気づきたくなかった。入社して初めてついてくれた先輩が彼で、仕事の仕方も人間性も尊敬していて、一人の男性としても好きな人の薬指に嵌まった銀色の輪っかになんか。その金属に込められている意味は、軽いものじゃない。
 せめて泣くまいと頬を叩いて自分に喝を入れ、化粧室の扉を押し開けると、なぜかそこに日下部くんがいた。
「日下部くんもお手洗い?」
「水澤さんの好きな人って、小熊さんでビンゴですか」
「な……何、急に」
「俺、そんな鈍くないですよ。だから気づいてます。水澤さんが小熊さんのこと好きなのも、あの人が指輪してるのも」
「……っ」
「俺はその真相なんてどうでもいいですけど、気になって仕方ないんでしょう。訊いちゃえばいいじゃないですか」
 あっさりと言ってのける彼の口ぶりが勘に触る。そんな簡単に言わないで、と返した声は、思っていたよりも低くなった。
「訊けるわけないじゃない。馬鹿な事言わないで」
「俺、こっちの友達に呼ばれたんで、もう出ますから。後は好きにしてください」
 反論を完全に無視して、彼は踵を返した。後を追って席に戻ると、日下部くんは本当に帰り支度をしている。
「小熊さんすいません。また明日」
「うん。楽しんでおいで」
 ひらひら手を振って、日下部くんは店を出て行った。残された二人に気まずさが漂う。
「体調悪い? 大丈夫?」
「大丈夫です。すみません。ちょっと寝不足だったのかも」
 そっか、と小さく呟いて、小熊さんは腕時計を一瞥した。そしてテーブルの呼び鈴を押す。
「ごめん、俺もちょっと約束があって、出なきゃいけないんだ」
「わかりました」
 テーブルで会計を済ませ、ジャケットを羽織りながら夜の街へ出る。店に入った時よりも空の色が深くなって、空気が冷たい。
「宿までは送るよ。遅いし、危ないから」
「……ありがとうございます」
 約束の相手って、誰ですか?
 その指輪、関係ありますか?
 言いたい言葉はあれこれ浮かんでくるけれど、どれも口に出せない。
 街の喧騒から道を一本入ると、宿泊先のビジネスホテルがある。静かな夜に鮮やかな月が煌々と輝いていた。