部屋で待ってもらい、お茶を持っていく。お礼を言って螢くんは一口飲んで、息を吐くと、コップに視線を落としたまま口を開いた。
「菫さんって、海、好きですか?」
「えっ、うん、まあ、どちらかというと」
とうとつな質問に、つい口ごもってしまう。
「冬の海って良くないですか? 空気がぼやけて、夏よりぜったいきれいですよ」
「どうしたの、螢くん?」
窓の外を見据えながら淡々と言ってきて、おもわず螢くんの肩を揺らしてしまった。すると螢くんは頬を掻き、私の目を見つめる。
まるで、カメラを覗いているときみたい真剣な眼差しだった。
「いっしょに、海に行きたくないですか? それも、泊りがけで」
固まって、「えっ」と声を漏らしてしまった。
いったい、なにを言っているんだろう。
たしかに行きたいけど、それを私に行ったところで意味なんてない。そういうのは、きっと他の人と行ったほうが楽しいに決まっている。
そうだ、蓮を誘えば良いんだよ。
それを伝えようとするけど、すっと、私にスマホを見せてくる。
ホテルのホームページが映っていて、そこには海が一望できるホテルの一室の画像があった。
でも、どんな表情をしたら良いか分からなくて、顔を上げる。
そこには夕焼け色に頬を染めた、少し照れたような笑みが待っていた。
「菫さん、今度、旅行に行きませんか?」
空いた口が塞がらなかった。下を向いて、胸にかかる髪の毛先をいじっていた。きゅっと、きつく掴んでしまう。
旅行、私が?
そんなの、無理に決まっている。
たった数時間しか起きていられない私に、そんな大掛かりなことができるはずがないのに。
どう答えたら良いのか分からなくて、いつまで経っても下を向いていると、螢くんは私の肩を優しく叩いた。
「大丈夫です、考えはあります」
螢くんはスマホをすらすらと操作していく。目配せを織り交ぜながら、丁寧に話してくれた。表情を汲み取ったのか、それとも元々準備していたのか、螢くんにしては珍しく余裕のある行動だった。
関東県内に絞って、穴場スポットを調べてくれていた。移動にあまり時間を取られないためにも、そうしたらしい。
写真越しでも底が見えるくらい、透き通った青い海だった。水平線が、きらきらと星屑みたいに眩しかった。
じっさいに見たら、どれだけきれいなんだろう。
今はもう薄っすらとしか覚えていない、潮風や冷たい海を思い浮かべて、つい、子どもみたいに期待を膨らませてしまう。
けどそれといっしょに、とうとつな眠気が襲ってくる。瞼が落ちそうになるのを、ぐっと堪える。螢くんがいる前で、眠るわけにはいかない。
それでも私の中に流れている毒が、つたで締めつけるようにゆっくりと体の自由を奪っていく。
まるで、現実を突きつけてくるようだった。
左右に首を振り、私はどうにか笑顔を作ってスマホを押し返した。
「私にはむりだよ。じっと、花びらが散るのを待つしかないんだよ」
そっと、瞼を落とした。目のふちが熱くなってきて、零れ落ちてしまいそうだったから。
それと自分自身、なにを言っているのか分からなくなっていた。いつも通り、それとなく受け流してしまえば良いだけだった。行けたら良いね、ってこの先があるみたいに誤魔化せば丸く収まるんだから。
こんなこと、言うつもりなんてなかったのに。
眠くて仕方がなくて、頭があまり回ってくれない。
ぜんぶ、ぜんぶ、植物病のせいだ。
どうして、私なんだろう。
でもそれを含めて、今の私だった。
十年ほど経った今、それをどうこう言うつもりなんてない。
「だから」
「菫さん」
螢くんは言葉を遮るように、私の唇に、そっと人差し指を重ねた。その視線の先には、私を見つめて微笑む、螢くんがいた。
「菫さんのおかげなんです。写真を撮る楽しさを、思い出せたのは。だから僕は、菫さんのためになにかしたいんです」
目を何度か瞬きしてしまうと、彼は口から手を離し、私と目を合わせたまま手を握ってきた。
その手は、少しばかり震えている気がした。
「ぜったい、楽しくしてみせます。僕を、信じてくれませんか?」
私はゆっくり頷いた。
けど、ずっと下を向いていた。
口の中で転がしている綿あめみたいに、顔が綻んでいくのが止まってくれなくて、手で顔を覆ってしまう。顔を上げることなんて、できるはずもなかった。
無理だと思いつつ、密かに行きたいとは思っていた。そのことに気づいてくれていた、ということもあるけど、それが一番ではなかった。
私はずっと支えられてきた。
病院の方たちや学校の先生と同級生たち、家族。
そして、螢くん。
本当に、いろいろな人たちに。
それなのに家族を壊して、隠しごとをして螢くんを傷つけて、助かりもしないのに迷惑ばかりかけ続けて。
本当に、どうしようもないのに。
それでも螢くんは、私のおかげだと言ってくれている。
こんなことを言われたのは今までなくて、私はどんな顔で螢くんを見れば良いんだろう。
だれかのためになること。
こんなこと、だれかにとってはすごく些細なことなんだと思う。
でも、私にはなにより特別なことなのかもしれない。
だって、こんなにも胸が張り裂けそうな気持ちになったのは、生まれて初めてだったから。
「菫さん」
なぜかティッシュを差し出してきた。
見上げると螢くんの眉は垂れ下がって、じっと私を心配そうに見据えていた。首を傾げてしまうと、螢くんは頬の当たりにティッシュを当てた。
見てみると、濡れていた。
泣いてるんだ、私。
「大丈夫、ですか?」
螢くんは、ぽんぽんと涙を拭ってくれた。
自覚したからなのか、どんどん視界がぼやけていく。きゅっと服の裾を握り、私は首を縦に振って彼を見つめたら、あっという間に笑顔なっていた。
「螢くん、ありがとう」
固まっていた螢くんだけど、少ししたらいっしょに笑ってくれた。そのあと私は、また涙が溢れ出てしまった。
螢くんが帰ってしまうと、とたんに眠くなってくる。なんだか、今日はいつもよりぐっすり寝られる気がした。
布団に入っても中々寝つけなくて、気絶してしまうことが多かった。
だけど螢くんのことを思っているうちに、いつの間にかちゃんと眠れる日が多くなっていた。理由は分からないけど、螢くんを思い出したり写真を見たりしていると、なんだか心が穏やかになることは確かだった。
一時期会わなくなったときから、いつの間にか、螢くんは私の中で大きくなっていた。
気づけば、思い浮かべるのは彼のことばかりになっていた。
それといっしょに、不安でいっぱいだった、ずっと。
写真のために、一緒にいるんじゃないかって。
でもそうじゃないんだって、さっき、螢くんは教えてくれた。だから涙が出てしまったのは、たぶん、そういうことなんだと思う。
さっきの「ありがとう」には、本当は続きがある。
だけど零れ落ちる前に、ぎゅっと心の奥深くに押し込めていた。
限りないくらい積もっていくけど、ぜったいに口にしてはいけない。
散っていくだけの、実を結ばない花。
あだ花にはふさわしくない、そんな言葉だった。
かすかに、塩の香りがする。
窓から張りつくような湿った風が吹き込んで、覗き込めば、真っ白な砂浜が細かく光っていた。先の見えない広大な海が、すぐそこにはあった。
写真を撮ったら、どんなふうに映るんだろうか。
そんなふうに思い浮かべてみるけど、僕が手に持っているのは、一眼レフカメラでもなく、ミラーレスカメラでもなく。
プラスチック製のトランプ、ジョーカーだった。
「はーい、私の勝ち」
「菫さん、強すぎじゃないですか?」
「入院中死ぬほどやったからね。今はもう負ける気がしないよ」
僕、嶋野螢が少し項垂れていると、菫さんはこっちを見ながらにやにやしていた。僕は小さく息を吐き出し、トランプをかき集めてシャッフルすると、彼女は両手で頬杖をついた。
「まだやるの?」
「やります、勝つまで」
ふふっと噴き出す声がしたけど、聞こえないふりをした。
新年を迎えた後の冬休み中、約束通り僕たちは旅行に来ていた。
泊まっているのは海の近くのホテル。
なのに僕たちは、部屋の中でトランプをやっていた。
寝る前でも良いんじゃないか、とは言ったんだけど、菫さんは今したいらしい。ずっとババ抜きをやっていた。でもけっきょく一回も勝てないまま、海を見に行くことになった。
「あ、ちょっと待って」
菫さんはポーチを手に持って、お手洗いに行った。
紫色の花柄のポーチで、彼女にピッタリのだと思った。
おそらく、化粧直しだろう。
数分したら戻ってきて、僕たちは部屋を後にした。エレベーターに乗って一階に降りると、若い女性二人とすれ違った。そのとき「カップルかな。めっちゃ美人だよね」という声が微かに耳に入った。
となりでくすりと笑う声が、しっかり聞こえてきた。
「私たち、カップルに見えるんだね」
「まあ、男女でいればだいたいそうなんじゃないですか?」
「ふーん」
「なんですか?」
横目でじっと見てきて、つい聞いてしまう。菫さんは自分の頬に指を刺した。
顔、赤くなってるんだろうか。
とっさに頬を押さえて、ぺたぺたと触ってしまう。すると彼女はまた声を出して笑った。少し睨みつけてしまうけど、僕はすぐにやめていた。
なぜか彼女が、枯れ葉が落ちるのを眺めているときみたいに、眉を顰めて笑っていたから。
「でも、なんか不思議」
「そうですか?」
首を傾げて聞くと、菫さんは体を強張らせてゆっくりと僕のほうに向いて、左右に首を振った。
「ただ、なんとなく思っただけ」
菫さんはにこりと微笑み、「今日は一段と寒いね」と話しかけてきた。話題を変えられてしまって、掘り返すこともできなかった。
なんだか、違和感があった。
でもこういうことは、たまにある気がする。
とても悲しそうに笑ってから、僕を見て優しく笑う。
僕はその度に、少し心がざわついてしまう。
その表情はまるでなにかを悟ったみたいに弱々しくて、今すぐにでも壊れてしまうんじゃないかって、すごく心配になる。
僕に、なにかできることはないだろうか。
そんなことばかり、このごろずっと考えている。
菫さんにはいつだって、幸せそうに笑っていてほしいから。
ドアを開けたときに感じたのは、湿った冷たい海風と、口の中がじゃりじゃりしそうなくらいの塩臭さ。
それと、おもわず目を細めてしまうくらい眩しい、沈み欠けた太陽の日差しだった。
「きれいだね」
本当に子どもみたいに目を輝かせて、波と風の音にかき消されそうな声で菫さんは言った。これを見られただけでも、いっしょに来られて良かったと思えた。
立ち尽くして、おもわず目を細めてしまう。声も出ないくらいきれいで、僕はすかさずカメラを向けた。
でも海ではなく、彼女の横顔をカメラのフレームに収めた。
僕はその写真をディスプレイに映し出し、瞳の部分を拡大する。その瞳には、くっきりと景色が映し出されていた。
まるで、鏡みたいだった。
「こんなときも写真?」
振り向くと、菫さんはそよぐ髪を押さえ、にいっと唇の端を伸ばしていた。僕は小さく笑ってしまってから、また彼女にレンズを向けた。
手でも抑えきれないくらい強い風が吹いて、彼女の長い髪を細かく梳(と)いていく。
「こんなとき、だからですよ」
ぱしゃりとシャッターを切る。彼女は風向きとは反対を向いて微笑み、風に笑いかけているみたいだった。
被写界深度を開かなくても夕焼けが霞むくらい、彼女はひときわ輝いていた。
「寒いね」
菫さんは体を擦っていた。たしかに今日は風が強くて、天気予報でも今季最大の寒波だと言っていた。
僕はマフラーを外し、菫さんの首に回した。彼女は目を丸くしてから、首に巻かれたマフラーを握った。
「悪いよ。螢くんが冷えちゃう」
「大丈夫です。こう見えて、僕、暑がりなので」
マフラーを握り、さっきより強く縛る。すると彼女は目を瞬(しばたた)かせて、マフラーに口元を埋(うず)めた。「ありがと」と声を籠らせて、僕は海を見ながら「はい」とだけ言った。
菫さんは微笑み、僕と同じところを見据えて微笑む。
「なんだか、とても霞んで見えるね」
「冬(ふゆ)霞(がすみ)、ですね」
ぽつりと、声が漏れていた。菫さんは僕のほうを向いて、地平線で欠けている太陽のように目を細めた。
「どういう意味なの?」
「冬の朝とか、夕方に遠くの景色がぼやけて見えるので、俳句ではそういうふうに表現することが多いそうです」
僕は空をぼんやり見ながら言うと、ふふっと、小さな笑い声が聞えてくる。
「それも、中学生のときに知ったの?」
「それはもう、忘れてください」
唇の端を上げていて、僕はそっぽを向いて頬を掻いてしまう。けどとなりから笑い声が聞えてきて、僕もつられて笑ってしまった。
二人で、夕焼けをバックにツーショットをスマホで撮った。
再び会うようになってから、こういう写真を撮ることも多くなっていた。恥ずかしいから僕からあまり言うことはなくて、だいたい菫さんから誘ってくれる。
はあっと息を吐いた。ふわふわと、空に浮かぶ雲に溶け込むように登っていく。僕にも、この景色はとても澄んで見えていた。
でも、本当に季節のせいなのかなって、考えてみたりもしている。
もう一回、菫さんのほうを見る。すると彼女は顔を綻ばせて、僕はシャッターを切っていた。僕も気づけば、同じように笑っている気がする。
もしかしたら、理由はなんだって良いのかもしれない。
菫さんといっしょなら、どんな景色も透き通って見えるような、そんな気さえしてくるから。
菫さんは、僕の肩を突く。じっと、地平線のほうに目を据えていた。
「私、今なに考えてると思う?」
とつぜんそんなことを言ってきて、僕は首を傾げてしまう。
「それは、この景色を見て、ということですか?」
菫さんは頷き、僕は顎に指を添えていた。
彼女のことだからきっと、きれいとか、広いとか、普通のことは言わなさそう。もっと、意味がありそうな言葉を言いそうな気がする。
「そうですね……世界が溶けてなくなってしまいそう、とかですか?」
菫さんから、ふふっと噴き出す声が聞えた。
「それは私じゃなくて、こじらせてた螢くんが思ったんじゃないの?」
「それ、ずっと引きずるんですね」
少し睨みつけるようにして瞼を狭めると、菫さんはもっと笑みを深くした。すると彼女は「座らない?」と段差を指さしながら言って、僕は頷いた。
きっと、もう少し夕焼けを見ていたいんだろう。
それは僕も、同じ気持ちだった。
少し近づいたからか波の音が大きくなって、気づけばぼんやりと、僕たちは日の入りを眺めていた。
なにもしない時間が、しばらく続いた。
せっかく旅行に来たのに、という思いが頭を過ぎるけど、僕はあまり話しかける気にはなれなかった。
そんな時間も、ありなんじゃないだろうか。
今の僕には、なんだかそう思えていた。
でもそろそろ時間もないから、いつまでもこうしているわけにはいかない。
帰りましょうか、と菫さんに声をかけようとした。
けど。
柔らかくて、くすぐったい、石鹸の匂いをしたものが頬に触れた。
肩に、温かいなにかが乗っかった。
そこには、菫さんの頭があった。
すぐそこに彼女の顔があって、呼吸の音が直に鼓膜へ触れるみたいに聞こえてくる。顔が、ぶわっと熱くなっていくのを感じる。
どきっとしてしまった。
幸せだと、思ってしまった。
だけどそれは、本当に一瞬のことだった。
おもわず目を見開き、固まってしまった。肩には遠慮を感じないような重さがかかっていき、だんだんと吐息が荒くなっていく。
まさか……。
とっさに菫さんの腕を掴んで、揺さぶろうとした。
けど彼女の手が、僕の手に触れた。
「大丈夫、ただ、少し眠いだけ」
そう言って薄っすらと笑みを浮かべ、空を仰ぎ、深く息を吐き出してしまった。とにかく、安心していた。
でも胸は苦しくて、水の中にずっといたときみたいだった。
菫さんは無理をしていたのに、僕は……。
そこで僕は、ハッとなって口を半開きにしてしまう。
菫さんが座ろうと言ったのも、話そうとしなかったのも、体が辛かったからだろうか。
それなのに、浮かれていたせいでまったく気づかないで、いつまでも海なんか眺めて、幸せだなんてのんきに思っていた。
彼女が植物病だって、僕は知っていて側にいるのに。
本当に、馬鹿みたいだった。
薄く伸びた影に目を落としていると、菫さんは僕の目の前で手を振った。それから、夕焼けに向かって指差した。
菫さんの瞳は、海みたいに夕焼けが輝いていた。
「思っていたことなんて、ほんとに、なんでもないことだったの。ただ、螢くんといっしょに見れて良かったなって、そう思っただけ。本当に、それだけなの」
菫さんは海風に逆らうように、めいっぱい笑っていて、花が咲いているみたいだった。
僕の手を、きゅっと握った。
ほんの少しだけ震えているのを、今度は見逃さなかった。
「他の人には、この景色がどんなふうに咲いてるんだろうね」
なびく髪を押さえながら、菫さんは僕の目を見つめていた。
頭の中を覗いてくるような、澄んだ眼差しだった。
菫さんには、僕がどんなふうに見えているんだろう。
絶対に口にはしないだろうけど、どんくさいとか、気が利かないとか、思っている可能性もある。
もしそうだとしたら、僕は立ち直れないだろうな。考えただけで、落ち込んでしまいそうになる。
でも思えば、それも僕から見えた景色でしかないのかもしれない。
ぜんぶ、僕の想像でしかないんだから。
少し元気が戻ってきた菫さんは、大きく伸びをして立ち上がり、僕たちはホテルに戻ることにした。お互い、部屋でシャワーを済ますことにした。僕が上がったころには、菫さんはベッドに寝転んでいて、僕は電気を消そうとするけど。
「楽しかったね」
振り返れば、菫さんは俯せのままこっちを向いていた。
「寝てたのかと思いました」
「寝てないよ」
「寝なくて良いんですか?」
「大丈夫、まだ」
枕に顔を沈めて、声を籠らせていた。椅子に座っていると、菫さんは僕の名前を呼んで手招きをした。となりのベッドに腰掛けると、菫さんは枕元にからひょこっと顔を出して、手をかざしてきた。
「写真、見たいな」
僕は頷き、カメラをプレビュー状態にして渡す。菫さんは見ている間、何度も欠伸をしていた。とても眠たそうで、僕はペットボトルの水を渡す。
でも彼女は、ペットボトルの蓋すら開けられなくなっていた。
「ごめん、空けてもらって良い?」
「あ、はい」
開けてあげると、ほんのちょびっとだけ飲んだ。いくつか見てから、僕のほうをすっと見上げた。
「写真、撮る回数減ってたりする?」
「そんなことは、ないと思いますけど」
「そっか」と菫さんは欠伸をしながら、カメラをこっちに向けた。もう、満足したんだろうか。とりあえず、受け取ろうとした。
けれど、菫さんは手を離してくれなかった。
「一つ、お願いがあるの」
「なんですか?」
菫さんは僕の服の裾を握って、二回引っ張る。こっちに来て、ということだと思って、そっと彼女のそばに顔を近づけた。
彼女は、耳元で囁いた。
「――」
「えっ、どういうことですか?」
僕はおもわず目を見開き、聞き返してしまった。けど菫さんは小さく笑って瞼を落とし、眠ってしまった。
いったい、どういう意味なんだろう。
本当にこれが彼女の望みだとしたら、とうてい僕には理解できないことだと思った。でも今は確かめようがないから、ひとまず叶えてあげるしかなかった。
体が冷えないように、布団を首元までしっかりかけてあげから、僕は椅子を窓の近くに置いて座った。
窓の外からは、さっきの海が一望できた。
今日は、楽しかったな。
いっしょに旅行に来られたこともそうだけど、いっしょにゲームをしたり、カップルだと勘違いされたり、二人で並んで海を眺められたり、
そのせいで僕は今日、けっこう浮かれていたのかもしれない。
植物病だって、忘れてしまうくらいに。
他の人からすれば、どう見ても普通の女性で、どこをどう見ても植物病には見えないんだと思う。
見えてないから、他の人と同じように接することができる。見えかただけでがらりと、なにもかもが変わってしまう。
見えかた、か。
僕はどんなふうに、これから菫さんを見れば良いんだろう。
植物病としてなのか。
それとも、忘れてしまえば良いのか。
だけど、どっちを選んだとしても、間違えているような気がしてならなかった。もう、わけが分からなかった。
窓に反射している自分の顔が見えて、僕は一気にカーテンを閉め切って、下を向いてしまう。
とても、情けない顔をしていた。僕は大きく深呼吸をして、手の力を緩め、近くにあった水をいっきに飲み干した。カーテンがしわくちゃになっていた。
薄く夕日が差し込んでくる天井を見上げながら、そっと瞼を落とす。
僕はカメラを手に取り、電源を入れた。
彼女のお願いを、叶えるために。
満開だった桜の面影はもう、あまり残っていない。
雨が降ってしまったせいだった。桜の花と葉が散りぢりになって、しんなりしていて、アスファルトにたくさん寝そべっている。
大学の授業が終わって外に出てみると、曇り空から薄っすらと夕日が差していた。暖かくなってきて、ジャケット一枚を羽織るだけでちょうど良いくらい。
蓮と待ち合わせをしていて、入り口で待っていると、数分して「お待たせ」と時間ぴったりに来た。
大学の大通りには桜の木があって、僕たちはその真ん中を歩いていた。新入生がサークルの勧誘を受けていて、そんな時期もあったな、と誘いを全て断った僕は思った。
蓮は新入生なんかに目も呉れず、じっと桜に目を凝らしていた。
「今年の桜は、短かったな」
「まあ雨だったし、しょうがないね」
桜をしり目に歩いていると、「そうだ」と急に蓮は振り向いてきて、僕は立ち止まってしまった。
「桜餅、買ってこうぜ」
「どうして?」
首を傾げてしまうと、蓮は小さく笑みを浮かべ、緑が生え始めている桜の木に目を据えた。
「母さん、桜餅好きだから、春にはいつも買ってってんだよ」
「そっか。でも、食べすぎは良くないよ」
「なんで?」
僕は桜の木の下まで行ってしゃがみ、桜の葉を拾って蓮に渡した。
「桜の葉にはクマリン、っていう毒があるからね」
「マジかよ」
慌てたように投げ捨てていて、僕はつい噴き出してしまう。鋭い目つきでこっちを見てきて、僕は咳払いをして桜の木の下に指をさした。
「本当だよ。ほら、桜の木の下にはあまり雑草が生えてないでしょ? それも、クマリンっていう毒のせいなんだよ。でも触っても大丈夫だし、桜餅も食べ過ぎなきゃ大丈夫だから」
「螢って、無駄なこと詳しいよな」
「一言余計だよ」
そう文句を言えば、蓮はからからと笑う。僕もつられて笑ってしまうけど、口下がうまく上がってくれなかった。少し、ぎこちなくなっている気がした。
それは、一つの懸念があったから。
「念のため、菫さんには食べさせないようにね」
「まあ、そうだな。念のためにな」
蓮は桜の木に目を澄まし、襟足をいじる。でもすぐにまたおおげさに笑って、あいかわらず太陽みたいなやつだと思った。
「今日も、来るだろ?」
「……うん、菫さんに会いにね」
少し間が開いてしまうけど、なんとか頷いて笑みを浮かべることができた。それを見て蓮はいっそう唇の端を上げて、先を歩いていく。僕はほっとしたい気持ちを心の内に潜ませ、あとを追いかけた。
南寄りの風が、頬を掠めていく。花の香りがどの季節よりも強くて、町の色もそこはかとなく明るくなっている気がする。
春は始まりみたいな、そんな風潮がある。
始めたり、変われたり、なにかときっかけにしやすい、そんな季節。
だから、春を待ち望んでいる人は多いのかもしれない。
でも今の僕には、大学三年生になったことも、成人したことも、どうでも良いような気がした。
春と夏の間には、梅雨が待っている。
春一番が僕の中に吹き抜けて、隠そうとしているものをぶり返してくる。
左右に首を振って、まだ大丈夫だと、そう心で繰り返す。
夏の思い出も、きっと映せる。
梅雨で、終わったりなんかしない。
レンズ越しで見ている僕には、とてもそんなふうに思えないから。
菫さんの家に着くと出迎えてくれたのは、菫さんのお母さんと蓮のお父さん、花(はな)さんと輝(ひかる)さんだった。
今年の春から、結婚はまだしないけど、四人でいっしょに住むことになったのだと、菫さんから聞いた。
しかも意外なことに、蓮が率先して仲直りさせようとがんばっていたらしい。
ちらりと、蓮のことを見ると目が合った。
「なんだよ」
「良かったね、仲直りできて」
僕は前にいる二人を見ながら、つい口角を上げてしまうと、蓮はぼんやりと同じところを眺める。「まあな」とくすりと笑って、横目で目配せしてきた。
「菫さん、すごく喜んでたよ?」
蓮はすっと視線を逸らし、うなじにかかる襟足に触れた。
「あっそ」
そんなふうにぶっきらぼうに言う蓮だけど、その頬はほんのりと赤く染まり、目じりは山なりに円を描いていた。
こういう始まりがあるんだと思うと、春も悪くないなって思える。
それに、春が梅雨の前で良かった。
もし梅雨が春の後だったら、この光景を菫さんは見ることができなかったかもしれないから。
まだ菫さんが目を覚ますまで時間はあって、僕と蓮はリビングでコーヒーとお菓子を食べていた。そこには、花さんと輝さんもいた。
「ありがとうね、いつも来てくれて」
「いえ、来たくて来てるだけなので」
「良かったわね、蓮。良い友達ができて」
「うるさいよ、母さん」
二人のやり取りに、僕はつい笑ってしまう。すると花さんはこっちを向き、ニコリと微笑んだ。菫さんの笑顔は、母親譲りなんだろうと思った。
「これからも、いつでも遊びに来て良いからね?」
「……はい」
僕は少しだけ間を開けてしまって、それから、なんとか笑顔になることができた。
花さんは別に、なにか意味を込めて言ったわけじゃないんだろうけど、いっしゅん、頭を掠めてしまった。
梅雨を越えた、夏のことを言っているんじゃないかって。
「螢くん、菫がもう来て良いって」
花さんにそう言われ、僕たちはリビングを後にした。菫さんの部屋の前に着くと、蓮は「んじゃ」と手をひらひらとさせて、自分の部屋のほうへ歩いていく。
「前から思ってたんだけど、蓮は来ないの?」
肩を掴んで言うと、蓮は浅く息を吐いて横に首を振った。
「俺は良いよ。姉さんの顔なんて、もう見飽きたしな」
蓮はそう言って自分の部屋に入ると、つい、僕は頬を掻いて下を向いていた。
たぶん、気を使ってくれているんだろう。
僕にとっては嬉しいことでもあるんだけど、家族の時間を奪っているんじゃないかって、たまに感じてしまう。
左右に強く、首を振った。無理やりにでも、指で唇の端を引っ張り上げてから、両頬を軽く叩く。変な顔で、菫さんに会うわけにはいかない。
ドアを開けると、菫さんはベッドの上で座っていた。