六花はなかなか、寝室から出てこなかった。
 玲央奈は何度か様子を見に行き、幸い部屋には鍵自体ついていなかったので、こっそりドアを開けて中も確認した。そのときはベッドがこんもり膨れていて、深く寝入っているようだった。

 そんな六花が寝室からようやく出てきたのは、もう十五時を過ぎた頃だ。

「お、おねえさん、えっと……」
「あっ、六花ちゃん!」

 六花はダイニングのドアの横から顔を半分だけ出し、視線をさまよわせて気まずそうにしている。
 ダイニングテーブルを借りて、持ち込んだ文庫本を読んでいた玲央奈は、そんな六花の訪れにパタリと本を閉じた。六花は愛らしい唇をもごもごと動かす。

「さっきは、えっと、私のためにご飯を作ってくれたのに、その……」

 今にも消え入りそうな声だったが、六花は確かに「ごめんなさい」と謝った。

 その意外な素直さに玲央奈は驚きながらも、この子は根がきっといい子なのだろうなと、ふんわりした気持ちになる。それか人のいい銀一と、なんやかんやでも共に暮らしている影響もあるのかもしれない。
 玲央奈は怖がらせないように、ゆっくりと歩いて六花のそばまで行く。

「六花ちゃんが謝る必要はないわ。うどんはこっちで食べたし、私はちっとも怒ってないから、気にしないで」

 玲央奈は思い切ってよしよしと、六花の頭を撫でる。六花はビクリと肩を跳ねさせ、「か、勝手に撫でないでよ!」と反発しながらも、玲央奈の手を振り払うようなことはしなかった。

 それをいいことに、玲央奈はまだ枝毛知らずのサラサラの髪を楽しむ。
 すると六花もほんのわずかだが、心地良さそうに瞳を細めた。

(たぶん六花ちゃんとは、積極的に触れあった方が良さそうね。銀一さんも遠慮なんてしないで、どんどんかまってあげるのがきっと正解なのに)

 余計なお世話であることは承知の上で、玲央奈はそんなことを考える。六花のこれまでのつらい環境を想えば、今度こそ銀一のもとで、憂いもなく心健やかにいてほしいと願わざるを得ない。

(そのためにはやっぱりまず、銀一さんとのすれ違い問題を解決する必要があるわよね……でも)

 天野には『深入りはほどほどに』と釘を刺されたところだ。彼の言うことも確かに正しい。
 なお、玲央奈にそう言った本人は、買い物に出ており今は不在だ。

(今回の依頼は六花ちゃんの〝子守り〟であって、〝家庭内の問題解消〟ではないことくらい、わかってはいるんだけど……)

 うーんともどかしさを抱えながら、玲央奈は思考をいったん切り替えて、六花の頭からパッと手を離す。

「……六花ちゃん、お腹ペコペコよね? 今ね、清彦さんにお買い物に出てもらっているから。うどんの麺も頼んだし、卵とじうどんもまた作れるよ」
「……うどん、食べたい」
「了解。もうすぐ戻ってくるだろうし、りんごでも食べて待っていようか。デザートが先になっちゃうけどいいわよね?」

 六花が頷いたので、玲央奈は冷蔵庫に入れておいたりんごを取ってくる。六花は椅子に足を投げ出して座り、ウサギりんごを無言でシャクシャクと咀嚼していたが、またしても途中でひとつ、りんごを凍らせてしまった。

「れ、冷凍りんご! これは冷凍りんごだよ! それはそれで食べられるしおいしいよ!」

 すかさず玲央奈はフォローを入れた。
 六花は凍ったりんごを皿に戻して、少しだけ泣きそうな顔になる。

「おねえさんは優しいのね。あのおにいさんも。……ギンも優しいわ、それもとびっきり。私が初めてこの家に来た日もね、おやつにギンがりんごを切ったの。ガタガタだったけど……。そのとき私ね、緊張しすぎて体調があんまり良くなくて、今みたいにりんごを凍らせちゃった」
「……銀一さんは、怒ったり呆れたりした?」
「『シャーベットにすれば問題ない!』って」
「アレンジしてくれたんだ」

(なるほど、シャーベットって手もあったわね)

 銀一が六花を悲しませないよう、必死に趣向を凝らす姿が、玲央奈の目にも浮かぶようだった。
 そんな銀一が、今さら無責任に六花を放りだす、六花に言わせると〝捨てる〟なんてことは、玲央奈にとっては「それはないだろう」と言い切れる発想だ。
 だけど当の六花からすれば違うらしい。

「ギンは優しいよ。優しいけど、私を引き取った〝大人の責任〟があるから、それで優しくしてくれているだけかもって疑っちゃう。可愛くない態度ばかり取っちゃう私なんて、心の中では邪魔に思っているのかもって……」
「六花ちゃん……」
「ギンが私を捨ててきた人たちとは違うこと、本当はちゃんとわかっているはずなのに」

 それはポロリと漏れた、虚勢の裏に潜んだ六花の本音だった。
 それからほどなくして、買い物袋を携えた天野が戻ってくる。頭を撫でることに成功したからか、多少は本音を吐露してくれた六花だが、あとはもうこれといって銀一のことは語らなかった。

 玲央奈が再度作ったうどんを食べたあと、念のために飲んだ市販の風邪薬がすぐ効いたようで、六花はあくびを零してまたもや寝室に入っていった。

 銀一が帰宅したのは、六花が寝てから三時間は経った夜の二十時だ。

「天野くんも玲央奈さんも、今日はありがとう! 六花はどうだった? 具合は悪そうじゃなかったかな……?」
「いや、体調は確実に回復しているようでしたよ。合間に物は凍らせていましたが、薬を飲んで寝てからはベッド周辺も無事でしたし」

 天野の答えに、銀一は「そっか、良かった」と胸を撫で下ろす。
 六花はまだ寝室だ。玲央奈たちは今ダイニングに集まっているが、『子守り一日目終了』ということで、玲央奈と天野は帰り支度をすませて、もうじき退散するところである。

「明日も同じ時間にお伺いすればいいんですよね?」
「うん。まだ六花ひとりにするには心配だし、明日もお願いできたら……」
「あ、あの」

 天野と銀一の会話の合間に、玲央奈はやんわり口を挟む。

「ホワイトシチュー、鍋に作っておいたので、六花ちゃんが起きたらおふたりで夕食に食べてください。……六花ちゃんは、その、もっと銀一さんにそばにいてほしそうだったので、差し出がましいことを言うようですが、起きたらなるべく寄り添ってあげてくれたら」

 銀一の柔和そうな目が、戸惑いに揺れる。

「僕にそばにいてほしいって……それ、六花が口にしたのかい?」
「く、口にはしていませんが……」
「……そっか。それなら六花は、そんなことはたぶん思っていないよ。僕からかまっても、うっとうしがられるだけだろうなあ、きっと。僕、残念だけど嫌われているからさ」

 ははっと空笑いをする銀一。
 天野から聞いていたとはいえ、銀一の『六花に嫌われている』という思い込みが予想より根深く、玲央奈は頭を抱えてしまう。
 銀一がこれでは、意地っ張りな六花からは甘えることも、距離を縮めることもできない。

「い、いえ、ですから!」
「うん、わかったよ。六花が起きたら、とりあえず一緒にシチューをいただくよ。いろいろと気も遣ってもらってごめんね」

(伝わらないにもほどがあるわ……!)

 玲央奈はいい加減もどかしくて仕方なくなってきたが、これ以上下手に言い募ることもできずに引き下がった。天野が玲央奈の肩にそっと手を置く。

「帰るぞ、玲央奈」
「はい……」

 山間部を走る、帰りの車の中。
 薄闇に縁どられて、均整の取れた美貌が際立つ天野の横顔を眺めながら、玲央奈は「あの、清彦さん」と改まって名前を呼んだ。

「ああ、君の言いたいことはすでに理解している。俺のお嫁さんのお人好しが、どうあがいても治りそうにもないこともな」
「……すみません」
「いいさ。俺も銀一さんと六花を見ていると、昔のことを思い出して、ガラにもなく放っておけなくなってきたところだ」
「昔のことですか?」
「俺がオババ様の施設に預けられたばかりの頃のことだ」

 オババ様とは、『守り火の会』の元締めで、天野や稲荷の育ての親に当たる人物だ。相当の資産家で、手広く事業を手掛けており、半妖の子供専門の施設なども運営している。
 天野は実の両親に疎まれて、オババ様に預けられて育った。
 確かに境遇を取れば六花と近いものはある。

「当時の俺は、今の六花よりもよほど尖っていて、オババ様が向けてくれる愛情なんて微塵も信用していなかったぞ。今でもオババ様に弄られるんだ、『手負いの鬼が懐いてくれるまで、懐柔するのが大変だったわ』って」
「清彦さんは……まあ、六花ちゃんより手強そうですよね……」

 だがオババ様も、銀一より確実に手強い人物ではあるので、血の繋がりなどは関係なく〝この親にしてこの子あり〟な感じはする。

「銀一さんと六花の場合は、なにかきっかけがあって、六花が今より銀一さんの愛情をちゃんと信じられたら、問題はすぐ解決するだろう。六花が銀一さんに甘えを見せられたら、銀一さんの方の『六花に嫌われている』なんて誤解もなくなるさ」
「でもそのきっかけが難しいのでは……?」
「だから俺が一肌脱いでやる」

 フロントガラスに映る切れ長の瞳が、いたずらっ子のように細まった。

「なにをするつもりですか、旦那さま」

 怪訝な表情を浮かべる玲央奈に、天野は「なんてことはない」とニヒルに口角を上げてみせる。
 いたずらっ子の瞳から一転、今度は悪い大人の笑みだ。

「きっかけがないなら作ればいい。ウソつきな天邪鬼らしく、明日はちょっとしたウソをついてみるだけだ」