の速度で歩く。あの人は、あのコンビニをよく使うのだろうか。
いや、そもそも人違いかもしれない。向かいのマンションにいた人と、さっきの人は、全くの他人という可能性も、なくはない。
「店員さん!」
突然呼び掛けられて思わず足を止めて振り返ると、さっきの人がこちらに向かって走って来ていた。その人はわたしの目の前まで来ると立ち止まった。
「なんですか」
「いや、やっぱり悪いなと思って」
少し息を切らしながらその人は言う。片手には、コンビニの袋がぶら下がっている。
「なんで、ここが分かったんですか」
アパートはすぐ目の前だけれど、ここはコンビニのある通りからは見えない道で、この人が会計を済ませてコンビニから出た時には、幾らわたしの早歩きが遅かったとしても、わたしの姿は見えていないはずなのに。
「えっと……すみません。 実は今日、店員さんのことを見かけたんです」
「見かけた?」
「さっき……多分、店員さんがそのアパートから出た時、俺向かいのマンションに居たんですよ」
その言葉を聞いて、咄嗟に少し後ずさる。人違いではなかったようだ。その人は「ごめんなさい、びっくりしましたよね」とまた眉を下げて言った。
「……というか、そうか。 普通、知らない人に家に入られるのは、怖いですよね。 ごめんなさい」
その人はまた謝って、頭を下げた。そんなことをされると、やっぱりこっちも申し訳ない気持ちになってしまう。
「大丈夫です……気にしてないですから。 別のとこで、買うんで」
「別のコンビニまで、わざわざ行くんですか」
「……えぇと」
咄嗟についた嘘があまりにも下手で、聞き返されて言い淀む。別のコンビニまでは……行かない。というか、そんなことどうでもいい。
「そもそも、そこまでしてもらうほどのことではないです」
たかがコーヒー牛乳で、どうしてこんなに手間取られているのか。別に、わたしがそれが欲しいと駄々こねたわけでもないのに。
「じゃあ、昨日のお詫びです」
「お詫び?」と聞き返すとその人は頷いた。
「俺の知り合い、酔ってて、店員さんに悪いことしたから」
「……別に、それも気にしてないです」
「でも、怖がらせてしまったじゃないですか」
不意の言葉に言い返せなかった。確かにわたしはあのとき、とても怖かった。図星だ。
「……本当に、蛍光灯付け替えるの手伝うだけですから。 いいですか?」
そう言ってその人はわたしが住むアパートを指差した。ここで問答していても堂々巡りのような気もして、暑さに負けて「はあ……」とだけ気の抜けた声で呟いた。



