だからおそらく、夕焼けにその『本来の記憶』を溶かされないように、先にこの街に居た"ある人"が僕に対して、してくれた事があったのだ。
そう――先ほどまで身に着けていたストップウォッチ。
これがそれに当たる。
この街の時間は止まっていて、ずっと居ると色々な記憶を忘れていく。
その中でストップウォッチは、自分の手で時間を示す事ができ、止まった時間の中で、指針的な役割を果たしてくれる。
実際、僕は二十四時間で一周するストップウォッチとともに毎日を過ごし、一日三食と睡眠時間、その他諸々の生活リズムを整え、さらに学校に行っては義務教育の時間割をきっちりと消化し、登下校を日付通りに行った訳で、時間を無くてした街に於いてのれっきとした時計の役割を果てしていた。
そうやってストップウォッチを頼る事によって『本来の記憶』と同じような生活を送り、なんとか全部を忘れないように済んだのだ。
 全てを忘れた場合はどこか遠くの場所へいざわれてしまう……それこそ僕にストップウォッチを預けてくれたその人がいつの間にか消えた時のように。
 その人が、居なくなった時に言ったように。
 しかし少し前に忘れ物に気付いて、戻って来たその人と同じように。

 嘘の時間を終わらせる為に――。

「じゃ、ボクは先に戻るよ。その冊子、キミに渡せてよかった」
 どこまでも続くような気さえする長い廊下を見据えて、男は職員室を出る。
 窓の外には揺らめき始めた雲と、怪しい色味をちりばめた空。
「あの、いいんですか。これ、取りに来たんですよね?」
そして、ただはがれていくだけの夕焼け。
「うん。でも、やっぱ完成版がいいからね。それに本当はあの子が持って来てれるんだろ? その忘れ物を……なら、ちゃんと完成した状態でさ、向こうで会った時にもらうよ」
 はちみつ色に照らされた廊下を男はゆっくりと玄関へと歩いていく。僕もその後ろを渡された冊子を片手に進んでいく。
 コツンコツンと、二人だけの足音は、やっぱり寂しい。
「ボクはね、最後まで"いとまごい"出来なかった。だから、キミだけでもちゃんとしてあげてよ。その子、大切な人なんだろ?」
「……いや、ただの幼馴染ですよ。これかも」
「そうかい。そう、だよね」
 靴を履き替えて、玄関を出る。男はそのまま僕より先へ歩き、そのはがれたオレンジ色の空を見上げていた。
「自転車かい?」