レンズ越しに、一凛のとこ花

 僕がペンケースとかノートとかを出している間に、蓮の周りにはたくさんの学生が集まっていた。
 蓮はイケメンだった。顔はもちろんのことイケメンで、山崎賢人似の正統派。
 けど、なにより内面がイケメンだった。
 人の変化や困っている様子にいち早く気づき、声をかけてくれる。空気が悪くなったときは、率先して和ませることができるし、なにかを始めるときは絶対に蓮からだし。
 とにかく物事に敏感なやつで、みんなを笑顔にしてくれる。
 蓮は、太陽みたいだった。
 だからこそ、蓮が僕のことをどう思っているのか、確信を持つことができないんだろう。僕が知らないだけで、蓮にはもっと仲が良い友達がいるかもしれないから。
 それでも、一番だったら良いな、とは思うけど。
 退屈な九十分の講義が終わると、また一気に蓮のところに人が集まる。蓮が中心にいて、さっきの静かさが嘘みたいに色んな声でいっぱいだった。
 はたから見ていると、もはや自然現象のようにも見えてくる。眠いから寝る、時間が空いたから蓮のところに集まる、みたいな。たぶんどことなく間違っている気もするけど、ニュアンス的にはそんな感じだと思う。
 とにかく、蓮はすごいということだった。
 僕はその周りの一人で、楽しく笑っていた。
 でも僕はバイトがあるから早めに抜け出しすと、蓮に声をかけられた。
「あのさ、明日暇?」
「うん、暇だけど。バイトもないし」
「じゃあ明日学校でさ、分かんなかったところ教えてくんない?」
「良いけど、なんなら今教えようか? バイトまでまだ少し時間あるから」
 そう言って僕はペンケースを取り出そうとすると、蓮は僕の腕を掴んできた。蓮は一瞬目を丸くしてから、手を離して後頭部においた。少しだけ視線が泳いでから、こっちを向いた。
「やっぱさ、明日にしようぜ」
 にこりと笑って言って、僕は少し溜めを作ってしまいながらも頷いた。蓮がグループの中に戻っていき、僕は教室を出た。
 蓮は水曜日だけ、会うことができない。
 そして、今日は水曜日だった。
 なにか用事があるのだということは知っているけど、それがなんなのかは、誰一人として知らなかった。
 スマホを手に取り、蓮とのトーク画面を開いて文字を打った。けどやっぱり打った文字を消して、スリープさせてスマホをしまった。
 なにかあるんだろうか、とつい勘ぐってしまいたくもなるけど、蓮からしたら嫌だろうからやめておいた。
 隠したいことの一つや二つくらい、だれにでもあるだろうから。
 それでも、気になってはしまうのだけど。
 僕がバイトをしている場所は、地元にあるチェーン店の本屋。
 学生にとっては放課後で、社会人にとっては会社終わりの時間だからか、レジのほうを見るとかなり混んでいた。
 控室に行くと、少し息を切らしている店長と出くわした。見るからに急いでいる様子で、僕は挨拶をだけして通り過ぎると、店長はにかりと笑った。
「いやー、いつも来るのが早くてえらいね。いつもギリギリに着て少しだけ遅刻してくる先輩とは大違いだよ」
 先輩のことだからあまり大きく笑えない僕に対して、店長は豪快に笑っていた。更衣室にいる先輩にもぜったいに聞こえているだろうから、たぶん注意も含めたものなんだろう。
 店長は、基本的に優しい。
 失敗しても怒らないし、気配りもしてくれるし。でも、遅刻やバックレに関してはとても厳しい人だった。だから遅刻をしたことがない僕には、きっと優しいんだろう。
「今日は村上春樹の新作が出て混んでるから、がんばってね」
「じゃあ、早めに入りましょうか?」
「良いの? じゃあ、お願いしようかな。レジに行ってもらって良い?」
 僕は更衣室で早めに着替えてから、早足でレジに向かう。不器用なりになるべく急いでかつ丁寧にこなし、なんとかピークの時間を越え、閉店することができた。
 控室でベンチに座って一息ついていると、店長が入ってきた。
「いやー、今日はありがとね」
「いえいえ」
「それにしても、今日混んだね」
「そうですね」
「店的には村上春樹が新作を出してくれたほうがありがたいんだけど、嶋野くんからしたら迷惑な話だよね」
 はははっと笑いながら、店長は僕の前の席に座った。
 でもそこで会話は途切れてしまって、他の人は帰ってしまったから物音一つしない。僕からはなんの話題もなくて、帰ろうかと思ったら、店長は「そういえば」と前置きをした。
「嶋野くんっていつも写真関係の雑誌を社販で買ってるけど、写真、好きなの?」
「はい、そうです」
「じゃあ、自分で撮ったりもするの?」
「そうですね。撮れる日はいつも撮ってます」
「すごいねー。かっこいいとは思うんだけど、値段とか考えたら中々ね。一眼レフカメラだと、何十万とかしちゃうんでしょ?」
「まあだいたいそれくらいしますね。でも、中にはお手頃なやつもありますよ。望遠レンズを買わなければ、安くもなりますし」
「へえ。もうすぐ娘も小学生になるから、買ってみようかな。そのときは、嶋野くんに相談しても良い?」
「はい、大丈夫です」
 僕が笑顔で頷くと、店長は大げさに笑ってお礼を言ってくれた。
 こんなふうに店長は気さくで、話すのが苦手な僕にも気を使ってくれる。
 初めて来たときもそうで、今だって変わらない。
 正直本屋で働くのは、想像していたよりもきつかった。本を運ぶのは重労働だし、物音を立てないように神経をすり減らさなきゃいけないし。店長がいたからこそ、ここでバイトを続けられたと言っても過言ではなかった。
 そろそろ時間も遅いから、帰るための準備をしていると、店長はまた「そういえば」と言った。店長が話し始めるときは、たいていそんな感じだ。
「やっぱ、嶋野くんはプロのカメラマンになりたかったりするの?」
 首を傾げながら聞いてきて、僕は少し肩を強張らせてしまいながらも、笑顔で首を左右に振った。
「いえ、さすがにそこまでは」
「そっか。まあ、ほとんどの人がそうだよね」
 僕は挨拶をしてバイト先を出ると、まだ雨は降っていなかった。
 これなら折り畳み傘の出番はなさそう。一見、無駄に思えるけど、高い一眼レフカメラを守るためなら、僕にとっては大切なことだった。
 僕がバイトを始めたのは、写真部に入った高校から。
 もっと高性能な一眼レフカメラや、その他もろもろのカメラ関係が欲しかったという理由だった。
 といっても、プロのカメラマンになりたいというわけではなく、ただ楽しく写真が取れれば良いだけで、そこまで本気ではない。
 プロになるために写真を撮ったことは、一度もないと思う。
 サッカー部や野球部に入っている人で、絶対にプロになりたいと夢見ている人なんて、ほんの少ししかいないと思う。
 なんなら、一人もいない部のほうが多いはず。
 僕も試しに新人賞に応募したことが一度だけあったけど、かすりもしなかった。
 だから趣味の範囲で最大限できれば、それで良かった。
 夢を見られるのは、本当に手の届くところに夢がある人だけだろうから。
 ドアを潜れば、寒すぎるくらいの冷風と、古い本を蒸したような匂いがした。今日は蓮と図書室で待ち合わせをしていて、約束の十分前に着いた。
 大学なだけあって広い室内を進み、自習スペースに移動して奥のほうまで行くと、蓮はイヤホンをして勉強をしていた。声をかけても返事はなくて、肩を叩くと少し強張らせてからこっちを向いた。
「なんだ螢か」
「教えてあげるのに、それはひどいんじゃない?」
 苦笑を浮かべていると、からからと蓮は笑う。となりの椅子を引くと、そこには蓮のバックがあった。どうやら席を取っていてくれたようで、そのために早く来てくれていたんだろう。
「席、ありがと」
 そう言って座り、トートバックの中からペンケースを出していると、「ははっ」と横から噴き出したような笑い声が聞えた。横を向いて首を傾げていると、蓮はペンを走らせながら口を切った。
「螢のそういうところ、ほんと良いよな」
「どういうこと?」
「そういう素直なこと、言えないからさ、俺には」
 蓮は口元を緩めてこっちを見てから、また手を進めた。僕も課題をしながらも、さっきの蓮の言葉が引っかかっていた。
 ああ言っていたけど、蓮も普段からしっかりとお礼は言ってくれる。だいたいそんなこともできないような人が、人気者になれるわけがないのかもしれない。
 ただ、茶化してきただけなんだろうか。
 その可能性が高いけど、頭の片隅では違うような気もしていた。
 最初のほうは僕が教えていたけど、そのあとはずっと個々で進めていた。この様子だと、自分で解決しちゃったのかもしれない。
 だったら、昨日でも良かったんではないか。
 そう感じつつも、聞くことはできないけど。
 それからもわざわざ今日にした理由が分からないまま、時間は過ぎていった。
 蓮からお礼に奢ってもらったカフェラテを飲みながら腕時計を見遣ると、かなりの時間ぶっ続けでやっていることに気づいて、少し休むことにした。
 スマホをいじっていると振動して、なにかと思って見れば、ニュースアプリの通知だった。内容を見ると、僕は眉を顰めてしまった。
『植物病』の患者が亡くなった、という報道だった。
 この言葉を目にしたり耳にしたりする機会が、年々、増えている。
 それには、わけがあった。
 植物病というのは、かなり稀な病気で、一万人に一人の確率で発症すると言われている。発症すると、本当に少しずつ睡眠時間が長くなっていくという。数年、数十年も経っていくと、その障害は明確になって。
 そして、最終的には植物状態になってしまう。
 その状態から目覚めた患者は、たったの一人もいないらしい。この病気は後天性で、未だに完治させる方法は見つかっていない。そのため、入院生活による延命を余儀なくされる。
 この病気が発見されてから、日本でも安楽死が法的に認められた、とニュース番組で知った。
 他にも、まるでおとぎ話のようとか、もっとも美しい死にかたとか、炎上した発言もあった結果、『植物病』は日本でとても有名な病になっていったらしい。
 だからなにかと報道されていて、必ずと言って良いほど、『植物病』を知らずにはいられないような状況だった。
「植物病の人が、また亡くなったんだって」
 僕はそのことを何気なく、蓮に向かって言った。ちょうど何も話していなかったから、話題になると思ったからだ。
 でも、彼はなにも返してはこなかった。
 眉をひそめてしまいつつも蓮のほうを向くと、彼はなぜかぼうっと下を向いていた。目が、少し大きく開いて見えるのは、気のせいだろうか。
「どうしたの、蓮」
「……ん、ああ、いや、たしかによく見るよな、植物病」
 蓮は少し慌てたように頭を掻いて答えた。
 それからも笑みを浮かべながら話していたけど、僕にはどこか引きつっているように見えた。
 どうしたんだろう、蓮。
 なにか、あったのかな。
 でも、ただ課題のせいで疲れているだけかもしれない。
 だから僕は、いつもと変わらないように意識して話した。
 話題が尽きてきたころ、そろそろ始めたほうが良いと思って、蓮のほうに振り向いて言おうとした。
 けど、できなかった。
 それはさきに、蓮が口を開いてしまったからだった。
「植物病って、どう思う?」
 蓮は目にかかるくらいのさらさらな黒髪を無造作にかき上げ、僕の目を見つめてきた。僕は、固まってしまった。
 この服どう思う? って聞くみたいに自然だった。
 たしかに話題を振ったのは僕だけど、それはとっくに前のことで、今さら掘り返す意味が分からなかった。
 頬を掻きつつ、首を傾げて聞いた。
「えっと、どうして?」
「いや、ただなんとなく」
 ただ、なんとなく。
 本当にそれだけで、こんなことを、あんな表情で聞くだろうか。
 そんなふうに考えてはしまうけど、蓮はいつも話しているときと同じ雰囲気で、やっぱりなんとなくなのかな、とも思えてきた。
 でも、いったいどう答えるのが正解なんだろう。
 植物病の人をかわいそうだとは思うけど、なんの関わりもない僕がそれを言うのはどうかと思うし、なんとも思わないのも、人としてどうなんだろうか。
 腕を組んで黙っていると、ははっと蓮は失笑した。
「ごめん、今のは忘れていいから。てか、休みすぎたな。さっさと始めようぜ」
 そう言って蓮はイヤホンをして、課題を再開してしまった。僕も手は動かしたけど、頭の中ではさっきのことでいっぱいになっていた。
 本当に忘れて良いとは、あまり思えなかった。
 冗談で植物病をどう思っているかなんて、聞いてくるだろうか。
 少なくとも、僕ではありえない。
 でも、問い詰めることはできなかった。
 そこまで踏み込んで良いのか、分からなかったのかもしれない。
 もうバイトに行かなければならない時間になっていた。だから蓮のほうを見るけど、なぜかこっちを向いていた。目を瞬かせてしまうと、蓮は天井を見上げて小さく息を吐いてから、横目でこっちを見た。
「なあ、螢」
 蓮は前髪に触れながら僕の名前を読んできて、首を傾げてしまう。
 すると一度こっちを見据えてから、すぐに逸らしてしまった。
「頼みたいこと、あんだけど」
 少しどもったような声で言い、僕は口を丸くしてしまうけど、とりあえず頷いておく。いつもの蓮らしくなくて、こっちまで少しぎこちなくなってしまう。
 蓮は後頭部を掻いて、こっちに目を向ける。
 かすかに、その瞳は揺れていた。
「再来週の水曜日にさ、姉さんと俺の写真、撮ってほしんだよね」
 一度開きかけそうになった口を、きつく閉める。黙って笑みを浮かべて、そっと頷いたら、蓮はどこかほっとしたように目を細めた。
 どうしてそんな深刻そうな顔なのか、写真を撮るわけがなんなのか、とても気になる。
 けど、赤の他人である僕が聞くべきことではないと思ったから、聞けなかった。
 友達とはいえ、蓮の姉である赤の他人を撮るため、お駄賃はしっかりと受け取るということで固まった。
 僕はいらないと言ったんだけど、そういうわけにもいかないらしく、こっちが折れるしかなかった。そのかわり、ご飯を奢ってもらうという約束にしてもらった。さすがに、友達からお金を受け取るのは、なんだか気が引けたから。
 バイトだということを伝えて、僕は図書室を後にした。
 図書室の近くだからなのか、やけに静かで、ずっと下を向いていた。少しだけ、歩幅が大きくなっていた。
 あんなに自信なさそうな蓮、始めて見た。
 今思えば、蓮は自分のことをあまり話さない気がした。
 あったとしても、趣味のことくらい。ああ見えて映画とか、漫画とか、小説とか、インドアな趣味が多いから、僕とはなにかと話しがあった。
 よく思い返しても、蓮は大人数でいるときはたいてい聞き役で、僕と二人のときも、家族や過去の話題が出てきたことなんて、一度もなかったかもしれない。
 水曜日の用事を教えてくれないのと、なにか関係があるのだろうか。
 いくら考えても分かりようがなくて、こつ、こつ、とソールで床を叩く音が、やけに大きく聞こえた。
 外へ出ると、ぽつぽつとまだら模様が地面にできていて、どんどん増えていく。念のため、折り畳み傘を持ってきておいて良かった。大学の門を出て、交差点を渡ったころには雨脚は激しくなり、気づけばアスファルトに模様はなくなって、真っ黒になっていた。
 アスファルトを打ち付ける小刻みな音、折り畳み傘からはみ出て微かに濡れて冷たい腕、土とか草とかに似た匂い。
 雰囲気にあおられ、僕はすかさずカメラを取り出した。
 夕立だった。
 雨なんて、久しぶりだ。
 梅雨に飽きるほど雨の写真は撮ったけど、どうやら、いざ撮れなくなると恋しくなるものらしい。
 さっそく、シャッターを切った。
 道路のほうを撮っていると、たまたま車が通って水しぶきを上げ、レース中みたいなかっこいい写真が撮れた。
 僕はしゃがんで、被写界深度を浅くして周囲をぼやかし、アスファルトを打ち付ける細かな水しぶきを間近で撮ろうと思った。
 けど、急に視界が真っ白になった。
 故障かと思って目を離せば、にゃー、と鳴き声が聞こえた。
「なんだ、君だったんだね」
 そこには昨日会った白猫がいて、目が合うとにゃーと返事をして、その猫は僕にすり寄ってきた。人馴れしすぎだし、毛についた水滴で濡れるし。
 でもこのかわいらしさの前では、全てがどうでも良く思えてくる。
 水滴を払いたいのか体を振ろうとしているのが分かって、とっさにカメラを服で隠す。大事なものは守れたけど、顔には水滴がたくさん飛んできた。顔を拭うと、まん丸い瞳が覗いてきた。僕はおもわず頭を撫でて、口元が緩んでいた。
 せっかくだから、雨バージョンも撮ろう。
 でもカメラを向けると、白猫は公園のほうに走っていってしまった。
 僕も後を着けて公園に入った。かわいい動物の気まぐれに振り回されるのは、そんなに悪くないかもしれない。
 人に振り回されるよりは、数倍マシだからかな。
 アスファルトから砂の道に切り替わると、べちゃべちゃと靴に泥がつく。少し落ちこんだけど、一回汚れてしまえばもう気にせず歩けた。
 追いかけるけど、屋根付きのベンチに入っていくのを最後に、姿が見えなくなってしまった。小さな川を一歩で越え、今朝来たばかりの場所に戻ってくる。
 けれど、僕は足を止めてしまった。
 だれかが、ベンチに座っていた。
 とっさに、茂みに隠れてしまう。こんなことするつもりなかったけど、なんだか反射的にやってしまった。しょうがないから、こっそりだれがいるのか覗き見る。
 僕は、見とれてしまった。
 女性の真っ白な頬に、一つ水滴が見えた気がした。
 雨かと思った。
 けど屋根の下だから、そんなわけない。
 泣いているんだろうか。
 気になってベンチのほうに近づいていくと、そこにはカンカン帽をかぶって真っ白なワンピースを着た女性がいた。
 気づけば、体が動いていた。
 トートバックに手を伸ばしてカメラを取り、しゃがみ込んで肘を膝に置いてぶれないように固定。カメラのファインダー越しに葉っぱの隙間から見据える。
 彼女の瞳に、しっかりとピントを合わせる。
 雨で遮られるかもしれないから、連射していく。
 葉と葉のすきまから見えた景色は、今まで撮ってきた写真をはるかに超えるくらい、僕の心を鷲掴みにしていたと思う。
 空を見上げている黒い瞳は、ビー玉にみたいに少し潤んでいた。
 やっぱり、泣いているのかな。
 なにを思い浮かべて、瞳にはなにが映っているんだろう。
 また、カメラを向けていて、彼女の瞳にズームさせていく。
 彼女の虜に、いつの間にかなっていた。
「ペトリコールの香りがするね」
 僕はおもわず、カメラを動かす手を止めていた。
 たしかに彼女はしゃべったけど、いくら辺りを見渡しても、彼女の周りにはだれもいなかった。
 ただの、独り言だろうか。
 そのわりには、問いかけるみたいな言葉だった気もする。
 再び、ファインダーを覗いてみる。
 でも僕は、すぐに目を離してしまった。
 ほんの一瞬のことだけど、彼女と目が合った気がした。
 まさか、僕に気づかれている?
 確認するために、もう一度だけ見てみる。
 けど、真っ暗だった。
 まさか、雨に濡れて壊れてしまったんだろうか。
 焦って確認してみるけど、僕は目を丸くしてしまう。手に取ってからも、じっくりと見てしまった。
 レンズのところに、なぜかカンカン帽が引っかかっていた。
「すみません。それ、私のです」
 声のほうを向くと、そこにはあの女性がいた。
 意外とアルトみたいに低くて、頭に張りつくような湿った声。
 聞いたことない声なのに、すっと胸に馴染んでいって、よく分からないけど、ずっと昔から聞いていたみたいな、そんな感じだった。
 心臓が、雨音を上書きするくらいうるさくなっていた。足元ばかり見つめてしまい、前を向くことなんてできなかった。
 気になって、仕方がなかった。
 勝手に撮っていたことを、知っているのかどうか。もしバレていたのなら、僕はもうおしまいだ。でも自業自得だから、言い訳をするつもりはない。
 けど、彼女は湿気をもろともしないような艶やかな髪を翻し、僕から目を逸らしてしまった。
 そして小川を跨いで屋根の中に入り、傘を畳む。彼女はベンチに座っていて、手元にはさっきの白猫がいた。
 さっきの言葉は、この猫に向けてのものだったのだろうか。
 そういえば、この帽子どうしよう。とりあえず返そうと思って、彼女の歩いたところを辿っていく。
 カンカン帽を渡すと、彼女はいっそう目じりを細めた。
 お手本のような、とても整った微笑みだった。
「写真、好きなの?」
 僕のお腹辺りを見つめていて、それが首からぶら下がっている一眼レフカメラだと分かって、僕は頷いた。
 彼女は「そっか」とだけ言った。
 表情に出さないように、ほっと一安心していた。
 どうやら、なにも気づいていない様子だった。
 木のベンチを叩いて、「座ったほうが良いんじゃない」と彼女に言われる。僕は一瞬体を強張らせてしまいながらも、ベンチのほうに歩いた。断るほうが、たぶん変だろうから。
 余裕を持って、人二人ぶんくらい離れて腰掛ける。
 すると彼女はビニール袋をあさり、なにかを取り出して僕の手に置いた。
 くれたのは、チョコレートだった。
「帽子を拾ってくれたお礼に、あげるよ」
 僕は会釈をしてから食べると、彼女も同じものを食べる。喉が渇くだろうからと、ついでにコーラもくれた。
 拾っただけにしては貰いすぎていて、少し申し訳なくなる。それでも断るのはなんだか気が引けたから、彼女のすることに従うことしかできなかった。
 コーラを一口飲んで一息つけば、なんだか笑みが零れていた。
 なんとも言えない独特な甘みと強炭酸が、喉の奥で痺れる。ペットボトルをペコペコとへこませながら、黒い液体に目を据える。
 そういえば、コーラなんて久しぶりだ。
 大学に入ってからというものの、少しかっこつけてコーヒーとか紅茶ばかり飲んでいた。だからなのかは分からないけど、すごくおいしく感じる。いつの間にか半分くらい一気に飲んでいた。
 おもわず出そうになるゲップを抑え込んで、つい涙目になってしまうと、彼女は笑顔を浮かべていた。つい目を逸らして、コーラを飲み干していた。
 そんなふうにのんびりしていると、隣りから肩を叩かれた。
「もしかして、急ぎの用事とかあった?」
「急ぎではないですけど、この後バイトがあります」
「そっか。傘わすれちゃったから、雨が止むまで話し相手になってもらおうと思ったけど、それなら早く行ったほうが良いよね」
 そう、少し眉を垂らして言った彼女。
 僕は頬を掻いて、彼女から視線を逸らしてしまう。
 それならどうして、そんなふうに笑うんだろう。
 そんな些細なことが、僕には気になって仕方がなかった。でもどうして、気になってしまうんだろう。
 分からない、分からないけど。
 しっかりと体を向け、少し、詰め寄ってしまう。
 どこか、ほっとけないのかもしれない。
「いや、大丈夫です」
「えっ?」
「たぶん、通り雨だからすぐ止むと思いますし、それに僕はバイトまで写真を撮るつもりだったので。だから、その」
 僕は一通り喋ってから、おもわず頬を掻いてカメラに目を逸らしてしまった。
 きょとん、としているのがカメラのディスプレイに反射して見える。話すことに夢中になっていて、ぜんぜん気がつかなかった。
 おそるおそる、彼女のほうを向く。
「ありがと」
 彼女は、笑みを零した。
 僕にだけ向けられた表情が、雨なんかすいすいと簡単にすり抜けてしまって、僕の胸にまで届いてきた。
 心が熱い。
 夏の暑さなんかより、ずっとずっと熱い。
 僕はまた、カメラに目を落としてしまった。
 たかが数分話すためだけに、なにをそんなに必死になっているんだろう。彼女が美人だからだろうか。でもそれだけだとは、あまり思えなかった。