理想の結婚お断りします~干物女と溺愛男のラブバトル~

「──お願いします」

カミングアウトも覚悟していたはずなのに、私は蜘蛛の糸にしがみついていた。
答えた瞬間、何かとんでもない選択をしてしまったような、吉凶のわからない予感で眩暈がした。

「では成立ですね。十月の第三日曜と仰いましたか。空けておきます」

「よよよよろしくお願いします」

北条怜二なら友人たちは文句なしにギャフンだろう。地獄に仏なのだけど決まりが悪すぎて口がもつれ、余計に格好悪い。
ところが話はこれで終わりではなかった。

「ただし一つ条件があります」

俯いてそそくさとバッグを抱えた私の頭頂部にビシリと彼の声が刺さる。
やはりそう来たか。成約後に条件を出してくるとは黒い男だ。

「十一月の再試験、お忘れではないと思います。それに合格してください」

なーんだ。いかにも人事部の課長が言い出しそうな条件じゃないの。

「もし不合格なら? 努力しますが一応確認しておきます」

さらに左遷とか? あれよりすごい左遷先があるなら見てみたいぐらいだ。まあ、もし不合格になっても適当に流せばいい。

しかし私は甘かった。北条怜二は破られる前提で条件を出すようなぬるい男ではない。彼は顔の筋一つ動かさず、平然と言い渡した。

「もし不合格なら関係を本物にする。そういうことにしましょう」

「…………」

「では、僕は戻ります。まだここにいらっしゃるなら十六時までにご退出ください。電気はこのままで結構です」

数秒前の条件と同じく淡々とした口調でそう言い残し、彼は出口へ向かった。
高い位置にある腰、優雅な歩き方、幅のある肩とすっきりした襟足。完璧すぎる後ろ姿を言葉もなく見送る。
頭が現実逃避したがっているのか、あの脚の長さだとオーダースーツは特別料金がかかるはずだと、どうでもいいことを考えた。

「また近くなったら相談しましょう。では」

そんな声で現実に引き戻された私の視界の遠くで、パタンとドアが閉められた。

「……今のは何?」

一人残された会議室で茫然と呟く。


今のは何──⁉


今年は例年より早く、九月の末から鶏団子の販売が始まった。それは「合格して菱沼の石頭に吠え面をかかせてやる」と矢部さんが息巻いたからだ。

不合格になれば「菱沼の石頭」はこの先もかもめ店に手を焼くことになるわけで、その方が彼にダメージを与えられるのだけど、イノシシ型の矢部さんにそんな理屈は理解できない。
お客様は例年より早い鶏団子シーズンの到来がまさか一従業員のリベンジのためとは想像もしていないだろう。

最近、私の晩御飯には宅配献立サービスのメニューの他にもう一品、鶏団子と小松菜の煮物がつくことが多い。退勤後、店頭に出している鶏団子を矢部さんたちに見つからないようこっそり買い、自宅で再びボウルにあけて自主練をしているからだ。なぜこっそりかと言うと、まあそこは私の下らないプライドだ。

しかし、毎晩のように団子をこねる私の脳内は雑念だらけだ。

〝もし不合格なら関係を本物にする〟

(あれは告白……?)

タネだらけの手が止まり、ポヤンと中空を見上げる。
干物人生二十八年、突如起きた天変地異。

(いやいや)

普通に考えてそんなはずがない。だってあの北条怜二だし。
しゃにむに団子を丸め始める。

「あれは告白でなくて脅迫でしょ」

そうだそうだ。出会いからこれまでの私たちの経緯を考えてみるがいい。いったいどこにそんな色気がある? あの会話だって隅から隅まで嫌味だらけだったじゃないの。あれが告白なら世の中の会話すべて告白だ。
でも──。
団子を丸める手がまた止まる。

彼と付き合ったらどんな感じなのだろうと、つい考えてしまうのだ。あんなに嫌っていたはずなのに、怪我をした時に垣間見せた優しさを何度も思い返してしまう自分が心もとない。

もし私が試験に落ちたら、私はあの北条怜二と付き合うことになるわけで。試験に落ちるのは簡単なわけで……。

だからこそ彼の真意がわからないのだ。
彼はどんな美人でも色目を使ってくる女は片っ端から拒絶している。すごく理想が高いはずだ。

だったらどうして彼は私にあんな条件を出したの?
私が本気で食いついたらどうする気だろう?

……という堂々巡りをしながら毎晩仇のように団子を丸めているおかげで、私の鶏団子は短期間で格段にレベルアップしている。彼はこの効果を狙ったのかなと思うと、操られているようで面白くないのだけど。

作業中、スマホにメッセージの着信があったので団子練習を終えてから覗いてみると〝その後どうなった?〟という美保子からの様子伺いだった。

〝代役見つかったよ〟

〝レンタル彼氏?〟

〝違うよ〟

 するとすぐに通話に切り替えられた。

『まさか本物?』

「最初に言ったでしょ、代役だって」

『あ、そうか。じゃあ誰が引き受けてくれたの?』

彼の名前を声に出そうとすると、なぜか妙に緊張した。

「実はね、北条課長が引き受けてくれたの」

数秒の間のあと、電話の向こうで大爆笑が聞こえた。なかなか止まないので仕方なく待っていると、やっと美保子が電話に復帰した。

『紺子、そんな冗談が言えるなんて余裕だねぇ。いい代役が見つかったんだ?』

「冗談じゃないって。本当に北条課長よ」

『どこの北条課長?』

「菱沼の人事部」

『…………』

「いや真面目な話」

『…………』

まあ信じられないのはわかる。私だっていまだに整理できていないのだから。

『いったいどうしてそんなことになったの? だって会う機会もないのに。ていうか、あの首斬り人によくそんなこと頼んだね!』

「頼んだわけじゃないのよ。まあ成り行きというか取引?」

そこで私はあの丸の内路上事件からTOEIC試験会場で顔を合わせたことまでを説明した。

『信じられない! 誰がどう見ても面倒臭い案件なのに』

「そうなのよ」

美保子の正直な感想に大きく同意しながら若干へこむ。
私の恋人役など面倒臭い、まあその通りだ。

「私が路上で喚いたりレンタル彼氏に手を出そうとしてるのを見て、何か問題を起こされたら厄介だと思ったみたいよ」

『まあ単に紺子と女子軍団のバトルが面白そうっていうのかもね』

「あ、それはあると思うよ」

北条怜二ならたぶんそれだ。納得しつつ微妙に虚しい。
もし私が海割り女でなかったら、ごく当たり前に〝北条怜二に興味を持たれている説〟も浮上しただろうに。

そこで私は大事なことに気づき、青ざめた。

「そういえば連絡先もらってない……」

からかわれただけ、とか……。

『北条課長なら紺子の人事データを閲覧できるから電話番号ならわかるでしょ』

「あの人、そういうことしないと思う。公私をはっきり分けるよ」

怪我の翌日にくれた電話の発信元は菱沼オフィスの番号だった。私のせいで金曜の仕事が中途になり、休日出勤する羽目になったのかもしれない。
でも手元にスマホはあったはずだ。あの電話は〝僕個人〟ではなく仕事だったんだなと、あの休みの期間にうだうだ考えたものだった。

『まあ引き受けるって言った以上は何とかしてくれるわよ』

美保子は私の不安を軽く受け流し、もっと核心的な問題を指摘してきた。

『それよりさ。紺子、演技できるの?』

「それよ」

そう、今回の最大の壁はそこなのだ。

「私、まずカップルってものがわからないの。デートって何をしてるのかとか」

二人で何をどんな風に喋って、いちゃつく時はどんな感じなのか。
あ、そこまでは必要ないのか。

『恋愛映画とかあるじゃない。ドラマとか」

「いや……テレビも映画もまったく」

ずっと親にテレビを禁止されていたので、ドラマとは無縁だった。かといって一人暮らしになったら観るようになったかといえば、そうでもない。

大昔、クラスの人気者に憧れた末、公開処刑された。その後、少女漫画のような恋に憧れたのに海割り女になった。

私は不相応なものに焦がれて失笑されることを恐れるあまり、化石になってしまったのだ。だから努力を裏切らない確実なもの──勉強や仕事にしがみついてきたのだと思う。

「甘ったるい話で夢が見られないのよね。生まれつきのオバサン? あはは」

親友にもそんなことを言って乾いたキャラになりきってしまう。干物の戦車という不名誉なレッテルから抜け出したいと願いながら、実際は言い訳にしてしがみついているのだ。

小次郎にご飯を食べさせ自分の食事も終えると、私はテレビの前に座った。
夢を見てしまうことが怖くて、ずっと恋愛ドラマを観るのが怖かった。空白の時間が長引けば長引くほど、手を出せなくなっていた。

でも二十八歳、今ならまだ水をかければ干物は生ものに戻れる?

北条怜二の前でもう不様な女でいたくない。演技だと開き直れば、私だって可愛い女になれるかもしれない。そうしたら黒歴史やコンプレックスから卒業できるんじゃないかなって。

「演技のためにね」

有料チャンネルから恋愛ドラマを選びながら、気恥ずかしくて一人で言い訳する。

しかし私に免疫がないせいか、それとも北条怜二を相手に演技することを念頭に置きすぎたせいか、砂を吐くほど甘いシーンに悶絶しまくった。

次回に続くエンドロールが流れ始め、挿入歌がサビに向かって盛り上がる。画面のこちら側では開けたまま飲むのを忘れて結露だらけになったチューハイを片手に干物女が固唾を飲む。

画面の中でヒロインが熱く切なく囁いた。

〝私……あなたが好き〟

「ぐはーっ、無理―っ」

いやいや、告白までは演技に必要ないんだってば。

二十八歳の清らかな干物の夜は色気のない呻き声とともに更けていった。


***

十月に入り、上半期店舗成績の速報が発表された。
かもめ店はお盆商戦の不振が響き、上半期は目標値に遠く及ばなかった。

毎日朝礼時には前日の各部門の目標達成率が読み上げられるのだけど、確かにこの半年間聞いていて、百パーセントに達していた部門はほとんどない。
今年は隣接スーパーが安価な輸入肉で猛烈な安売り攻勢を仕掛けてきて、精肉部も夏の主力商品のカルビなどが不振だった。

「やべーなぁ」

そう言ってヘラヘラ笑っている佐藤主任にあまり危機感は感じられない。

「毎年前半は苦戦して後半盛り返すんだよ。後半後半!」

「でもかなり深刻なんですよね?」

今朝の朝礼では店長が初めて全員の前で「廃店」という言葉を口にした。年末商戦が判断の鍵になるだろう、だから団結してほしいと。

「あーあんなの脅しだよ」

「でも今年は全部門かなり悪いですよ」

柳井君が眉を曇らせる。

「どうしてタママートは輸入肉の扱いが少ないの? 田舎で人口密集地でもないのにスーパーが四軒もあるなんて、苦戦するの当たり前よ。本部はかもめ店の立地条件をわかって言ってるの? 安売りもできないんじゃ対抗できないじゃない」

「うちの会長はグルメで、特に肉にうるさいんです」

「そうそう!」

 私の疑問に柳井君が答えると、佐藤主任も乗ってきた。

「視察に来る時は国産の厚切りサーロインをどっさり並べておかないと叱られるんだよ。一枚二千円以上するやつ、ここじゃ売れないのになー。あ、仁科さんってステーキ食べる人?」

「いえ、私はあまり──」

「仁科さん、鶏団子はまだ⁉」

いつものように矢部さんの怒声で部門ミーティングは即解散となった。