銀一の腕の中で六花は困惑顔だ。こんなふうに抱き締められるなんて、もしかしたら今が初めての体験なのかもしれない。
 だけどその事実を抜きにしても、銀一の様子は尋常ではなく、六花が戸惑うのも無理はなかった。

 銀一は髪がボサボサに乱れて、ゼーハーと肩で息をしていた。
 もう冬も目前だというのに、額からは汗も伝っている。

 しかも職場から着替えもせずそのまま来たのか、仕事着らしい浅葱色の法被を、白シャツの上から羽織っていた。背中にはでかでかと【宵】の丸印が入っている。法被の襟にも『真宵亭』の文字があり、どうやら店の名前のようだ。
 銀一の職業について、玲央奈は聞きそびれていたが、この格好や店名から、勤め先は和風小料理屋か温泉宿といったところだろうか。

 天野が『他に類のない職場』と評していた点は気になるが、今はそんなこと質問できそうにない。

「六花、体は大丈夫か? つらくはないか? 起きていても平気なのか? 君になにかあったら僕は……!」
「もう体調は良くなったし! い、いいからもう離してよ!」
「でも、天野くんが……」

 六花が無事とわかり、ようやく腕の拘束を緩めた銀一が、チラッと天野に視線を遣る。

「仕事終わりにスマホを見たら、天野くんからメッセージが入っていたんだ。ものすごく悲痛な声で『六花の体調が急に悪化して……そこら中を氷漬けにしながら、とても苦しそうにしています。急いで帰ってきてください』なんて言うから、もう焦って焦って。何度電話しても天野くんは出てくれないし、自転車を死に物狂いで漕いで帰ってきたんだよ」

 車を所持していない銀一は、基本的に自転車通勤だ。
 玲央奈はこれこそが天野の策かと悟る。

(なんというか……清彦さんらしい、意地の悪いやりかただわ)

 銀一は天野に「ね、ねえ、天野くん! あのメッセージはなんだったんだい!?」と問い詰めるが、天野は「なんのことか、俺にはサッパリですね」と軽く躱している。

「ウソにしてもひどいよ、天野くん……僕は六花が一大事だと思って、死ぬほど焦ったのに……」
「……ギンは、えっと、私のために、そんな必死になったの?」

 まだ半信半疑といったふうに、法被の裾を掴んで六花は尋ねる。
 銀一は乱れた髪をさらに片手でぐしゃぐしゃと乱しながら、「当たり前だよ」と深い息を吐いた。

「六花が僕のこと、嫌っているのはわかるよ。まだまだ六花の親代わりとして頼りないもんな。でも僕はもう家族として、君を大事にしたいんだ。……これはあんまり、六花に話すつもりはなかったんだけど」

 銀一は床に膝をついたまま、六花と目をあわせてへにょりと眉を下げる。

「遠縁の君を引き取ったのは、最初は半妖の子なら半妖の僕が育てなくちゃっていう、義務感からだった。僕は女性にはまったくモテないし、独り身生活が寂しくなってきていたのもある。……だけどさ、六花と住むようになってから、僕は六花のことが可愛くて可愛くて仕方がなくなってきてさ」
「か、可愛い? 私が?」
「うん。娘がいたらこんな感じかなって、いつもどうしたら六花が喜ぶか考えているくらい、僕は六花が可愛いよ。本音を言えばもっと甘えてほしいし、もっと一緒に遊んだり出掛けたりもしたい。できるならこの土日だって、仕事を休んで僕が四六時中看病したかったんだ」

 銀一が思っていた以上に立派な親バカで、彼の内心を黙って聞きながら、玲央奈はちょっと呆れてしまう。
 横を見れば天野もやれやれという顔をしていた。

「だからね、六花が僕を嫌いでも、僕は……」
「き、嫌いじゃない!」

 六花は裾を掴む手に力を込めて、ガラス玉のような瞳に涙を溜まらせる。幼い肩は痛々しいくらい震えていた。

「私はギンのこと、嫌いじゃないよ! 一度も嫌いなんて言ってないもん! ぎゃ、逆だから! 頼りないのは本当だけど……って、ち、違うの! そうじゃなくて! 私はギンのことが、す、す、す」

(頑張って、六花ちゃん!)

 勇気を持って本心をぶつけようとする六花に、玲央奈は声には出さずエールを送る。ここは彼女の頑張りどころだ。
 やがて吹っ切れたように、六花は「好きだよ!」と叫んだ。

「私はギンのことが好きだよ! 大好きだよ! 嫌いなわけないじゃん、バカギン! ギンのお家に来られて良かったし、ギンと家族になれてとっても嬉しいよ! でもギンの方こそ、可愛くない私のことなんて嫌いになって、わ、私また、捨てられるんじゃないかって……不安で……っ!」
「す、捨てるわけないじゃないか! 家族なんだから! それにさっきも言ったけど、六花は可愛いよ! 世界一可愛い、僕の娘だ!」
「うっ、ううううう」

 涙腺がついに決壊した六花は、ボロボロと大粒の涙を落として泣いている。
 そんな彼女を、銀一は辛抱たまらないといったふうにまた抱き締めた。六花も今度は、おそるおそるながら銀一の体に腕を回す。

「家族……私とギンは、家族なんだね。これからもずっと一緒にいられる、家族なんだね」
「ああ、ずっと一緒の家族だよ」

 それはすれ違っていたふたりの気持ちが、ピタリと重なった瞬間で、六花はまだわんわんと子供らしく泣いているし、銀一ももらい泣きし始めている。
 その光景に、玲央奈はホッと安堵の色を顔に乗せた。
 天野が腕を組んで口角を緩める。

「これで問題は見事解決かな、俺のお嫁さん」
「はい……今回は旦那さまのウソが決め手でしたね。銀一さんを騙(だま)した演技力、さすがです」
「主演男優賞ものだろう?」

 そう嘯く天野はしたり顔だ。
 抱きあったまま磁石のように離れない雪谷親子を見つめながら、玲央奈はここは軽口を叩かず、「そうですね」と柔らかく頷いたのだった。