それからも何度も呼び出されて、絵を描く日々が続いた。
王子の副官としての仕事もあるにはあったが、最優先で絵を描くことを求められたので、私の仕事はほとんど同僚たちが請け負っていた。
申し訳ないとは思うが、「大変だな」と声をかけられたことも一度や二度ではないので、王女のわがままに付きあわされているのだと皆思ってくれているようだ。
だが、それは違う。私は嫌々やっているわけではなかった。本格的な肖像画でないにしろ、堂々と絵が描けるのだ。それは何よりも心躍る仕事だった。
しかし、少々のおしゃべり、だけはどうにも上手くいかなかった。なにしろ環境が違いすぎて、どんな話なら王女が満足するのかわからない。
そしていつものように、今日は何を話そうか、と頭を悩ませながら中庭に向かうと、王女が一人、楡の木の下で腰掛けていた。
いつも傍に控えている侍女たちの姿が見えない。
「あの、侍女の方は」
王女にそう訊ねると、彼女は軽く肩をすくめた。
「もう大丈夫だと思ったようだったから、下がってもらったのよ。よかったかしら?」
「え、ええ。私はどちらでも構いませんから」
要は、この男は安全だ、と信頼されたということだろう。それに、何もせずにずっと絵を描いているのを見ている、というのは苦痛な仕事に違いない。
「失礼します」
私はいつものように王女の斜め前に腰掛けて、紙を取り出し、絵を描き始めた。
「ねえ、ジル」
「なんでございましょう」
珍しく、王女のほうから話しかけてきた。侍女がいなくなったから気が抜けたのか。これは今日は楽かもしれない、などと心の中で安堵の息をつく。
「あなた、どうしてアレスお兄さまの副官をしているの?」
どうしてと言われても。
「私が特に希望をしたわけではないのです。ただ、思いがけず光栄な仕事をいただいて」
「そうではなくて。本当に絵師になる気はないの?」
手が止まる。
「あなた、絵を描くとき楽しそうだわ。私だけでなく、他の絵も描いてみたいのではなくて?」
読まれている。なんだかいつものんびりしている雰囲気だが、きちんと人間観察はしているのだ。
「いえ、他のなによりも殿下の絵を描かせていただけることを嬉しく思います」
そう答えると、王女は唇を尖らせた。
「つまらないことを、言うのね」
優等生な答えをしたつもりだったが、王女の気に障ったらしい。
「せっかく誰もいないのに、そんな世辞はいらないわ。たまには本音を聞かせてちょうだい」
本音。王女を前に? 無理だ。
私たちは王城に勤めている。王族に仕えている。彼らの機嫌を損ねるようなことは、一つたりとも許されない。
私が言葉に詰まったのを見て、王女はため息をついた。
「わかったわ。では、命令しましょう」
「えっ」
「私といるとき、これからは本音で語ること。もちろんお兄さまには言わないわ。約束してよ」
「いや、本音と言われましても……」
「私、世辞には飽き飽きしているの。そしてこれからもそんな生活が続くことは目に見えているわ」
王女は本音で語りあう親友ごっこでもしたいのだろうか。
だとしたらこれは王女が望む、『輿入れしたらもうできないこと』なのだろう。
さすがに不敬罪に当たるようなことはできないし、思ってもいないが、自分のことくらいは語ってもいいだろう、と判断する。
「……私は本当は、絵師になりたいと思っておりました」
私がぽつりと語りだしたのを見て、王女は身を乗り出してきた。
「なのに、どうして王城に?」
「うちは田舎貴族でして。親族の中で誰か一人でも王城の中枢にいれば、と皆が思っているんですよ。そこそこ学業の成績が良いもので、私が皆の期待を一身に背負ってしまいました。それで絵師の夢は諦めてしまったのです」
「まあ」
王女はそう声をあげた。
「私と似ているわね」
「そうですか?」
思わず顔を上げて、王女を見つめる。私と王女が似ている? どこが。なにもかも違いすぎて、何が似ているのか想像もつかない。
「私も、皆の期待を一身に背負っている」
王女はぽつりと言った。
そうだ。国と国の繋がりのため、彼女は嫁ごうとしている。
「嫌だと……思ったことはないのですか」
思わず、こう訊いてしまった。
王女は背筋を伸ばす。
「私は、王女ですもの」
毅然とした声だった。
「私一人の言動が、何万という人の命を左右することもある。王族というものは、そうしたものだわ」
いつもののんびりした口調とは違った。それは責任を持った人間の言葉だった。
その言葉でわかる。
彼女は自分で選んだ。自分で覚悟を決めたのだ。
だが私はといえば、そうではない。流されたのだ。
「エイラ殿下は……ご立派でいらっしゃる」
頭が下がる。わがまま王女などと思った自分が恥ずかしい。今やっている『輿入れしたらもうできないこと』など可愛いものではないか。
「やはり私などとは似ておりません。殿下はとてもしっかりしていらっしゃる」
私の言葉に王女は首を傾げた。
「それは、本音?」
「命令を受けました。もちろんそうです」
「そうなの。私は、褒められるのは好きよ」
そう言って笑った。可愛らしい笑みだった。
少しばかり打ち解けてきたのかな、と思った。
絵を描いている最中に、第五王子がやってくることもしばしばだった。
もうすぐ嫁いでしまう妹と少しでも長く過ごしたかったのかもしれないし、自分自身も堅苦しい執務室を抜け出したかったのかもしれない。
二人での会話は弾むようで、王女の表情はとても和やかだ。ころころとよく笑う。
手を動かしながら、思わず言った。
「仲がよろしいんですね」
ふいに湧いた声に驚いたのか、二人は同時に口を止め、こちらに振り向いた。
「あ、申し訳ありません、不躾なことを」
たじろいで、頭を下げる。
王子のほうが、いやいや、と手を振った。
「そうだね、私たちは王族の中では仲が良いほうかな。第一王子と第二王子はあからさまに仲が悪いしね」
そう言って、いたずらっ子のようににやりと笑う。隣の王女が、お兄さまったら、と咎めたが、強く止める気はないらしい。
「母は違うけれど、私とエイラは年が近いからかな、割と仲が良いほうだよ。母親が違ったり同じだったりするけれど、皆父上の血を受け継いだ兄弟だから仲良くすればいいのだろうが、人の感情ばかりはどうにもね」
そう言って肩をすくめる。
「こんな風に仲がいいのは、珍しい?」
真顔でそう言うから、嫌味とか皮肉とかそういう類ではなく、本気で一般的な兄弟のことを訊いているのだろう。
「どうでしょうか。ただ、うちはこんな風ではないですね。いつも喧嘩ばかりです」
苦笑する。故郷の妹が思い出される。そんな風だったが、私が王城に出るときには涙を浮かべてくれていた。
「そうか、やはり普通とは違うのかもしれないね。今は考えられないけれど、昔は兄妹で結婚することもあった一族だし」
「ああ……」
それは、王の系図を見れば一目瞭然だ。血の尊さを求めた結果なのだろう。今では兄妹での婚姻はないが、従兄妹くらいならば普通に見受けられる。
「まあ、当時はそれが普通だったんだろう。私たちはその血をひいているし、王城にずっといるから、なにがしかおかしいのかもしれないな」
「そんなことは」
「アレスお兄さま」
そこで、王女が口を出してきた。
「そろそろお口が過ぎてきていてよ」
珍しく厳しい表情で、王子を睨んでいる。
「ああ、そうだな」
言われて王子は肩をすくめる。
「ジルの前だと安心してしまうのかな。ついしゃべりすぎてしまった」
「そのお気持ちはわかりますわ、お兄さま」
「おや、そうなのか。ずいぶん信頼されたのだな、ジルは」
そう笑顔で言われて、光栄です、と頭を下げる。
どうだろう。確かに最初の頃よりは、かなり打ち解けてきているとは思う。
けれど、王子といるときの王女の表情は、私といるときには決して見せない穏やかで美しい表情で、王子がいると私の筆は進む。
「邪魔したね。ではまた」
王子がそう言って立ち去ったあと王女の顔を見ると、やはりどこかぎこちなくて、心の中でそっとため息を漏らした。
王女の絵を、もう何枚描いただろう。数え切れないほどの絵は王女が後宮に持ち帰っているので、正確に何枚あるかはわからない。
だが、輿入れまであと二十日、というところまできても、王女の絵を描くという仕事は変わらずにあった。
輿入れの準備がいろいろと忙しいのか、時間はかなり減ったけれど、それでもなんとか時間を作っては、第五王子の執務室に王女が顔を出す。
そして。どうも最近、周りの私を見る目がかなり変わってきたように思う。
同期の者が、わざわざ居住区の私の部屋までやってきて、ぽんと肩を叩く。
「なんというか……がんばれよ」
「は?」
「いや……あのな、変な気を起こすなよ」
「変な気?」
「いや、いいんだ、わからないのなら」
それだけ言って去っていく、などということもあった。
王女の侍女たちが王女のいないところで私を呼び止めることもあった。
「あと少しでございますから、どうかできるだけエイラ殿下の傍にいてあげてくださいませね。私どもは殿下の幸せを願うばかりで」
などと言って目頭を押さえ、私はその前で呆然と立ち尽くすこともあった。
ここまで来れば、いくらそういうことに疎い私でもわかる。
誤解されている。
どうやら、私たちは禁断の恋をしていると思われているようだ。
私はただ、王女が望むまま絵を描いているだけだというのに。
「なあに、ため息?」
はっとして顔を上げる。いつものように絵を描いている途中だったのだ。
目の前の王女は、唇を尖らせている。
「私と一緒にいるのがそんなに嫌なのかしら? だったら強制はしなくてよ」
そう言って、ぷいと横を向いてしまう。どうやら機嫌を損ねたらしい。
「す、すみません。つい、考え事をしてしまいまして」
「考え事ってなあに?」
身を乗り出してそう問うてくる。どうやら王女と一緒にいること以上に関心のある、その考え事とやらが知りたいようだ。
「その……」
だが、これを王女の耳に入れていいものか。下賎な噂話で彼女の耳を汚すのには抵抗がある。
なかなか口に出せないでいる私を見て、王女は痺れを切らしたように言った。
「早く仰いなさい」
「は、はいっ。ええと、私がですね……その……エイラ殿下に……」
「私に?」
「あの……懸想していると……思っている者がいるようで……」
「あら」
王女はその言葉は予想していなかったのか、少々弾んだ口調になる。
「ずいぶん艶っぽい話だわ」
まるで他人事だ。いや、他人事なのか。
「それでその……、ここにくるのはこれからは遠慮したほうがいいのかと」
「まあ、それは困るわ」
「いや、でも……そんな話が広まるとですね、殿下のご迷惑ではないかと」
「私は構わなくてよ」
飄々としている。本当にまったく気にしていないようだ。そんな戯言を真に受けるほうがおかしい、とでも思っているのかもしれない。
いや。
それは本当に戯言か?
「輿入れ前の王女と従者の禁断の恋、あら、なにか物語にでもなりそうだわ。素敵ね」
「いや、素敵とか……あらぬ誤解を受けているんですよ、私だけじゃなく、殿下も」
「構わないと言ったではないの。いいのよ、放っておけば。それとも、ジルはこんな噂話の元になるのは嫌なの?」
「い、いえ、嫌というわけでは」
「じゃあ、いいじゃない」
王女は微笑んでそう言う。まったく意に介していない。そう思うと、ふいに胸をぎゅっと押さえつけられるような感覚がした。
その噂は、本当に戯言か?
絵を描くことは楽しい。だが、本当にそれだけで王女を描くことが嬉しいと思うのか?
王女が執務室に顔を出すたび、心躍る自分はいなかったか?
……いや、戯言だ。
王女はもうすぐこの城からいなくなる。そしてセイラス王妃となる。
それ以前にまず、王女である彼女と今こうして一緒にいること自体が奇跡で、私は本来ならば顔を見ることすら叶わぬ立場の人間なのだ。
王女に懸想などと、決してあってはならない。
あってはならないことなのだ。
輿入れの日まで、あと十日。あと十日で王女はこの城からいなくなる。
寂しいと思ってはいけない。元々、王女と一緒に過ごした時間は、あるはずのない時間だったのだ。
だが、王女の前でこうして絵を描いていると、欲深くなる。
もっと長い時間、共にいられればと。
そんなことは、思うだけでも許されないことなのに。
目の前の王女が、ふいに言う。
「あと十日ね」
「……そうですね」
きちんと王女を見て描かなければならないのに、頭を上げられなかった。自分がどんな表情をしているのか、その表情を見て王女がどう思うのか、それを考えると怖かった。
「もうジルとも会えなくなるわね。寂しいわ」
寂しい?
私は顔を上げる。彼女は遠くを眺めている。
……寂しいと思ってくれるのか。
私は沸きあがってくる気持ちを気力でなんとか押さえ込み、口元に笑みを浮かべて言う。上手く笑えているかどうかはわからない。
「セイラスはどんな国でしょうね」
「どんなかしらね。いろいろと学んではいるけれど、行かなければわからないこともたくさんあるのでしょうね」
これから嫁ぐ国だというのに、関心のないような、抑揚のない声。
「セイラス王とは、お会いしたことは」
「ないわ」
王女はふるふると首を横に振った。
では彼女は、顔も知らない人間のところに嫁ぐのか。
そうしたことが王族の常だとは知っていても、目の前のこの少女がそういう現実にある、というのは受け入れ難かった。
「……お優しい方だといいですね」
否定的な言葉は、ここでは必要ないだろう。私がそう言うと、王女は小さく笑った。
「誠実な方よ、とても」
「ご存知なのですか。でもお会いしたことはないと」
「文をくださるの。それはもう、何度も」
王女は、遠くを見るような目で、彼方を見やる。先にあるのは、まだ見ぬセイラスだろうか。
「私の部屋に置く調度品はどんなものがいいか訊いてくださったり、折に触れ、あちらの文化や習慣を教えてくださるわ。丁寧な文字を書かれる方よ」
「殿下を大切に想われているのですね」
すると王女は自嘲的に口の端を上げた。
「知っていて? セイラス王がなぜ私を選んだか」
「ええと……現王妃よりも後ろ盾が強い方を、という話は聞いております。でもエイラ殿下がお美しいという噂なども聞いておられるのでは」
「世辞はいいと言ったのに」
「いえ、世辞ではなく」
「あらそう、ありがとう。でもね、それは違うわ」
そして王女は淡々と言葉を紡いでいく。
「後ろ盾が強い、というのはもちろんだけれど、なおかつ、決まった婚約者がいない、すぐにでも世継ぎが産める年齢の女性、となると私しかいなかったの。かの後宮は揉めていらっしゃるから、候補の姫たちはさっさと他にお決めになったようよ。要は、私は逃げ遅れた」
王女の言葉になんと返していいかわからなくて、私は口をつぐむ。
「せめて、美しいから、とかそんな理由でもあればよかったかしら、とは思うわ」
そうして目を伏せる。長い睫が頬に影を落とした。
「あの、エイラ殿下」
王女は私の言葉に顔を上げる。
「殿下は、私がなぜアレス殿下の副官となったかご存知ですか」
「あら、何か特別な理由があるの?」
小首を傾げてこちらの話に耳を傾けている。
「私がアレス殿下と年が近いからだそうです」
「まあ」
「せめて、仕事ができるから、とかそういう理由が欲しかったと思います」
王女はそれを聞くと、ころころと笑った。
「私たち、こんなところでも似ていたわ」
「理由としては似ていますが、立場はかなり違います」
「でも気持ちはわかってくれて?」
「ええ、わかります」
「よかった」
そう言った王女は、微笑んだ。綺麗な笑みだった。第五王子と一緒にいるときのような、そんな安心した笑みだったというのは、言いすぎだろうか。
「エイラ殿下、もう『輿入れするとできないこと』はすべてされましたか?」
「そうねえ、思いつくままやったとは思うけれど」
「けれど?」
王女は少し考え込むように、頬に手を当てた。
「したいけれどできないこと、は結構多いものだわ」
「たとえば?」
「城下を歩いてみたい」
息を呑む。
それは確かに、彼女の立場では軽々しくできることではない。
「私、城から出たこと自体、あまりないの。公務で出たとしても自由に見て回れたわけではないし」
「そう……ですか」
「ねえジル。この城は、とても広いわよね」
唐突に話が切り替わったことに驚きつつ、うなずく。
「ええ、近隣諸国と比べても、広い王城だと聞いています」
「そうね。だから私、わからなかったの。わからないままのほうが良かったのに。どうして気付いてしまったのかしら」
王女は空を見上げる。ちょうど王女の背後の楡の木に、一羽の鳥が羽休めか、降り立ったところだった。
「この城は、大きな鳥籠なの。大きすぎて気付かなくて、この鳥籠の中でわがままを振りかざすけれど、それは所詮、鳥籠の中。でもね、餌と十分な広さを飼い主に与えられて、きっとそれで幸せなのよ」
それはいつもののんびりとした口調ではあったが、どこか寂しい響きがあった。虚無。そんな言葉が浮かんだ。
「幸せ……」
それは本当に幸せなのか。幸せと思うなら、なぜ彼女は今、そんな話をしたのか。
それではいけない。彼女は笑っていないといけない。彼女は幸せになるべき人なのだ。
私は衝動的に立ち上がる。急に動いた私に驚いたように、王女は身じろぎし、留まっていた鳥は飛び立った。
「ど、どうかして?」
「行きましょう」
「え? どこに?」
「城下に。行きましょう」
自分の口からこんな言葉が出ていることが、私自身信じられなかった。
「そんなこと……許されないわ」
王女は目を伏せた。
そう、許されるはずはない。言わなければ。そうですね許されないことです残念です、と。
頭では理解しているのに、私の口がその思いとはうらはらに動く。
「私も、あなたの本音を聞きたいのです」
王女から私に与えられた、命令。
「……たい」
俯いたままの王女から、声が発せられた。小さな、小さな、声。
だが彼女は次の瞬間には顔を上げて、はっきりと言った。
「行きたい!」
私はその希望に満ちた菫色の瞳を見て、決めた。何があろうと彼女の希望を叶えよう、これからどんなことが起きても臆せず、彼女のために動こう、と。
私たちはそれからすぐに動いた。
王女は一旦後宮に戻り、私も自室に帰った。
出る前に思いついて故郷に手紙を書いてから、軽装に着替える。
こういうお忍びは夜のほうがいいと思われるが、それはきっと間違いだ。
夜は城を出入りするには目立ちすぎる。それより、まだ人の行き来が多い日中のほうがいい。
城内の居住区に住む者は大抵は独身だが、たまに外に屋敷がある者も泊まったりしている。妻のいる屋敷には帰らず、愛人を城に招くのだ。そして門番たちも暗黙の了解で通してしまっている。
要は、それらの人たちと同じ動きをすればいいのだ。
「お待たせしたわね」
外出の準備をこっそり整えた王女が中庭にやってきた。腕に外套を掛けている。
「見咎められませんでしたか?」
「私、後宮を抜け出すのは得意なの」
そう言って笑う。得意というより、ここのところは侍女や衛兵たちは、多少のことは見逃しているということだろう。
「どうするの?」
「厩舎から出ようかと思います。城門はどれも警備が厳しいですから」
「そうなの」
王女は感心したようにうなずいた。
だが私も、こっそり城内から抜け出た経験はない。成功するかはわからない。
「なんだか、緊張するわ」
「私もです」
緊張どころではない。正直、身体の震えが止まらない。自分は何ということをしでかそうとしているのか。けれど、ここまできて引き返すことはできない。決めたのだ、彼女の望みを叶えると。
王女は外套を羽織り、髪とドレスを隠す。
彼女の見事な金髪は、隠さなければ目立って仕方ない。外套のおかげで整った顔は覗き込まなければ見えなくなった。この城に忍び込む女性たちも皆そんな感じだから、大丈夫だろう。
「行きましょう」
私たちは厩舎に向かう。王女は私の背に隠れるようにして歩いていた。
厩舎に着くと、まず私だけが厩舎番に話しかけた。王女は陰に身をひそめている。
「馬を一頭、貸してもらえるかい?」
厩舎番は隅のほうにひっそりと立っている誰かには気付いたようだが、それが王女とは夢にも思っていないようだった。
「ああ、いいよ。鞍を着けるから、ちょっと待っていてくれ。そちらのお嬢さんも」
やはりこういうことには慣れているようで、手早く用意をしてくれた。今まで城に誰かを連れ込んでいたが、今から帰すところ、と思っているようだった。帰りはまた厩舎番は交代するだろうから、おそらくは大丈夫だ。
お礼、ということでいくらかの金銭をこっそり握らせる。他言は無用、というのはわかっているようだった。
馬を引いて厩舎の門を出る。王女は何も言わずおとなしく私の後ろをついてきた。
しばらく歩いたところで振り返ると、厩舎番が門を閉めているところだった。完全に門が閉まり、そこでやっと息を吐く。
「どきどきしたわ!」
隣の王女が声を上げる。頬が少し紅潮していた。
「いろいろと考えていたのよ、見つかったら何て言おうかとか! でもすんなり外に出られたわ!」
「そうですね、では行きましょうか」
私は先に馬に乗り、王女を引っ張り上げる。彼女は横向きに座り、きょろきょろと辺りを見回していた。
「すごい、すごいわ! もう城の外なのね! 信じられない!」
興奮して、叫びだしそうにならんばかりだ。私はもうそれだけで満足しそうになったが、自分を奮い立たせるように、何度か首を横に振った。
「とりあえず、城下の街を歩きましょうか」
「そうね! それがいいわ!」
手綱を握る私の両腕の中に王女がいる。私にはそのことが信じられなかった。
城下の一つの通りに到着すると、私は通りの端にある店に馬を預ける。ここは馬を預かったり引き渡したりすることを生業としているところだった。
店主が言う。
「お忍び、というやつかい?」
「えっ」
急にそんなことを言われて、血の気が引いた。どうして。なぜわかった。なにがいけないのか。
「よくいるんだ。どこの貴族のお嬢様か知らないけど、従者を連れてやってくる。まあ気をつけることだね。何を買うにもふっかけられるから。皆、金の臭いには敏感だよ」
笑いながらそう言う。話をしている当の本人も、臭いに敏感な人間なのだろう。仕方なく、少し多めに銅貨を渡す。
店の外で私たちのやりとりをじっと見つめていた王女は、首を傾げていた。
私が傍に寄ると、口を開く。
「あの人に、何を渡していたの?」
「え……馬を預かってもらう代金ですが」
「お金がいるの?」
そうか。王女はこんな風にお金のやり取りをしたことがないのだろう。
「ええ、土地代、というものですね」
「……まあ、大変だわ」
「何がですか?」
「私はお金を持っていないもの」
不安げにそう言う。私は城を出るときに真っ先に財布を握ったが、彼女にはそういう感覚がないのだ。
「私のお金は王城にいただいたものです。遠慮なさらず、欲しいものがあれば買いましょう。せっかくですから」
王女は、そう? と首を傾げる。よくはわかっていないようだったから、私はとにかく話を逸らす。
「とりあえず、歩いてみましょうか」
「そうね、そのために来たのですもの」
広く平坦な一本道の両側に、さまざまな店がずらりと並んでいる。その道を行き交う人々、荷馬車。客引きを行う店主、活気に溢れた声。
ここは一般的な城下街と言えた。
そしてそれはどれも、王城にはないものだった。
王女は何もかもが珍しいのか、とにかくきょろきょろしていた。急に走り出しそうになるから、怖くなって外套の端を持つ。
「なにかしら?」
怪訝そうに訊ねてくる。
「あの……迷子になりそうなので」
「まあ、私、そんなに子どもではなくてよ」
そう言って唇を尖らせるが、彼女はこの街では子ども同然だ。
私の心の中を読んだのか、王女はため息をついて手を差し出してきた。
「え?」
「手を繋ぎましょう。それなら迷わないわ」
「えっ」
「早く」
私はおずおずと手を差し出す。王女はそれを力強く握ってきた。柔らかな手だった。私の心臓はもう、身体の外に飛び出そうだ。
「これでいいかしら?」
「は、はい。ええと、それと」
「なあに?」
「あの……殿下……とは呼べないので、なにか呼び方を」
声をひそめる。馬宿の店主同様、お忍びだと気付く者もいるだろうしそこまでは構わないが、それが王女だとばれるのは怖ろしい。
「エイラでよくてよ。名前もいけないの?」
王女が生まれたとき、それにあやかろうとエイラという名前を付けられた娘は多くいるという。ならば、問題はないはずだ。
「い、いえっ。殿下さえよければ」
「……殿下とは呼ばないのではなかったの」
「す、すみません……あの……エイラ」
「よろしい」
そう茶目っ気たっぷりに言うと、王女は笑った。開放感に満ちた笑顔だった。
「ジル、ねえ、あれはなあに?」
弾んだ声でそう何回訊かれただろう。
王女が気に入ればそれを購入したいが、残るものは買えない。王城に城下街のものを持ち込むと、このお忍びの証拠が残ることになってしまう。
だから、飲み物程度のものしか買えなかった。しかし馬宿の店主の言う通り、どこもかしこも相場より少し高めの値段を言ってくる。私は、言われた通りにお金を差し出す。それで、それ以上は何も言われなくなる。
貴族のおこぼれには預かりたいが、やっかいごとに巻き込まれるのはごめんだ、という意思表示のようにも思える。どの店も慣れている風だった。
よくあること、というのは本当のようだ。いったいどこのお嬢様方がお忍びでやってきているのだろう。それだけに、この街が安全だとも言えるので、安心もできた。
多少の金額の上乗せなど、気にするものでもない。財布の中身は、すべてなくなっても構わないのだから。
それにしても、手を繋いでいて正解だった。物珍しいものがあればいきなり走り出す王女を制する自信は、私にはなかった。
「あれはなあに?」
王女はまた、そう言って指さした。一つの店からいい匂いが漂ってきていた。店の前では子どもが盆の上になにかを乗せて、通りすがる人たちにそれを見せている。
「あれは、お菓子の一種ですね。シュケットといいます」
「お菓子?」
そう一言返すと、首を小さく傾げている。
彼女の知るお菓子とは、ずいぶんと見た目が違うのだろう。
王女たちが食するお菓子は、皿の上に綺麗に彩られて置かれているものだ。あんな風に、無造作に盛られているものではない。
「食べてみたいわ!」
店先で立ち止まって待っていると、子どもが菓子の入った紙袋を手に持ってやってきた。私が銅貨を手渡すと、子どもは袋を王女の前に差し出す。彼女はちらりとこちらを窺って、そしておずおずと手に取った。
子どもは商売が成立したと同時に踵を返し、また違う人に勧めている。断られることもしばしばのようだが、めげてはいない。いや、諦めて店内に帰りたいような素振りを見せるのだが、中から店主に顎で、行け、と言われてしぶしぶまた店の外に出ている。
王女は子どもをずっと目で追っていた。
「どうかしましたか?」
「あんな小さな子が働いているのね」
それだけ言って、また目で追う。子どもは忙しく立ち働いている。
「私、恵まれているのよね」
そんなことはない、とは言えなかった。確かに彼女には彼女の苦しみがあるが、幼いながらに働かなければならない者の苦しみだってある。
「この街は、治安がいいのです」
私の言葉に、王女は顔を上げる。
「それは、王城の政が上手くいっている証ですよ」
それだけは、きっと確かだ。
「それに、そのことに気付いたエイラならば、よき妃になれるでしょう」
私がそう言うと、王女は小さく微笑んだ。
「だから、私はあなたが好きなのよ」
王女はきっと、何気なく言ったのだろう。けれども私はその言葉で、身体中が熱くなった。なんてことを言うのだ、この人は。
陽が落ち始め、世界が赤く染まっていく。だから私は自分の顔の色をそこまで気にしなくてよかった。
だが、夕陽は同時に、この時間の終わりを告げようとしている。
「ねえジル、これはどこで食べるの?」
彼女が袋を持ったまま、こちらを見上げる。
「それは、歩きながらつまむものでして……」
「歩きながら? 本当? 面白いのね!」
王女は歩きながら食べるという、おそらくは生まれて初めての体験に、最初は四苦八苦していたようだったが、なんとかすべてを口の中に入れると、満足そうにしていた。
「美味しかったわ! ここには素敵なものがたくさんあるのね。夢みたい」
無邪気な笑みを浮かべる彼女を見ていると、次に言わなければならない言葉を呑み込んでしまいそうになる。けれど、言わなければならない。
「……そろそろ、帰りましょうか」
私がそう言うと、王女は目を伏せた。
「そうね。夢はいつまでも続くものではないもの」
私たちは少しばかり重い足取りで、馬宿に向かう。
店に到着すると、繋いだ手を離した。今までそこにあったのに、もう二度とこの手の中に帰ってくることはない。急に自分の手が冷たくなったような感覚に襲われる。
預けておいた馬を受け取り、また二人して背に乗る。
そうして王城への道をたどっていると、ふいに王女は言った。
「私、こんな冒険は初めてだったわ!」
そしてこちらに振り返る。
「本当に感謝しているわ」
満面の笑み。こんなものを冒険と言うのか。ほんの束の間の出来事なのに。
「さっきのシュケットという焼き菓子は、セイラスにはあるかしら。とても美味しかったもの」
「ありますよ、きっと」
「国王陛下におねだりしてみようかしら。驚くかしら、私があんな焼き菓子を知っているって」
「どうでしょうね」
「ああ、でも歩きながらというのはできないわね。はしたないと思われてはいけないもの」
なんだか王女は、無理に明るく振舞っているような気がした。ここまで饒舌な王女は見たことがない。
現実に引き戻されたくない、そんな風に思っているように見えるのは、私の思い過ごしか。
「私、これを大事にするわ」
王女は胸元からあるものを取り出すと、ぎゅっと握った。
王女の手の中にあるものは、今日、何度目かに訪れた店で買った、彼女の瞳と同じ色の菫の装飾の、髪留めだった。
それくらい小さなものならば大丈夫だろうと、買ったものなのだが。
「そんな、安物……」
確かに、相場よりは高い価格で買った。だがそれは、きっと王女が持つどの髪留めよりも安いものだ。彼女が持つ髪留め一つで、それがいくつ買えるだろう。
「ジルが私に贈ってくれたのですもの、どんなものより大事よ」
「……ありがとうございます」
ふいに、王女を囲うように手綱を持つ自分の腕で、そのまま彼女を抱きしめたい衝動にかられた。帰りたくない。こんな短すぎる時間で終わりたくない。このまま彼女といられたら。
「……帰りたくないわ」
彼女がふいに囁いて、私の身体は震えた。
前方を見ると、城壁が見えてきていた。
「でも、帰らなければならない。私には私のやるべきことがあるのですもの」
自分自身に言い聞かせるような、声。
「……はい」
私には、それだけしか言えなかった。
思った通り、厩舎番は城を出たときとは違う人間に交代していた。だから私は、また金を握らせる。厩舎番はそれを当然のように受け取った。
どうやら異変は起きていない。私は息を吐く。
背後に隠れていた王女を連れて、厩舎を出て、中庭に向かう。道すがら、王女は外套を脱いでいた。
そのまま中庭で解散、となる予定だったが、そこに先客がいた。
「おかえり」
楡の木に背中を預けて表情を動かさずそう言ったのは。
第五王子。
私の身体は硬直して動かなくなった。
「アレスお兄さま」
だが王女は、私の前に立ちはだかるように歩み出た。
「私の話を聞いてくださる? お兄さま」
「ああ、聞くよ。ゆっくりとね。もちろん、ジルからも」
いけない。私が王女の前に出なければ。彼女は私を守ろうと私の前に出たのだ。それは私がやらなければならないことなのに。
なのに、足が、動かない。
どうして。どうしてこんなに情けないんだ。
王子は楡の木から離れ王女の傍に歩み寄ると、その肩を優しく抱いた。だがそれは、逃がさない、といった意味合いのものに見えた。
「ジル、後で話を聞こう。面談室のほうで待っていてくれ」
「……かしこまりました」
いつもとは違う、厳しい口調。私は王子がこんな声を出すことを知らなかった。
「アレスお兄さま、聞いて」
「だから聞くと言っているだろう?」
二人は連れ立って、後宮のほうに向かっていく。
私がこの城から逃げ出すことはできないことを、逃げ出したところで逃げ切れるはずもないことを、王子は知っているのだろう。
一人取り残された私は、王子が言う通り、あの面談室に向かった。
しばらくすると、面談室に王子がやってきた。案外、短い時間でやってきたのは、王女を後宮に預けてきただけだったのだろう。
扉を開けると同時に、王子は大きくため息をつく。私はただ、王子が中に入って扉を閉めるのを待っていた。
「城の警備体制に問題があることが、ようくわかったよ」
どこか呆れたような、声。
「本当に大変なことをしでかしてくれたね。真面目な人間? 聞いて呆れるよ」
「申し訳ありません!」
私はその場で床に座り込んで、頭を下げた。
「……どういうつもりかな」
「こんなことで償えるとも思えませんが、それ以外に知らなくて」
王子が私に近寄ってくるのがわかる。私は堅く目を閉じた。
王子が腰に長剣を佩いているのはさきほど見た。
痛いだろうか。苦しいだろうか。けれどもそれは私の受けるべき罰で、受け入れるべき痛みだ。
きっと王子は、私の首に剣を振り下ろしてくれるだろう。そして王女はお咎めなしとなるだろう。なにもかもなかったことに。それが、救いだ。
だが、私の頭上で、王子が苦しげな声音で言った。
「頭を上げてくれ。できない。それは、できないんだ」
私は言われた通り、おずおずと顔を上げる。
王子はこめかみに手を当て、再びため息をついた。
「君の首を斬ることで片がつくなら、やるよ。けれどこの件に関しては、それはできないんだ」
「……どうして」
「どうして? エイラの輿入れに影響が出るからに決まっている」
従者の一人くらい、秘密裏に殺して埋めればいい。いなくなった理由など、王城がいくらでも作り出せるだろう。
どうしてそれができないんだ。
「すべてを隠してしまうには、もう公になりすぎている」
「え……今日のことがもうそんなに広まって?」
「違う。それは私とエイラの侍女しか知らない。広まっているのは、エイラと君が仲が良いことだ。皆、面白がって話すから、城内では知らぬ者はいない。噂話の範疇ではあるけれどね」
そして私を指差した。息を呑む。
「そこで君が消えたらどうなる? 噂は本当だったのだ、エイラと君は恋仲だったのだ、エイラの婚姻に君が邪魔になったから消したに違いない、とまことしやかに囁かれるのは火を見るより明らかだ。私たちは、エイラを綺麗なまま嫁がせる義務がある。もしエイラがセイラスで懐妊したとして、その御子が王の種ではないという噂でもたったら、君はどう責任を取るつもりなのかな」
「……申し訳ありません」
もうそれしか言えない。
「噂はいい。民草とは、面白おかしく話を広げるものだ。何を調べられても痛くも痒くもない。だが、二人が王城を抜け出した、これは事実だ。万が一、相手方に知られたら、どう否定するんだ」
王子はまた深くため息をついて身を翻すと、椅子にどかりと腰掛けた。
「危うく軍を出動させて捜索させるところだったよ。本当に駆け落ちでもしたのかと思ったから」
「そんなこと」
私はともかく、王女が私と逃げたいと思うはずはない。
「君の部屋に遺書があったから、思いとどまった。これは帰ってくるつもりだろうと」
王子の言葉に、身体がこわばった。
城下に出る前に、故郷の家族に走り書きだが遺書を書いた。不出来な息子で申し訳ない、と。今までありがとう、と。ただただ、謝辞だけを連ねた手紙。もし私が処刑されたとしたら、その手紙は届くかどうかはわからなかったが、それでも一縷の望みをかけて書いた。
「エイラのわがままに付き合ってやって欲しいとは言ったけれどね、命を賭してまでやるとは思わなかった」
「違います。私がそそのかしたのです」
「エイラは逆のことを言っていたけれどね」
そして何度目かもわからないため息を、またついた。
「とにかく、当分は謹慎だ。ひとまず周りには病欠ということにしておこう。追って沙汰は伝える」
「はい……申し訳ありません……」
私はのそりと立ち上がり、扉に向かって歩く。
部屋を出る前にもう一度王子のほうを見たが、憔悴した様子で机に肘をついて、額に手を当てている。
もしこの場で本音を言ったなら、きっと王子は抜刀するに違いない、と思う。
それでも私は、今日のことを後悔などしていないのです。