ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
「世知辛い世の中でやんすわー……」
本日のお客は、少々酒に酔い潰れていたいのか。冷やかかん酒などなどを色々呑み漁っていた。
だが、一点。その客は店主である猫と人の間のような姿を持つ火坑同様にヒトではない。
細長い胴体が特徴的。ツバ帽子を被っているが小さな顔はよく見えて。尻尾も少し長い、全体的に茶色の毛に覆われている。服装はだらしないスーツを着ている。
カワウソのような姿ではあるが、言葉もしゃべれる妖の一種ではあるのだった。
「ヒトを驚かして、怪我させても薬塗れば治るとか。……民間伝承も各地にあれど、最近のヒトはてんで驚かんから、わてら兄弟も商売上がったりでやんす……」
「……お疲れ様です」
「かまいたちも、世に必要とされてませんわー……兄者達も、今日は別々で飲んでいるでやんす」
「それで、水緒さんだけが本日ご来店されたのですね?」
「兄者らと飲むと騒がし過ぎちまうからなあ? 旦那には迷惑かけられんし」
「ふふ。私は楽しいと思いますけど?」
「おおきに」
ただ、妖とはいえ飲み過ぎはいけないことに変わりないので。つまみにと火坑は水緒にほうれん草の白和えを出した。
「軽くつまめる物でも、挟みましょう?」
「おおきに。たしかにちゃんぽんして、明日から倒れていたら意味ないでやんすし?」
「こんばんは〜!」
と、水緒と話していたら、最近常連となってくれた客人がやってきたのだった。
「いらっしゃいませ、湖沼さん」
「また来ちゃいました!」
ヒトなのに猫のような癖っ毛が愛らしい若い女性。
そして、最近常連になってくれたので、店主としての対価というか代金というか。ヒトの魂の欠片である『心の欠片』を提供してくれる大事な客人でもある。
妖からもまったく手に入らないわけではないのだが、ヒトの短命でありながらも、魂の輝きが眩しい。そんなヒトと出会えたらな、と火坑はヒトの世に生まれ落ちてからここに店を構えたかったのだ。
湖沼美兎と名乗っている、ヒトでも若い年の頃だが。心の欠片を定期的に提供してくれる彼女は大事な客人だ。もちろん、妖や他の人間も贔屓にはしているが、彼女は一線を画している。
美味なる心の欠片を落とす美兎の訪れは、火坑の日々の糧になりつつある。それに、彼女が来る時は必ずと言っていいくらい手土産を持ってくるのだ。
「じゃじゃーん! 今日は丸栄の最中でーす!」
「いつもいつもありがとうございます」
「火坑さんは恩人ですから。あ、えっとそちらのお客さんは?」
「かまいたち三兄弟が一員、水緒っていうもんでやんす。お見知り置きを」
「はじめまして、湖沼と言います」
「ふぅん。嬢ちゃんはヒトだが、ここにはよく来るのかい?」
「へへ。火坑さんと、あと宝来さんにはお世話になりまして。それに、ここのお料理は美味しくて!」
「ありがとうございます」
さて、美兎が来店する日は、仕事の関係で週に二回程度。
それでも、火坑からしたら不規則な妖相手をするより断然多い。妖からの微々たる心の欠片だけでは商売にならない。腹の糧にもだが、ヒトの町に繰り出す時に必要な貨幣なども。
それを手に入れる手段は今は置いておくが、美兎から出された最中は食後のデザートがわりに出すと決めて。まずは、美兎の胃袋を満たさなくては。
「湖沼さんは、キノコとこんにゃく以外は大丈夫でしたよね?」
「う。はい……その二つでなければ」
妖もだが、ヒトにも食べ物に好き嫌いは存在する。
美兎の場合は、女性だと好まれやすい食材を逆に苦手としているらしい。前に一度、キノコの煮物を出した時には平謝りされるくらい拒否したのだった。
「お腹の空き具合は?」
「結構……ペコペコです」
「ですと、そうですね……。スッポンのスープが出来ていますので、その間にカルボナーラを作っちゃいましょうか?」
「わ! 今日は洋食ですか?」
「ヒトには甘いねぇ、旦那?」
「ふふ。水緒さんはどうされます?」
「俺もちょうだいしたいでやんす!」
「じゃ、作りますね。その前に」
「あ、心の欠片ですね?」
初対面だったあの時とは違い、美兎の心の欠片を取り出すのは彼女の両手に触れてから。その上に、火坑の猫のようなヒトのような手を乗せれば。あっという間に光って火坑の手の上に出てくるのだ。
「ほう? こりゃ燻製肉かい?」
「ベーコン、ですよね?」
「今日は僕の望む形になってもらいました」
量は少ないが、たしかに豚肉のベーコン。
なんとなく、美兎がカルボナーラを好みそうだったので、有り合わせの肉よりかは、と火坑が顕現させたのだ。
顕現方法は妖によって様々ではあるが、火坑の場合はこの方法にしている。美兎と出会った当初は、心の欠片が髪についていたので、正体をあらわす時に利用させてはもらったのだが。
この女性の場合、肝が据わっているのか多少驚きはしても、自然と受け入れてくれたのだ。
「では、まずスッポンのスープをどうぞ」
「いただきます!」
自家製の梅酒と一緒に出したのは、美兎が来店する前に捌いたスッポンで作ったスープ。具材にはぶつ切りした頭や、足。甲羅などをニンニクや少量の唐辛子で煮込んだ、この楽庵では定番のスープ。
はじめて美兎に出した時は、頭部の状態に驚かれてしまったが、順応性の高い彼女はすぐに美味しさの虜になって。今は頭部が残っていると嬉しそうに手でしゃぶりつくくらいに。
「人間の嬢ちゃんも。そのスープが好きでやんす?」
「最初はすっごく驚ろいちゃったんですけど。今は大好きです! そこにこの梅酒!」
ちびちびと飲むように教えた梅酒は、ただ梅の実と氷砂糖だけでなく。漢方にも使われる高麗人参と杏も入れている。だから、少し薬のような風合いがするのだが、美兎の一番のお気に入りらしい。
さて、今のうちに大鍋を最大火力で湯を沸かし。
軽く塩を入れて湯がいてから、少しお高めの卵と生クリーム、パルメザンチーズでソースを作り。
心の欠片から取り出したベーコンを薄切りにして、カリカリに炒めたら。
アルデンテになったパスタが、のびないうちにソースを仕上げて。
皿に盛り付けたら、卵黄と黒胡椒、さらにパルメザンチーズを振りかけて。
「楽庵特製のカルボナーラです」
「うわぁ! 美味しそう!」
「旦那……早く食わせてくれぃ!」
「まあ、焦らず」
ここは、ヒトの習慣にあやかって、レディーファーストということで美兎から先に渡したのだった。