「ひどい雨漏りですね」
ラウルは顔をしかめた。
「これは手間がかかるかもしれません」
ほとんど廃屋といっていい物件だ。天井から大粒のしずくが降ってくる。いくら外が大雨だからとしても、ひどいとしか言えなかった。
「なんとかなりますでしょうか?」
心配そうに、男が尋ねる。
「費用はかかると思いますよ」
慎重にラウルは答えた。
あれから二日。意地を張ってアリスティアからの仕事を突っぱねたものの、この季節、そうそう仕事にありつけるものではなかった。頼み込んで大工の職人ギルドから、この建物の状態調査の仕事をやっともらったものの、手間賃は僅かだ。それでも仕事があるだけありがたい。
「ここも一部が腐っています。このあたりは張り替えたほうが良さそうですね」
床には、水溜りができていた。蝶番が外れた窓から、激しい雨が振り込んでいる。彼はこの古い廃屋を改装してパン屋にしたいという。改装は、雨の季節が終わると同時に始めたいらしい。ようやく暖簾分けを許された男がやっとみつけた場所だが、優良とは言いがたい。
しかし、帝都エリンの東の外れに位置したこの場所は、清流ニギリ川がすぐそばを流れて非常に美しい場所だ。彼がここに決めた気持ちもよくわかる。
「外側の方も確認してみましょう」
ラウルはフードを被り、外へ出た。激しい雨の音とともに、清流で名高い川も濁流となっていた。少し谷になっているため、いつもなら人ひとり下の位置にあるはずの水面が、とても近い。
「すごい雨ですね」
男は叫ぶように言った。水音が激しく、会話は不可能に近かった。
外壁も傷んでいたが、修繕できないほどではなかった。あとは、屋根の状態を確認することであったが、この大雨の中、屋根に上るのは気が進まなかった。
「屋根の状態は、また日を改めて確認するほうがいいかもしれません」
ラウルは叫ぶ。フードから滝のように雨粒が流れ落ちてくる。依頼人である男も異論はないようで、慌てて廃屋の方へ戻っていった。
足元を雨水が地面を波打つように流れていく。さすがにこれだけの雨になると、オルヴィズからもらったマントでも水がしみこんできて冷たかった。
ーーああ、そういえばマントを返していなかった。
ラウルはマントの上を滑り落ちていく水滴を見ながら思った。返さなくていい、と彼は言ったが、たぶんそれは仕事の報酬の一部としてだ。理由はどうであれ、頼まれた仕事を途中で放棄したことに間違いはない。
ーーメイサさんは、見つかったのだろうか。
激しい雨の向こうに、まだ見たこともない不幸な生い立ちを持つ女の姿を思い描く。気の強い子だ、とアリスティアは言った。どん底から始まった人生を、必死で立て直そうとしていたのであろう。身分違いの恋に身を焦がし、そのためにさらなる高みをめざしていた姿は、烈火のような激しさを感じる。
ーーまさに、ロキスの巫女だ。
ロキスはひとの真摯な姿を愛するという。その想いの善悪より、迷いのない純粋さと激しさを好む。それゆれに、破壊と創造の神なのだ。
「どうかしました?」
不意に、ラウルは自分を呼ぶ声に気がついた。廃屋の軒先で、男が待っている。依頼人を待たせていたことを思い出し、あわててそちらへ駆け出そうとしたとき、川の水面に目に入った。荒れ狂う川の流れの水面が、明らかに高くなってきている。
ーーまさか?
空は黒く、途絶えることもなく、滝のような雨が降り続いている。大地に降り注いだ雨は、すでにしみ込むことができずに土の上を滑るように流れていくばかりだ。
「川が決壊するかもしれません!」
大声でラウルは叫ぶ。そして、すでにぬれている顔を手で洗うようにぬぐった。
「人を集めてください! 僕は憲兵に知らせます!」
男が頷くのを確認し、ラウルは駆け出した。
走るたびに、足元の水が飛びはねたが、まったく気にならなかった。ただ、ごうごうと流れる川の音だけが耳元で鳴り続けていた。
「ラウルと言います。オルヴィズさんに会わせてください」
憲兵隊の詰め所に駆け込むなり、ラウルは頼み込んだ。
すぐに、隊長であるオルヴィズにつないでもらえたのは、ラウルの形相が普通でなかったからであろう。
「河川が氾濫?」
「はい」
ラウルは川の様子を話す。時間がない。
「なるほど。この雨だ。ありうるな。手を打った方が良さそうだ」
オルヴィズは窓の外を見ながら、頷く。
「それと、これは俺の勝手な考えなのですが」
ラウルが自分の考えを話し始めると、オルヴィズの顔は、どんどん厳しくなっていった。部下を呼び、細かく指示を与える。
「ついてこい」
「はい」
二人は、雨具をつけて外へ飛び出した。
オルヴィズは、どこへ行くのかは、告げなかったが、行き先はなんとなくわかった。
憲兵隊の束ねである、レニキス公の屋敷だ。
仕事ですら入ったことのない、大きな屋敷である。
「アリス様に」
オルヴィズが執事と話している間、ラウルは空を見上げた。
雨粒が目に入り、周りが良く見えないくらいだ。雨は止まない。
「中に入れ。少し待とう」
オルヴィズに促され、玄関ホールに入る。
外が暗いため、まだ昼間だというのに、薄暗い。堅牢な建物の中に入ったのにもかかわらず、激しい雨音が響いていた。
髪の毛から滴る雨水が汗といっしょに背中を流れていく。
先ほど、執事が迷惑そうに、自分を見たのは無理のないことだと、ラウルは思った。磨かれた美しいタイルには、泥まみれの靴の足跡がつき、雨水だか汗だかわからない液体の水溜りが出来ている。
「ラウル」
執事と共にやってきた、アリスティアは、白のドレスを着ていた。
ーーやっぱりお姫さまだ。
つい場違いな感想を抱く。本当に遠い人間なのだな、と思う。
「アリス様。ラウルの考えが正しければたいへんなことになります」
「この雨は、メイサさんが降らせているのではありませんか?」
単刀直入にラウルは口を開いた。時間が惜しい。
「どういう意味?」
アリスティアが首を傾げる。
「メイサさんがロキスの巫女なら、水竜だって呼ぶことが出来るんじゃありませんか」
ラウル自身、荒唐無稽なことを言っていると思う。魔道の知識など、皆無に近い。それでも、確信のようなものがあった。
「まさか、そんなこと」
「どちらにせよ、既に、エリンの南東の地域は下水があふれて浸水がはじまっています。雨がこのまま降り続ければ、深刻な水害になるでしょう」
オルヴィズが険しい顔で補足する。ここに来る前に、早急な調査と対策を指示してきたとはいえ、一時も速く現場に行かなければならないという、焦りがみえる。
「この雨が、自然のものにしろ魔道的なものにしろ、早急に手を打たなければなりません。そして、魔道的なものならば、止めることを考えなければ」
ニギリ川やルーゼ湖が決壊すれば、帝都エリン全体が水没する可能性だってある。否。エリンだけではない。川下の町や村にも被害が出るであろう。そうなれば、冗談でなく帝国全体の危機だ。
「……可能性は、あるかもしれない」
暗い瞳で、アリスティアは呟く。
「生命を捨てる覚悟なら、私でも竜は呼べる。もっとも、意のままに操ることは難しいけど」
「では?」
「問題は、場所ね。竜の気の多いところ、できればロキスの神域がいい。でも、エリン市内の神殿ではないわ。偶然ならともかく、儀式として行なうなら、人目は少ないほうがいいし、結界があるから広範囲に竜を飛ばすことは不可能よ。それにしても、もしそれが本当なら、考えたわね。火竜より、水竜は破壊力は少ないけど、竜が呼ぶ雨は、広範囲で雲が勝手に降らし続ける。しかも、雨に対して結界は全くなんの役にも立たない」
帝都エリンは、魔防都市だ。この地域は魔の活動が昔から活発で、この地の歴史はそのまま魔との戦いの歴史であるといっていい。
しかし、雨や水害に対して、結界は何の意味もない。水害は、水竜の関与の有無にかかわらずおこるもので、それを防ぐのは「魔道」ではなく、土木技術だ。その点に関して、帝都エリンは他の都市となんら変わるところはない。
「心当たりがあります」
ラウルは慎重に口を開いた。
「ルーゼ湖の北岸に、洞窟に古い神殿があります。帝国建国以前から崇められている場所です。今は、我ら大工と、湖の漁師やきこりたちくらいしか訪れない、神官もいない神殿ですが」
その神殿は、天然の洞穴の奥に、六貴神の中でも、古いとされている三柱が奉られている。帝都建設の祈願をこめて、帝国の始祖ラクラスが作ったと伝えられており、大工たちは今でも初めて大工道具を手にしたときは、一度そこに奉納してから使うのが慣わしであった。周囲は森になっており、湧水地も近い。人知れず、事を成すのにはもってこいの場所だ。しかも訪れたことのないものには、わかりにくい場所にある。
「ラクラスの洞穴ね。ずいぶん森の中にあると聞いたけど、案内はできる?」
「できます。半日はかかると思いますが」
ラウルは頷く。雨天で、道は険しくなることが予想されたが、知っていれば行けない場所ではない。
アリスティアは思案をまとめるように顎に手を当て、数秒沈黙した。
「オルヴィズ、父上に報告は?」
「部下に河川の状況の報告を入れさせるように指示はしました」
「では、今の話は、父上にはまだしていないのね」
確認するように、アリスティアが問うと、オルヴィズは頷いた。
「父上には、私から話すわ。急がなければいけないけど、少し時間がかかる。オルヴィズは、神殿に行くための装備を三人分ほど用意して。それから、ラウル、あなたは着替えたほうがいいわね。いくら雨の中を行くにしても、それでは行く前から体力を消耗してしまうわ。オルヴィズ、お願い」
アリスティアの顔が厳しく引き締まる。その表情は、高い知性と高貴な美しさが漂い、ラウルは思わず目を伏せた。
「一時間したら、ここに来て。場合によっては少し待たせるかもしれないけど」
「わかりました」
頷いたオルヴィズに連れられ、ラウルは屋敷を出る。
雨脚は、一向に弱まる気配はなかった。
ラウルは顔をしかめた。
「これは手間がかかるかもしれません」
ほとんど廃屋といっていい物件だ。天井から大粒のしずくが降ってくる。いくら外が大雨だからとしても、ひどいとしか言えなかった。
「なんとかなりますでしょうか?」
心配そうに、男が尋ねる。
「費用はかかると思いますよ」
慎重にラウルは答えた。
あれから二日。意地を張ってアリスティアからの仕事を突っぱねたものの、この季節、そうそう仕事にありつけるものではなかった。頼み込んで大工の職人ギルドから、この建物の状態調査の仕事をやっともらったものの、手間賃は僅かだ。それでも仕事があるだけありがたい。
「ここも一部が腐っています。このあたりは張り替えたほうが良さそうですね」
床には、水溜りができていた。蝶番が外れた窓から、激しい雨が振り込んでいる。彼はこの古い廃屋を改装してパン屋にしたいという。改装は、雨の季節が終わると同時に始めたいらしい。ようやく暖簾分けを許された男がやっとみつけた場所だが、優良とは言いがたい。
しかし、帝都エリンの東の外れに位置したこの場所は、清流ニギリ川がすぐそばを流れて非常に美しい場所だ。彼がここに決めた気持ちもよくわかる。
「外側の方も確認してみましょう」
ラウルはフードを被り、外へ出た。激しい雨の音とともに、清流で名高い川も濁流となっていた。少し谷になっているため、いつもなら人ひとり下の位置にあるはずの水面が、とても近い。
「すごい雨ですね」
男は叫ぶように言った。水音が激しく、会話は不可能に近かった。
外壁も傷んでいたが、修繕できないほどではなかった。あとは、屋根の状態を確認することであったが、この大雨の中、屋根に上るのは気が進まなかった。
「屋根の状態は、また日を改めて確認するほうがいいかもしれません」
ラウルは叫ぶ。フードから滝のように雨粒が流れ落ちてくる。依頼人である男も異論はないようで、慌てて廃屋の方へ戻っていった。
足元を雨水が地面を波打つように流れていく。さすがにこれだけの雨になると、オルヴィズからもらったマントでも水がしみこんできて冷たかった。
ーーああ、そういえばマントを返していなかった。
ラウルはマントの上を滑り落ちていく水滴を見ながら思った。返さなくていい、と彼は言ったが、たぶんそれは仕事の報酬の一部としてだ。理由はどうであれ、頼まれた仕事を途中で放棄したことに間違いはない。
ーーメイサさんは、見つかったのだろうか。
激しい雨の向こうに、まだ見たこともない不幸な生い立ちを持つ女の姿を思い描く。気の強い子だ、とアリスティアは言った。どん底から始まった人生を、必死で立て直そうとしていたのであろう。身分違いの恋に身を焦がし、そのためにさらなる高みをめざしていた姿は、烈火のような激しさを感じる。
ーーまさに、ロキスの巫女だ。
ロキスはひとの真摯な姿を愛するという。その想いの善悪より、迷いのない純粋さと激しさを好む。それゆれに、破壊と創造の神なのだ。
「どうかしました?」
不意に、ラウルは自分を呼ぶ声に気がついた。廃屋の軒先で、男が待っている。依頼人を待たせていたことを思い出し、あわててそちらへ駆け出そうとしたとき、川の水面に目に入った。荒れ狂う川の流れの水面が、明らかに高くなってきている。
ーーまさか?
空は黒く、途絶えることもなく、滝のような雨が降り続いている。大地に降り注いだ雨は、すでにしみ込むことができずに土の上を滑るように流れていくばかりだ。
「川が決壊するかもしれません!」
大声でラウルは叫ぶ。そして、すでにぬれている顔を手で洗うようにぬぐった。
「人を集めてください! 僕は憲兵に知らせます!」
男が頷くのを確認し、ラウルは駆け出した。
走るたびに、足元の水が飛びはねたが、まったく気にならなかった。ただ、ごうごうと流れる川の音だけが耳元で鳴り続けていた。
「ラウルと言います。オルヴィズさんに会わせてください」
憲兵隊の詰め所に駆け込むなり、ラウルは頼み込んだ。
すぐに、隊長であるオルヴィズにつないでもらえたのは、ラウルの形相が普通でなかったからであろう。
「河川が氾濫?」
「はい」
ラウルは川の様子を話す。時間がない。
「なるほど。この雨だ。ありうるな。手を打った方が良さそうだ」
オルヴィズは窓の外を見ながら、頷く。
「それと、これは俺の勝手な考えなのですが」
ラウルが自分の考えを話し始めると、オルヴィズの顔は、どんどん厳しくなっていった。部下を呼び、細かく指示を与える。
「ついてこい」
「はい」
二人は、雨具をつけて外へ飛び出した。
オルヴィズは、どこへ行くのかは、告げなかったが、行き先はなんとなくわかった。
憲兵隊の束ねである、レニキス公の屋敷だ。
仕事ですら入ったことのない、大きな屋敷である。
「アリス様に」
オルヴィズが執事と話している間、ラウルは空を見上げた。
雨粒が目に入り、周りが良く見えないくらいだ。雨は止まない。
「中に入れ。少し待とう」
オルヴィズに促され、玄関ホールに入る。
外が暗いため、まだ昼間だというのに、薄暗い。堅牢な建物の中に入ったのにもかかわらず、激しい雨音が響いていた。
髪の毛から滴る雨水が汗といっしょに背中を流れていく。
先ほど、執事が迷惑そうに、自分を見たのは無理のないことだと、ラウルは思った。磨かれた美しいタイルには、泥まみれの靴の足跡がつき、雨水だか汗だかわからない液体の水溜りが出来ている。
「ラウル」
執事と共にやってきた、アリスティアは、白のドレスを着ていた。
ーーやっぱりお姫さまだ。
つい場違いな感想を抱く。本当に遠い人間なのだな、と思う。
「アリス様。ラウルの考えが正しければたいへんなことになります」
「この雨は、メイサさんが降らせているのではありませんか?」
単刀直入にラウルは口を開いた。時間が惜しい。
「どういう意味?」
アリスティアが首を傾げる。
「メイサさんがロキスの巫女なら、水竜だって呼ぶことが出来るんじゃありませんか」
ラウル自身、荒唐無稽なことを言っていると思う。魔道の知識など、皆無に近い。それでも、確信のようなものがあった。
「まさか、そんなこと」
「どちらにせよ、既に、エリンの南東の地域は下水があふれて浸水がはじまっています。雨がこのまま降り続ければ、深刻な水害になるでしょう」
オルヴィズが険しい顔で補足する。ここに来る前に、早急な調査と対策を指示してきたとはいえ、一時も速く現場に行かなければならないという、焦りがみえる。
「この雨が、自然のものにしろ魔道的なものにしろ、早急に手を打たなければなりません。そして、魔道的なものならば、止めることを考えなければ」
ニギリ川やルーゼ湖が決壊すれば、帝都エリン全体が水没する可能性だってある。否。エリンだけではない。川下の町や村にも被害が出るであろう。そうなれば、冗談でなく帝国全体の危機だ。
「……可能性は、あるかもしれない」
暗い瞳で、アリスティアは呟く。
「生命を捨てる覚悟なら、私でも竜は呼べる。もっとも、意のままに操ることは難しいけど」
「では?」
「問題は、場所ね。竜の気の多いところ、できればロキスの神域がいい。でも、エリン市内の神殿ではないわ。偶然ならともかく、儀式として行なうなら、人目は少ないほうがいいし、結界があるから広範囲に竜を飛ばすことは不可能よ。それにしても、もしそれが本当なら、考えたわね。火竜より、水竜は破壊力は少ないけど、竜が呼ぶ雨は、広範囲で雲が勝手に降らし続ける。しかも、雨に対して結界は全くなんの役にも立たない」
帝都エリンは、魔防都市だ。この地域は魔の活動が昔から活発で、この地の歴史はそのまま魔との戦いの歴史であるといっていい。
しかし、雨や水害に対して、結界は何の意味もない。水害は、水竜の関与の有無にかかわらずおこるもので、それを防ぐのは「魔道」ではなく、土木技術だ。その点に関して、帝都エリンは他の都市となんら変わるところはない。
「心当たりがあります」
ラウルは慎重に口を開いた。
「ルーゼ湖の北岸に、洞窟に古い神殿があります。帝国建国以前から崇められている場所です。今は、我ら大工と、湖の漁師やきこりたちくらいしか訪れない、神官もいない神殿ですが」
その神殿は、天然の洞穴の奥に、六貴神の中でも、古いとされている三柱が奉られている。帝都建設の祈願をこめて、帝国の始祖ラクラスが作ったと伝えられており、大工たちは今でも初めて大工道具を手にしたときは、一度そこに奉納してから使うのが慣わしであった。周囲は森になっており、湧水地も近い。人知れず、事を成すのにはもってこいの場所だ。しかも訪れたことのないものには、わかりにくい場所にある。
「ラクラスの洞穴ね。ずいぶん森の中にあると聞いたけど、案内はできる?」
「できます。半日はかかると思いますが」
ラウルは頷く。雨天で、道は険しくなることが予想されたが、知っていれば行けない場所ではない。
アリスティアは思案をまとめるように顎に手を当て、数秒沈黙した。
「オルヴィズ、父上に報告は?」
「部下に河川の状況の報告を入れさせるように指示はしました」
「では、今の話は、父上にはまだしていないのね」
確認するように、アリスティアが問うと、オルヴィズは頷いた。
「父上には、私から話すわ。急がなければいけないけど、少し時間がかかる。オルヴィズは、神殿に行くための装備を三人分ほど用意して。それから、ラウル、あなたは着替えたほうがいいわね。いくら雨の中を行くにしても、それでは行く前から体力を消耗してしまうわ。オルヴィズ、お願い」
アリスティアの顔が厳しく引き締まる。その表情は、高い知性と高貴な美しさが漂い、ラウルは思わず目を伏せた。
「一時間したら、ここに来て。場合によっては少し待たせるかもしれないけど」
「わかりました」
頷いたオルヴィズに連れられ、ラウルは屋敷を出る。
雨脚は、一向に弱まる気配はなかった。