彼女とは、私がクラッセ国第五王子の副官として配属された、その日に出会った。
 親族の期待を一身に背負って王城に勤めるようになってから三年。初めてついた役職が、出世とも閑職とも言えないなんとも微妙なもので、もやもやした気持ちを抱いて王宮の中庭のひとつに立ち入ったときのことだった。
 その中庭には大きな楡の木があり、私はときどきその根本に座り込んで背を幹に預けて、絵を描いていた。下には芝生が敷き詰めてあり、座るにはちょうどいい。その日もそうしようと、雑用紙を何枚かと木炭を持って立ち寄った。
 いつものように木の前に立ち、座り込もうと腰を屈めたその瞬間。
「どうしても、そこが良くて?」
 いきなり声が降ってきた。
 若い女の声だ。涼やかな風のように澄んだ声。
 私は顔を上げて慌てて辺りを見回す。だが周辺に人の姿はなかった。
 そもそもこの中庭は、高い石造りの城壁が近くにあることもあって、さして景色が良いわけでもなく、休憩用の長椅子が設置されているでもなく、色とりどりの花壇が設置されているでもない、閑散とした場所なのだ。
 だからここに入り浸っているのだ。絵を描きたいというよりは、一人になりたいときに来る場所。人がいるだなんて思ってもみなかった。
「ここよ、ここ。上」
 声の言う通り、上を見上げる。
 すると楡の枝に一人、少女がドレスの裾をはためかせながら座っていた。
 まさかそんなところに。
「ええと……」
 誰だろう。王宮にいる女性といえば、侍女たちの中の誰かか。高貴な方々は、ほとんど後宮に籠っているはずだ。
 豊かな金の髪が波打ち、金糸の縫い込まれた菫色のドレスがはためく。白い肌は透けるようで、彼女は木漏れ日の中で輝いているように見えた。
 ドレスと同じ色の瞳が、こちらをじっと見つめている。
「実は少々、困っているの」
 彼女は本当に困っているのかわからないような、ゆったりとした口調で言葉を紡ぐ。
「登ったはいいけれど、降りられなくて」
「はあ」
 どう返していいかわからなくて、そんな間抜けな返事をするしかなかった。
「それで、これはとにかく飛び降りるしかないと思っていたのだけれど、そこにあなたが座るというのなら、私はその選択肢も失くしてしまうわ」
「なるほど」
 思わず、そううなずいた。
「でも失くした代わりに、一つ、選択肢ができたのだけれど」
「あ、ああ、そうですね」
 私は両腕を広げて、待った。
「話が早くて助かるわ」
 彼女はそう言って小さく微笑むと、いきなり躊躇なく飛び降りた。
 もう少し覚悟を決めるような素振りがあるかと思っていたので慌てたが、なんとか彼女を両腕に横抱きにすることができた……が、よろけてしまい体勢を整えようともがくうち、倒れこんでしまう。彼女が怪我をしないようにと咄嗟に後ろに倒れられたのが救いだった。
「いって……」
 手がつけないので、思い切り腰を打ってしまった。
「あら、大丈夫?」
 腕の中の少女は、飄々として言う。
「大丈夫ですが……できれば、飛び降りる前に声を掛けていただきたかったかと」
 倒れ込んでしまったことが恥ずかしくて、言い訳じみたことをごちた。
 彼女はくすりと笑うと、立ち上がる。
 今まで腕の中にあったはずの重みが急になくなって、浮き上がるような感覚がした。
「ありがとう。このお礼は、またいずれ」
 ドレスについた砂や葉っぱを手で払いながら、彼女は言う。
「いえ、お礼など。それより、女性が木登りなんて……」
 私の言葉に、彼女は眉をひそめた。
「お説教? 私、お説教は嫌いよ」
 そう言って唇を尖らせる。
「いや、説教というか……危ないですし」
「ほら、お説教だわ」
 そしてそっぽを向く。
 これくらいで説教などと、どんなわがまま娘なんだ。こんなので、王宮の侍女が勤まるのか。
 なにか言ってやろうと口を開いた瞬間、彼女が地面に散らばった紙と木炭を見て言った。
「絵を描くの?」
 その言葉に、私の不満は行き先を失う。
「え、ええ、拙いですが……」
「ふうん」
 彼女は興味なさげにそう返してくると、ふらっと踵を返す。
「あ、あの……」
 なにを言うでもなかったが、なんとなく呼び止めてしまう。
 彼女はくるりとこちらに振り向いて、言った。
「私、忙しいの。お説教を聞いている暇はなくてよ」
 それだけ吐き棄てるように言ったあと、ふわふわとした足取りで王宮のほうに向かっていく。
「な……」
 どうしてそんなことを言われなければならなかったのか。忙しい? 木登りしていたくせに?
「なんだ、あの女!」
 それが、私たちの初めての出会いだった。