一週間の中で人の心が最も開放的になる曜日は、どこに行っても混雑していた。
 私は賑やかな大通りを見渡しながらそんなことを思う。その時ふと、道の両側に桜の木が植えられていることに気づいた。

「……」
 
 歩に、お姉ちゃんが桜を好きだったかと聞かれた時、頭の中に真っ先に浮かんだのはあの場所だった。
 機械いじりが好きだったお姉ちゃんは、植物や花にはあまり興味がなかったけれど、桜の花だけは昔から好きだった。それは、桜が好きだったというよりも、彼女にとって大切な思い出があったからだと思う。 
 いつかお姉ちゃんがこっそりと教えてくれた秘密の場所。
 嬉しそうに話すお姉ちゃんの言葉を、あの時の私はたぶん素直な気持ちで聞くことはできていなかったと思う。
 私はそんなことを思い返すと、無意識に大きなため息をついた。
 かつて歩がお姉ちゃんの為に見つけたという秘密の場所は、当時の自分にとっても何だかとても悔しくて、あまり訪れたいとは思わなかった。
 なのに今、私はお姉ちゃんが教えてくれたあの場所へと向かっている。
 信号待ちをしていた横断歩道を渡ると、商店街の入り口手前で右に曲がり、裏通りへと入る。クリーム色をしたレンガが敷き詰められたその道の上には、その色を活かすかのように、わりと有名なカフェやアパレルショップなどの色彩豊かなお店が軒を連ねている。
 空の青さも相まってオシャレな雰囲気を醸し出すこの場所は、デートスポットとしても有名なのか、自分と年が近そうなカップルたちの姿もちらほらと映った。
 目の前で仲睦まじく手を繋ぐそんなカップルの後ろ姿に、思わず胸の中がチクリと痛んだ。 
 私はズボンのポケットからスマホをそっと取り出すと、ラインのアプリを開く。表示された彼の名前に、じわりと心に寂しさが顔を出す。
 文化祭の準備の時、歩にひどいことを言ってしまってから、彼とは何も話していない。その後、心配した歩がメッセージを送ってきてくれたのに、未だに返信できずにいた。
 歩へのメッセージを打ち込んでいた指先を途中で止めて、私はラインのアプリを閉じると小さく息を吐き出した。時間が経てば経つほど、何を伝えればいいのかわからなくなる。
 
 やっぱり、直接会ってちゃんと話したほうがいいのかな……
 
 そんなことを悩んでいた時、ふと甘い香りが鼻先をふわりとかすめた。覚えのある匂いにチラリと横を見ると、パステルカラーの屋根をしたお店のガラスケースに、いつか歩が美味しいと言っていたショコラクッキーが並んでいた。その光景に、思わず私の足が止まる。

「……」
 
 そのまま通り過ぎようかとも一瞬思ったが、自分の意思とは関係なく、踏み出した足はお店の方へとつま先を向けようとする。私は諦めてため息を漏らすと、甘い香りに誘われるまま、ゆっくりとお店に向かって歩き出した。

「いらっしゃいませ」
 
 私が近づいてきたことに気付いたパティシエの格好をしたスタッフがニコリと微笑んだ。私はその女性に小さく頭を下げると、ガラスケースの中を覗き込む。そこにはショコラクッキー以外にも、宝石のようなお菓子たちが色とりどりに並んでいた。
 私はその中から値札に『おすすめ!』とシールが貼られたお菓子と、あの時歩が食べたショコラクッキーを注文した。それを手際良く紙袋に詰めていくパティシエを見つめていた私は、少しぎこちない口調で口を開く。

「あの……ラッピング包装とかお願いできますか?」
 
 少し伏し目がちにそんなことを尋ねると、「はい、できますよ」とパティシエはにっこりと微笑んだ後、サンプルで飾っていたラッピング用のリボンを手に取った。
 どの色のリボンにしますか? と聞かれた私は、目の前に並ぶリボンを見つめる。そして、その中の一つをゆっくりと指差した。歩が好きな、青色に。
 お会計を済ませ、小さな紙袋を受け取った私は、再び目的地へと足を向ける。胸元でぎゅっと握りしめたお詫びの気持ちからは、わずかに甘い香りが漂っていた。
 裏通りを抜けると、今度は目の前に大きな道路が見えてくる。その道路を右へ右へと視線を移していくと、視界の中に公園が映った。

「まだあるのかな……」
 
 かつてお姉ちゃんが話していた桜の木は、あの公園にあるはずだ。

 歩が教えてくれた桜の木はね、公園の端っこにあるんだよーー

 そう言って嬉しそうな表情を浮かべていたお姉ちゃんの姿に、チクリと胸が疼いた。
 私は教えてもらった通り、公園の正面入り口には向かわず、裏手の方へと歩いていく。しばらく進んでいると、目の前に大きな横断歩道が見えてきた。その先には、おそらく目的の場所へと繋がる階段の姿も。
 今更になってこの場所に訪れたのは、自分の中でケジメをつけたいと思ったからだ。
 お姉ちゃんが亡くなった事実から目を背けていたように、私は歩に対しての想いからも逃げ続けてきた。
 でもそれは、どれだけ隠そうとしても、月日が経つにつれて大きくなるばかりだった。花火大会の時も、この前の文化祭の準備の時も。 
 きっとこのままだと私は歩に迷惑をかけ続けることになる。そんなこと、全然望んでいないのに。
 だから私は、歩がお姉ちゃんのことを想っている事実も受け入れて、それでも彼とちゃんと向き合おうと決めた。その最初の一歩として、私はここに訪れたのだ。この場所にくれば、何か自分の気持ちが変わるんじゃないかと思って。
 そんなことを考えながら、私は信号が青になると同時に横断歩道を渡り始めた。向き合うべき自分の気持ちから逃げないために、ぐっと両足に力を入れて横断歩道を渡り切ろうとした時、ふと視界の隅にぼんやりとトラックの姿が見えた。
 すると突然、そのまま過ぎ去っていくと思ったトラックが進路を変えて自分の方へと向かってくる。

 え?
 
 声を漏らすよりも前に、巨大な鉄の塊はあっという間に目前へと迫っていた。恐怖のあまりまったく動かなくなった両足とは反対に、心臓だけが激しく脈打つ。
 助けてと声を絞りだそうとするも、先に鼓膜を貫いたのはクラクションの音。直後、視界のすべてを真っ暗な影が覆った。

 椿――

 意識が途切れる刹那、私の脳裏に浮かんだのは、笑顔で自分の名を呼んでくれる歩の姿だった。