「死ぬかと思った……」
この半日で〝早く〟を何百回言われたことか。
「小次郎ぉ……辛かったよぉ……」
文字通り四つ這いで部屋に入り、小次郎の元にただいまを言いに行く。小次郎は寝床のタオルに入っていたけれど起きていたようで、嬉しそうに顔を出した。この顔を見るとどんな時も頑張れるのだ。
「あのね、お土産があるの」
悪夢のような一日の唯一の収穫は退勤後に半額の小松菜の最後の一束をゲットできたことだ。ただし購入場所は商売敵の隣のスーパー。今はタママートのロゴを見ただけでぞっとする。
小松菜を洗って小さく切り、エサ皿に入れて小次郎の前に置いてやる。小次郎はお腹が空いていたらしく、小松菜の匂いを嗅ぐと嬉しそうに首を伸ばした。
「可愛いなぁ……」
パリポリ、ムシャムシャ、小さな音を立てて小松菜を無心に頬張る小次郎を頬杖ついて眺める。こんなに無垢で平和で愛おしい生き物、いるだろうか。
しかし癒しの時間にも今日のダメージは消えてくれない。
『ああもう、こんなクズ寄こされて仕事になんねぇ』
初対面の相手への矢部さんの乱暴な言葉と態度は衝撃的だった。今までああいう層と関わることがなかった私にはカルチャーショックだ。仰せの通り、お邪魔にならないよう〝クズ〟は辞めてあげよう。
とはいえ早々に退職するのは根性なしに思えて嫌だった。怒鳴られてへこんだなんて思われたくない。
いやいや、ここでプライドは不要でしょう。こんなの人生の無駄遣いだ。明日こそ辞めるって言おう。
その時、バッグの中でマナーモードのままだったスマホが震動した。美保子が初日の感想を聞きたがっているのだろう。そう考えてスマホを取り出した私の顔が強ばった。
〝お母さん〟
しかも不在着信が何件も入っている。
母が電話をかけてくることは滅多にない。過干渉気味の母はたまに食料を届けるという口実で私の住まいを急襲することがあるが、まさか……。
「……もしもし」
『紺子、どこにいるの? 今日行ってみたら引っ越したって言うじゃないの。どうして言わないの!』
やはり……。
スマホを持ったまま項垂れる。ばれるのが早すぎだ。
「いや、あの、実は急に転勤になったのよ」
『どこに』
「……埼玉」
『ええ? 本社は丸の内でしょ。埼玉って何なの? 支社なんかないでしょ』
「まあその、つまり、出向になって」
『どこに!』
「……タママートっていう会社」
母の金切り声の凄まじさに思わずスマホを耳から遠ざける。
『スーパーじゃないの! 何があって左遷されたの』
「左遷じゃないわよ」
『左遷でしょ! せっかく菱沼に入ったのに何をやらかしたの!』
自分は愚痴っておきながら、人に左遷だと言われると腹が立つ。
そして案の定、攻撃の矛先は母の目下の懸案事に向けられた。
『あなた、菱沼で誰かいい人見つけてるの?』
「一か月前にも同じこと訊いたばかりじゃない。誰もいないわよ」
『どうするのよ。タママートにエリートなんかいないでしょ!』
母の口はこれだけでは止まらなかった。
『大学でも菱沼でも周りにエリートがいっぱいいたのに、どうして一人も捕まえられないの? 情けない娘だわね。お嬢さんはご結婚まだですかって毎日のように近所に訊かれるお母さんの身にもなってみなさいよ。恥ずかしいったらないわ』
「何よ、勉強しろ勉強しろってずっと言ってきたくせに、今度は男を捕まえろって? じゃあキャバ嬢にでもなれば満足なの⁉」
なれないけども。自分で突っ込む。
でも積年の憤懣と、魅力がない自分の情けなさと、今日の疲れと絶望と、いろいろなものが一気に爆発してつい逆ギレしてしまった。
「勝手なこと言わないでよ! お母さんの見栄と都合でコロコロ違う生き物に変われないわよ。私だってね、私だってねぇ……、明日早いからもう切るね!」
『待ちなさい紺子! 新しい住所はど──』
一気にまくし立てたものの続かなくなり、通話を電源ごと落とした。
「フン!」
テーブルに突っ伏した私の怒りはすぐに自棄の涙に変わった。最近は四方八方から非難されてばかりだ。
「頭が固くて戦車みたいで、勘違いメイクで、料理したことがないクズで、恋愛できないだけじゃない……」
並べてみると結構多い。
しばらくしてムシャムシャ音が聞こえないことに気づき顔を上げると、小次郎が甲羅に引きこもっていた。たぶん母とやり合う私の大声に驚いたのだろう。
「小次郎、ごめんごめん。びっくりしたよね、ごめんね」
灰色の甲羅を撫でながら謝っていると小次郎が少しだけ動いた。それからそろそろと顔が出てくる。小次郎には申し訳ないのだけど、こうして驚いた時の反応がとても可愛くて笑ってしまう。涙を拭いて溜息をついた。
退職して実家に帰れば母と喧嘩ばかりしてしまうだろう。それに母は生き物が大嫌いだから、小次郎の居場所もないはずだ。実家には帰れない。
「新しい職、探さないと……」
小次郎の扶養主としてしっかり働かなくては。ただしタママートはやっぱり辞めよう。自分にプラスになるとは思えない。
その時、北条怜二の嘲笑が浮かんだ。
『まあ正直、あなたにはかなり厳しい挑戦でしょうね』
退職を申し出たらその後の処理は菱沼ホールディングス人事部が行うことになるから、人事部に一度は行かなくちゃならないだろう。そうすれば絶対、あの男に会うことになる。
「ううう……」
辞める?
辞めない?
「辞めたい……」
でも、辞められない。
タママートかもめ店初出勤の夜は溜息ばかりで更けていった。
「仁科さんって英語喋れるんでしょ? 商社だもんなー」
「……はい」
「スゲーなぁ! 俺なんか日本語も怪しいよ」
「…………」
「ねぇねぇ、何か英語喋ってみてよ」
「…………」
タママートかもめ店精肉部に響くのは私の背後で仕事もせずお喋りする佐藤主任の声。私は今、せっせとササミの皮むき中だ。
初日に退職しそびれてから半月が過ぎた。情けないことに、私はいまだに退職できていない。
一晩まんじりともせずに考えて退職を固く決意した二日目の朝、六時三十分に出勤してみると、八時出勤のはずの矢部さんがすでにエンジン全開で鉄製のワゴンから大量の積み荷を下ろしていた。
『なに今頃来てんの、遅い! 早く運んで!』
矢部さんの剣幕に押され、慌てて作業に加わる。でも持ち上げようとしても積み荷はびくともしない。
『それ二十五キロもあるんで僕が運びます。仁科さんはあっちを……』
柳井君が小声で気遣うように小さな段ボール箱の山を指した。
『仁科さん、アンタ正社員だろ! やりな!』
私が答えるより早く、柳井君の声を拾った矢部さんの怒声が飛ぶ。
『すみません、僕が余計なこと言ったせいで』
柳井君が申し訳なさそうにこっそり謝った。
スーパーの朝は早い。毎朝六時には配送センターからトラックが到着し、大量の商品と材料が下ろされる。これが一日に三度。
小柄な女性パートさんが百キロを超える荷物を満載したワゴンを二台同時に引く姿を最初に見た時は驚いた。スーパーの舞台裏は男も女もない生身の人力の世界だ。
『仁科さん、運ぶのはもういいから朝一作業やって』
『はい、ありがとうございます』
『アンタ遅くて作業が間に合わねぇからだよ』
『…………』
運搬から離れ、すごすごと作業部屋に入る。
精肉部の一日は朝一作業と呼ばれる仕事で始まる。
朝一作業は時間との闘いだ。開店時間までに売り場を埋めるべく、牛、豚、鶏の三手に分かれて大量の肉を部位別・目的別にカットしパック詰めする。私は鶏担当で、必死でやっても開店時間に間に合わない。常人の限界を超えた目標設定が当たり前なのだ。
『仁科さん! そこの八段カートは何なの⁉』
『あっ、先ほどの指示分です! もうできてます』
ところが胸を張って答えた私の笑顔にヒステリックな怒声が跳ね返ってきた。
『何やってんの! 冷蔵室に入れなきゃダメでしょうが、早く!』
「は、はいっ⁉」
頭の中でクエスチョンマークを飛ばしながら慌ててカートを冷蔵室に運び込む。
あとで柳井君に訊くと、加工を終えたものは値付けまでのわずかな時間でも冷蔵室に移す決まりだそうだ。スーパーの現場ではたくさんの細かなルールで鮮度と安全を守っている。
今は開店から遅れること一時間、ようやく朝一作業を終えた私は朝二作業に入っている。昼前に来る第二の客足に備えるものだ。
しかし背後からは気の散る声がずっと続いている。
「仁科さんって背が高いよねぇ」
「……はい」
「いやー美人さんだしモデルみたいだよねぇ。身長何センチ?
「…………」
佐藤主任が真面目に仕事するのは朝一作業だけで、それが終わるといつも糸が切れた凧のようにブラブラしている。こんな体たらくでも職場結婚した奥さんがいるというのだから驚きだ。
「ねぇ、何センチ?」
「……一六九センチです」
「いやいやいやいや、もっとあるでしょ!」
ササミの皮をむく手がイライラし始める。
今まで背筋を伸ばして身長を計ったことはない。先生に指摘されない程度に身体を丸める技は小学校時代から磨いてきた。だから私も自分の正確な身長を知らない。大人になってからの身長測定は前回数値よりわざとらしく縮まないよう、なおかつ一六九という最後のラインを越えないよう真剣勝負だ。
「一七十あるよ、絶対」
「…………」
無視しているのはこの話題が気に入らない以前に口をきく余裕がないせいでもある。それと、おそらく私たちにどす黒い視線が向けられているはずだから。
「仁科さん! ダラダラ喋ってんじゃないよ!」
ほらやっぱり。喋っているのは主任なのに、必ず私が怒られる。佐藤主任は飛び上がり、部屋のあちら側に退散していった。
「あとさぁ、もも肉の向きが違うんだよ。何回言ったらわかんの?」
すべてにおいて一度もまともな説明がないまま、いつもこうして怒鳴られるのだから理不尽だ。
「全然使えねぇな。こんなんしかいないのかね?」
明らかに私に聞こえるように独り言も飛んでくる。
(ぎっくり腰にでもなればいいのに)
心の中で呪いをかけていると、矢部さんが売場に出て行ったのを見計らって柳井君がコソコソとやってきた。
「仁科さん、もも肉の向きがわからないんですよね」
柳井君が材料のもも肉を取り出し、説明しながら実演してみせる。
「ここの白い筋が何本も通っているところ、これを右側にして巻くんです」
「なるほど! ありがとう、柳井君」
「いえいえ」
柳井君はにっこり笑ってからガラス越しに売り場を見て「やべぇ、戻ってくる」と呟き、急いで持ち場に帰っていった。こうしてコソコソしなければならないのは、私を庇うと二人とも怒られるからだ。
「若のササミ、二十を五追加!」
間一髪、売り場と作業部屋を隔てる扉が音を立てて開き、矢部さんの声が響いた。和んでいた背中に緊張が走るのは私だけでなく佐藤主任や柳井君も同じだ。
「売場があと一個だよ。まだなの?」
ところがこちらにやってきた矢部さんは作業台の上にある袋を見るや否や烈火のごとく怒りだした。
「何やってんの! 若って言ったでしょうが。これ違うじゃん!」
タママートが扱う鶏肉には四ランクあり、ややこしいことに同じランクでも産地によって袋に書いてある名称がバラバラだったりする。
『説明してる暇はねぇ』
でも矢部さんはこの一点張りだ。
「若だよ若! さっさとやり直して! ほんと使えねぇな」
「袋には全部若どりって書いてあります。入ったばかりの人間には区別がつかないことを考慮に入れて最初に説明すべきではないですか?」
私が意見した瞬間、部屋のあちら側で作業していた佐藤主任と柳井君がすごい勢いで振り向いた。今まで矢部さんに盾突いた人間はいなかったのだろう。
低い身長から私を睨み上げる矢部さんの顔はいつもより凄味が増している。数秒間のタメのあと、ドスの効いた声が響いた。
「T大出てんなら楽勝で覚えられんじゃねぇの?」
そういう問題ではないと思う。ササミを置き、私も腕組みをして向き直る。
「まあまあまあまあ」
そこに佐藤主任が揉み手をしながらすっ飛んでくる。最初のうちこそ私もハイハイ言っていたけれど、ここ一週間はだいたいこの繰り返しだ。