当日、玲央奈たちは昼前くらいに家を出た。

 依頼主の家までは、玲央奈たちのタワマンから車で片道一時間ちょっと。都市部から離れた山の方面にあった。
 紅葉が始まって色付く山々に囲まれた、簡素な造りの鉄骨アパート。周囲に年季の入った民家が多いため、比較的新しい建物に感じるが、それでも築年数はそこそこありそうだ。

 ここに、依頼主の雪谷銀一(ゆきやぎんいち)と、その子供である六花(りっか)が、親子ふたりで住んでいるらしい。

(ここまでは無事に着いたけど、あのバッグの中身をどうするのかは不明なままなのよね)

 アパート前の駐車場に停めた、天野のスタイリッシュな黒の車から降りながら、玲央奈は先に降りた天野に視線を遣る。
 正しくは、天野が担いでいるボストンバッグに。
 バッグの中には天野に言われたとおり、玲央奈はコートやマフラー、あげくに耳当てや手袋などの防寒グッズまで詰めたが、今のところそれらの出番が来そうにもなかった。

(山で冷えるからかなって思ったけど、持ってきただけで着ていないし……清彦さんの秘密主義は相変わらずだわ。雪谷さん親子がなんの半妖かも、何度聞いても『会えばわかる』と言って教えてくれなかったし……)

「難しい顔をしてどうした、玲央奈。早く行かないともう約束の時間だぞ。銀一さんは短気で気性の荒い人だから、遅れたら怖いぞ」
「ウソですね、旦那さま。さっき車で『銀一さんは温厚な人だから、そう緊張しなくてもいいぞ』って言っていたところじゃないですか」
「そっちがウソかもしれない」
「それこそウソでしょう」

 そんな他愛のない掛けあいをしながら、アパートの二階の角部屋のドアを叩く。ドアは待ちかまえていたようにすぐ開いた。

「やあ、天野くん。待っていたよ、今日は急な頼みでごめんな」

 出てきた銀一は、三十代半ばくらいか。百八十六センチある天野よりも高い、百九十センチ近くある長身の瘦せ型で、ひょろりと縦に長かった。特徴の薄い素朴な顔立ちで、いかにも人が良さそうだ。

「こちらが電話で連れてくるって話していた、天野くんの婚約者の玲央奈さんだよね。すごくきれいな人だなあ、よろしくね」
「は、はい」

 臆面もなく玲央奈を褒めて、笑いかける様も朗らかだ。

(どこが短気で気性が荒いのよ)

 握手を求めてきた銀一の手を握り返しながら、玲央奈は隣の天邪鬼な旦那さまをさりげなく睨む。
 天野の方は睨みを軽く躱して、銀一に「それで、娘さんの容態は?」と素知らぬ顔で問いかけていた。

「娘……あっ、ああ、娘な。六花は寝室にいるよ。学校帰りにいきなり体調を崩したそうだけど、症状自体は倦怠感があるだけの軽い風邪っぽいかな。とりあえず部屋まで案内するな」

 玲央奈は銀一の返答に、「ん?」と違和感を覚える。

 しかし初対面で下手に突っ込むわけにもいかず、銀一のあとに続いておとなしく家にあがった。中は外観より広い印象で、間取りは2DKのようだ。
 親子共同で使っているという寝室は、固くドアが閉ざされていた。銀一がノックをして「入るよ」とドアノブを回す。
 途端、流れてきた冷気に玲央奈は体をブルリと震わせた。

「な、なんでこんな寒いんですか……!?」

 室内自体はいたって普通だ。クローゼットに、教科書の類いが詰め込まれた本棚。部屋の大半を占めるベッドはセミダブルほどの大きさで、こんもりと布団が膨れていることから、そこに六花がいることがわかる。

 だがそれにしたって、気温の低さが尋常じゃない。

 玲央奈の気のせいでなければ、ベッドのヘッドボードの一部や枕が、カチンコチンに凍っているようにも見えた。
 冷蔵庫を通り越して、これでは冷凍庫の中にいるようだ。

「だからコートやマフラーの準備がいると言っただろう?」

 ふわりと、玲央奈の肩が温かいなにかに包まれる。
 いつの間にボストンバッグから取り出したのか、天野がもこもこのボアコートを玲央奈にかけてくれていた。

「あ、ありがとうございます」

 戸惑いながらも礼を述べ、玲央奈はその温かさに安堵する。天野も颯爽とネイビーのチェスターコートを羽織った。
 家の中に入ってから、コートの出番が来るなどおかしな話だ。
 だがここまでくれば玲央奈だって、この寒さこそが、六花の半妖の力によるものなのだと察しがつく。

「ご、ごめん! 先に注意してからドアを開けるべきだったね。六花はこのとおり『雪女』の半妖で、周囲の気温を下げたり、触れたものを生き物以外の無機物限定で凍らせたりできるんだけど、体調を崩すと力の制御が利かなくなってしまうんだ。それでしばらく、小学校も休ませていて……」

 申し訳なさそうに謝る銀一は、薄手のシャツ一枚なのに寒がる素振りもない。
 もしかしてこの人も……と玲央奈が思案していれば、天野が「ちなみに銀一さんは『雪鬼』の半妖だぞ」とようやく教えてくれた。

「雪鬼? 清彦さんと同じ〝鬼〟の半妖なんですか?」
「天野くんほど力は強くないけどね。『雪女』と『雪鬼』も、どっちも〝雪〟に関するあやかしだけど、分類的には別物だよ。僕は能力的にも〝寒さに異常に強い〟ってだけでショボいから、六花の方がはるかにすごいし」

 つまり銀一は、半妖とは名ばかりのほぼ普通の人のようだ。
 ふと、そこで銀一は腕時計をチラ見して「ああ、もう時間がない!」と血相を変える。

「僕はもう仕事に行くね! この家にあるものは食材でも電化製品でも、なんでも好きに使ってくれていいから! 六花のことをくれぐれも頼んだよ、天野くん、玲央奈さん!」

 そう早口に告げたあと、銀一は「えっと、行ってくるな、六花」と、ぎこちなく布団の膨らみに声をかけて、慌ただしく去ってしまった。
 託された玲央奈たちは顔を見あわせる。

「ひとまず、六花ちゃんが起きてくるまで待ちますか? 無理に起こしてもかわいそうですし……」
「そうだな。家のものは自由に使っていいそうだし、コーヒーでもないか探してありがたく一息つこう」

 ふたりは音を立てないように、静かに寝室のドアをいったん閉めた。
 一息つく前に一応、他の部屋も確認程度に探索しておく。もうひとつの部屋にはソファとテレビがあって、カラーボックスなども置かれていた。お風呂場やお手洗いの場所も見て、ダイニングに移動する。

 天野と玲央奈は小さめのダイニングテーブルにつき、コーヒーの粉がなかったので、ペットボトルの麦茶をグラスに注いだ。
 氷漬けの部屋を出たら気温は戻ったので、お互いコートは脱いで椅子の背にかけている。

「ところで、銀一さんはなんのお仕事をされているんですか?」
「ああ、彼は公務員だ。市役所の職員だったかな」
「ウソですね、旦那さま。ラフすぎる格好で出ていかれましたし、当たり前のように土日出勤しているじゃないですか」
「バレたか。銀一さんの職業……というか職場は、なかなかにおもしろいところだぞ。他に類のない職場だ。彼が帰ってきたら聞いてみるといい」
「清彦さんじゃまともに教えてくれませんもんね」
「やれやれ、信用がないな」

 玲央奈と天野が雑談をしていると、やがてペタペタとペンギンのような足音がダイニングに近づいてきた。

 同時に、ひんやりとした冷気も。

 冷気を纏わせ、寝ぼけまなこを擦りながら現れたのは、青いパジャマを着た美少女だ。この子が六花だろう。
 サラサラと流れる黒髪ロングのストレートヘアに、目鼻立ちのはっきりとしたきれい系の面立ち。八歳という歳のわりには大人びた印象の、将来有望だろうその容姿は、〝クールそうな美人〟だとよく称される玲央奈と似通っている部分もある。
 だけど素朴な容姿の銀一とは、あまり似ていなかった。

「あなたたち……誰? まさか不審者? 強盗? うちを家探ししたって、ろくなものないから」