世の中に、神業とも言うべき体術が存在することを、ラウルは初めて目にした。
 木陰を飛び出して、すぐに間合いを詰めたオルヴィズは相手が声を出す暇を与えなかった。ひとりの腹に一発入れると、次の瞬間にはもうひとりの首の後ろに手刀を入れ、繰り出された別の刃をひらりとかわして肘鉄をいれる。
「一対一なら、この国でオルヴィズに勝てる人間は数人しかいないわ」
 アリスティアはにこりと笑った。
「行きましょう」
 雨の中を、全速で二人は走った。
 洞窟の前にたどり着いたころには、勝負はついていた。既に、四人の男が地べたに転がっている。
「とりあえず、片付けましたが、これだけではないでしょうね」
 僅かに息を弾ませながら、オルヴィズは、素早く倒れている男たちを縛り上げた。
「この人たち、どうするのですか?」
 ラウルは男たちに猿轡を噛ませながら、聞いた。
「大切な証人だ。殺しはしないが、逃がすわけにはいかない 暫くここで寝ていてもらう」
 男たちをその場に転がしたまま、オルヴィズは先へ行こう、と言った。
「この先は、どんな風になっているの?」
 洞窟の中は、しん、と静まり返って、水の流れる音だけが聞こえてくる。
「少し行くと、下り坂になっていて、滝があります。大きなホールのようになっているんですが、そこを抜けると、神殿のある大広間に出ます」
 滝までは道が狭く、ひとが二人並んで歩けるかどうかという感じだが、そこから先はかなり道幅が広くなる。ところどころに、小さなわき道はあるものの、基本的には袋小路で抜け道には使えない。父に連れられて何度もここには来て、そこらじゅうを探検したが、この洞窟は基本的に一本道だ。
 唯一、滝のそばのホールには、人の視線より一段高い位置に、別の道が通っており、神殿へのショートカットコースになっているが、ホールのそばで視線は完全に通るため、滝のそばにひとがいれば、発見されることは間違いなかった。
「ホールに、見張りがいたら、私が引き受けます。通路側で迎え撃てば、一人で何とかなると思います」
 暗い洞窟である。狭い位置で迎え撃てば、弓矢が飛んでくることもない。先ほどの神業的な体術を見たあとであるから、オルヴィズが大口を叩いているわけではないことがわかっている。
「いざとなったら、これでアリス様を守ってくれ」
 使い方など知らない、というラウルの手に無理やり、オルヴィズは短剣を握らせた。確かに、オルヴィズがおとりになるのなら、アリスティアを守れるのはラウルだけだ。ラウルは託された責任の重さで、手に汗が滲む気がした。
 三人は、声をひそめ、足音を忍ばせながら、ランタンの明かりを頼りに洞窟を進んでいった。足元が、わずかに濡れて滑る。
 ゆるゆるとした下り坂を下り始めたとき、下方から灯りがもれているのが見えた。
 流れ落ちる水音とともに、ひそひそと人の話し声が流れてくる。鎧が立てる小さな音も含めて、人の気配がしていた。
 ラウルは人の頭の位置より高い位置にある、横穴を指差した。おとながひとり、やっと進めるくらいの小さな穴だ。
 息を潜めながら、ラウルは岩壁を這うように登る。下から鈍く照らすランタンの光だけが頼りだけに、ほとんど手探りの登攀で、しかも息を潜めるように進まなければならない。身の軽いラウルでも、困難を極めた。ようやく横穴にたどり着くと、ラウルはロープを自分の体に巻きつけ、下に垂らし、アリスティアを引き上げた。
 最後に、オルヴィズがランタンから松明に火を移してから、ランタンを引き上げた。
 オルヴィズが松明を片手に、降りていくのを確認し、ふたりはゆっくりと横穴を進む。
 暗闇の中から、人を誰何する声と、剣げきの音が響き渡る。その音を聞きながら狭い道を行くと、広い空間に出た。ひと一人がやっと通れるその通路は、まるでキャット・ウォークのように、ホールの周囲を一段高い位置を巡るように通り、奥へと続いていた。
 眼下には篝火に照らし出された滝つぼのそばに、十人ばかりの人間が見え、奥のほうに獅子奮迅と戦うオルヴィズの姿が見えた。
 ことさら派手に立ち回る彼のおかげで、頭上のラウルたちに気がついた者はいない。二人は、足音をしのばせながら、ひといきに狭いその道を通り抜けた。そして腰をかがめなければ進めないような道に入った。剣戟の音と水音が遠くなるにつれ、朗々たる女性の呪文を唱える声と、強い香のかおりが流れてきた。
「思ったとおりだわ。メイサよ。彼女は巫女としてじゃなく、魔道師として、水竜を召喚して、操っている」
 巫女として竜に願っているのなら、呪文は不要である。封じられた力を取り戻した今、魔道師としてのメイサの力は竜を御すまで高まっているのだ。
「これを」
 アリスティアから、小さな袋を渡された。船に乗っている間、ずっと彼女が握り締めていたものだと気がつく。重みは感じられない。
「中に、私の髪の毛が入っているわ。それを、ロキス神像の右腕に巻きつけて欲しいの」
「髪の毛、ですか?」
 袋を開いてみると、長い銀色の髪の束が入っている。フードを被っていたせいで気がつかなかったが、アリスティアの肩よりも長かった髪の毛はぐんと短くなっている。
「メイサと竜との交信を妨害するの。本当なら正式な魔道具を使うんだけど」
 前方に光が差し込み始め、二人は灯りを消すと身を隠すように前進した。
 光の先は広い空間になっていた。
 他の場所とは違い、人の手が加えられている。
 出口の一段低い場所にある床は、もともとあった岩盤を使用してはいるものの、しっかり磨きぬかれていた。ほぼ円形の部屋の壁面にはぐるりと燭台がおかれ、幻想的に周りを照らし出している。
 そして黒々とした岩肌に、六貴神の中でも、古くからの信仰を持つ、ロキス、大地の神リーズ、森の神レターニャの神像が大きく浮き上がるように彫られていた。
 ロキスの神像の祭壇の前に、床に魔方陣が描かれており、その上で女性が呪文を唱え続けている。
 祭壇に焚かれた香の甘い香りが漂う。見たところ、女性一人だけのようだ。
「危ないっ!」
 ラウルは、アリスティアに引っ張られ床に転がった。同時に、先ほどまで立っていた場所に、小さな火球が破裂する。
「いきなりのご挨拶ね、メイサ」
 いつの間にか女の呪文が止んでいた。長いこげ茶色の癖のある髪。美人といえなくもないが、鋭すぎる眼光。まさしく、烈火のような激しい気性を感じさせる。
「あなたが来るとは思わなかったわ。アリスティア姫」
 メイサは唇にだけ笑みを浮かべる。
「私が来る意味はわかっているでしょ? 投降しなさい」
「あなたのそういう甘いトコ、嫌いじゃないわ」
 ふわりと、メイサの手のひらが返ると同時に、青白い人の大きさほどもある蛇が出現した。
「ルーネよ! 水竜の眷属の中では下っ端だけど、毒があるわ」
 アリスティアを抱え、ラウルは後方へ跳ぶ。間一髪、一撃を避けた。
 ルーネは、鎌首をもたげ、悔しげに赤い舌を見せる。
 ラウルは、オルヴィズから渡された短剣を構えた。剣の使い方など知らないが、やるしかない。
 蛇の眸に自分が映っているのを感じながら、息をするのも忘れるにらみ合いが続く。
 そのラウルの後方で、アリスティアが呪文の詠唱を始めた。
「斬ッ!」
 叫び声とともに衝撃波がルーネの鎌首を切り裂いた。傷は小さかったが、張りつめたものが揺らいだ。その一瞬を見逃さず、ラウルは床を蹴って、ルーネの頭に短剣をつきたてる。
 蒼い鮮血が飛び散った。ルーネは断末魔の声を上げ床に崩れる。
「やるわね。でも、邪魔はさせない」
 メイサは、悔しそうに顔を歪め、再び呪文を唱えた。
 メイサと、アリスティアの声が重なり、ラウルの目の前で、ふたつの火球がぶつかって消滅する。
「ラウル、神像を!」
「わかりました!」
 アリスティアとメイサが、同時に長い詠唱に入る。ふたりの口から発せられる言葉で、大気が大きく歪んでいくのが感じられた。小さな火柱がアリスティアの前で弾けている。どちらが優勢なのかはわからない。
 ラウルは、ねっとりと重い空気の中を泳ぐように進んだ。メイサに直接飛び掛った方が早いのではないかとも思ったが、アリスティアを信じて、祭壇へとたどり着く。
 祭壇のそばは、酔うほどに甘い香りが漂っていた。見上げたロキス神の右腕には、本来あるはずの竜の姿が消えている。神像は、ラウルの十倍くらいの大きさがあり、下からでは右腕をどうこうすることは不可能だ。
 ラウルは思い切って、神像をよじ登る。磨き上げられた神像はつるつると滑り、神への畏怖もあって、足をかけるのは難儀であったが、ようやく右腕にたどり着くと、渡された銀色の髪の毛を巻きつけるように縛り付けた。
「アリス様っ!」
 ラウルは大声で叫ぶ。
「竜よ!」
 アリスティアが手を広げた。とたん、神殿は轟音に包まれる。
 神殿内に、洪水が起こったように水があふれ、大きな「力」が渦を巻く。外よりも激しい雨がラウルの体を撃った。滑り落ちそうになる体を支えながら、巻きつけた髪の毛が目を焼くほどの光を放っていた。
 やがて。
 静寂が訪れた。雨はやみ、暗闇が辺りを包む。
 静かにアリスティアが呪文を唱える声がして、部屋全体が明るくなった。
「大丈夫?」
 びしょぬれのアリスティアが心配げにラウルを見上げていた。
「なんとか。アリス様は?」
「生きているわ」
 アリスティアは僅かに微笑する。
 ラウルは、ゆっくりと神像から降りた。見上げると、銀の髪の毛のあった場所に、竜の姿が戻ってきている。結んだはずの髪の毛はどこにもなかった。
「メイサ、しっかりして」
 床に描かれていた魔方陣は水に洗われてしまったかのように、消えていた。濡れた床に、青い顔の女性が横たわっている。
 アリスティアはメイサの濡れた頬を手で拭った。
「完全に、負けたわ」
 弱々しい声で、メイサは微笑する。
「どうして、こんなことを?」
「イルクートさまの、お役に立ちたかったの」
 夢を見るように、小さな声でメイサは言った。先ほどまでの激しすぎる眼光は消え、静かでおだやかな眸をしていた。
「あなた、あの男の野心に利用されたのよ」
「そんなの知っているわ」
 メイサの顔は柔らかく、満足そうだ。
「私が勝手にあのひとを愛したの。あのひとから、封印の技の話を聞いた時から、諦めることはできなくなった。ラバナスさまに封印の技を解いてほしいと願い、そのせいで恩あるラバナスさまを死なせたわ。それでも、あのひとと生きたかった。そんな私の居場所は、もう地上にはどこにもない」
「イルクートは、技の解除がラバナス様に危険を及すことは知っていたはずよ。それに、ラバナス様だって、ご承知の上でのこと。あなただけが責任を感じる必要はないわ」
 アリスティアの瞳がうるんでいた。
「正論ね。私、あなたのそういうトコ、苦手なのよ」
 メイサはアリスティアに手を伸ばす。
「知らなかったとはいえ、封じの技の解除を願ったのは私。それに、エレクーンを焼いたのも私。あのひとのために、水竜を呼んだのも私なの」
 メイサの目の焦点が結ばれなくなってきていた。
「しっかりして、メイサ」
 その手を握り、アリスティアは必死で名を呼ぶ。
「あなたが私のために泣いてくれるなんて思わなかった。私、酷いことばかり言っていたのにね」
 メイサの唇が弱々しく動く。
「竜を呼んだときから、こうなることはわかってた。あなたが来たということは、あのひとも無事ではすまないってことね」
 メイサは、青白い顔で、柔らかく微笑んだ。
「共に歩むことはできなかったけど、共に逝くことはできそう」
 それが最後だった。
 静まり返った神殿の中で、アリスティアの嗚咽がかすかに響いていた。