地下道で声をかけた老人が、まさか妖だとは思わず。
美兎は小豆洗いの老人の機転のおかげで恥ずかしい思いをせずに済んだが。
こんな街中で妖と出会うのは、あの大須観音での人魚達との出会い以来だったので。
ついつい、自分の視える力。見鬼の才とやらが高まったことを忘れがちだった。あと少しで、その原因となった、先祖である空木夫妻との食事会もあると言うのに。
とりあえず、界隈に入って、座敷童子の真穂と合流してから経緯を話せば。
当然とばかりに、彼女から軽く頭にチョップをお見舞いされたのだった。
「あう!?」
「いーい、美兎? こいつの場合人間と見た目似てるからって、見鬼のコントロールとかしなよ?」
「う、うう……だって、本当に困ってたようだったし」
「ま、真穂様?? 儂が久方ぶりにこの辺りに来たので、悪いのは儂ですじゃ」
「保鳥はとりあえず黙ってて」
「……はい」
ちなみに、小豆洗いの名前は保鳥と言うそうだ。
そして、見た目はお爺さんと孫にしか見えないのに、力の差とかで立場は逆だ。
とにかく、再三再四言われてから、三人で一緒に楽庵《らくあん》へと向かうことになった。
「九州から珍しいじゃない? ここまで何しに来たの??」
真穂は問い掛ければ、保鳥は背中に背負っている大きな木箱のリュックのようなものを軽く揺らした。
「儂が小豆洗いゆえ、と言いますか。楽庵の大将殿に、小豆の仕入れを頼まれまして。ならば、久方ぶりにこの辺りも寄りたいなと」
「なるほど?」
「小豆洗いさんってどんな妖さんなんですか?」
「美兎、小豆とぎとかって聞いたことない??」
「小豆……とぎ?」
「小豆洗おか〜、人取って喰おか〜? ですな?」
「え、後半の唄? 物騒ですけど」
「実際には喰いはせんのじゃ。ただの手慰みの唄じゃて」
「川のほとりで、小豆を洗う音に吸い寄せられて……で大昔の人間達は死んだって噂もあるけど」
「興味本位でしたからの」
ほんの、少しだけ。美兎は怖い印象を持ってしまったが、保鳥は苦笑いするだけ。
きっと、これまでにも人間達と関わりがなかったかもしれない。なら、出会ったばかりの美兎が恐れるわけにもいかない。
「えと。わざわざ九州から単身で名古屋に?」
「そうじゃ。大将殿は時期になると、儂ら小豆洗いにも小豆を注文するんじゃよ。なにせ、太宰府にまあまあ近い儂の地元では小豆の生産も盛んじゃからな?」
「あっちの界隈だと、農業とかが盛んらしいわ」
「へー? 小豆……だざいふ? なんか聞いたことがあるような??」
「太宰府天満宮のことよ、美兎? 分社は錦二丁目にもあるわ。桜天神社って言うけど」
「あ、受験の時に親戚からお守りもらったわ! けど……錦にもあるの??」
「おお!! それは知らなんだ。真穂様、儂そちらにご挨拶に行きたいのですが」
「後でね、あと。人間が御霊になったんだからって……あいつとはあんまり会いたくない」
「おや、つれないね?」
「そりゃ……って!?」
割り込んできた男性の声に美兎も振り返ったら。
まるで、映画などの平安貴族が飛び出してきたかのような、美しい髭を蓄えた着物の男性が立っていた。
今の話の流れで、もしやと美兎もさすがに勘付いたが。
「お、おお!!」
「なんでいんのよ、道真!?」
「ふふ。面白いヒトの子と小豆洗いの様子も見に」
「絶対ぜーったい、口実でしょ!?」
「ふふ。バレたか」
そして、隣にいる美兎に振り向くと優しく微笑んでくれた。
「あ、あの?」
「はじめまして。今は天神とも言われているが、菅原道真と言うよ。わずかだが、私の気を感じたが。私の社の守りを持っていたのなら、通りだ」
「! え、日本史に出てた!?」
「ふふふ。あと百人一首にも私の歌があったねえ??」
「ご無沙汰しておりますじゃ、菅公」
「ああ。導きもご苦労」
大神もだが、二度目の神様との遭遇。
美兎の頭が許容範囲を超えそうで、思わず呆れ顔の真穂に抱きついたが。この雅な神様も一緒に楽庵に行くことになったのだった。
梅が香る。
まだ年が明けていくらも経っていないのに、不思議なことだ。
とは言えど、妖の界隈だから不可思議なことが起こっても無理はないが。
ただ、何故室内にいる火坑の鼻でも匂うのだろうかと。犬や狼とは違って、猫人の火坑では鼻も常人の人間より少し強い程度。
なので、このむせ返るような芳しい梅の香りには覚えがあるようでなかったのだが。
それからすぐにやってきた来客のお陰で、合点がいった。
「いらっしゃいませ」
「久しいな、火坑?」
「こ、こんばんはー」
「お邪魔ー」
「大将殿、お久しゅう」
団体客だが、恋人の美兎以外は人間ではない。彼女の守護についている座敷童子の真穂もだが、小豆を注文していた小豆洗いの保鳥に続き。
はるか平安の世に無念の死から、大怨霊を経て学問の神となった御霊。菅公とも呼ばれていた菅原道真。
火坑とも、縁の深い神となればこの梅の香りも納得がいく。
「……道真様、お久しぶりにございます」
「ふふ。私よりもはるかに得を持ったのに、相変わらずだねえ?」
「当然ですよ?」
「それに。猫とヒトのあいの子になったお陰か、良い縁も出来たようだが」
「……はい」
「? 珍しいんですね、火坑さんが様付けされるだなんて」
「おや、話していないのかい?」
「ふふ。特別聞かれなかったもので」
とりあえず、入り口は寒いからと席に着いてもらい。道真を真ん中に左が保鳥で右が美兎達になった。
道真にはあまり意味がないだろうが、熱いおしぼりを渡す前に持っていた扇を優雅に閉じた。
途端に、道真の姿が揺らいで平安の貴族装束から、どこぞの社長かと思わせるようなスーツ姿と適度な口髭に変わってしまった。
当然、術を見慣れていない美兎は可愛らしい目をまん丸にさせたのだ。
「え、え!? 道真様!?」
「ふふ。あの装束のままではいささか食べにくいからね?? どうだい、お嬢さん? 似合うかね?」
「は、はい!!」
「さて。私と火坑の関係だが……この猫人が昔に地獄の補佐官となっていた、さらに昔。私がまだ人間で朝廷に宮仕えしていた頃さ。まだ火坑とも名乗っていなかった、ただの猫だったのを飼ってたんだよ」
「え、えーと??」
「僕には補佐官になる以前の前世もあるのです。その時は、ただの飼い猫だったんですよ」
「……火坑さん、記憶力良すぎませんか??」
「おっもしろーい! 美兎、それで片付けちゃうんだ??」
「いや、だって」
慌てる様子が本当に可愛らしい。欲目を差し引いても可愛らしい。いや、そこは火坑のビジョンに合わせ過ぎかもしれないが。
しかし、本当に久しぶりの会合となった。火坑が今の猫人となって店を構えてからも、片手で数えられる回数しか訪れていないのに。
けれど、元飼い主とは言え、今の火坑がすることは贔屓ではない。
「本日はいかがなさいましょうか??」
「そうだね? 熱燗……といきたいが、あの機械はなんだい?」
「ああ、生ビールですか?」
「真穂それにする!!」
「儂も是非」
「私は、梅酒のお湯割りで!」
「かしこまりました」
生ビールに最適な、しかも寒い寒い睦月の始まりの始まり。
美兎は仕事始めで大変だろうし、小豆洗いの保鳥もわざわざ九州から来てくれた。
であれば、仕入れた小豆でここはひと工夫と行きたいところだが。
「大将殿、お願いいただいた小豆ですじゃ」
「ありがとうございます。では、本来なら去年の暮れの食べ物ですが。炊飯器でかぼちゃと小豆のいとこ煮を作りましょう」
「ほう? 甘い煮物か?」
「ふふ。少し塩気も入れますとも」
「そうかい?」
「あ、火坑さん! 今日も心の欠片お願いします!」
「そうですね? お願いします」
ぽんぽん、と差し出された両手を軽く叩けば。
美兎の手から出てきたのは、今日は気分的にと餅を選択したのだった。
またひとつ、恋人の古い話が聞けた。
嬉しいことなのに、美兎には少し悲しさを覚えたのだ。自分は人間だから、彼らとはどうしても壁が出来てしまう。
いずれ同じ道を歩くとは決まってはいても。埋められない差はどうしたってある。それが、ほんの少し哀しい。
だから、今は気づかないフリをするしかないのだ。
しかし、まさか教科書なんかに載るくらいの、歴史人物が元飼い主だとは誰が予想出来ようか。
「……ふむ。びーるは供物にもあったりするが、それよりも泡がきめ細かい気がするね?」
「お粗末様です」
「ここに来るのも随分と久しいが、盛況しているようだね?」
「お陰様で」
その元飼い主が、今では神に。その猫だったのが、地獄の補佐官だった経緯から妖になってこうして店を営むことになったのは。座敷童子の真穂の言葉を借りるのであれば、縁のお陰だろう。
「ん? どうかした??」
そんな真穂は、今日は子供の姿のままで生ビールをぐいぐいと飲んでいるのは、絵面がなんだかシュール見えた。
「あ、ううん。縁って色々あるんだなあって」
「そりゃあね? あんたが火坑と付き合うようになったのだって、縁でしょ??」
「そ、そうだけど。それは……まあ」
「ふむ。風の噂程度に、太宰府までも届いていたが。火坑? お前とこの可愛らしいお嬢さんとはどうやって出会ったんだい??」
「み、道真様!? それはご勘弁を!?」
「ほう?」
「あー、まーね??」
「ふふ。せめて、美兎さんがお帰りになられてからで」
「火坑さん!?」
などと、やり取りしている間に。例の妖術とやらで時短料理したかぼちゃと小豆のいとこ煮をいただくことになった。
「……ほう? 見た目は普通のかぼちゃの煮物に小豆を足したように見えるね??」
「人間の慣わしですと、師走の冬至によく作られるいとこ煮があるんです。今回は時間を短縮させて調理させていただきました」
「美味しそうですじゃ」
「温かいうちにお召し上がりください」
「いっただきまーす!」
「いただきます!」
随分と昔に、美兎はまだ祖母が健在だった頃に食べた記憶がある。甘いものと甘いものが美味しくなるわけがないと、小さい頃は毛嫌いしていたのだが。
味覚も成長した今なら、それが美味しいとわかる。
かぼちゃは時短してても、ほっくりと柔らかくて調味料の味もシンプルに甘味と醤油の塩気。小豆もほろほろ溶けるように口の中でほぐれて、甘いと甘いなのにしょっぱさが中和して。本当にいとこと思えるくらい、甘くて柔らかくて美味しい煮物に仕上がっていた。
ここにさらに、甘い梅酒のお湯割りと合わせたら幸せの循環が訪れた。
「……なるほど。甘い野菜と甘く煮付けることが多い小豆をこうも調和させるとは。……うん、見事。腕を上げたね?」
「お粗末様です」
そして、元飼い主とは言っても神様を納得させるくらいの腕前を持つのだから、美兎個人としては嬉しいと同時に誇らしく思えたのだ。
美兎がいずれ、火坑と婚姻を結ぶこととなれば。この狭いが温かみのある店内に立つ日が来るのだろうか。
手際が悪いわけではないが、美兎は普通の家庭料理がいいとこだ。友人でもある雪女の花菜に、少し教わろうかと思ったが。
それなら、自分に聞いて欲しいと火坑なら言いそうなので、また提案しようかと思っておくことにした。
「では。年初めは過ぎましたが……虎ふぐが手に入りましたし。道真様、鰭酒はいかがでしょう?」
「是非頂戴しよう」
「美兎さん達はいかがですか?」
「真穂も鰭酒ー」
「儂も是非に」
「私もいただきます!」
束の間の宴会は、美兎が少し酔った程度でお開きになり。〆には美兎の出した餅で即席お汁粉を堪能したが。美兎は、女子大生姿になった真穂に自宅まで送ってもらうことになったのだった。
良い縁だ。
道真はだいぶぬるくなった鰭酒の杯を傾けながらも、随分と上機嫌でいた。
かつて、同じ宮仕えの人間のせいで都から左遷され、その恨み辛みで怨霊なぞになってしまったのだが。
時は経ち、現世では学問の神と崇められてはいるが。
元飼い猫の恋仲になったあの女性は、随分と肝が据わっているようだ。妖などと交流を深めたお陰もあるだろうが、神頼みをされがちな道真と対面しても普通だった。
否、普通過ぎかもしれない。
火坑の料理を堪能し、酒も適度に飲んで。道真とも杯を交わし、少し飲ませ過ぎたところで守護についている座敷童子の手を借りて帰って行った。
本日の先導にもなった小豆洗いの保鳥も、少々他を散策すると楽庵から出て行った。おそらく、保鳥には気を遣われたのかもしれないが。
何せ、五十年以上。この元飼い猫が店を出したと風の噂で聞いた当初に来訪した以来だ。積もる話も多くて仕方がない。
「随分と、いい子を嫁にもらえそうじゃないか?」
「……ええ。本当に」
「どんな話か聞いても?」
「美兎さんには内緒ですよ?」
「はっは。わかってるさ」
次会う機会は相当先なはず。彼女とこの火坑が本来の意味で結ばれた前後くらいだ。であれば、人間の月日でもまだ十年以上。
人間でなくなった道真は神の道を歩んでいるので、そう頻繁には下界に降りれられないのだから。今日は、小豆洗いの先導があったので、ついて来られたが。
火坑もそれをわかったのか。この姿になってから得意となった笑い方で、道真に新しいお汁粉を差し出してきた。
「そうですね。出会ったのは、去年の卯月です」
「ほう? まだそんな最近なのかい?」
「ええ。まだ彼女が人間の社会に出たばかりの頃ですね? どうやら仕事に不満があって自棄酒をしてたんですよ」
「はっは! 若い若い!! いや、実際に若いが」
貴族だった自分では、自宅だった屋敷でよくしたものだ。学問が出来たからとは言え、道真も人間だった。人間らしさがなかったわけではない。
「その帰りに、この界隈に迷い込んで倒れそうになってたんです。珍しい迷い方だったので、少し術で探ったら……夢喰いさんに魅入られていました」
「ふむ。最後のは納得がいくな?」
膨大なまでの霊力。魅入られてしまう妖は多いだろうが、夢喰いが引き寄せられたのなら安心だ。
だが、その後に界隈きっての座敷童子である真穂に魅入られ、守護についてもらえるとは。誠に縁が深い証拠だ。
「……しかし。時間がかかっているではないか? 今は睦月。まだお前の妖気が爪の垢程しか感じなかったが」
「……あの。美兎さんとのお話聞かれていましたよね?」
「とは言え。本音はモノにしたいだろう?」
「……道真様」
少々意地悪だったかもしれないが、今時の人間風に化けた今の姿で、せっかくの温かいお汁粉を食べることにした。
妖達が人間に魂の欠片の欠片で得られる『心の欠片』。美兎から取り出したのは餅だが、火坑が焼き餅にしてくれたそれを箸でつまんで口に入れる。
ほどよく伸びる餅の食感。甘さと僅かに塩気を感じる汁粉の小豆はほろほろと口の中で溶けていき。焼き餅の表面の香ばしさが汁粉に溶けて、なんとも言えない味わい。
まさしく、見事としか言えなかった。
絶妙な甘さなお陰か、温燗になった鰭酒ともよく合う。
「……まあ。色々ありましたが、今度の週末には彼女のご自宅にお呼ばれしています」
「なんだ? 今の姿では無いだろうが、彼女に気に入られる姿か?」
「……師匠に言われましたので。かなり普通ですよ?」
「なんだ。つまらんな?」
「……元旦に一度見せましたが。いつものがいいと彼女にも言われました」
「そうか? 美醜を問わず好いてくれる女性は少ない。本当にいい子だな? いくらかお前以外の妖気も感じたが」
「春日井にいらっしゃる、覚の御大のご子孫なんですよ?」
「ほう? だがあれだけ霊気に力が偏っていたら、覚の能力はないな?」
「ええ。見鬼のみのようです」
だから、保鳥の姿が界隈でなくともしっかり視えていたのか。それがわかり、道真は納得が出来た。
「わかってはいるだろうが、大切にするんだよ?」
「はい。もちろんです」
「ふふ。お前も少し飲みなさい?」
「道真様がそうおっしゃるならば」
平安の世では叶わなかった、飼い主と飼い猫との杯の交わし。
それが今出来るのは、道真にとっても幸せであった。
ああ、良い良い。
いいご縁だった、と小豆洗いの保鳥は軽く酒が入ったので気分が良かった。
まさか、己を導きにして太宰府の御方がご一緒に来られるとは思いもしなかったが。小豆もきちんと届けただけでなく、馳走もいただけたので上機嫌に変わりない。
己は妖なので、それほど多く接点がなかったのだが。まさか、届け先の猫人が御方の元飼い猫だったとは。双方滅多に訪れないので、保鳥は本当に知らずでいた。
だから、あれだけ驚いたのだが。今は道真と火坑だけのはず。積もる話も多いだろう、良い時間を過ごしてほしい。
「さてさて。真穂様に教わった神社にでも行こうかの??」
妖であれば、界隈を練り歩けば自然と望む場所には出られる。その理に従って、神社らしき場所に赴けば。
「おやおや、随分とこざっぱりしたところじゃな?」
冷たい建物に囲まれた、小さな神社。
たしかに、分社ゆえに小さいのは理解はしていたが、ここまで小さいとは。
神主などもいなさそうなくらい、小さい。いくら祀られているのが道真であれ、ここを知らない人間の方が多いだろう。
せっかくなので、枯葉程度を集めていたら。弦が弾く音が聞こえてきた。
「……おや?」
「小豆洗いとは珍しいじゃないかい?」
「! これはこれは!!」
琵琶を持つ美しい男性はわからないが、紋付きの羽織袴を身につけている方の男性には保鳥でもわかった。
粋なつもりか、スーツなどでも着用する機会が減った帽子をかぶっていた彼は、所謂妖の総大将だったのだ。
「はは。そう畏まらずとも良い良い。で、お前はどこの小豆洗いだい?」
「はっ。九州より」
「あそこか。で、ここを掃除……となると、菅公の眷属か?」
「け、眷属などと滅相もございません!!」
「間半殿? 少々困っていますよ? からかうのはほどほどに」
「いやなに? 先客がいたからね?」
「……あの。お二人は何故こちらに??」
すると、琵琶を持つ男性もだがぬらりひょんの間半もにっと口を緩めた。
「僕……というより、こっちの空木に縁がある女の子がいてね? 次に会う時の、花刺しとかに少々お力を借りようかと」
「御人ですかの?」
「いいえ。私の子孫と……我が妻にも会うと言う約束をしましたので、彼女が花刺しを作りたいと言いましてね?」
「で、ここはわずかだが菅公の気が巡る神社だ。だから、梅の力を借りにきたんだよ?」
そうして、間半が本殿に近いところにある梅の枝に触れると。
瞬く間に、この境内が強い梅の香りに包まれた。加えて、紅梅に白梅の花がぽつぽつと咲き乱れて行く。
「……力をお借りしたのですから、私からも返礼を」
空木が爪弾いた琵琶の音と、彼の歌声は。
雑魚妖怪の己ですら、賃金を払いたくなるくらい。美しい音色だった。
さらに、間半も懐に入れていたのか竹笛を取り出して演奏に合わせていた。保鳥は、贅沢過ぎるこの空間に居て、胸が震えそうなくらい感動してしまった。
何も出来ないが、今はただ浸っていよう。
そして、九州の地に戻ったら同じ小豆洗いの仲間や他の妖に自慢しようと決めた。
空木達は長い演奏を終えてから、咲いた梅の枝をいくつか持って行って、神社から去って行った。
「……儂も帰ろうかの?」
電車の時間はとうにないが、界隈を通じれば同じだ。ただし、土産はいくつか買ってから、保鳥は名古屋の地を去ったのだ。
ここは、錦町に接する妖との境界。
ヒトとも接する歓楽街の界隈に、ほんの少し接しているのだが。ヒトから入るには、ある程度の資質を持つ者でしか訪れるのは叶わず。
たとえばそう、妖が好む霊力があるとすれば。
元地獄の補佐官だった猫と人のような姿をしている店主の営む小料理屋、『楽庵』に辿りつけれるかもしれない。
あと少し、で香取響也が湖沼の実家に来ると言う時期も来たので。
そのついでと言うわけではないらしいが。火坑から、楽庵に来て欲しいと連絡があったのが木曜の昼。
特別急ぎの仕事もなかったので、返事をしたら可愛らしい招き猫のスタンプが返ってきた。
ニマニマしていると、頭に軽く温かいものが押し当てられたのだ。
「香取さんと?」
「沓木先輩!」
会社の先輩であり、同じように妖と交際している二年上の女性である沓木桂那。美兎に押し付けてきたのは甘いカフェオレの缶コーヒーだった。
受け取ると、まとめていない部分の髪を軽く撫でられた。
「なに? あの人って、LIMEだとどんな感じ?」
「うーん……普通、だと思いますけど」
「そうじゃなくて。きちんと文章で返ってくるとか。テンポとか」
「あ、返事は早いです」
「なら、いい男ね?」
自分用にはブラックコーヒーをあおった沓木の表情はすっきりとしていた。
彼女には火坑とのやり取りを見せてもいいと思い、スマホを沓木に見せたのだった。
すると、画面を見た直後に沓木は顔をしかめた。
「先輩??」
「……湖沼ちゃん、香取さんと付き合ってどのくらい?」
「え……っと、バレンタインくらいで三か月ですけど?」
「…………まあ、湖沼ちゃんだから納得出来なくないけど。いつまで敬語なのよ? 香取さんもだけど」
「え、え、え!?」
火坑にタメ口。
そんな大それたことは恐れ多くて出来ない。
出来ないので、ぶんぶんと首を振っていたら後ろから誰かに抱きつかれた。
「おっつかれー!! なーに話してんすか??」
正体は同僚の田城真衣だった。美兎はまだもらったカフェオレのプルタブを開ける前で良かったとほっと出来たが。
「お疲れ様」
「お疲れ、ね? 相変わらず元気ねー?」
「クタクタっすよ! 先輩と美兎っちは何してたんす?」
「湖沼ちゃんの恋愛事情」
「え、美兎っち破局!?」
「違う!! 縁起でもないこと言わないで!!」
「ちゃんと聞きなさい。付き合って三か月なのに、まだお互いに敬語なのよ?」
「んー? 人それぞれ言いますけど、どっちも??」
「う、うん」
「歳上だったっけ??」
「うん、28歳」
本当は二百歳以上で、人間じゃないのは田城には言えないけれども。
すると、田城は美兎から離れて腕を組んだのだった。
「うーん? あたしもあんまり歳上と付き合ったことないけど。美兎っちは彼氏さんとは出会ってどんくらい??」
「まだ……一年経ってないかな?」
「もう一年じゃん!? まあ、客と料理人の付き合いが長いと難しいけどぉ〜? でも、もういいじゃん? 美兎っちはもっと彼氏さんと距離縮めたくないの??」
「え、いや……その」
前の彼氏に比べれば、非常に距離は縮められているとは思うのだけれど。彼氏彼女としてのやり取りは、キスとハグ程度しか出来ないことは彼女には言えない。
沓木は事情もわかってくれているし、今はまだ助太刀はないのだが、もう少し踏み込んで本音を言っていいのだろうか。
たしかに、美兎からは手土産以外で火坑にアクションしたことがあんまりないからだ。
「ちなみに聞くけど、キスとハグは?」
「し……てる、けど」
「けど?」
「いつも……向こうから」
「ん〜〜、まあ。美兎っちうぶだし、自分からは行動しにくい??」
「うぶ……かなあ?」
「だよ」
「だわね??」
二人が声を揃えたので、美兎は首をすくめるしか出来なかった。
たしかに、美兎は仕事以外だと積極性が明後日の方向を向きがちだが。それが火坑との間に見えない薄い壁を作っているのであれば。
それは、きっと早いうちに取り除いた方がいいだろう。
「けど、来週末にうちの実家に来るんです」
「え!? もう婚約!?」
「違うから!?」
実際は違わないが、家族には妖に嫁ぐことは言えない。いくら、湖沼の祖先が覚の空木だからとは言え、その血がだいぶ薄まった今の世代はほぼ人間。
だが、美兎はその祖先から力を強められたために、人間界でもこの前の小豆洗いを筆頭に色々視え出してはいるが。
他は人間なので、多分大丈夫なはずだ。
「まあ。娘の彼氏を見たい親の方が多いもの? 私も連れてったし?」
「おー! で、先輩のご家族の反応は??」
「いい顔の彼氏ゲット! って、マジで言ったわ」
「前に写真見せてもらったっすけど、イケメンでしたしねー!!」
「まあね?」
話題が少し逸れて助かったが。助かったが、きっと実家でも兄や両親には突っ込まれる内容だろう。
今日楽庵に行く時にでも、火坑に提案しようと美兎は心に決めた。
少し遅くなってしまった。
座敷童子の真穂は、今日は用事があるらしいので。界隈に入る手前で現れた彼女に、少し加護の妖術をかけられた後に別れた。
楽庵に到着すると、客はいなかったがちょうど火坑が食器を片付けているところだった。
美兎と目が合えば、いつもどおりの涼しい笑顔で出迎えてくれたのだ。
「こんばんは、美兎さん。いらっしゃいませ」
「こんばんは……火坑さん」
やはり、沓木達に言われたように、少し距離感が空いている気がするのもあるが。いきなり、敬語を外すのは難しいと思った。
人間の顔ではないが、綺麗な猫顔を見てもとてもだが、無理だ。けれど、一度話すのは悪くない。
席に着いて、ちょっとお腹を満たしてから聞こうかと思ったが。当初の約束を忘れかけていたので、先に聞くことにした。
「はい。おしぼりです」
「ありがとうございます。えと……今日はどうして連絡をくれたんですか?」
「いえ。美兎さんに是非会いたいと言う方がいらっしゃいまして」
「私に会いたい人……?」
先の道真と言い、河の人魚、あとは覚もだが。
覚の空木は日取りを変えて欲しいと請われたので違うはず。人魚の方も、まだ火坑に連絡が来ていないから違うと思う。
なら、全く違う妖なのだろうか。
温かいおしぼりで手を拭いていたら、引き戸の向こうから神社の鈴のような音が聞こえてきた。
「……おや。いらっしゃったようですね??」
わざわざ火坑が扉を開けにいくと、こちらにわずかだが芳しいお香のような匂いが漂ってきた。
「件の娘はいるかえ? 火坑や」
「はい。ちょうど今し方」
そして、匂いと同じくらい甘さを含んだ艶のある声。客の一人だろうかと思うのは、火坑が浮気などしないと絶対的に信じているからだ。
彼が扉から離れると、その妖らしき姿が見えたのだ。
「……うわぁ」
火坑と約束しているので、京都にはまだ行けていないのだが。会社の関係で京都の広告を扱うことは多い。美兎はまだ新人なので携わってはいないが、京都の芸妓さん達の写真は見てきた。
それくらい、装いが煌びやかで華やか。ただ、少し緩めに着崩している着物や髪は少し妖艶に、美兎の目に映った。
妖だからかもしれないが、雰囲気も相まってよく似合っていた。
目が合うと、彼女はふふっと、艶やかな赤色の唇を緩めた。
「ふふ。お初にお目にかかるの? あちきは、滝夜叉姫と言うもの。そちが、火坑の番かえ?」
「は、初めまして! 湖沼美兎と言います!!」
名乗ってくれたので、座っているわけにはいかず、ついつい新入社員当時の時みたいに、カクカクになって挨拶してしまった。
だが、滝夜叉姫は気分を悪くすることもなく、髪や着物についている鈴のようにころころと笑い出した。
「誠に、愛いのお? 気に入った、あちきは滝夜叉姫と言う呼称ではあるのだが。名は五月と言うのじゃ。是非に、呼んでくりゃれ?」
「五月、様?」
「うむうむ。良い良い」
そして、五月はなんの躊躇いもなく、美兎の右隣の席に腰掛けたのだった。
加えて、火坑からおしぼりを受け取ったあとは、ずっと美兎を見ていた。
「? あの?」
「うむ。良い占いが見えておるな? 様々な妖だけでなく、国津神などにも好かれておるとは。しかも、守護にはあの座敷童子。興味が尽きぬの、美兎よ」
「占い?」
「滝夜叉姫さんには、色々伝承が数多く存在するんですよ」
「伝承?」
「うむ。あちきは、まず言っておくが妖ではないんじゃ」
「ええ!?」
こんなにも綺麗な人間がいるのだろうか。
だが、街中でこれだけの美女が歩いていたら目を止めるだけで済まないだろう。はやとちりしてはいけないので、きちんと話を聞こうと耳を傾けた。
「うむ。あちきは、いわば怨霊。じゃが、改心はして幽世と現世を行き来している存在なのじゃ。じゃが、別に今の人間達を怨むつもりはない」
「幽霊……と言うことでしょうか?」
「応。そう思って構わん」
話が長くなりそうだったので、とりあえず美兎もだが五月も梅酒のお湯割りで体を温めることになった。
人間ではない、怨霊から今まで幽霊として存在している滝夜叉姫。
妖でもないので、美兎には言われなければ妖にしか見えない美女だったから。
美兎に会いたい理由も含めて、きちんと五月の話を聞こうと思った。
「時に美兎よ」
「はい」
「あちきを知らぬならば、我が父もおそらく知らぬであろうな?」
「五月様のお父様?」
「うむ。古い歴史には残っておるが、印象は薄いじゃろうて。平将門と言うのじゃが」
「う、うーん? 少し聞き覚えが」
「道真様と同様に日本三大怨霊のお一人ですよ? あと、日本史でしたら将門の乱がありますね?」
「あ、それです! え、五月様のお父様がそんな有名人!?」
「うむ」
だからこれだけ美しいのかと納得しかけている間、五月は美しい手でお湯割りの酒器を傾け、ゆったりと息を吐く様は本当に麗しい。
美兎にもその所作の美しさを分けてほしいくらいだった。
「お話中、申し訳ありません。先付けは虎ふぐの皮を湯引きしてポン酢と和えたものですが。お食事はいかがなさいましょうか?」
「あ、心の欠片いりますか??」
「そうですね? お願いします」
「心の欠片かえ? 久しいのお。あちきもひとつ」
「あの、幽霊さんでも出せるんですか?」
「元は人ではあったが。妖でも一部なら出せる輩もおる。あちきは霊じゃが、界隈では飲み食い出来るし変わりはせん」
「なるほど」
そして、火坑がそれぞれの手のひらをぽんぽんと叩いたら。
美兎は見事なマグロのトロ。対して、五月は何故か茶色い棒のように見えた何かであった。
「おや、滝夜叉姫さんのはいぶりがっこでしたか?」
「いぶりがっこ?」
「なんじゃ、この食べ物は??」
「たくあんの一種です。茶色なのは、燻す……燻製されているからなんですよ。東北では名物となっているんですが。居酒屋などでは、最近ブームなんです」
「ほう?」
「これだと何が出来ますか??」
たくあんを燻すだなんてお洒落だ。
沓木らと飲みに行くことは多いが、この楽庵に通うようになってからは、ひとりで居酒屋に行くことも減った。
ご飯は美味しいし、代金がわりに心の欠片を提供すればいい。と言っても、完全に無料状態なのは気が引けるのでお菓子などを持ち寄ってはいるが。
そこで美兎は思い出して、今日のお土産を火坑に渡した。赤鬼の隆輝の店ではないが、たまにはしょっぱい物をと。物産展で明太子を購入してきたのだ。
「わざわざありがとうございます」
「いえ。いつも甘いものばっかりでしたし」
「なんじゃ? 何を持ってきたのじゃ??」
「九州物産展と言うのが、デパートでやってたんです。色々悩んだんですが、今日は明太子にしてみたんです」
「めんたいこ……ほう。あの珍味かえ? あちきも好んでおる」
「でしたら……そうですね。明太子は卵焼きに入れて……心の欠片でお出ししていただいたのは。ご飯ものも出来ますが、簡単に海苔巻きも出来ます。どちらがいいでしょう?」
「……悩みますね?」
「うむ。しかし、久しい故にスッポンも頂戴したい。であれば、あちきは海苔巻きが良いの?」
「じゃ、私も」
たしかに、頻繁には来れていないので〆のスッポン雑炊も食べたい。
火坑は承知したと頷いてから、すぐに卵焼きから取り掛かってくれた。
「で、続きじゃが」
またお湯割りを傾け、先付けも優雅に口にしながら五月が話を再開した。
「はい?」
「今の人間などは、父が討伐されてあちきは尼僧……いわゆる尼になったとも言われておるが。そこは後処理をしたまでじゃ。あちきは、妖術使いとなり都に乱を起こした。まあ、思い返せば阿呆な事をしたものよ」
「えと……言い方すっごく悪いんですけど。犯罪者に?」
「その通りじゃ。じゃから、完全に幽世に行けば地獄が待ち受けておる。だが、改心と界隈で手助けをしたお陰か。いくらかは処罰も軽くなると亜条殿も言ってくれたのよ」
「亜条さんがですか?」
少し懐かしい。去年のケサランパサラン騒動以来、会っていないからだ。が、地獄の補佐官がそうホイホイとやって来るのも難しいだろうが。
「応。じゃから、まあ。具体的に言えば美兎を見たように、占いで導きを示しておる。それが、今のあちきの生業よ」
「素敵です」
「そうかえ?」
本心を伝えれば、五月はまるで少女のように微笑んでくれた。
そして、火坑の方も調理が終わり、ほぼ同時に出来上がった料理を出してくれたのだ。
せっかくのマグロのトロ。
火坑が猫人の妖として転生をした当初は。
人間達には捨てられてしまう『下魚』となっていた。
はるか昔。縄文の時代にも、万葉集にも歌に詠まれていたほどだと言うのに。
不味い魚。つまりは、保存状態が悪くて猫ですらまたぐと言われるくらい、不人気な魚になってしまったのだ。今のような冷蔵はおろか、冷凍の製法がない時代だったので無理もない。
江戸前寿司だと、醤油で下味をつけるそうだが昔はもっと不味かっただろうに。脂肪分が多いトロでは、いくら下味で防腐加工をしていても不味いだけだ。
だから、今の火坑には美味しくトロを客に出せる技術がある。
師匠の霊夢も今ではトロを好んで食べるくらいだから。
とりあえず、恋仲の美兎と、彼女に会いたいと便りを寄越してきた滝夜叉姫が話に華を咲かせている間に。
まずは、卵焼きの方に取り掛かる。美兎に出してもらったトロはキッチンペーパーで軽く包んで余分な水分を抜く。滝夜叉姫のいぶりがっこはそのままで。
出汁巻にするので、鰹節を贅沢に使った出汁を取って粗熱を取るのに氷水に鍋ごとつけて冷まし。
「……明太子をこのままか皮は取り除くか」
そこは悩みどころだ。火坑としては皮付きがいいが、卵焼きに巻くと薄皮が邪魔になるかもしれない。バーナーで軽く炙ると、卵焼きにはあいにくい。
なら、と明太子の薄皮は取り除き、皮は火坑の賄いにすることにした。
卵液も作り終えてから、まな板を丁寧に洗って固い布巾で拭い。トロの柵を適当な大きさに切ってから。
「ネギトロのように叩く」
普通のネギトロは三枚おろしなどにしたマグロのすき身などを使って作るそうだが。ここは、曲がりなりにも小料理屋。すき身以上に柵で贅沢に作ってしまおう。
小ぶりの包丁で叩きに叩いて。なめろうのように粘り気が出たら完成。
ここに、軽く炙った海苔に載せ、細かくしたいぶりがっこ。わずかに生醤油。
くるっと、手巻き寿司のように巻いたら完成だ。
その次に明太子入りの出汁巻も作って。
「お待たせ致しました。お二方の心の欠片で作らせていただきました、いぶりがっこでトロたく巻き。あと、美兎さんがお持ちいただいた明太子を巻いた出汁巻卵です」
「ほう?」
「うわあ!? 贅沢過ぎます!!」
「どうぞ、お召し上がりください。あ、トロたく巻きには生醤油で軽く味付けはしてます。ただ、いぶりがっこの味が濃いはずですので」
「ふむ。では、美兎よ。いただこうではないか?」
「はい! いただきます!!」
まずは温かい方から、と二人とも出汁巻の方を口にしたのだった。
「ほう? 甘過ぎずくど過ぎず。真ん中の明太子がいい味をしておる。薄皮も取り除いたかえ? 客思いじゃ」
「お粗末様です」
「これ、お酒ともすっごく合います!!」
美兎は元気よくパクパクと。滝夜叉姫は優雅にひと口ずつ。実に対照的ではあるが、美兎の食べっぷりには火坑も顔が綻んだ気がした。
だいたい三切れ食べ終えてから、ほぼ同時に二人ともトロたく巻きを手にしてくれた。
多少トロの水気で海苔が湿っただろうが、それもまた一興。
「ん?」
「わあ! すっごい、スモーキーですね!? けど、塩気もそんなにキツくないですし……これ、スモークチーズみたいな味が。やっぱり、燻製してあるからですか?」
「そうですね? 普通のたくあんと違うのはその燻製部分です」
漬物として使う干し大根が凍ってしまうのを防ぐために、大根を囲炉裏の上に吊るして燻し、米ぬかで漬け込んだ雪国秋田の伝統的な漬物らしいが。秋田の方言で漬物のことを『がっこ』と呼ぶことからその名がつけられたそうだ。
火坑の知る知識を伝えれば、二人はほーっと感心してくれた。
「今の人間は、なかなか珍味を見出すのがうまいの?」
「えと。五月様の生きてた時代では……?」
「あちきは武士の家の娘じゃったからのお? 粗食は普通じゃった」
「お姫様なのに?」
「お姫様、と呼ばれる身分ではあったが。贅沢は出来ても白米がたんまり食えたくらいじゃ」
「へー?」
「そう言えば、滝夜叉姫さん? 美兎さんに会いにきた理由は?」
「おお、忘れておった」
酒も入って上機嫌だったが、カラカラと笑いながら美兎の頭を軽く撫でた。
「? あの?」
「火坑の番となるのであれば、道行きには険しいものもあるじゃろうて? 祝い、程でもないが。あちきからも加護をやろう。この猫人には色々世話になっておるからな?」
ぽんぽんと軽く叩くと、火坑の目には美兎に何か霊力を注ぐのが見えた。が、祝いと言うからきっといいことに違いない。
火坑はスッポンのスープを二人に出す準備をしながら、そう思うことにした。