やりかけの、球がバラバラになったままの状態で取り残されていた台。
あれは、自分の視力に異変を感じ、不安を覚えて生きる中での、男が見つけたささやかな楽しみであったのだろうか。
あの場にいた、とある生徒との時間も含めて、大切な時間だったのだろうか。
「……何が、あったんですか。その目に」
ようやく落ち着いてきたのか、僕の肩から手を離して、再び足を前に出す男。
この人が、なぜわざわざ歩いてここまで来たのか、理由が分かった気がした。
「はは、忘れちゃったな……でもたぶん、病気だったんだよ。なんて病か断言出来ないけど、いきなりやってしまったんだ」
「そうだったんですか」
「うん。でも幸いにも、そんなボクを妻や娘は見捨てなかったみたいだね。ボクが生きていけるように色々な事を与えてくれたようなんだ……それすらも、忘れちゃったけど」
肌寒さを感じる外の空気に、やさしく風が吹く。
頬を撫でる冷たく冷えた感覚。
近くの木々の蕾は、儚く揺られている。
「忘れちゃダメなのに――忘れてしまう」
呟いてから男も咲いてない木を、わずかな視界の中で見つめる。背の高い、春を待っているだけの、その花を。
「……ああ、思い出したよ。娘はさ、昔から花が好きだったんだ。というのも、妻が花屋を営んでいてたから。ボクはめっきり花の事なんて分からなかったけれど、楽しそうに、妻が語る花の話を聞いていたっけな……ボクも少しは花言葉でも覚えておけば良かった。目が見えなくなる前に、さ」
再び男が立ち止まる。そのまま動かず、首を上に向けたまま、じっと近くの木々を見ている。
……いや、きっと、見たいけど見れなくて、視点だけそこに合わせているだけなのかもしれない。
記憶を思い出せば、ぼやけた視界になってしまうから。
本来の、あるべき姿に戻ってしまうから、そうか遠い思い出だっただけだと、そう自分に言い聞かせてるのかもしれない。
向こう側に、渡る前の自分へ。
「青色の桜だ」
「え?」
男が、ポツリと言葉を零す。
視線は変えず、そこに生える木々に向かって、誰かに伝えるように、そして芝居をするように。
あれは、自分の視力に異変を感じ、不安を覚えて生きる中での、男が見つけたささやかな楽しみであったのだろうか。
あの場にいた、とある生徒との時間も含めて、大切な時間だったのだろうか。
「……何が、あったんですか。その目に」
ようやく落ち着いてきたのか、僕の肩から手を離して、再び足を前に出す男。
この人が、なぜわざわざ歩いてここまで来たのか、理由が分かった気がした。
「はは、忘れちゃったな……でもたぶん、病気だったんだよ。なんて病か断言出来ないけど、いきなりやってしまったんだ」
「そうだったんですか」
「うん。でも幸いにも、そんなボクを妻や娘は見捨てなかったみたいだね。ボクが生きていけるように色々な事を与えてくれたようなんだ……それすらも、忘れちゃったけど」
肌寒さを感じる外の空気に、やさしく風が吹く。
頬を撫でる冷たく冷えた感覚。
近くの木々の蕾は、儚く揺られている。
「忘れちゃダメなのに――忘れてしまう」
呟いてから男も咲いてない木を、わずかな視界の中で見つめる。背の高い、春を待っているだけの、その花を。
「……ああ、思い出したよ。娘はさ、昔から花が好きだったんだ。というのも、妻が花屋を営んでいてたから。ボクはめっきり花の事なんて分からなかったけれど、楽しそうに、妻が語る花の話を聞いていたっけな……ボクも少しは花言葉でも覚えておけば良かった。目が見えなくなる前に、さ」
再び男が立ち止まる。そのまま動かず、首を上に向けたまま、じっと近くの木々を見ている。
……いや、きっと、見たいけど見れなくて、視点だけそこに合わせているだけなのかもしれない。
記憶を思い出せば、ぼやけた視界になってしまうから。
本来の、あるべき姿に戻ってしまうから、そうか遠い思い出だっただけだと、そう自分に言い聞かせてるのかもしれない。
向こう側に、渡る前の自分へ。
「青色の桜だ」
「え?」
男が、ポツリと言葉を零す。
視線は変えず、そこに生える木々に向かって、誰かに伝えるように、そして芝居をするように。