翌週の月曜日の早朝。
体育館裏で河和が椅子に座って待っていると、いつもの時間に豊明が来た。
軽く挨拶をし、何でもない雑談をしながら、河和は、豊明に言おうと思っていた。「あたし達、もう会わない方が良いと思う」と。そうすれば、豊明が自分と度々会っているのがバレて、不祥事になる事もないだろうから、と。
いつもと違い、どこか緊張した様子の河和は、話が途切れた瞬間を見計らって、意を決して切り出した。
「と、豊明」
「ん? 何だ?」
――だが。
「……いや、何でもない」
言えなかった。
その日の昼。
今度こそは言おう! と、河和は心に決めていた。
ぐずぐずしている内に、バレたら、取り返しのつかないことになる。
菓子パンを頬張り、一気にジュースで流し込んだ後。
河和は、深呼吸をした直後に、口を開いた。
「豊明! 話があるんだ!」
「なんだ、改まって? お前なんか今日、変だぞ?」
「実は……その……」
今朝もそうだったが、珍しく、河和が言い淀んでいるのを見て、
(一体どうしたんだ?)
と思い、怪訝そうな顔をする豊明。
河和は、
言え! 言うんだ!
と、心の中で、自分で自分を鼓舞した。
すると、これまでこの場所で豊明と共に過ごした時間が思い出された。
まだ知り合って、それ程時間が経った訳でもない。
だが、思っていた以上にその時間は大切で、楽しんでいた事に今更ながら気付いた。
だから何だってんだ!? そんな事よりも、こっちの方が大事だ!
強い意志で、河和が言葉を紡いだ瞬間――
「あたし達、もう会――」
「火事だ!」
――叫び声が聞こえた。
「火事!? 俺、ちょっと見て来る! 危ないから、お前はここにいろ!」
生徒会長としての責任感からか、そう叫んだ豊明は、声が聞こえた方向へと走り出した。
残された河和はただ、呆然としてその場に立ち尽くしていた。
※―※―※
火元は調理室だった。
駆け付けた豊明を含む複数の生徒たちと教師たちによって、火は直ぐに消された。
被害は、椅子が一脚燃えた事と、金属製の調理台が少し焦げたくらいだった。
比較的早く発見された事が幸いし、被害は最小限で済んだ。
すると、教師が、床に落ちていた何かを拾い上げた。
それは――
「!」
――煙草の吸殻だった。
※―※―※
現場の状況からすると、煙草の火が何かの紙に燃え移り、それによって椅子が燃えた、という事らしく、生徒の中で煙草を吸っている可能性が一番高い者が、校内放送によって生徒指導室に呼ばれた。
――河和だ。
「昼休みが始まってから十分経った頃。お前はどこにいたんだ? 正直に言え」
「………………」
生徒指導の男性教師による詰問に、河和は答えない。
いや、答えられないのだ。
もし本当のことを言えば、豊明が河和と定期的に会っている事がバレてしまう。
そうなれば、校内一且つ煙草を吸っている噂の絶えないヤンキーとつるむ、という不祥事として処理され、豊明の推薦が取り消されてしまうかもしれない。
「黙ってないで何とか言ったらどうだ!」
机を叩き、声を荒げる教師。
だが、河和は沈黙したままだった。
あたしが黙ってれば良いんだ。あたしさえ言わなければ……
河和がそう思い、俯いた瞬間――
「河和!」
――勢いよく開かれた生徒指導室の扉の前に、豊明がいた。
「! あんた……なんで……!?」
驚愕に目を剥く河和。
(何で河和が疑われてるんだ!? おかしいだろ!)
犯行時間の昼休み、河和と一緒にいた豊明は、河和が無罪であることを知っている。
それに、現場に落ちていた煙草の吸殻は、いつも河和が吸っている煙草の銘柄と違ったのだ。
調理室に放火したというのも、違和感がある。
水道が幾つもあり、消火しやすいからだ。それに、調理室なら、可燃性の危険な薬品等も無い。更に、この学校の調理台は全て金属製で、燃えにくいのだ。
そこから、放火はしつつも、被害は出来るだけ最小限にしたい、という意図が見える。
総合的に判断すると、河和を犯人に仕立て上げるための犯行としか思えないのだ。
「どうしたんだ、豊明? 授業中だろう。教室に戻りなさい」
教師が諭すように言う。その声音は、河和と話す時と違い、穏やかだった。
(昼休み、河和は自分と一緒にいたと、言うんだ! それでアリバイが出来る! そしたら河和は無罪放免だ!)
豊明は、部屋の中に一歩踏み出して、口を開けた。
――が、言葉が出て来ない。
興奮の余り、“スイッチ”を使わずに喋ろうとしていたようだ。
豊明は、頭の中に“スイッチ”を思い浮かべた。
(さぁ、“スイッチ”を入れて、冷静な自分に変身して話そう。それで解決だ!)
“スイッチ”を入れようとする豊明。
パチ……
――しかし、入れられなかった。
否、入れなかった。
(冷静に? 何を冷静に話せって? 河和が理不尽な理由で尋問されているこの状況で、冷静に話せって言うのか!? そんなの、出来る訳ねぇだろうが!)
怒りが込み上げて来る。
豊明は、思い切り拳を握り込んだ。
爪が手の平に食い込み、血が垂れる。
“緊張で話せない”という自分の体質を、豊明は全身の力を溜めて、強引に捻じ伏せようとしていた。
その鬼気迫る様子に、教師は息を呑む。
豊明は、絞り出すように話し始めた。
「……先……生……河和は……無実……です……何故なら……その時間……河和は……」
すると、河和が思わず立ち上がって、豊明に駆け寄った。
そして、豊明の腕を掴んで、小さく、しかし必死に囁く。
「止めろ! あんた、推薦貰うんだろ? そんなこと言ったら、せっかくの推薦が――」
しかし――
「……河和は……その時間……俺と……一緒に……いました……! だから……無実……です……!」
――豊明は、苦しそうに、しかし最後まで言い切った。
※―※―※
河和の身の潔白が証明され、疑いは晴れた。
だが、その代わり、豊明は、『推薦は取り消しになるだろう』、と教師に言われた。
豊明と河和が、生徒指導室を出た後。
二人とも無言で歩いて行く。
すると、渡り廊下で、河和が急に立ち止まった。
「何で言ったんだよ!? せっかくの推薦だったのに!」
豊明を見上げて、河和が叫ぶ。
「別に良いんだよ。推薦なんか貰えなくても、一般入試で受けて、合格すれば良いだけだ」
大した事ではない、とでも言うように、豊明が肩を竦めると。
河和は、ますます感情的に言葉をぶつけて来た。
「そうかもしれない。あんたは頭が良いから……。でも、絶対合格するって保証はない!」
その声には、怒りが込められていた。
――が、俯いて絞り出すように続けた言葉には――
「進路のことを……そんな重要な事を、何で……!?」
――悲しさが感じられた。
そして、再び顔を上げた河和は、涙を浮かべた目で豊明を睨み付けると、叫んだ。
「あんたは、あたしの事を救ったつもりかもしれないけど、自分の事を犠牲にしてまで助けて欲しくなんて無かった!」
河和は、その言葉を最後に、走り去った。
豊明は、放心したように、立ち尽くしていた。
河和が何故怒ったのかを、河和自身に言われて、初めて豊明は理解した。
(アイツ……進路の事で、苦労して来たもんな……そりゃ、怒って当然だ……)
河和は、今まで望む進路に行かせて貰えず、今も進路のことで親と揉めているが故に、豊明が、自分を助けるためとはいえ、志望大学の推薦を簡単に捨てた事に対して、泣きながら怒ったのだ。
豊明は、河和のために行動したと、自分で思っていた。
が、実はそうではなく、独り善がりな正義感を振り翳していただけかもしれない。
そのせいで、河和を泣かせた。
そう思い、暫く俯いたまま、動けなかった。
この日の授業が全て終了した後。
もう一度生徒指導の教師に呼び出された。
教師は、こう言った。
「こんな言い方はしたくないが、河和は、お前とは違う。不良だ。匂いで明らかなのに、煙草の事を何度問い詰めても、白状しない。それどころか、『もし吸ってたとしても、吸いたくて吸ってる訳じゃないかもしれないだろ。勿論、吸ってないけど』とか、訳の分からない事を言って煙に巻くような生徒だ。今からでもあの証言を撤回すれば、来年の推薦を、もう一度考えてやっても良いんだぞ?」
しかし、豊明は撤回しなかった。
「後悔するなよ?」
溜息をついた後、そう言う教師を背に、豊明は生徒指導室を後にした。
体育館裏で河和が椅子に座って待っていると、いつもの時間に豊明が来た。
軽く挨拶をし、何でもない雑談をしながら、河和は、豊明に言おうと思っていた。「あたし達、もう会わない方が良いと思う」と。そうすれば、豊明が自分と度々会っているのがバレて、不祥事になる事もないだろうから、と。
いつもと違い、どこか緊張した様子の河和は、話が途切れた瞬間を見計らって、意を決して切り出した。
「と、豊明」
「ん? 何だ?」
――だが。
「……いや、何でもない」
言えなかった。
その日の昼。
今度こそは言おう! と、河和は心に決めていた。
ぐずぐずしている内に、バレたら、取り返しのつかないことになる。
菓子パンを頬張り、一気にジュースで流し込んだ後。
河和は、深呼吸をした直後に、口を開いた。
「豊明! 話があるんだ!」
「なんだ、改まって? お前なんか今日、変だぞ?」
「実は……その……」
今朝もそうだったが、珍しく、河和が言い淀んでいるのを見て、
(一体どうしたんだ?)
と思い、怪訝そうな顔をする豊明。
河和は、
言え! 言うんだ!
と、心の中で、自分で自分を鼓舞した。
すると、これまでこの場所で豊明と共に過ごした時間が思い出された。
まだ知り合って、それ程時間が経った訳でもない。
だが、思っていた以上にその時間は大切で、楽しんでいた事に今更ながら気付いた。
だから何だってんだ!? そんな事よりも、こっちの方が大事だ!
強い意志で、河和が言葉を紡いだ瞬間――
「あたし達、もう会――」
「火事だ!」
――叫び声が聞こえた。
「火事!? 俺、ちょっと見て来る! 危ないから、お前はここにいろ!」
生徒会長としての責任感からか、そう叫んだ豊明は、声が聞こえた方向へと走り出した。
残された河和はただ、呆然としてその場に立ち尽くしていた。
※―※―※
火元は調理室だった。
駆け付けた豊明を含む複数の生徒たちと教師たちによって、火は直ぐに消された。
被害は、椅子が一脚燃えた事と、金属製の調理台が少し焦げたくらいだった。
比較的早く発見された事が幸いし、被害は最小限で済んだ。
すると、教師が、床に落ちていた何かを拾い上げた。
それは――
「!」
――煙草の吸殻だった。
※―※―※
現場の状況からすると、煙草の火が何かの紙に燃え移り、それによって椅子が燃えた、という事らしく、生徒の中で煙草を吸っている可能性が一番高い者が、校内放送によって生徒指導室に呼ばれた。
――河和だ。
「昼休みが始まってから十分経った頃。お前はどこにいたんだ? 正直に言え」
「………………」
生徒指導の男性教師による詰問に、河和は答えない。
いや、答えられないのだ。
もし本当のことを言えば、豊明が河和と定期的に会っている事がバレてしまう。
そうなれば、校内一且つ煙草を吸っている噂の絶えないヤンキーとつるむ、という不祥事として処理され、豊明の推薦が取り消されてしまうかもしれない。
「黙ってないで何とか言ったらどうだ!」
机を叩き、声を荒げる教師。
だが、河和は沈黙したままだった。
あたしが黙ってれば良いんだ。あたしさえ言わなければ……
河和がそう思い、俯いた瞬間――
「河和!」
――勢いよく開かれた生徒指導室の扉の前に、豊明がいた。
「! あんた……なんで……!?」
驚愕に目を剥く河和。
(何で河和が疑われてるんだ!? おかしいだろ!)
犯行時間の昼休み、河和と一緒にいた豊明は、河和が無罪であることを知っている。
それに、現場に落ちていた煙草の吸殻は、いつも河和が吸っている煙草の銘柄と違ったのだ。
調理室に放火したというのも、違和感がある。
水道が幾つもあり、消火しやすいからだ。それに、調理室なら、可燃性の危険な薬品等も無い。更に、この学校の調理台は全て金属製で、燃えにくいのだ。
そこから、放火はしつつも、被害は出来るだけ最小限にしたい、という意図が見える。
総合的に判断すると、河和を犯人に仕立て上げるための犯行としか思えないのだ。
「どうしたんだ、豊明? 授業中だろう。教室に戻りなさい」
教師が諭すように言う。その声音は、河和と話す時と違い、穏やかだった。
(昼休み、河和は自分と一緒にいたと、言うんだ! それでアリバイが出来る! そしたら河和は無罪放免だ!)
豊明は、部屋の中に一歩踏み出して、口を開けた。
――が、言葉が出て来ない。
興奮の余り、“スイッチ”を使わずに喋ろうとしていたようだ。
豊明は、頭の中に“スイッチ”を思い浮かべた。
(さぁ、“スイッチ”を入れて、冷静な自分に変身して話そう。それで解決だ!)
“スイッチ”を入れようとする豊明。
パチ……
――しかし、入れられなかった。
否、入れなかった。
(冷静に? 何を冷静に話せって? 河和が理不尽な理由で尋問されているこの状況で、冷静に話せって言うのか!? そんなの、出来る訳ねぇだろうが!)
怒りが込み上げて来る。
豊明は、思い切り拳を握り込んだ。
爪が手の平に食い込み、血が垂れる。
“緊張で話せない”という自分の体質を、豊明は全身の力を溜めて、強引に捻じ伏せようとしていた。
その鬼気迫る様子に、教師は息を呑む。
豊明は、絞り出すように話し始めた。
「……先……生……河和は……無実……です……何故なら……その時間……河和は……」
すると、河和が思わず立ち上がって、豊明に駆け寄った。
そして、豊明の腕を掴んで、小さく、しかし必死に囁く。
「止めろ! あんた、推薦貰うんだろ? そんなこと言ったら、せっかくの推薦が――」
しかし――
「……河和は……その時間……俺と……一緒に……いました……! だから……無実……です……!」
――豊明は、苦しそうに、しかし最後まで言い切った。
※―※―※
河和の身の潔白が証明され、疑いは晴れた。
だが、その代わり、豊明は、『推薦は取り消しになるだろう』、と教師に言われた。
豊明と河和が、生徒指導室を出た後。
二人とも無言で歩いて行く。
すると、渡り廊下で、河和が急に立ち止まった。
「何で言ったんだよ!? せっかくの推薦だったのに!」
豊明を見上げて、河和が叫ぶ。
「別に良いんだよ。推薦なんか貰えなくても、一般入試で受けて、合格すれば良いだけだ」
大した事ではない、とでも言うように、豊明が肩を竦めると。
河和は、ますます感情的に言葉をぶつけて来た。
「そうかもしれない。あんたは頭が良いから……。でも、絶対合格するって保証はない!」
その声には、怒りが込められていた。
――が、俯いて絞り出すように続けた言葉には――
「進路のことを……そんな重要な事を、何で……!?」
――悲しさが感じられた。
そして、再び顔を上げた河和は、涙を浮かべた目で豊明を睨み付けると、叫んだ。
「あんたは、あたしの事を救ったつもりかもしれないけど、自分の事を犠牲にしてまで助けて欲しくなんて無かった!」
河和は、その言葉を最後に、走り去った。
豊明は、放心したように、立ち尽くしていた。
河和が何故怒ったのかを、河和自身に言われて、初めて豊明は理解した。
(アイツ……進路の事で、苦労して来たもんな……そりゃ、怒って当然だ……)
河和は、今まで望む進路に行かせて貰えず、今も進路のことで親と揉めているが故に、豊明が、自分を助けるためとはいえ、志望大学の推薦を簡単に捨てた事に対して、泣きながら怒ったのだ。
豊明は、河和のために行動したと、自分で思っていた。
が、実はそうではなく、独り善がりな正義感を振り翳していただけかもしれない。
そのせいで、河和を泣かせた。
そう思い、暫く俯いたまま、動けなかった。
この日の授業が全て終了した後。
もう一度生徒指導の教師に呼び出された。
教師は、こう言った。
「こんな言い方はしたくないが、河和は、お前とは違う。不良だ。匂いで明らかなのに、煙草の事を何度問い詰めても、白状しない。それどころか、『もし吸ってたとしても、吸いたくて吸ってる訳じゃないかもしれないだろ。勿論、吸ってないけど』とか、訳の分からない事を言って煙に巻くような生徒だ。今からでもあの証言を撤回すれば、来年の推薦を、もう一度考えてやっても良いんだぞ?」
しかし、豊明は撤回しなかった。
「後悔するなよ?」
溜息をついた後、そう言う教師を背に、豊明は生徒指導室を後にした。