父から今に至るまでの経緯を聞いた悟は、直ぐに診察を受けた。その後、様々な精密検査を行ったが、奇跡的に後遺症も残らず、意識的な動作や発声も可能であった。担当の医師も信じられないと一驚していた。
怪我といえば、腕や足の骨にヒビが入っていたようだが、それらはとっくに治癒しており、残すは打撲のみであった。
点滴や尿道カテーテルも抜かれ、一週間様子をみて何もなければ退院となった。
「はぁ……はぁ、えらっ」
一ヶ月と十五日のベッド生活から解放された悟は、体力を取り戻すべく病棟の廊下を歩いていた。歩いたのはたったの十分であるのに息があがり、額には汗が浮き出ている。悟は壁に背を預け、呼吸を整える。
「大丈夫か?」
「やっぱり、車椅子から離れるの早かったんじゃない?」
「車椅子持ってこようか」とやたらと車椅子に乗せたがる両親に悟は「いい」と首を横に振る。
病み上がりで心配してくれているのはわかるが、それではいつまで経っても体力が戻らない。
自分の身体よりも両親の方が心配だった。両親の憔悴しきった風貌は、悟が目覚めたことでこれ以上酷くなることはないだろうが、体調を崩していないかが気掛かりだ。
体力低下と打撲以外になんともないことは検査結果で証明されている。交代交代でつきっきりになっていたという両親に悟は「もう大丈夫だから」と諭し、勉強の遅れを取り戻すために勉強道具を持ってくるよう頼んだ。その日の黄昏時、母が勉強道具や携帯電話の充電器、コンビニで買ってきたゼリーを持ってきた。その間、父は悟につきっきりだった。
悟は毎日、両親へ連絡すると約束をした。そして、一刻も早く体調を整えて元の日常へ戻ってほしいという悟の願いをしぶしぶ聞き届けた両親は、次回は退院の日に来ることを約束した。
翌日──。
早く目覚めた悟は、屋上に出ていた。二度寝しようと思っていたのだが、なかなか寝つけず外に出てきたのである。まだ世は明けておらず、薄暗い──かたわれ時である。神無月の空にペガススの四辺形を描く。枯れ葉を巻き上げるような野分の風が一瞬、悟を襲った。
「さぶっ……」
念のため持ってきていたカーデガンを羽織る。悟は屋上へ続く錆びた金属ドアから遠く離れたネットフェンスまで近づいた。
外へ出る手段が屋上だけではなかったが、屋上であれば朝日が昇る瞬間を見れるのではないかと悟は思い至ったのだ。
下衣のポケットに入れた携帯電話を見れば、午前五時五四分だった。
静寂の中、複数の烏の鳴き声が響き渡る。
携帯電話の画面が午前五時五十五分を示した時、画面の文字が 朱鷺色の光で塗り潰された。光の発生源を辿りながら、悟は顔を上げる。
「うわぁ……」
──すごい。
悟はその光景に感極まる。空を占めていた闇は後退し、 萱草色に染め上げる。早朝を知らせる主役の強い光に当てられ、悟は目を細めると顔を背けた。
毎朝六時に検温の記録をとりにくる看護師が病室を訪ねてくる。
戻らないと……。
悟はネットフェンスに背を向けた。金属ドアを捉えた視線が自然と下がる。それは、先程まで利休鼠のコンクリートには存在しなかった色がそこにあったからだ。
「おまえ、生きてたんだな」
金属ドアと悟の丁度間に立つそれは、開いた口をそのままにして喋った。本来であれば、意思疎通ができないはずである。だが、それは確かに喋った。
「いま……喋った?」
声の質は、三十歳くらいのお兄さんかおじさんか微妙な感じの声。つまり、若くもなければ年老いてもいないような、というところ。その声は悟が交通事故にあって意識を失う寸前に聞いた声と一致する。
それの正体とは、体長八十センチメートル、全身憲法色のごく普通にどこにでも存在する烏。
これが、少年──悟と烏の出会いである。
怪我といえば、腕や足の骨にヒビが入っていたようだが、それらはとっくに治癒しており、残すは打撲のみであった。
点滴や尿道カテーテルも抜かれ、一週間様子をみて何もなければ退院となった。
「はぁ……はぁ、えらっ」
一ヶ月と十五日のベッド生活から解放された悟は、体力を取り戻すべく病棟の廊下を歩いていた。歩いたのはたったの十分であるのに息があがり、額には汗が浮き出ている。悟は壁に背を預け、呼吸を整える。
「大丈夫か?」
「やっぱり、車椅子から離れるの早かったんじゃない?」
「車椅子持ってこようか」とやたらと車椅子に乗せたがる両親に悟は「いい」と首を横に振る。
病み上がりで心配してくれているのはわかるが、それではいつまで経っても体力が戻らない。
自分の身体よりも両親の方が心配だった。両親の憔悴しきった風貌は、悟が目覚めたことでこれ以上酷くなることはないだろうが、体調を崩していないかが気掛かりだ。
体力低下と打撲以外になんともないことは検査結果で証明されている。交代交代でつきっきりになっていたという両親に悟は「もう大丈夫だから」と諭し、勉強の遅れを取り戻すために勉強道具を持ってくるよう頼んだ。その日の黄昏時、母が勉強道具や携帯電話の充電器、コンビニで買ってきたゼリーを持ってきた。その間、父は悟につきっきりだった。
悟は毎日、両親へ連絡すると約束をした。そして、一刻も早く体調を整えて元の日常へ戻ってほしいという悟の願いをしぶしぶ聞き届けた両親は、次回は退院の日に来ることを約束した。
翌日──。
早く目覚めた悟は、屋上に出ていた。二度寝しようと思っていたのだが、なかなか寝つけず外に出てきたのである。まだ世は明けておらず、薄暗い──かたわれ時である。神無月の空にペガススの四辺形を描く。枯れ葉を巻き上げるような野分の風が一瞬、悟を襲った。
「さぶっ……」
念のため持ってきていたカーデガンを羽織る。悟は屋上へ続く錆びた金属ドアから遠く離れたネットフェンスまで近づいた。
外へ出る手段が屋上だけではなかったが、屋上であれば朝日が昇る瞬間を見れるのではないかと悟は思い至ったのだ。
下衣のポケットに入れた携帯電話を見れば、午前五時五四分だった。
静寂の中、複数の烏の鳴き声が響き渡る。
携帯電話の画面が午前五時五十五分を示した時、画面の文字が 朱鷺色の光で塗り潰された。光の発生源を辿りながら、悟は顔を上げる。
「うわぁ……」
──すごい。
悟はその光景に感極まる。空を占めていた闇は後退し、 萱草色に染め上げる。早朝を知らせる主役の強い光に当てられ、悟は目を細めると顔を背けた。
毎朝六時に検温の記録をとりにくる看護師が病室を訪ねてくる。
戻らないと……。
悟はネットフェンスに背を向けた。金属ドアを捉えた視線が自然と下がる。それは、先程まで利休鼠のコンクリートには存在しなかった色がそこにあったからだ。
「おまえ、生きてたんだな」
金属ドアと悟の丁度間に立つそれは、開いた口をそのままにして喋った。本来であれば、意思疎通ができないはずである。だが、それは確かに喋った。
「いま……喋った?」
声の質は、三十歳くらいのお兄さんかおじさんか微妙な感じの声。つまり、若くもなければ年老いてもいないような、というところ。その声は悟が交通事故にあって意識を失う寸前に聞いた声と一致する。
それの正体とは、体長八十センチメートル、全身憲法色のごく普通にどこにでも存在する烏。
これが、少年──悟と烏の出会いである。