その翌日の昼。
いつものように雑談をしている最中に、ふと、河和が聞いた。
「そういや、あんたって、なんであたし以外の奴とは話せないんだ? 生まれつきか?」
その問いに、豊明は直ぐに返事が出来なかった。
(言っていいだろうか? 止めておくべきか?)
少しの間、逡巡した後。
「いや、生まれつきじゃない」
豊明は、話そうと決心した。
河和のような破天荒な人間には、今まで会った事がない。
にも拘わらず、不思議と、どこか懐かしいような感じがして、豊明は素の自分で話せていた。
だから、話しても良いと思えたのだ。
「小さい頃、こうなるきっかけがあったんだ」
十年以上前の事を思い出しながら、豊明は話し始めた。
※―※―※
幼少時代。
豊明は、両親の事が好きだったが、特に母親が大好きだった。
抱き着く度に、母親の全てを包み込むような温もりと、母親の匂いが感じられて、安心出来たのだ。
豊明は、事ある毎に、何度も母親に抱き着いた。
「もう、純希は甘えん坊さんね。でも、母さんも純希が大好きよ」
豊明は幸せだった。
――だが、豊明が五歳の時。
ある日、豊明と母親が手を繋いで街中を歩いていた時。
ふと、何かに気を取られた豊明が、繋いだ手を振り解いて、車道に飛び出した。
猛スピードで車が迫る。
「純希!」
母親は咄嗟に駆け寄って豊明を抱き締め、豊明の代わりに車の直撃を受けた。
豊明は奇跡的に軽傷で済んだ。
しかし――
「お母さん!」
――母親は死亡した。
豊明は大きなショックを受けた。
そして、豊明以上に深い悲しみに暮れる父親は、酒浸りになった。
そして、数か月後のある日。
「……美香……!」
冷たくなった妻の身体を抱き締めた時の事を思い出していた父親は、ふと、息子を見詰めた。
そして――
「お前のせいだ……お前がいなければ、美香は死なずに済んだんだ……!」
――腕を伸ばした。
数分後。
「ごめんなさい! ごめんなさい! お父さん! 出して!」
豊明は、冷蔵庫に閉じ込められていた。
冷蔵庫は外側をガムテープで何重にも巻かれており、中にあった食料品は、棚やケースごと外に出してあった。
冷蔵庫の中から、息子のくぐもった悲鳴が聞こえる。
だが、父親は、何も聞こえていないかのように、ふらふらと歩き、玄関の外へと出て行った。
そして、家の前に座り、虚ろな目で虚空を見詰め、ただただ呟き続けた。
「お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……」
小さな子供の力では、ガムテープで巻かれた冷蔵庫の中から出る事は出来ず、冷気に包まれ、豊明の意識は徐々に薄れて行った。
既に声を上げる力さえ残っておらず、そのまま冷たくなって死んでいくかに見えた豊明だったが――
――意識を失う直前に、突如、冷蔵庫の扉が開いた。
実は、父親の尋常ならざる様子に、何か異常事態が発生しているのだと勘付いた近所の中年女性が、警察を呼んでくれていたのだ。
そのお陰で、豊明は、間一髪のところで救出された。
病院で目覚めた豊明は、医師や看護師など、誰かの姿を目にする度に、怯えた表情を見せた。更に、豊明は口が利けなくなっていた。
その後。
退院して、近くに住む親戚の家で暮らす事になった。
それは母親の姉夫婦で、子供がいなかった事もあり、引き取ってくれたのだ。
姉夫婦は優しく、少しずつだが、豊明が怯えることは無くなっていった。
だが、相変わらず他者と話す事は出来なかった。
何か発話しようとすると、極度に緊張して、口を開けたまま身体が硬直してしまうのだ。
まるで、冷蔵庫の中に閉じ込められた時のような閉塞感と冷気を感じ、心臓がギュッと縮み上がるような感覚がして。
そのため、必要な時は、筆談で会話した。
小学校に入学した後。
豊明は、教室での授業は無理だろうという周囲の判断で、伯母に付き添われながら保健室登校を始めた。
保健室の女性教師は、いつも豊明に寄り添ってくれた。
だが、それでも喋る事は出来ず、筆談に頼った。
そして、六年が経った。
中学生になった直後。
豊明は、このままではいけないと思って、打開策を探った。
そして、「得意な事が出来れば、自信がついて喋れるようになるかもしれない」と思って、勉強も運動も必死に頑張った。
そのお陰で、学年一位の成績になった。
運動も、無理を言って野球部とサッカー部、それにバスケ部を兼部させて貰った。一年・二年の間は芽が出なかったが、三年になって三つの部活全てでレギュラーを勝ち取り、活躍出来るまでになった。
ちなみに、基本的にスポーツは身長が高い方が有利だろうと思い、中学三年間を通して、大量に牛乳を飲み、たくさん魚を食べた事が奏功したのか、身長も一気に伸びて、長身になった。
しかし。
どれだけ成績が伸びても、どれだけスポーツが得意になっても、相変わらず話せなかった。
あと半年で高校入試、という時期に差し掛かり。
本来なら、もっと上の進学校を狙える成績だったが、会話が出来ないが故に、面接が絶望的だったので、中堅どころの高校を受けることにした。
自分が持つ成績の偏差値よりも低い高校を目標とすることで、豊明の成績と内申点ならば、面接が多少上手くいかなかったとしても、かなりカバー出来るはずだった。
が、中堅どころとは言え、面接で一言も喋らずに合格、というのはやはり無理な話に思えた。
そこで、半年掛けて試行錯誤して生み出したのが、“スイッチ”だった。
冷蔵庫というトラウマを回避しようとして、今まで何年も失敗を続けて来た。
ならば、いっその事、その上を行ってはどうだろうか? ふと、そう思い付いたのだ。
冷蔵庫どころか、冷凍庫のような冷たさにまで突き抜けた、本来の自分とは違う、もう一人の自分を演じる事が出来れば、一時的とは言え、喋る事が出来るのではないか? と。
何度も“もう一人の自分”のイメージを繰り返し脳裏に思い浮かべ、“スイッチ”を入れる練習をした。
徹底して個人練習をした後は、中学の先生にも協力して貰って、何度も模擬面接を受けさせて貰い、“スイッチ”を完成させた。
その結果、本番の面接でも上手く行き、見事合格することが出来た。
そして、高校入学後。
成績は常に学年一位をキープし、中学時代と同じく、野球部とサッカー部とバスケ部を兼部させて貰い、それら全てでレギュラーを獲得し、活躍し、好成績を収めて行った。
その結果、二年生になった後、推薦されて、生徒会長になった(と同時に、生徒会活動に専念するため、部活は全て辞めた)。
だが、どれだけ活躍しようが、どれだけ実績を残そうが、“スイッチ”無しには会話する事が出来ないのは変わらなかった。
そして、現在に至る。
※―※―※
豊明が語り終えた後。
河和は、
「ふ~ん」
と、呟いた。
思いもよらぬ軽い反応に、思わず豊明は食って掛かる。
「いや、今の話を聞いておいて、『ふ~ん』は無いだろ!」
しかし、河和は足を組み替えながら、淡々と言った。
「じゃあ、どう反応して欲しいんだ? 同情して欲しいのか? それとも、『重っ!』って言って欲しいのか?」
「………………」
改めてそう聞かれると、返事に窮してしまう。
(俺は、何て言って欲しかったんだろう……?)
考え込んでしまった豊明に対して、河和は――
「あんたが話せなくなったきっかけは分かった。あんたの母親の事も、あんた自身の事も、可哀想だなとは思う」
そう言った後に、こう聞いた。
「それで、あんたはこれから、どうしたいんだ?」
「!」
その質問に、豊明は目を見開いた。
(俺がしたいこと……それは……)
豊明は静かに――
「俺は、誰とでも素の自分で話せるようになりたい」
――しかし力を込めて、こう続けた。
「そして……友達を作りたい」
それは、今まで一度も友達が出来た事のない豊明の、嘘偽りのない気持ちだった。
だが、言った直後、豊明は後悔した。
(何馬鹿正直に言ってんだ俺は!? こんなの、笑われるに決まってる!)
そう覚悟した豊明だったが――
「大丈夫。あんたなら、すぐに友達出来るさ」
「!」
河和は笑わなかった。
(コイツ、もしかしたら良い奴なのかも)
そう思った豊明だったが。
目の前の少女を、改めてまじまじと見てみる。
金髪にピアス、極限まで着崩したセーラー服もどき、常時漂う煙草の匂い、何十冊ものスケッチブックに描かれた絵。
(いや、どう見てもコイツも友達少なそうだし、人の事を笑えないってだけだな)
豊明は考え直し、そう結論付けた。
いつものように雑談をしている最中に、ふと、河和が聞いた。
「そういや、あんたって、なんであたし以外の奴とは話せないんだ? 生まれつきか?」
その問いに、豊明は直ぐに返事が出来なかった。
(言っていいだろうか? 止めておくべきか?)
少しの間、逡巡した後。
「いや、生まれつきじゃない」
豊明は、話そうと決心した。
河和のような破天荒な人間には、今まで会った事がない。
にも拘わらず、不思議と、どこか懐かしいような感じがして、豊明は素の自分で話せていた。
だから、話しても良いと思えたのだ。
「小さい頃、こうなるきっかけがあったんだ」
十年以上前の事を思い出しながら、豊明は話し始めた。
※―※―※
幼少時代。
豊明は、両親の事が好きだったが、特に母親が大好きだった。
抱き着く度に、母親の全てを包み込むような温もりと、母親の匂いが感じられて、安心出来たのだ。
豊明は、事ある毎に、何度も母親に抱き着いた。
「もう、純希は甘えん坊さんね。でも、母さんも純希が大好きよ」
豊明は幸せだった。
――だが、豊明が五歳の時。
ある日、豊明と母親が手を繋いで街中を歩いていた時。
ふと、何かに気を取られた豊明が、繋いだ手を振り解いて、車道に飛び出した。
猛スピードで車が迫る。
「純希!」
母親は咄嗟に駆け寄って豊明を抱き締め、豊明の代わりに車の直撃を受けた。
豊明は奇跡的に軽傷で済んだ。
しかし――
「お母さん!」
――母親は死亡した。
豊明は大きなショックを受けた。
そして、豊明以上に深い悲しみに暮れる父親は、酒浸りになった。
そして、数か月後のある日。
「……美香……!」
冷たくなった妻の身体を抱き締めた時の事を思い出していた父親は、ふと、息子を見詰めた。
そして――
「お前のせいだ……お前がいなければ、美香は死なずに済んだんだ……!」
――腕を伸ばした。
数分後。
「ごめんなさい! ごめんなさい! お父さん! 出して!」
豊明は、冷蔵庫に閉じ込められていた。
冷蔵庫は外側をガムテープで何重にも巻かれており、中にあった食料品は、棚やケースごと外に出してあった。
冷蔵庫の中から、息子のくぐもった悲鳴が聞こえる。
だが、父親は、何も聞こえていないかのように、ふらふらと歩き、玄関の外へと出て行った。
そして、家の前に座り、虚ろな目で虚空を見詰め、ただただ呟き続けた。
「お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……お前のせいだ……」
小さな子供の力では、ガムテープで巻かれた冷蔵庫の中から出る事は出来ず、冷気に包まれ、豊明の意識は徐々に薄れて行った。
既に声を上げる力さえ残っておらず、そのまま冷たくなって死んでいくかに見えた豊明だったが――
――意識を失う直前に、突如、冷蔵庫の扉が開いた。
実は、父親の尋常ならざる様子に、何か異常事態が発生しているのだと勘付いた近所の中年女性が、警察を呼んでくれていたのだ。
そのお陰で、豊明は、間一髪のところで救出された。
病院で目覚めた豊明は、医師や看護師など、誰かの姿を目にする度に、怯えた表情を見せた。更に、豊明は口が利けなくなっていた。
その後。
退院して、近くに住む親戚の家で暮らす事になった。
それは母親の姉夫婦で、子供がいなかった事もあり、引き取ってくれたのだ。
姉夫婦は優しく、少しずつだが、豊明が怯えることは無くなっていった。
だが、相変わらず他者と話す事は出来なかった。
何か発話しようとすると、極度に緊張して、口を開けたまま身体が硬直してしまうのだ。
まるで、冷蔵庫の中に閉じ込められた時のような閉塞感と冷気を感じ、心臓がギュッと縮み上がるような感覚がして。
そのため、必要な時は、筆談で会話した。
小学校に入学した後。
豊明は、教室での授業は無理だろうという周囲の判断で、伯母に付き添われながら保健室登校を始めた。
保健室の女性教師は、いつも豊明に寄り添ってくれた。
だが、それでも喋る事は出来ず、筆談に頼った。
そして、六年が経った。
中学生になった直後。
豊明は、このままではいけないと思って、打開策を探った。
そして、「得意な事が出来れば、自信がついて喋れるようになるかもしれない」と思って、勉強も運動も必死に頑張った。
そのお陰で、学年一位の成績になった。
運動も、無理を言って野球部とサッカー部、それにバスケ部を兼部させて貰った。一年・二年の間は芽が出なかったが、三年になって三つの部活全てでレギュラーを勝ち取り、活躍出来るまでになった。
ちなみに、基本的にスポーツは身長が高い方が有利だろうと思い、中学三年間を通して、大量に牛乳を飲み、たくさん魚を食べた事が奏功したのか、身長も一気に伸びて、長身になった。
しかし。
どれだけ成績が伸びても、どれだけスポーツが得意になっても、相変わらず話せなかった。
あと半年で高校入試、という時期に差し掛かり。
本来なら、もっと上の進学校を狙える成績だったが、会話が出来ないが故に、面接が絶望的だったので、中堅どころの高校を受けることにした。
自分が持つ成績の偏差値よりも低い高校を目標とすることで、豊明の成績と内申点ならば、面接が多少上手くいかなかったとしても、かなりカバー出来るはずだった。
が、中堅どころとは言え、面接で一言も喋らずに合格、というのはやはり無理な話に思えた。
そこで、半年掛けて試行錯誤して生み出したのが、“スイッチ”だった。
冷蔵庫というトラウマを回避しようとして、今まで何年も失敗を続けて来た。
ならば、いっその事、その上を行ってはどうだろうか? ふと、そう思い付いたのだ。
冷蔵庫どころか、冷凍庫のような冷たさにまで突き抜けた、本来の自分とは違う、もう一人の自分を演じる事が出来れば、一時的とは言え、喋る事が出来るのではないか? と。
何度も“もう一人の自分”のイメージを繰り返し脳裏に思い浮かべ、“スイッチ”を入れる練習をした。
徹底して個人練習をした後は、中学の先生にも協力して貰って、何度も模擬面接を受けさせて貰い、“スイッチ”を完成させた。
その結果、本番の面接でも上手く行き、見事合格することが出来た。
そして、高校入学後。
成績は常に学年一位をキープし、中学時代と同じく、野球部とサッカー部とバスケ部を兼部させて貰い、それら全てでレギュラーを獲得し、活躍し、好成績を収めて行った。
その結果、二年生になった後、推薦されて、生徒会長になった(と同時に、生徒会活動に専念するため、部活は全て辞めた)。
だが、どれだけ活躍しようが、どれだけ実績を残そうが、“スイッチ”無しには会話する事が出来ないのは変わらなかった。
そして、現在に至る。
※―※―※
豊明が語り終えた後。
河和は、
「ふ~ん」
と、呟いた。
思いもよらぬ軽い反応に、思わず豊明は食って掛かる。
「いや、今の話を聞いておいて、『ふ~ん』は無いだろ!」
しかし、河和は足を組み替えながら、淡々と言った。
「じゃあ、どう反応して欲しいんだ? 同情して欲しいのか? それとも、『重っ!』って言って欲しいのか?」
「………………」
改めてそう聞かれると、返事に窮してしまう。
(俺は、何て言って欲しかったんだろう……?)
考え込んでしまった豊明に対して、河和は――
「あんたが話せなくなったきっかけは分かった。あんたの母親の事も、あんた自身の事も、可哀想だなとは思う」
そう言った後に、こう聞いた。
「それで、あんたはこれから、どうしたいんだ?」
「!」
その質問に、豊明は目を見開いた。
(俺がしたいこと……それは……)
豊明は静かに――
「俺は、誰とでも素の自分で話せるようになりたい」
――しかし力を込めて、こう続けた。
「そして……友達を作りたい」
それは、今まで一度も友達が出来た事のない豊明の、嘘偽りのない気持ちだった。
だが、言った直後、豊明は後悔した。
(何馬鹿正直に言ってんだ俺は!? こんなの、笑われるに決まってる!)
そう覚悟した豊明だったが――
「大丈夫。あんたなら、すぐに友達出来るさ」
「!」
河和は笑わなかった。
(コイツ、もしかしたら良い奴なのかも)
そう思った豊明だったが。
目の前の少女を、改めてまじまじと見てみる。
金髪にピアス、極限まで着崩したセーラー服もどき、常時漂う煙草の匂い、何十冊ものスケッチブックに描かれた絵。
(いや、どう見てもコイツも友達少なそうだし、人の事を笑えないってだけだな)
豊明は考え直し、そう結論付けた。