『初恋』と聞いて一番最初に思い出すのはガソリンの匂い。そして、汚れた作業着の後ろ姿。 
 それでいて相手が一つ歳上の女子高生だったと言うのだから、自分も随分と変わった人に恋心を抱いてしまったものだと今でもつくづく思う。
 
 自称天才発明家だった彼女はもうこの世界にはいないけれど、彼女はその短い生涯の中で、数えきれないほどの発明品を生み出した。
 今思い返してもどれも笑ってしまうようなふざけた発明品ばっかりだったけれど、それでも彼女が偉大な発明家だったということだけは間違いない。

 なぜなら彼女は、俺がほんの思いつきで言った、『初恋を閉じ込める』という馬鹿げたアイデアを、その純粋な想い一つで本当に実現してしまったのだから……
 高校に入学してから最初の春も過ぎて、定期テストも何とか無事に乗り越えた頃、俺が家に帰るとガレージにはまたいつもの『あの音』がうるさく鳴り響いていた。

「なあ……」
 
 普段の声量で口を開けば、俺の声は一瞬にしてドリルの音によってかき消されてしまう。その音を操る相手といえば、目の前にある鉄板に穴を開けることに夢中だ。
 そんな相手の後ろ姿に呆れながら俺はため息をつくと、今度は吐き出した以上の空気を思いっきり吸い込む。

「おいッ!」
 
 ビクン、と俺の声に合わせて相手の肩が小さく震えた。直後、けたたましく鳴り響いていたドリル音が止む。

「あ、おかえり(あゆむ)! 帰ってたんだ」

「おかえり、じゃないって。あのな……何度も言ってるけどここは俺ん家だからな」
 
 俺はそう言うと再びため息をついた。けれど、作業着姿の相手はそんな俺を見て何故かニコリと笑う。

「もちろんわかってるよ! 今日もお邪魔してます」
 
 屈託のない笑顔を浮かべたままペコリと頭を下げてきた人物の名は、篠峰真那(しのみねまな)。年は俺より一つ上で、だいたい毎日ここにいる。

「あれ、そういえば親父は?」

「あー、なんかお隣さんの車の調子がおかしいから見てくるってさっき出て行ったよ」

「そっか」と俺は軽く返事をすると、ガレージの中をぐるりと見渡した。壁にびっしりと吊るされた名前も知らない機材や、棚に所狭しと並べられた塗料やスプレー缶。
 車がゆうに3台は駐めることができるこのガレージで、俺の父親は個人経営の整備士の仕事をやっている。

「歩のお父さんが戻ってくるまでは私が店番頼まれてるの」

「え⁉︎ それって大丈夫なのかよ?」
 
 あからさまに不安げな表情を浮かべてそんなことを言えば、「何よ」と相手は不満そうにムッと頬を膨らませる。

「こう見えてもこの前佐藤さんのバイク直したのは私なんだからね!」
 
 えっへんと言わんばかりに両手を腰につけて胸を逸らす真那。そんな彼女の動きに合わせて左右に括った長い髪も揺れる。
 ここで変に首を突っ込んでしまうと後がややこしくなることは百も承知なので、俺は「はいはい」と適当に受け流す。

「あー、その反応は信じてないだろ!」

「信じてます信じてます。それはもう心の底から」

 棒読みでそんなことを言えば、「コイツっ!」と真那が手元にあったスパナをわざとらしく握りしめてきたので、俺は慌てて「やめろって!」と両手をあげて直ちに降参する。直後、真那も俺も同時にぷっと吹き出した。いつも通りの光景だ。
 真那は近所に住んでいる俺の幼なじみだ。
 彼女の父親と俺の父親は大学時代からの付き合いだったらしく、互いに車が趣味ということもあってか、真那の父親は昔からよくこのガレージに遊びに来ていた。その繋がりで俺も幼い頃から真那のことを知っていた。そして彼女が、とんだ問題児だということも。
 女の子といえばままごととかピアノとかに興味を持ちそうな年頃に、真那は何故か機械いじりに興味を持ってしまい、ここに来るたびによく工具やパーツをおもちゃ代わりにして遊んでいた。
 祖父の影響があるとかそんな話しをチラッと聞いたこともあるが、どんな事情があるにせよ、自分とそう歳の変わらない女の子が嬉しそうに工具を握りしめている姿というのは、幼い頃の俺の目には随分と奇異に映った。……まあ、それは今でも変わらないのだけれど。
 が、そんな真那の機械いじりはどうやら遊びのレベルでは飽き足らなかったようで、みるみるうちにその腕を上げていった。
 今では俺の父親と一緒に車やバイクの整備をしたり、空いた時間にはガレージにいつの間にか用意されていた彼女専用の作業机でいつも何か作っている。わりと有名な女子校に通っている上、制服姿で大人しくしていれば人目を引くほどの容姿をしているのに、その辺りには無頓着。
 ちなみにそんな彼女の口癖は、「いつか私は偉大な発明王になる!」という少年マンガにでも出てきそうなことをよく言っている。

「あ、思い出した! 歩ちょっとこっちこっち」
 
 突然ガレージに賑やかな声が響いたと思ったら、真那が嬉しそうな足取りで自分の作業机と向かっていく。軽快なその後ろ姿とは裏腹に、俺の心は妙に落ち着かない。
 だいたいこんな流れになった時は、ろくなことが起こらないのだが……

「じゃじゃーん! どうこの『手袋』? 凄くない⁉︎」
 
 そう言って真那が机の引き出しの中から取り出しのは、俺が頭にイメージしていた手袋とはかけ離れたものだった。
 かろうじて指を通すところが10本あることは確認できるものの、それ以上の数の配線が何故か手袋から飛び出しているのだ。しかも、手袋とは言いつつ素材も金属っぽいし。
「何だよこれ……」と半ば呆然としながら彼女が手に持っている手袋もどきを見つめていると、真那が自信たっぷりな口調で言う。

「これは私の7つ目の大発明、『血糖値が測れる手袋』! これを両手に通すだけで今日のあなたの血糖値がわかります」

「そんな星占いみたいに言わなくていいって。だいたいなんで手袋にそんな機能がいるんだよ……」
 
 なんてことを呆れた口調で言えば、相手は何故かそれには答えずニヤリと不気味に笑う。

「まあまあそう固いことは言わず、とりあえずはめてみてちょ」

「は⁉︎ 俺は嫌だって! どうせこの前みたいに電気流れたりするんだろ」

「なッ、君は失礼な助手だなー。あれはちょっと失敗しただけで、今回のは本物です!」
「だから嫌だって! それに俺がいつから助手に……って、おい! やめろ近づくな!」
 
 嫌だという意思表示で両手を上げたつもりが、何を勘違いしたのか、「えいッ」と真那は嬉しそうに勝手に手袋をはめてきた。
 その瞬間俺は慌てて手袋を脱ごうとしたが時すでに遅しで、ピリッと静電気のようなものを指先に感じた直後、ガレージには俺の悲鳴が響き渡った。
「おっかしいなー、今回は上手く完成したと思ったんだけどなぁ」
 
 夕暮れが街の景色を赤く輝かせる中、ジャングルジムに背中を預けながら真那が残念そうに呟く。その姿は、やっと本来のブレザー姿に戻っている。

「あのな……俺で試す前に自分で試せよ」
 
 俺は呆れた口調でそう言い返すと、わざとらしく右手で左手の甲をさすった。なんだか、正座し過ぎた時みたいにまだピリピリしている。
 そんな俺を見て、真那は「てへッ」という表現がピッタリと似合う少し申し訳なさそうな表情を浮かべたかと思うと、ピッと小さく舌を突き出す。

「ごめん! 今度は絶対に成功させるから」

「なんで俺で試すことが前提になってんだよ……」
 
 再び呆れた口調でそんなことを呟いた俺は、彼女の隣に並んで同じようにジャングルジムにもたれかかった。視界の右隅では、真那の少し茶色味がかった髪が夕陽と混じり合ってほのかに朱色に輝いている。
 そのまま視線を左に向ければそんな彼女の家の屋根がチラリと見えるし、真後ろの先にあるのは俺の家。ちょうどこの公園は自分たちの家の真ん中ぐらいにあって、真那が帰る時はいつもここまで送ることにしていた。
「近いから別にいいよ」と彼女はいつも言うのだが、幼い頃から続けてきたので、今となっては自分の日常の一部になっていた。
 それは義務というより、もっと別の感情からくるものだということを最近になってようやく気づいたのだが、残念ながらそれを本人に伝えることができるほど、心の準備はまだ出来ていない。
 翼を広げて山へと帰っていく鳥たちをぼんやりと見つめていると、隣から上機嫌な鼻歌が聞こえてきた。もう何十回と聞いたことのあるそのメロディは、彼女が昔祖父から教えてもらったお気に入りの曲なのだそうだ。
 いつものように真那の鼻歌を聞きながら街の景色を眺めていると、今度はクスクスと笑う声が聞こえてきた。

「なんかやっと様になってきたね、それ」
 
 そう言って真那は人差し指の先っぽを俺が着ている学ランへと向けてきた。そのほっそりとした指先がさっきまでドリルを握っていたなんて、一体誰が想像できるだろうか。

「それ……褒めてんの?」

「褒めてるよ! なんか歩もちょっとは逞しくなったんだなーって」

「……」
 
 どう捉えていいのかわからない言葉に、俺は真那から視線を逸らすとぽりぽりと頬をかく。妙に顔が熱い気がするのは、きっとこの夕陽のせいだろう。

「もう歩も高校生だもんねー。なんか不思議な感じ」

「俺は女子高生が趣味で作業着を着てる方がよっぽど不思議だと思うけどな」

「えー、そんなことないよ。ぜったい他にもいるって」

「聞いたことないって、そんな人」

 呆れた口調で言葉を返すと、「そうかなー」と真那は一人ぼやく。

「日本中探せばあと一人ぐらいは仲間がいると思うんだけどなぁ」

「仲間って……。あんなに嬉しそうにドリル持ってる女子高生が他にもいたら怖いだろ」
 
 俺の反論にてっきり彼女は拗ねるだろうと思ったのだが、予想に反して真那は「あッ」と何か思い出したように声を漏らしたかと思うと、今度は何故か嬉しそうに口を開く。

「今作ってるのはもっと凄いんだよ! なんたって『全自動型ホワイトボード』だからね」

「何だよその変なホワイトボード……」
 
 いかにも怪しい名前に俺がぎゅっと眉間に皺を寄せるも、そんな自分の表情など一切気にせず真那は嬉しそうに説明を始める。それはつまるところ、書きたいことを声にすれば自動的に書いてくれるホワイトボードらしい。

「あとねー、他にも色々と開発中なの。ラーメンが美味しくできるようにお湯を注いでくれる電気ケトルに、指先をマッサージしてくれるネズミ型のマウスでしょ。あ、それと歌うと充電できるスマホの充電器とか!」

「だから何だよその変な発明品たちは……」

 相変わらず奇想天外な彼女の発明に、俺は思わず苦笑いを浮かべてしまう。けれど相手はすでにスイッチが入ってしまったようで、興奮気味に話しを続ける。

「もちろんこれだけじゃないんだから! なんたって作りたい物のアイデアはもう100個以上もあるからね。見て見て、これ凄いでしょ⁉︎」
 
 嬉しそうにそんなことを言ってきた相手は、ブレザーのポケットから小さな赤い手帳を取り出すと、ペラペラとページをめくりながら俺に見せてきた。俺は珍しい動物でも見つけたかのようにそっとそれを両手で受け取ると中身を覗いて見る。

「……ほんとよく色んなこと思いつくよな」
 
 手帳のページに記された謎の手描きの図面や暗号みたいな文字を見つめながら俺はぼそりと呟いた。別に褒めたつもりは一切なかったのだけれど、隣からは嬉しそうな声が返ってくるではないか。

「そりゃ何たって未来の発明王だもん! 私に作れないものなんてない!」

 そう言って真那は自分の胸元を右手でポンと叩いた。彼女の気持ちを表すかのように、青いリボンが楽しげに揺れる。

「そこまで夢中になれるってある意味凄いよ……」
 相変わらず呆れた口調のままそんなことを呟いて手帳のページをめくっていた時、ふと今までとは違う内容に目が止まった。

「あ、でもなんか違うことも書いてるな。なになに……『初めてデートをする時は海で……』」

「ちょっとストーーーップ!」

 突然耳をつんざくような大声と共に、視界の隅から物凄い勢いで手が伸びてきた。直後、
「うおッ!」と驚く間もなく一瞬で手帳が奪い取られる。

「ビックリした……何だよ急に」

「ビックリしたのは私の方だから! 勝手に人のプライベートまで覗かないでよ!」

「勝手にって……」
 
 そっちが無理やり見せてきたんだろ、と言葉を続けそうになったが、ガルルと番犬みたいに唸っている真那の顔を見た瞬間やめた。けれど彼女にしては珍しく顔を真っ赤にしているので、よっぽど見られたくない内容だったのだろう。
 俺は気になったことを聞いてみた。

「初めてデートをする時って書いてたけど……あれってもしかして」

「い、いいでしょ別に何だって! 私だって女の子なんだから、恋愛とかに興味持っててもおかしくないし!」

「……」
 
 いつも以上に早口で言葉を捲し立てる真那の姿に、俺は我慢できずに思わずプッと吹き出してしまった。するとさらにヒートアップした言葉が彼女から飛んでくる。

「ちょっと! 笑うとかほんっと失礼じゃない⁉︎」

「だって真那の口から恋愛って……それにデートとか……」

 怒られながも俺はやっぱり笑うことを止めることができずに両手でお腹を押さえる。機械いじり一筋しか興味がないと思っていた彼女だったけれど、どうやら実のところは違ったらしい。

「ふんッ、そんな上から目線で言ってくるってことは、もちろん歩にはそんな経験あるってことだよね?」

「俺は……」
 
 急に反撃の言葉を食らってしまい、俺は思わず言葉を詰まらせる。恋愛には素直に興味があるけれど、人様にどうこう言えるほどの経験をしてきたわけじゃない。だいたい、付き合ったこともないし。

「ほーらみなさいよ。歩だってまだしたことないじゃん」

「そうじゃないって。それに俺は……」
 
 再び言葉を止めた自分に、「それに俺は?」と真那がぐいっと顔を覗き込んできた。夕暮れの輝きを閉じ込めたその大きな瞳を見た瞬間、俺は恥ずかしくなってしまいつい視線を逸らす。

「やっぱり歩もまだなんじゃん」

「…………」
 
 まったく検討はずれなことを言ってくる相手に、俺は一瞬ムッとした顔をしたが、かと言って自分の気持ちを素直に言えるわけもないので黙り込む。
 するとクスリと笑った真那が右手を伸ばしてきて、「えいッ」と何故か俺の額にデコピンを放ってきた。

「いてッ! 何すんだよ」
 
 突然の攻撃に俺は思わず額を押さえて相手を睨んだ。けれど当の本人は、けろっとした態度で話しを続ける。

「別に焦ることなんてないじゃん」

「何がだよ」

 真那の言葉に、俺は少しぶっきらぼうな態度で答えた。すると彼女の唇がニコリと弧を描く。

「だってまだ恋愛をしたことがないってことは、私も歩もこれから『初恋』をするってことだよ? それってすっごく素敵なことじゃない⁉︎」

「……」
 
 パンと胸元で手を合わせて、乙女さながらに目をキラキラと輝かせる真那。
 そんな姿とさっきの言葉があまりにも普段の真那のイメージからかけ離れ過ぎていて、俺は思わずポカンとした表情を浮かべてしまう。そしていけないとは思いつつ、やっぱり笑ってしまった。

「あー! また私のことバカにしただろ⁉︎」

「違うって! なんか意外過ぎてビックリしたんだよ」

「ほらやっぱりバカにしてるじゃん! もうッ、初恋って言ったら一生に一度しかできないから大切なんだよ?」

 わかってる? と唇を尖らせながら再確認してくる真那に、俺は「わかってるって」と笑い声を堪えながら答える。

「そんなに大切に思ってるなら、得意の発明で初恋をずっと残せるようにすればいいだろ。それか閉じ込めるとか」

 指先で笑い涙を拭いながらそんな冗談を言えば、何故か真那はきょとんとした表情を浮かべていた。直後、彼女はわなわなと肩を震わせ始めたかと思うと、いきなり俺の方に向かって右手の人差し指をビシッと突き出してきた。

「それだッ!」

「……え?」
 
 突然スイッチの入った真那に、今度は俺がきょとんとした顔を浮かべる。

「歩、それすっごく良いアイデアだよ! 『初恋を閉じ込める』とか、何だかめちゃくちゃロマンチックじゃん!」

「いや、ちょっと待てよ。俺は冗談のつもりで……」

 どうやら俺は地雷を踏んでしまったらしい。これでまた変なものが発明されてしまうと、その犠牲者第一号は自分になってしまう。
 そんなことを恐れた俺は、一人興奮する真那をまあまあと落ち着かせようとしたが、伸ばした右手をなぜか彼女がバシっと両手で握ってきた。

「歩、私ぜったいそれ作るよ! 作って歩にもプレゼントしてあげる! ほら、今度の誕生日の時に!」

「え? 俺はべつに……」

 いらないって、と言いかけたその時だった。夕陽が煌めく視界の中で、彼女が白い歯を見せてニコリと笑った。
 たったそれだけのこと。たったそれだけのことなのに、俺は言いかけた言葉をそっと喉の奥へと飲み込んでしまう。たぶん、彼女の笑顔があまりにも無邪気で、そして不覚にも、綺麗だと思ってしまったから。
 言葉を胸の奥へと無理やり追いやってしまったせいだろうか、心臓がドクドクとうるさい。
 真那の顔を直視できなくなった俺は、恥ずかしさを誤魔化すように視線を逸らした。けれど、右手から伝わってくる彼女の温もりが火照った頬をさらに熱くする。

 真那が初めて恋をする相手って、どんな人なんだろう……

 閉じた瞼の裏側で、俺はそんなことを考えてみた。いつだって『今』を楽しめる彼女なら、きっと誰と付き合ったとしても恋愛だって楽しめるだろう。それでも、もし叶うのであれば……
「ねえ歩!」と明るい声が聞こえてきて、俺はハッと我に返って瞼を上げる。
 すると目の前には、赤い太陽を背にして自分のことを真っ直ぐに見つめてくる真那の姿。その眩しさにほんの少し目を細めた時、彼女が元気な声でこう言った。

「だから期待して待っててね!」
 
 吹き抜ける風に乗るようにして、真那の声が耳に届く。そんな彼女の言葉に、俺はふっと口元を緩めた。
 もしも真那が本当にそんな物を作ったとしたら、自分が閉じ込める気持ちの相手はもう決まっている。
 細めた視界の中で彼女のことを見つめながら、「わかったよ」と俺はいつものように返事をした。すると真那もいつものように笑う。二人だけしかいない公園に、自分たちの笑い声がメロディのように重なり合って響いた。
 そしてこの時、俺は何となく思ったのだ。
 こんな当たり前の時間も、いつかは初恋のように特別な瞬間に感じる日が来るのかもしれないと。
 そう、あの時の俺は、真那との時間がこれから先もずっと続くと思っていた俺は、浅はかにもそんなことを思ったのだ。
 そんな当たり前が、ある日突然失われるということも知らずに……
 季節は自分の日常にどんな変化が起こったとしても、また同じように巡ってくる。
 頭上から暑苦しく降り注ぐ陽光を片目を瞑って見上げながら、俺はそんなことを思った。しゃわしゃわとうるさく鳴く蝉の音さえも、記憶の中と何一つ変わらない。

 あの夏から、もう一年か……
 
 学ランに僅かに染み付いた線香の香りだけが、再び巡ってきたこの季節が今までと違うものだということを静かに告げている。そんなことを感じる度に、胸の奥にジワリと痛みが広がった。
 休日の気の抜けた街の空気から逃げるようにして家の前までたどり着くと、見慣れた制服を着た女子生徒が一人、ガレージの中で親父と話している姿が見えた。
 俺は玄関口へと向けていたつま先をガレージへと向けると、二人にそっと近づく。

「なんだ椿(つばき)、先に帰ったわけじゃなかったのかよ」

 自分よりも目線一つ低い相手に向かって声を掛けると、セミロングの黒髪を片耳にかけた椿が振り返る。

「うん……。そろそろお姉ちゃんの机、整理しようかなって思って」

 彼女はそう言うと、ガレージの奥の方を見た。その視線の先には、かつて発明家を目指してこの場所で賑やかな音を奏でていた真那の作業机があった。まるで時間から取り残されたかのように、そこだけがいつまでも変わらないままだ。

「片付けは椿ちゃんの気持ちの整理がついてからでこっちは全然構わないよ。それに、あんまり急いで片付けると『何してんだー!』ってお姉ちゃんが怒りそうだろ」

 親父の言葉に、「たしかに」と椿が力なく微笑む。俺はそんな二人のやり取りを、黙ったまま見つめていた。

「気を遣って頂いてすいません」

「いいってことよ! それにあの光景も今じゃあこの家の一部みたいなもんだからな。すぐにでも真那ちゃんがやってきて、あそこで何か作り始めそうな気がするよ」
 
 顎をさすりながら親父はそう言うと、懐かしむような目で椿と同じ方向を見つめる。俺も二人と同じように真那の作業机を見つめていたが、胸の奥がチクリと疼いてそっと視線を逸らした。

「あ、そうだ椿ちゃん。近所の橋本さんがケーキ持って来てくれたんだけど、良かったら食べてくかい?」

 親父の言葉に、椿が申し訳なさそうに眉尻を下げる。

「すいません。この後、家の掃除を手伝うことになってて……」

「そっか、そりゃあ仕方ないな。お父さんとお母さんにもよろしく伝えといてくれ。ほら歩、椿ちゃん送っていってやれ」

「え? なんで俺が」

「なんでってお前、女の子を一人で帰らすつもりか? 真那ちゃんの時は……」

 親父が喋りきる前に、「わかったって」と俺は慌てて口を開いて話しを遮った。

「いいよ私は、別に送ってもらわなくても……」

「親父のやつ言い出したら聞かないんだよ。ほら、行くぞ……」
 
 俺は椿の耳もとで小声でそう呟くと、ガレージの外へと向かって歩き出した。すると彼女も「失礼します」と親父に言った後、俺の背中にトコトコとついてくる。
 ガレージから一歩出ると、相変わらず容赦のない陽射しが俺たちを出迎えた。
 自分の気持ちとは裏腹なほど澄み切った空の下を歩いていると、子供たちが楽しそうに遊んでいる声が聞こえてきた。俺はあえて公園が視界に入らないようにしながら、ただ黙ったまま椿の前を歩く。

「……せっかくの休みだったのに、ごめんね」
 
 不意に背中越しから椿の声が聞こえてきて、俺は小さく息を吐き出す。

「別に椿が謝る必要ないだろ……」
 
 俺は覇気のない声でそう呟くと、「それに」と言って言葉を続ける。

「今日はあいつの……真那の一周忌だからな」

「……」
 
 俺の言葉に、椿からの返事はなかった。
 一周忌。口ではそう言ったものの、俺自身、あれから季節が四度も変わったなんて未だに実感が持てなかった。
 そんなことを思ってしまうほど、自分の心は、もうずっと忘れてしまっている。この世界には、時間が流れているということを。
 足下に向けていた視線をふと空の方へと向けると、いつか真那と一緒に見たことがある鳥が山の方へと飛んでいく。
 翼を広げて自由に空を舞うその姿を見ていると、何故か胸が無性に締め付けられるような気がしてしまい、俺はそっと瞼を閉じた。
 精一杯に翼を広げて、自分の夢を目指していた真那は、ある日突然その翼を奪われてしまった。
 一年前の夏のあの日、学校帰りに自転車でいつものように俺の家のガレージに向かっていった真那は、交差点で無茶な横断をしてきたバイクと激突してしまった。
 近くで事故を目撃していた人が急いで救急車を呼ぶも、到着する頃にはすでに真那の意識はなく、彼女は病院に搬送されるとすぐに息を引き取ってしまったのだ。
 それは、夢に向かって真っすぐ歩み続けた女の子にとってはあまりにもあっけなく、そして短過ぎる人生だった。
 
 どうして……真那が? 
 
 親父に事故のことを聞かされてすぐに病院に向かった俺だったが、病室の扉の前で立ち止まったまま中に入ることはできなかった。
 扉一枚隔て聞こえてくる、椿と彼女たちの両親が泣き崩れる声が、あまりにも痛々しくて、心が引き裂かれてしまいそうだったから。
 だから結局、俺は真那の最期の姿を見ることができなかった。
 信じたくなかったから。受け入れたくなかったから。
 俺にとって真那はいつも太陽みたいな人で、天真爛漫な女の子で、底抜けに元気で明るくて……だからそんな彼女が事故に遭ってこの世界から消えてしまうなんてありえないと。きっと真那のことだから、いつものようにガレージにやってきて、またあのうるさい音を鳴らしながら自分の好きなことに夢中になっているはずだと。
 真那の葬式に参列した帰りであっても、俺は頑にそんなことを思っていた。震える指先をきつく握りしめながらそんなことを願っていた。 
 たとえそれが、もう二度と見ることができない当たり前の景色だったとしても……

「ちゃんと……向き合おうと思って」
 
 不意に椿の声が聞こえてきて、「え?」と俺はその場で立ち止まって振り返った。すると同じように彼女も足を止める。

「私さ……お姉ちゃんがいなくなってから、ずっとそのことから逃げてた。私にとってお姉ちゃんは憧れで、太陽みたいな人だったから……どうしても、受けれられなくて……」

「……」
 
 ぽつりぽつりと雨粒が落ちるように、彼女の唇から言葉が溢れる。俺はその言葉に耳を傾けながら、少し顔を伏せている椿のことを見つめる。

「でも私がいつまでもこんな調子じゃダメだよね。お母さんもお父さんも辛いはずなのに、いつも通り自分に接してくれてる。歩も、歩のお父さんだって……。だから、そろそろ私も前を向かなきゃって思って」

 椿はそう言うと伏せていた顔をゆっくりと上げた。真那と似た綺麗な瞳が、俺の顔を静かに映す。

 俺は……
 
 椿の言葉に、どんな言葉を返したらいいのだろうと思いそっと視線を伏せた時、彼女がきつく握りしめた拳が僅かに震えていることに気付いた。そんな姿を見てしまうだけで、わかってしまう。椿は、自分の言葉以上に、姉の死と精一杯向き合おうとしているのだと。そのことが、痛いくらいに俺の胸にも伝わってくる。
 結局何一つ言葉が思いつかないまま黙っていると、ふっと優しい笑みを浮かべた椿が先に歩き始めた。俺はそんな彼女の後ろ姿を見つめる。
 自分よりもほんの数歩先にいる椿の背中を見ているだけで、なんだか俺だけが、違う世界に取り残されているような気がした。