輿入れの日まで、あと十日。あと十日で王女はこの城からいなくなる。
 寂しいと思ってはいけない。元々、王女と一緒に過ごした時間は、あるはずのない時間だったのだ。
 だが、王女の前でこうして絵を描いていると、欲深くなる。
 もっと長い時間、共にいられればと。
 そんなことは、思うだけでも許されないことなのに。
 目の前の王女が、ふいに言う。
「あと十日ね」
「……そうですね」
 きちんと王女を見て描かなければならないのに、頭を上げられなかった。自分がどんな表情をしているのか、その表情を見て王女がどう思うのか、それを考えると怖かった。
「もうジルとも会えなくなるわね。寂しいわ」
 寂しい?
 私は顔を上げる。彼女は遠くを眺めている。
 ……寂しいと思ってくれるのか。
 私は沸きあがってくる気持ちを気力でなんとか押さえ込み、口元に笑みを浮かべて言う。上手く笑えているかどうかはわからない。
「セイラスはどんな国でしょうね」
「どんなかしらね。いろいろと学んではいるけれど、行かなければわからないこともたくさんあるのでしょうね」
 これから嫁ぐ国だというのに、関心のないような、抑揚のない声。
「セイラス王とは、お会いしたことは」
「ないわ」
 王女はふるふると首を横に振った。
 では彼女は、顔も知らない人間のところに嫁ぐのか。
 そうしたことが王族の常だとは知っていても、目の前のこの少女がそういう現実にある、というのは受け入れ難かった。
「……お優しい方だといいですね」
 否定的な言葉は、ここでは必要ないだろう。私がそう言うと、王女は小さく笑った。
「誠実な方よ、とても」
「ご存知なのですか。でもお会いしたことはないと」
「文をくださるの。それはもう、何度も」
 王女は、遠くを見るような目で、彼方を見やる。先にあるのは、まだ見ぬセイラスだろうか。
「私の部屋に置く調度品はどんなものがいいか訊いてくださったり、折に触れ、あちらの文化や習慣を教えてくださるわ。丁寧な文字を書かれる方よ」
「殿下を大切に想われているのですね」
 すると王女は自嘲的に口の端を上げた。
「知っていて? セイラス王がなぜ私を選んだか」
「ええと……現王妃よりも後ろ盾が強い方を、という話は聞いております。でもエイラ殿下がお美しいという噂なども聞いておられるのでは」
「世辞はいいと言ったのに」
「いえ、世辞ではなく」
「あらそう、ありがとう。でもね、それは違うわ」
 そして王女は淡々と言葉を紡いでいく。
「後ろ盾が強い、というのはもちろんだけれど、なおかつ、決まった婚約者がいない、すぐにでも世継ぎが産める年齢の女性、となると私しかいなかったの。かの後宮は揉めていらっしゃるから、候補の姫たちはさっさと他にお決めになったようよ。要は、私は逃げ遅れた」
 王女の言葉になんと返していいかわからなくて、私は口をつぐむ。
「せめて、美しいから、とかそんな理由でもあればよかったかしら、とは思うわ」
 そうして目を伏せる。長い睫が頬に影を落とした。
「あの、エイラ殿下」
 王女は私の言葉に顔を上げる。
「殿下は、私がなぜアレス殿下の副官となったかご存知ですか」
「あら、何か特別な理由があるの?」
 小首を傾げてこちらの話に耳を傾けている。
「私がアレス殿下と年が近いからだそうです」
「まあ」
「せめて、仕事ができるから、とかそういう理由が欲しかったと思います」
 王女はそれを聞くと、ころころと笑った。
「私たち、こんなところでも似ていたわ」
「理由としては似ていますが、立場はかなり違います」
「でも気持ちはわかってくれて?」
「ええ、わかります」
「よかった」
 そう言った王女は、微笑んだ。綺麗な笑みだった。第五王子と一緒にいるときのような、そんな安心した笑みだったというのは、言いすぎだろうか。
「エイラ殿下、もう『輿入れするとできないこと』はすべてされましたか?」
「そうねえ、思いつくままやったとは思うけれど」
「けれど?」
 王女は少し考え込むように、頬に手を当てた。
「したいけれどできないこと、は結構多いものだわ」
「たとえば?」
「城下を歩いてみたい」
 息を呑む。
 それは確かに、彼女の立場では軽々しくできることではない。
「私、城から出たこと自体、あまりないの。公務で出たとしても自由に見て回れたわけではないし」
「そう……ですか」
「ねえジル。この城は、とても広いわよね」
 唐突に話が切り替わったことに驚きつつ、うなずく。
「ええ、近隣諸国と比べても、広い王城だと聞いています」
「そうね。だから私、わからなかったの。わからないままのほうが良かったのに。どうして気付いてしまったのかしら」
 王女は空を見上げる。ちょうど王女の背後の楡の木に、一羽の鳥が羽休めか、降り立ったところだった。
「この城は、大きな鳥籠なの。大きすぎて気付かなくて、この鳥籠の中でわがままを振りかざすけれど、それは所詮、鳥籠の中。でもね、餌と十分な広さを飼い主に与えられて、きっとそれで幸せなのよ」
 それはいつもののんびりとした口調ではあったが、どこか寂しい響きがあった。虚無。そんな言葉が浮かんだ。
「幸せ……」
 それは本当に幸せなのか。幸せと思うなら、なぜ彼女は今、そんな話をしたのか。
 それではいけない。彼女は笑っていないといけない。彼女は幸せになるべき人なのだ。
 私は衝動的に立ち上がる。急に動いた私に驚いたように、王女は身じろぎし、留まっていた鳥は飛び立った。
「ど、どうかして?」
「行きましょう」
「え? どこに?」
「城下に。行きましょう」
 自分の口からこんな言葉が出ていることが、私自身信じられなかった。
「そんなこと……許されないわ」
 王女は目を伏せた。
 そう、許されるはずはない。言わなければ。そうですね許されないことです残念です、と。
 頭では理解しているのに、私の口がその思いとはうらはらに動く。
「私も、あなたの本音を聞きたいのです」
 王女から私に与えられた、命令。
「……たい」
 俯いたままの王女から、声が発せられた。小さな、小さな、声。
 だが彼女は次の瞬間には顔を上げて、はっきりと言った。
「行きたい!」
 私はその希望に満ちた菫色の瞳を見て、決めた。何があろうと彼女の希望を叶えよう、これからどんなことが起きても臆せず、彼女のために動こう、と。