公立日和田(ひわだ)高校において、豊島大五郎(とよしまだいごろう)の名を知らない者はいない。
文武両道、眉目秀麗。
生徒会長でありながら演劇部の花形をも務める、当代きってのスーパースター。
演技力も申し分なく、その気迫と求心力から学内にはファンクラブも存在するという噂もある。
やや不遜な態度を取るきらいがあるが、誰に対しても飾らないありのままを見せる生き様は多くの者を魅了し、友人にも恵まれた。
時は十月。
生徒会長としての任期を終え、大五郎たち三年生は演劇部最後の舞台となる文化祭への準備に取り掛かろうとしていた。
……のだが。
「どうするんだよこれ! 吾妻お前、何て本書いてきてるんだよ!」
「出来上がったものは仕方ないだろぉ! それに代々うちの部活じゃ、脚本に文句言うのはご法度ってことになってるしぃ!」
揉めているのは副部長兼演出担当の米崎耀(よねざきよう)、それに脚本担当の吾妻真平(あずましんぺい)である。
大五郎を抱える演劇部の知名度は学内においても高く、必然的に文化祭への注目度も高まっていた。
三年生の晴れ舞台となる劇ではあるが、大五郎はあまりの人気ぶりから一年の時から主役を任されていた。
さすがの大五郎も、それでは先輩方に悪いと一度は遠慮したのだが、
「お前が立っていた方がお客さんも喜ぶからな。俺たちとしても、そっちのほうが嬉しい」
当時の部長からの一言により、大五郎は舞台に立つことを決めた。
一部から反感を買うこともあったが、彼の演技力とカリスマ性を目の当たりにし、更にもう一つの厄介ごとに追われたことによって、大五郎の主演に文句を言う者はいなくなった。
そんな大五郎の最後の舞台となっては、周囲の気合いの入り方も変わってくる。
「……なんてことは、お前も承知の上だよなあ吾妻」
眼鏡の奥で、米崎の瞳が鈍く光る。
「だのにこの内容じゃ、大五郎が主役できないだろうが! わざわざアイツの欠点をふんだんに盛り込んだ本を持ってきやがって。文化祭潰す気か!」
「脚本書いてない奴が書いてきた奴に文句言うなよぉ! 僕にだって色々事情があるんだからぁ!」
「何だ色々な事情って! とぼけたこと言ってないで早く書き直してこい!」
「無理だよぉ! 絶対間に合わないよぉ!」
争いの渦中から外れたところで、各部員が人数ごとに印刷された脚本に目を通す。
そしてそれぞれが、「うわぁ」「さすがにこれは……」と口を開いた。
そう、大五郎にはある致命的な欠点がある。
ともすれば日常生活においても多大な影響を与え、演劇においても一つの縛りを課さなければならない、とある身体的制約を抱えていたのだった。
それは――。
「おう、脚本完成したらしいな。俺にも見せてもらえるか」
ピタリと喧騒が止む。
豪胆かつ堂々とした空気を纏って、その男――豊島大五郎は部室にやってきた。
「遅れてすまない。ちょいと教師から頼まれごとをしていたのでな」
「だ、大五郎君……」
「……ん? 何か取り込む中か?」
笑顔を崩さずに、大五郎が二人の方を見る。
米崎が舌打ちをし、その場から離れるとホッとしたように吾妻が息を吐いた。
大五郎がいくら役者として優れていたとしても、それだけでは劇は成り立たない。
より良い舞台を作るため、必然的に他の部員たちの意識や技術も底上げする必要があった。
その際に、指導役を買って出たのが米崎だった。
米崎は大五郎の素質にいち早く気付き、彼の魅せる演技に惚れ込んだ。
大五郎がより輝くように脚本の指導をし、演出にも拘りを出しながら、米崎自身も徐々に裏方としての頭角を現していった。
人一倍演劇に対して熱心だったのは間違いなく米崎だったが、その入れ込みようは部員から反感を買うことも多かった。
有り体に言えば、厳しすぎたのだ。
反復練習を異常なまでに繰り返す彼のやり方は、後輩や一部同期から秘かに『鬼崎メソッド』などと呼ばれており、米崎に対し明確な異を唱える者もいた。
楽しくやりたいのに。
思っていた演劇と違う。
そういった意見が出ること自体は、米崎も予想していた。
それでも、自分が描いているように劇が完成し、大五郎が華々しく舞台を彩ることができれば、この上ない達成感を全員と共有できるだろうと信じていたのだ。
だが、そんな理想図は部員達には共有されず、あくまでスパルタを押し通す米崎のやり方には無理がたたっていった。
一部始終を知る大五郎は、部員たちの心情も分かる反面、米崎の努力も買っていたのでどちらも無下にすることができず中立を取っていたのだが、たまり続ける不満を無視することもできず、目に余る時には自ら割って入るようになった。
以来、部の最終決定権を握るのは大五郎になり、米崎は補佐という形に落ち着いた。
部長、副部長という立場もその一件によって決められたものだ。
一方で、大五郎には指導者としての能力が皆無だったため、通常時の指導と運営はこれまで通り米崎が行っている。
そして今のように、米崎の行動が目立った時に大五郎が制するという流れが出来上がっていた。
しかし今回、その争いは大五郎が原因で起きている。
そんなことには全く気付かず、部員たちの生真面目さを愛おしみつつも愁いながら、大五郎は呑気に脚本を手に取った。
「ほぉ、今回は特殊能力が出てくるのか、面白そうだな。何々、人に触るとその人の考えていることが、分か……る……主人、公……」
話している途中で大五郎の表情が曇る。
ほら見たことか、と米崎が睨み、矛先を向けられた吾妻はバツが悪そうに俯いた。
「……これは、そうだな。面白い、面白いが……」
大五郎の動揺が明らかになる。
目はあからさまに泳ぎ、額からは脂汗が滲んでいる。
そして、
「だから言ったろ。この脚本は大五郎には無理だ」
吐き捨てるように米崎が言う。
それに反論したのは、吾妻ではなく当人である大五郎の方だった。
「……いや、やってみなくちゃ分からん、だろ」
「そんな死んだ表情で言われても、全く説得力がないな。今までも散々試してきただろ」
「だが! 今回こそはいけるという可能性もあるだろう!」
頑なに態度を変えない大五郎に対し、米崎は露骨にため息を付いた。
「……見浦。悪いが、頼む」
「は、はいっ……」
小道具担当である、一年の見浦蓮美(みうらはすみ)に声がかかる。
大人しく、自己主張も薄い地味な少女であるが、だからこそ大五郎の相手にとって最も適当であると米崎は考えた。
「そ、それでは大五郎さん。えっと……どうぞ」
「お、おう。では……いくぞ」
恐る恐る、大五郎が手を伸ばす。
同じように、見浦の方も大五郎に手を差し出した。
指と指がゆっくりと近付き、触れ合おうとした正にその瞬間。
「ひゃうんっ! やっぱ無理ぃ!」
手を引っ込めながら、黄色い悲鳴を上げたのは見浦……に触れようとした、他でもない大五郎の方だった。
大五郎は一瞬だけかすった指を即座に振りほどき、コケるように後ろへ倒れ込んでいく。
その様子を予測していた男子部員が彼の降下地点でしっかりと受け止めた。
周りの部員たちは、何も言わない。
誰もがこうなることを理解して、同じように誰もが気まずそうに大五郎から目を反らした。
いくら見慣れたとはいえ、部長が後輩に抱えられて目を回している様を見るのは気分がいいものではない。
ましては、それが女性に触れられたことによって起こったなど。
目では確認できても、頭では理解できないのだ。
「……やはり、駄目だったな」
「う、うん。そうだねぇ……」
諦め半分といった様子で、米崎と吾妻が大五郎を一瞥する。
女性に触れられない。
それが、豊島大五郎の唯一にして最大の欠点であった。